石喰いの花 ―Re:boot― ~亡国の将軍と石喰う疫病草(えやみぐさ)~

雨色銀水

0.亡国の将軍と石を喰う者

 いつの世も、争いが絶えることはない。

 誰かが涙を流し、多くの血が地面を濡らさない日はない。


 しかし、いつだって人は自らの身に災厄が降りかかるとは露ほども考えないのだ。


 だからこそ、その幻想が折られた瞬間は、ひどく痛い。


 ――――

 ――


 男は、ひとり森の中を駆け続けていた。


 滝のように降り注ぐ雨が視界を遮り、敵はおろか、味方の姿も判別がつかない。まだ日没前だというのに、周囲に光はなく、ただただ薄闇だけが男の周囲を満たしていた。


 刹那、横手に気配を感じて槍を振るえば、くぐもった悲鳴が上がる。重い手ごたえ。力任せに槍を引き抜いた瞬間、視界の端で青布が舞う。


 鮮やかな青に染め抜かれた布。そこには敵国の象徴たる勿忘草が描かれていた。

 どうやらとっくに敵の領域に踏み込んでいたらしい。いや、あるいは友軍の最終防衛線が突破されたのか。どちらにせよ、男の周りに生きた人間はおらず、泥にまみれた物言わぬ骸ばかりが転がっていた。


 それでも、男は走り続ける。槍の穂先はとっくの昔に折れ、武器の体をなしていない。たとえ槍が杖以下のものと化そうとも、男がその足を止めることはない。


 ――すべては女王が男に下した最期の命令のため。


 女王は、男に「生き残り、この国を再興せよ」と命じ――戦火の中に消えた。


 男は唇をかみしめ、進む足に力を込めた。目指すは、森の先にある国境。しかしここには、味方の亡骸が数えきれないほど打ち捨てられている。これほどの殺戮、ここまでの虐殺。雨が血の跡を洗い流したとしても、場に残る無念だけでおかしくなりそうだった。


「皆、さぞ無念だったろう。……すまない、俺が無力だったばかりに」


 男はやっと、足を止めた。一際激しい雨が肩を打ち、梢から大粒のしずくが降り注ぐ。男がはっと顔を上げれば、曇天の隙間から淡い光の筋が零れ落ちた。


 光の涙のように、儚くも優しい輝き。これほどの悲しみ、苦難があろうとも空はいつだって変わらずここにある。その事実がひどくおかしくて、男は静かに膝をついた。


「ああ、そうだよ。こんなのは……理不尽だ」


 子供のように泣けたら、どんなに楽だっただろう。仕えた国も、信じた仲間も、すべてを捧げた主さえも失った。ここからどうやって、国を……未来を再興しろというのだろう?


 嘆くと同時に、理解もしていた。もしかすると主は、ただ己を生かすためだけにそんな言の葉を紡いだだけなのかもしれない。血もつながらぬ、ただ共にあれと願われただけの子供だった自分のために。


 だとしたら、あまりにも悲しく空しかった。男は力なく背を木の幹に預け、目を閉じた。


 生かすくらいなら、置いていくくらいなら……せめて、最期は共に居たかったよ。


 雨音の中に、何者かの足音が響いてくる。それが幻聴なのか、現実なのか。男にはもう、判断することができなかった。泥のように重いまぶたを開くこともできず、男はゆっくりと意識を手放していった。


 ※


 頬があたたかいと気づいたのは、涙の跡が乾いたからだ。


 男はゆっくりとまぶたを開く。朦朧とする意識の中、火の粉がはぜる音が響き、男ははっと瞬きする。


「……ここは」


 ぼんやりとする意識に辟易しながらも、男は身を起こした。すぐそばには焚火があり、軽やかに火の粉を散らしている。周囲を見渡せば、むき出しの岩肌が三方を覆っていた。どうやら、ここは小さな洞穴らしい。そう認識したところで、何かが砕ける高い音が響き渡った。


「目が覚めたのですね。それはとても良いことでした」


 いつからそこにいたのだろう。焚火の向かい側に、不可思議な気配をまとった人物が座っていた。


 灰色の髪、光に照らされると緑にも見える紫色の瞳。線の細い少年のようにも、きゃしゃな女性にも見えるようなあいまいな姿。それだけでも見慣れない様相だというのに、その人物は――手にした石のようなものを歯で砕き、飲み込んでいた。


