第36章 が当たる事どもこそサンチータを長らく縛り弄んできたものだが、其等の憶え易きに勝りて忘れ難きは、他ならぬ彼の者にのみ湧きし懐裡哉!

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第三十六章

が当たる事どもこそサンチータを長らく縛り弄んできたものだが、

其等の憶え易きに勝りて忘れ難きは、他ならぬ彼の者にのみ湧きし懐裡哉!

Capítulo XXXVI.

De cosas que ataban y toqueteaban a Sanchita durante mucho tiento,

más inolvidables que memorables, ¡para nadie más que para ella sola!

[訳註:《多大な注意の間にドゥランテ・ムチョ・ティエント》は《長い時間ドゥランテ・ムチョ・ティエンポ》或いは《多大な注意を払ってコン・ムチョ・ティエント》の混同か]


甲冑に於いて襟首を守る防具プロテクトール・パラ・ラ・ヌカをコロンドリーノ――日本の兜では《しころ》[訳註:こちらはうなじのみでなく左右の頸部も合わせた三方を覆う垂れクビエールタを指す]――と呼ぶが、背中を護る従士ばかりか後ろ髪の大半すら喪失したラ・サンチャの騎士には果たして背後より忍び寄る仇敵は言うに及ばず、八月の陽射しから己の後頭部コロドリージョ[訳註:語源のcolodraは木や獣角で作った容器のことで、水や葡萄酒を飲んだり持ち運ぶのに用いられた。人の首筋と形状が似ている為だろう]を防御する術すら残されてはいなかった。

 籠城戦といってもドニャ・キホーテは固守すべき要塞の外に居たわけだから、この時必要だったのは[訳註:壁上部に設置する]《犬殺しマタカーン》などではなく、胸壁を攀じ登る為の梯子の方だったのである。これではシリアのダプール[訳註:前章では長い髪は容易に汚されてしまうという文脈の中で、ラムセス二世がヒッタイトを攻め落とす際城壁に梯子を掛けた逸話に言及している]というよりも寧ろ、十字軍国家エルサレムを攻略したサラディンの指揮せしヒッティーンの戦い[訳註:包囲に徹するのとは逆の発想に依り、城内の兵士を外に誘き出して迎撃を誘発し野戦へと持ち込むことで、アイユーブ朝イスラム王国は聖地の占領に成功した]宛らではないか?

 あの長く美しい黒髪とて梯子エスカレーラは梯子でも――そしてハコボはハコボでも――曇天に一条の光を齎すヤコブ[訳註:神から猶ישראל/Israel《主の統治/主と共に戦う者》なる名を与えられ全てのユダヤ人の祖となった旧約聖書の登場人物で、これまで散々引用されてきたセベデオの子のサンティアゴとは別人]のそれだったかも知れぬというのに、それ見たことかジャ・ロ・ベス後ろ半分丸坊主カルバ・エン・ラ・ミタッ・トラセーラ・デ・ラ・カベーサとなったその頭はまるで運命の女神フォルトゥーナ[訳註:前章で出た出し狭間という喩えは髪を切ったことで背中または首筋と頭髪の間の段差がより明確になったという意味だろうから、少なくとも剃り上げたり刈り上げたりまではしていないと考える。考えたい]、幸福を希求する貪欲な有象無象に追い回されながらも車輪ルエーダスを回す足を休めること能わず、彼の初代コリント王が神々を欺いたかどで受けた劫罰[訳註:所謂《シーシュポスの岩ロカ・デ・スィースィフォ》]にも勝る無限の責め苦インフィニータ・トルトゥーラから、未来永劫逃げ続けねばならぬとは!

 いや、セビーリャ生まれのベッケルよ、あの昏きツバメたちオスクーラス・ゴロンドリーナが還ってくるというのが章々たる真実ならば、黒き錣ネーグロ・コロンドリーノとて遠からず戻ってくると、そう信じようではないか?[訳註:髪の毛なのだから脱毛症でもない限りいずれは生えてくるだろう]問題があるとするならその防具の帰還先たるハチドリコリブリッ――蜂たちの精霊娘エルフィーナ・デ・ラス・アベーハス――自身が、我等の期待に応え実際に今一度我々の前へと姿を現してくれるのかどうかということなのだ……

