第53話 予選

 メインスタンドから見下ろすロードコースは巨大だった。今日は土曜日、予選の日だから観客はまだ少ない。コース上をパラッパラッと派手なカラーのマシンが走っていく。

「今はまだ練習走行だからね」

 なるほど、だから車と車の間があいているのか。

 私はリュックから双眼鏡を取り出した。

「ルドルフ、使う?」

「うん!」

 ルドルフは熱心にコースの向こう、整備工場みたいなところを観察している。

「ピットっていうんだよ」

「ふーん」

 我が子にものを教えられるというのは、成長を実感し感慨深いものである。


 しばらくしたところで修二くんが言い出した。

「ルドルフ、あっち行ってみたいか?」

「うん、行ってみたい」

 あっちというのはコースの向こうのピットのことだというのはすぐわかった。

「杏、どうする?」

「私も行く」


 スタンドの階段を一旦上がり、エスカレータで下へ下へと下がっていく。コースの向こうのピットに行くには、コースの下にあるトンネルを通らないといけないのだ。

 トンネル内はひんやりとしている。日頃巨大な実験施設で活動しているが、サーキットもまた巨大なところである。どこに行くにも何分も歩くところはとても似ている。トンネルを抜け階段を上がるといろいろなレースチームでひしめき合っているピット裏(パドック)に出た。


 パドックには大きなトレーラーやバスがたくさん止まっていて、一つのレーシングカーを走らせるためにたくさんのサポートが必要とされていることがわかる。私達の世界でも、一つの中性子分光器を稼働させるために陽子の線形加速器、陽子シンクロトロンといった加速器、冷凍機に必要な液体ヘリウムを供給するシステム、分光器の制御や測定、さらには解析を担う電算機とたくさん機械とそれを維持、運転する人々の存在がある。そしてコースを走る車の爆音、パドック内の人々の会話に加えていろいろな機械の作動音がする。SHELの実験ホール内の騒音は真空ポンプなど機材の維持のために動かしっぱなしになっているものからだから、定常的な騒音に満たされている。こちらはマシンを整備するためのものだからか、ガガガとか、プシュとか短い音が断続的に聞こえてくる。これもまた新鮮だ。同行の男子2名は目を輝かせ、視線をあちこちと動かしている。私は時々見かける派手な衣装のきれいなおねえさんたちが目に止まり、同じ日本人、同じ女性であることが信じられない。だいたいあんなにヒールが高いと言うか厚底のブーツでよく歩けるものだと思う。衣装によってはお腹が出ているが、私と異なり無駄な脂肪がなく、顔だけでなく体の内側から磨き上げているのだとその努力に感心してしまう。


 しばらくしてルドルフは満足したのか、

「スタンドにもどろう」

と言った。私も人混みに疲れたし、なにか食べたい。そのあとルドルフに帽子とかシャツ類とかも買ってあげよう。


 スタンドに戻ると、修二くんが「何か買ってくるよ」と席を立った。リクエストを聞いてきたが、任せた。むしろ何が食べられるのか楽しみだ。

「ママ、なんか僕の応援してる車、ゆっくり走ってる」

 ルドルフはオレンジ色のマシンを応援しているらしい。なにかトラブルだろうか。

「ルドルフ、心配?」

「うん、ちょっと。だって予選始まってるよ」

「きっとピットの人たちが治してくれるよ」

「だけど予選、間に合うかな?」

「さっきあっちでやってるの見たでしょう? みんながんばってるからだいじょうぶなんじゃない?」

「うん」

「ルドルフが信じてあげなきゃ」

「うん!」


「どうしたルドルフ」

 修二くんが両手に食べ物をいろいろともって戻ってきた。

「ありがと修二くん。なんかね、ルドルフの応援している車が調子悪いみたい」

「ええ? それはいかんね。聖女様の祈りを捧げないと」

「わかった」

 修二くんが冗談を言っていることはわかるけれど、ルドルフの心配が少しでも減ればと私は目を閉じてお祈りした。


 修二くんの買ってきてくれた串焼きとかを食べているとルドルフの応援するオレンジのマシンはピットイン、しばらくしたらまたでてきた。

「ママ、元気になったみたい、ママ、ありがと!」

「よかったね」

「よかったな」


 場内放送によれば結局ルドルフの応援するマシンは予選2位、明日の優勝も狙えるポジションを得た。


 スタンドから売店に移動する。3人おそろいでルドルフが応援するチームの帽子とTシャツを買った。

「杏、これあったほうがいいよ」

と修二くんが持ってきたのは、そのチームのパラソルだ。日焼け対策だという。

「ありがと。でも日頃は使いにくいね」

「まあ車に入れっぱなしにしておけば?」

「そうだね」

 

 いっぱいになった荷物を抱えてキャンプ場までバスで戻る。ルドルフがその荷物を持ちたがった。

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