 あまりにも奇異な姿に現状を忘れ、男は思わず問いを投げかけてしまっていた。


「……何をしている?」

「何を、とは? 人というものは、目にしたものを言葉として表現することに長けた種だと聞きましたが」

「何を言っているかわからないが、まさか、お前、石を食べているのか?」

「ええ、そのとおり。これは、あなたから抽出させていただいた『痛みの花』ですよ」


 答えになっているのかなっていないのか。あいまいな答えに男は額を押さえた。


 頭痛がする。それでも男は油断なく相手を観察した。とはいえ、石をかじりながらじっと焚火を見つめている以外は、おかしな動きもしていない。


 存在自体が怪しいということが問題といえば問題だが、状況を見ればどうやらこの人物に助けられたことは間違いないらしい。


「……お前が、俺を助けたのか」

「助けた、というと少し違う気はしますが。大まかにいえば、はい」

「なぜ、助けた」


 語気の強さに、相手の紫の目が少しだけ動いた。少しの困惑と、理解できないとでもいうかのようなまなざし。石をかじるのをやめた相手は、初めてこちらを真正面から見た。


「なぜ、とは?」

「そのままの意味だ。なぜ俺を助けた? 俺が何者か知った上での行動か」

「いいえ。まあ、知っていたとしても私には何の意味もない話ですが」

「興味がないという意味なら、ご愁傷さまだ! 俺は先ごろ滅ぼされた「ソウ国」女王ウツセミの縁者なんでな。もし見つかれば、お前も処刑されるのだぞ!」

「なるほど、あなたが逃げたと噂の女王のなのですね」


 しまった、と思った。反射的に武器を手に取ろうとして、何もないと気づく。これが戦場なら一瞬で命を刈り取られている。だが、目の前の相手は殺気を放つどころか、興味を失ったように再び石をかじり始めた。


「そう怯えないでください。あなたをどうにかするつもりなら、とっくにできているでしょう」

「……なら、要求は何だ。俺をどうするつもりだ」


 ここでこいつを殺しておかないと、何が起こるかわからない。

 相手は隙だらけだ。首をひねりでもすればすぐにでも終えられる。


 しかし思いとは裏腹に、男の手は少しも動こうとはしなかった。身を守ることを考えるなら、憂慮は残すべきでないとわかっているはずなのに。


「要求? そうですね。もし叶うなら、あなたの痛みをもっと食べたいです」

「……何? 痛み、だと?」

「先ほどの話、聞いていなかったんですね。ええ、はい。私は痛みを食べるんですよ。人の痛みを石と化し、それを食らうことで生きながらえる種族……『石喰い』というものです」


 訳が分からなかった。『石喰い』などという存在は聞いたことさえない。


 けれど、事実、体をさいなんでいたはずの痛みはきれいに消え去り、傷跡さえも残っていない。そればかりか、心を覆っていた重いものすらも軽くなっている気がする。


「人ならざる者、というやつか」

「人ではないと言われれば否定もできませんけどね。まあ、同族で殺しあう『人でなし』と同じにはされたくないです」


 意図してのことか、淡々とした言葉からは図りきれない。だが、相手の紫の目には、確かに何らかの感情が浮かんでいた。まるで憐憫のようなそれに、男の心は激しくざわついた。


「俺たちのしてきたことに、戦いに、意味がないとでもいうつもりか」

「意味なんかないじゃないですか」


 放たれた言葉はあまりにも淡白で、何の感情も伴っていなかった。嘲笑の一つも浮かべずに、『石喰い』は淡々と石をかじる。


「戦わなければ、だれも死ななかった。戦ったから、みんな死んだんですよ? それなのにあなたは、戦いに崇高な意味でも求めているんですか? 生きることは戦いだ――そんな風に言った人もいるみたいですけど、それって生き残るべき強いものを選別しているだけじゃないんですか?」

「話をすり替えるな。意味のない戦いなんてただの殺戮だろう! 少なくとも俺たちは、守るべきもののために戦ったんだ。それを無意味と言われて、何も感じないとでも思っているのか」

「さて、戦争と殺戮の間に、どんな差があるんですかね。人は何に対しても意味を求めがちですけど、結局やっていることは『人殺し』に理由をつけて正当化しているだけでしょう。今回の戦では何人殺しましたか? ……あなたも、あなたの敵も。私から見ればただの『人でなし』ですよ」


 まるで自分は無関係だという顔をして、『石喰い』は何事もなかったかのように石を食む。


「……お前に、俺たちの何がわかるというのだ」


 実際、この人ならざる者は、人を殺したことなどないのだろう。洗い流しても消えない血の匂い。手に残る人の脂の生ぬるさや、死に行くものの息遣いすらも感じたことはないのだろう。