 猫の従士とて幾度も忠告していたであろうよ、《お前の垂れパイを今更眺めても遅いジャ・エス・デマスィアード・タルデ・パラ・ベール・トゥス・テータス・コルガンド》と?[訳註:元は千代が御子神嬢の体型をやっかんで生まれた、年老いてから《溢れた乳を嘆いても無駄だ》という格言であったものの、第三十一章・三十四章と進む毎に《覆水盆に返らず》からはどんどん遠退き、寧ろ諸行無常や経年劣化を儚む意味合いの方がより色濃く反映されてきたように感じられる]耳のみあれど目口なき盲唖の聴者オジェンテス・シエゴムートスたる筆者が、ここで今更声にならぬ愚痴や決して届かぬ批難の眼差しを過去に生きた伝説の騎士カバジェーラ・ケ・ビビーア・エン・エル・パサードへと徒らに浴びせかけたところで所詮は詮無きことなのだから。

 となればいざや見に行かんアスィ・ケ・ベアーモス、ほんの二十分ばかり時間を巻き戻し、我々が最後に目に止めてからアフリカの乳房が一体如何クアーン・プロフンド・アジャ・カほど深く零れ落ちたのかをイード・エサ・ママ・アフリカーナ。[訳註:西mamáならぬmamaなので、これは前述したミコミコーナの胸部を指す。複数の矛盾を孕んだ一文ではある]


「腹そんな凹んでもない――平らくらいならサークル競馬でもいいけどさ別に」

 ところが以上のように壮語した王女のセーノスは、萎むマルチートスどころか寧ろ程無く希望に膨らむジェーノス・デ・エスペラーンサこととなるのだった。

「ほんじゃとりまサークるか」

「ウマ部は競馬じゃなくて乗馬だろ[訳註:第三十三章終盤に花の所属していそうな部活動に関する言及があった]」千代が大通りの方を顧みつつ以下に続けた。「お城のエントランス見張れるって意味ならあっちのサークラ通りのファミマの方が」[訳註:余談だがこの後マルサークルK及び太陽謝辞サンクスは経営統合により家族販売店ファミリーマートへと店舗が転換される]

「ファミマなんてそれこそ池袋行けばファッ?ミマ?ってなるほどあんじゃんか!」[訳註:第三十二章では名古屋創業の代表的な飲食店は東京にも支店が多いことから、昼食を取る場所として忌避する旨の発言があった]

「何で三茶のJCなのにブヤとかジュクじゃなくて」ミコミコーナが当然の疑問を口にした。渋谷であれば自転車圏内である。「ブクロが活動拠点みたくなってんのおま?」

「渋谷は怖いし、あと原宿はおねえちゃんの巣鴨だから」

「お姉ちゃん居ねえだろ」女子高生ムチャーチャス・デ・エスクエーラ・スペリオールのという意味だろう。[訳註:高等教育エドゥカシオーン・スペリオールというと一般に学士課程を指すが、ここでは中学校セクンダーリア・メノールに対する高等学校セグンダーリア・マジョールのこと]「窓の外も見れてお財布にも優しいのは歓迎ですけども……出来れば椅子に居座りたいすな」

「大須でお座りになる?」

「大須は遠すぎっすけど、やっぱスッペインの騎士さまからしたらさ――」

「うちのドンナは酸っぱいの騎士じゃなくて塩っぱいの騎士ですよ」そして油っこい従士エスクデーラ・アセイトーサが千代さんで[訳註:第四章参照。だから口がよく回る?]、甘ったるい姫君プリンセーサ・メローサ[訳註:西melosoには《口が上手い、甘言を弄する》の意味も]が安藤部長であった。「クレイジーソルトは自分が語源だってエバッてたし……まァこのままいきゃ失敗の騎士ですがね」

「ちっぱいはもういいよ」辛口で熱々の嫡女エレデーラ・ピカーンテ・イ・カリエーンテ[訳註:西picante/caliente《挑発的/扇情的な》]が猫の発言を制して以下に続ける。「――サグラダ通りに近い場所居た方が無難かなと」

「そういえばドン・キホーテって最後の方でバルセロナ行くんでしたっけ?」流石は演劇に携わる者、ドゥルシネーアは四百年前の長篇小説にも一読の労モレースティア・デ・レールを惜しまなかったとみえる!「サグラダ・ファミリアはまだ無かっただろうけど」[訳註:着工は一八八二年]

「ああはいはい、あの表門と裏門で全然雰囲気ちゃうヤツですよね?[訳註:恐らく伝統的で古風な東側の《生誕の玄関ファチャーダ・デル・ナシミエント》と無機的で現代風な西側の《受難の玄関ファチャーダ・デ・ラ・パスィオーン》のこと。但し教会の正面口に当たるのは最後に完成予定の南側《栄光の玄関ファチャーダ・デ・ラ・グローリア》なのだとか]」床屋の四つ目がなかなかに学のあるところを見せた。成る程、新ゴート様式エスティーロ・ネオゴーティコを逸脱したあの遺産はまさしく我が国の後期ゴート様式ゴーティコ・タルディーオカタルーニャ現代建築アルキテクトゥーラ・モデールナ九百年世代運動モビミエント・デル・ノベセンティースモ[訳註:一九〇〇年代にカタルーニャで始まった芸術運動。カタラン語ではNoucentismeだが、加泰nouには《ヌエーベ》と《ヌエーボ》両方の意味がある為《新世紀運動》とも訳出できる]、そして新芸術潮流コリエンテ・デル・アール・ヌボの混交とも形容できよう。「アレでもサグラダ門外の変って日本史じゃなかったっけ?」

「変なメガネも勉強は専門外ってことだろ」

「ババちゃん桜田門はホラ、皇居の南側……そうだ警視庁とか警察庁あるところ」

「将来お前さんが御用になったら世話んなるとこだぞ」

「世話んならんよ!」これは反論した娘親方マエスィータの方に一分の理がある。慥かに警視庁の向かいには東京地裁と高等裁判所がそれぞれ設置されてはいるものの、小口の詐欺ソスペチョーソ・デ・エスタフィータ程度であれば三軒茶屋管轄の警察署や裁判所で充分事足りる筈だからだ。[訳註:前者に関しては世田谷警察署だろうが、都内の管轄裁判所は原則霞が関の東京地裁・家裁・高裁となる]「だってファミリアってファミリーっしょ? サグラダさん家の教会って意味じゃないのか」

「そういや『セイント☆おにいさん』ってマンガあったな」[訳註:中村光の漫画。休暇を過ごす主人公のブッダとイエスが立川の下宿先では《せい》という姓を名乗っている。因みに立川には東京地裁の支部もある]

鳳凰座星フェニックスの一輝?」

「違うお兄さんだそれ」

「大英博物館でしたっけ展示されたの」

「あったあったそんなニュース」欧米の主要な博物館ムセーオス美術館ガレリーアス・デ・アルテで日本の下位文化スブクルトゥーラ・ハポネーサが特集される機会は然程珍しくもない。「日本人の正しく狂った宗教観が世界を平和にしていくってことよ」

「ここにもV系という新興宗教の狂信者たちが」

「死ぬまでにジーザスブレンド飲んでみたいのよね」恐らく血液と葡萄酒を絶妙に調合させた神酒ネークタルであるに違いない……つまりは血液酒サングリーアだろうか?「あとちゃんみおスペシャル」

「ジーザスブレンドはドリバーで作れるヤツだろ。聖さんのアパートじゃ売ってないよ」

「日本語だとよく聖家族教会って訳されてますよね」[訳註:著者は訳別の為に敢えて直訳の《聖家族教会イグレースィア・デ・ラ・ファミーリア・サグラーダ》としているが、正式には《教会堂テーンプロ》或いは《柱廊式聖堂バスィーリカ》と呼ばれる。西temploには祈祷や祭儀を執り行う場所という意味合いが強く、一般に《寺院/神殿/礼拝所》等と訳する]

「造花を見つけたら片っ端から首刎ねてく生花至上主義の一族かな」

「マッキーはもういいっちゅうに」マッキーとは先述した花卉の希少性ラレーサのみを重視する音楽家の愛称である。[訳註:第三十四章参照]「どうでもいいけど《性風俗協会》つったら歌舞伎町とかにホントにありそうよね」[訳註:「私好みの嗜好フィーリア・デ・ミ・アグラードといえば足フェチポドフィーリアかな」――この意訳に依り下品さが軽減されたかどうかは正直微妙なところ。尚、風俗営業健全化協会、日本風俗営業協会、全国風俗環境浄化協会といった各団体は実在する模様だが、それらの本部の所在地については手元の情報が足りなかった]

「ガウディが化けて出るぞ!」

「ガウディガウディガウディ……」久仁子が店頭で小刻みに移動したことに依って自動扉が開いた。

「それカバディ」

「いやお前こそマグダラのマリアに謝れや」おお、《香油瓶携えし罪深き女ペカドーラ・コン・ウン・バソ・デ・ウングエーント》といえばイエスの足をその涙で洗い、その髪で拭い、その口唇で接吻してからその手で香油を塗りたくったことでも名高い。[訳註:別に自身の性的指向から救世主の足に欲情してそのような行為に及んだわけではなく、マリアが実際に娼婦であったかについても定かではない]「なんか真ん中にアレでしょ、ぶっといイエス様の塔と並んでマリア様のもおっ立つんでしょ?」