 すべては他人事だ。だから、そんな風に冷めた言葉で突き放してしまえる。そんな血の通わない存在に、男の歩いてきた道のひとかけらでも理解できるというのか。


 男は黙って焚火の前から立ち上がった。すでに武具の大半は破損し、身一つの状態ではあったが、体力が残っている今ならなんとか国境を超えていけるはずだ。


「……もう行くんですか? 森は越えられても、その様では峠の先で捕まりますよ」


 男は何も答えなかった。まっすぐに洞穴の入り口に向かうと、そのまま外へ出る。


 雨はもう降っていなかった。木々の梢の向こうに覗く空は青く、眩しいくらいだ。けれど以前は美しいと思えたその色を、同じように感じることはもうないだろう。


「待ってください」


 呼び止める声が聞こえても、男は足を止めなかった。歩いて、歩いて、歩き続けて。いつしか森を抜け、国境を隔てる峠までたどり着いていた。


 足元に長い影が伸びている。顔を上げれば、空は赤々とした夕日に染まっていた。


 どれほど空しい思いを抱いたとしても、時間は駆け足で過ぎていく。男がどれほどの嘆きを抱えているかなど、誰も知ることはない。


 誰も踏み散らかされた雑草になど目を留めない。たとえそこに人知れぬ意味が込められていたとしても、踏みつける者にとっては無意味で無価値なものなのだから。


 この戦いがすべては無意味だったと思いたくはなかった。だが、振り返った夕日の中に破壊つくされた都の影が見えた瞬間――止まっていた心が、血を流しながらも息を吹き返すのを感じた。


「ああ、そうか。もう、本当にどこにもいないのだな」


 男が守るべき「ソウ国」は滅んだ。ともに戦った仲間も、親と慕った女王さえも失われた。民は散り散りとなり、帰るべき場所の標を失ってさまよっている。


 にもかかわらず、男は心のどこかで信じ切れずにいたのだ。まだ、何も終わっていないと――あまりにも大きな勘違いに、唇からゆがんだ笑いが漏れる。


「何をひとりで笑ってるんです。現実を見せつけられておかしくなったんですか」


 淡々とした声が背後から投げかけられる。男は振り返ろうとして、結局何も言わずに再び前を向いた。冷えた風が肩越しに吹き抜け、石喰いのため息だけが後に残される。


「あなた、戦い続けるつもりなんですか」

「ああ、女王の最期の願いは何があっても叶えなければならない」

「だとしても所詮、もういない人の言葉ですよ? それにすがって危険に突っ込んでいくのは愚か者のすることです」

「悪いか? ずる賢く生き残るぐらいなら、愚かでも自分の望んだもののために命を使いたい」

「はあ」


 深いため息に、男は苦笑いした。理解を求める気などさらさらなかった。ここで言い争い、相手を論破しようとしまいが、この先に行くと決めた心を阻む理由にはならない。


「多くの犠牲に目をつぶり、長く生き続けることが正しい生き方か? ……だとしたら、俺は間違ったままでいい」

「強情ですねぇ。まあ、別に私にとってはどちらでもいいことですが」


 あっさり引いて、石喰いは軽い足音を共に歩き出す。その行き先は、どうやら国境のようで――さすがに無視もできず、男は振り返った。


「おい、お前。どこに行く?」

「どこって、この先は南の「ラン国」ですよ。あなたもそちらへ向かっていたんじゃないんですか」

「いや、だから……なぜお前は俺と同じ方向に」

「深い理由が必要ですか? 私は『石喰い』。旅をするのが私たちの本分ですので。――それに」


 男が何か言おうとするより先に、石喰いは不可思議な笑みを浮かべる。穏やかに笑っているような、思わず泣き出しそうな……そんなあいまいな表情のままで、告げる。


「あなたの痛みはとても美味しそうだ。ついていけば、しばらくはお腹を空かせずに済みそうです」


 男は低いうなりを上げた。こんな奴についてこられるのは願い下げだった。だが、微笑みを浮かべる相手は、説得に応じるような存在ではない。結果、できたのは、石喰いの脇をすり抜け、足早に先へと進むことだけだった。


「待ってくださいよ」

「お断りだ。気に入らなければさっさと去れ、物の怪の類が」

「物の怪じゃありません。石喰いです。それに、『リンドウ』という名もあります」

「知らん。誰も聞いていない」

「知らないついでに、あなたのお名前は確か『カナン』将軍でしたよね? 『カナンさま』とお呼びしましょう」

「人の話を聞け!」



 行く先もわからぬままに、走り出した轍の結末はまだ見えない。

 だが、この先で起こることを他人事にはしたくはなかった。


 相反し、まじりあうこともない二人――亡国の将軍『カナン』と、旅する石喰い『リンドウ』。

 ここから始まるのは、蓬莱島四季国ほうらいとうしきこくをめぐる長い季節と旅の話だ――。


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