「そっちのマリア様はお母さんの方だとは思いますけどね[訳註:又この他にもイエスの周辺には、しばしばマグダラのマリアとも同一視されるベタニアのマリア、聖母マリアの姉妹とも目されるクロパのマリア、母マリアとマグダラのマリア及びクロパのマリアと共にイエスの磔刑にも立ち会ったという通称《三マリアトレス・マリーアス》のひとりでイエスの弟子だったマリア・サロメ等、マリア三昧である点も併せて留意されたい]」三箇所の入り口にそれぞれ四基ずつ十二使徒ドセ・アポーストレスの塔が建造され、それらに囲まれる形で四人の福音史家クアートロ・エバンヘリースタスの塔が、そして中央のイエスの塔に寄り添う形で聖母の塔が建つ予定である。「たしか正式名称は贖罪教会っていうんだったと思うから、生まれた後に犯した罪はどうにもならないんじゃないかな」

「こんな炎天下に突っ立って風俗の話してるくらいなら、とっととサークルカバディ入って食材でもお菓子でもいいから調達したらいいんじゃないかな!」涼を取るには理想的だが、外と同じ感覚で騒がれでもしたら店員にとってこれは極めて迷惑に違いない。「サグラダ・ファミリアからはもちろんすぐそこの桜田通りファミリマよか近いぞ」

「それはそう」何しろ一歩踏み出せば店内なのである。

「どけよ冷房逃げるだろ。営業妨害だぞ」

「とりあえずグルっと一周だけして、良さげなお店なかったらコンビニで何か買って」安藤部長がひとり建設的な提案を物した。「――お城のラウンジ借りて食べさせてもらうっていうのは? パンとかおにぎりくらいなら平気でしょ」

「ルパ~ン三世」

「つか連泊してんなら別に客室入っても怒られないっしょ」料金分以上の人数で夜明かしすれば違反だろうが、昼日中の来客数人すら咎め立てされる謂れなどないというのも一理ある。「まァどっか入っても地下とかじゃなきゃフロントからの電話も取れるだろうし」

 以上のような、或いはそれに類する家庭的な対話アブランドゥリーア・ファミリアールを経た四匹の猫は、そのまま泥江町通を揃って右手へと折れたのである。


便利店を過ぎて二エスタディオ足らずも直進すれば現代的な忍者装束の巨女ヒガンタ・コン・エル・トラーヘ・デ・ニンジャ・モデールノアンダンドーナの仁王立ちする理想郷アルカーディアに到達するわけだけれど、此度の周回ブエールタは城壁に囲われた一画マンサーナを一周するだけの極短い旅程だ。一行を率いるのが麗しき黄金の林檎の半分メーディア・マンサーナ・ドラーダ[訳註:もう半分は勿論ドニャ・キホーテ]であることを鑑みれば存外半周メーディア・ブエールタで終了しないとも限らぬ。

「チヨさんほらコーチン」馬場嬢が路面店の看板を指差しながら相方の肩を叩いた。「ウィニー・ザ・ナゴヤ……違うウィーニー、あっコーチンだからニーウィー・ザ・ナゴヤ?」

「ダメだこいつウィーニーネタ相当気に入っちゃってる」箱根峠を下っている折にサラマドラの学士が言っていた《私的流行ミ・ブム》[訳註:第七章参照]というのがこれであろう。「女子校内で流行らせなければよいが」

「ってうちら以外シモネッタだと気付かんから大丈夫やろ」教室内の風紀の乱れを慮る中学生の気苦労をそのような気休めの言葉コンソラドール[訳註:通常consolador《慰めになる》という単語を名詞として用いる場合は女性用の張形ディルドを指すそうなので注意すべし]で払拭せんと試みるフォルティッシモネッタ姫。[訳註:第三十一章で観覧車に進入した直後の会話を参照のこと]「――でございますよねドルチェ姫」

「さあ……名古屋のウィーンって今晩のライブにピッタシなんじゃないですか」

「ぼ、棒読み!というか投げやりな答えだ!」

「棒読み無表情は演技の基本と心得ております」[訳註:《単調読みの歌留多顔ソンソネーテ・コン・カラ・デ・ポーケル》]

「おっ、こんなところでお姫の演技論が……」若き女優の貫禄に思わず感じ入る年上のミコミコーナ。「つってそもそも能面ヅラってそういうことよな」

「おっしゃる通り」

「まあお前さんだって曲りなりにもニコーチンを名乗るからには――」肩に置かれた手を払い除けてから今度は相手の肩に手を乗せ返して、「ニニーウィー・ザ・ババとして生きていくがいいよ」

「ニニーウィ――って言いづらっ!」それでは古代メソポタミアに栄えた都市である![訳註:アッシリアの地名Níniveの日本語表記は《ニネヴェ》]

「当てがウィンナーならビール一択なんだが」バビロニア万歳ビバ・バビローニア! シュメール万歳ビバ・スメーリア![訳註:葡萄酒ビノ麦酒セルベーサの起源がシュメールにあるとはいえ、アッシリアとバビロニアはメソポタミアのそれぞれ北部と南部に該当するので不用意に混同することは出来ない。尚、第二十四章では登場人物に依って《シャメール》なる架空の古代人工物アルテファークト・アンティーグオが語られた]「ヤツは利尿作用がエゲツないからな」

「あれ、ウィーニーがニコチンコでニコシッコはウィンニー?でしたっけ……違うウィーリー、ウォーリー?」

「ウィーウィーじゃないの」先程の猥談では出なかった英単語である。[訳註:前々章で話題に上ったのは大便と男性器の幼児語のみ。一応小水を意味するweeweeも第八章冒頭で花が一度だけ口にしている]「ウィーとかピーとか、ちっちゃい子が発音しやすい感じの」

「じゃあパーがパーでピーがしっこでプーがうんこでペーが林家で……ポーが残っちゃた」

  千代さん、今直ぐその酔いどれ女ボラーチャの側から離れるのだ![訳註:エドガー・アラン・ポーの代表作の一『黒猫』を参照のこと]

「江戸川乱歩のパクリ元だろってか自分でニコチンコって言うなよ」こちらは流石に他の学友の前では口走らないに如くはない造語であろう。「お前次下ネタ言ったらうちらにアイスかジュースな」

「えっひとり一個?」

「あと何でもいいから歩きながら話せよ、いちいち立ち止まんな」

「あっミコチンパイセン、ビールNG発言からの――」今度は猫の従士が王女の袖を引いて角地に立つ店ティエンダ・デ・ラ・エスキーナの屋号を見上げた。「奇跡的に運命的なお店発見」

「ん?……おお、ワインワインじゃねえか!」釣られて仰ぎ見るミコーナ姫の頭上に午後の陽射し受け燦然と照り返る紋章エスクードの中に浮かぶは、葡萄酒洋盃に交差した食刀と肉刺しコパ・デ・ビノ・コン・ウン・クチージョ・イ・ウン・テネドール・クルサードス……果たしてここは酒蔵ビノテーカか何かだろうか?[訳註:尚、食卓用金物言語レングアーヘ・デ・ロス・クビエールトスに照らし合わせた場合、皿の上で食刀と肉刺しをX字の向きで交差させると《完食はしたが口には合わなかった》という意思表示になる為外食の際は注意されたい。出された品に満足した時は二本を平行かつ自分から見て水平に、特に評価を下さないのであれば垂直に置くとよい]「これで勝つる」

「そんなウィンウィンみたく言われましても」

「ワインにだってカリウム沢山入ってるでしょうから、」博識の部長に諭されるまでもなく、珈琲素カフェイーナ壷灰素ポタースィオ[訳註:独Kalium《加里/草木灰/剥荅叟母ぽたしうむ》]は利尿作用エフェークト・ディウレーティコの高い成分としてよく知られている。「飲み過ぎて脱水症状になるのはビールと同じですよ」

「ワインワインでウィンウィンでしかもウィーウィーとな」

「しかしヤツにはポリフェノールがある……」そうギネアは反論したが、抗酸化作用エフェークト・アンティオクシダーンテならば忽布ループロ[訳註:麦酒の原料たる蘭hopのこと]にも多分に含まれていよう。「それに店ん中なら漏らす心配もないし、口直しチェイサー代わりにビールも飲めばバランスも取れるってものよ」

「水を飲みなさい水を」

「チョーサーならカンタベリー……ジュース」

「だばフォッカッチョならデカメロンソーダだよな」ニコミコーナス姉妹は凝りもせずにその書名以外は生涯読むことのない書物の名を挙げた。「まあ姫よ、飲む前から出す話ばっかしてたらウィニーが笑うってな」

「飲まぬワインのかわや算用ですな――つか」従士が入り口に嵌められた硝子窓から店内を覗き込む。「開いてんの?……あ、人入ってる」

「土日十五時から、書いてる」

「ほんまや。土日で助かりましたやん」そう云いつつも千代さんは店頭に広げられた品書きの一部に目を走らせながら以下に続けた。「しかしこういう店は……一品一品オーダーしてたらひとり数千円とか軽く超えるのでは。ランチタイムとかないのか」

「あっても三時にランチはねえだろ。流石に酒の分とかは自分で払いますけど」

「説明しよう」ニコが友人の心中を代弁する。「サンチョさんは今晩物販もあるからなるだけ今から財布を軽くしたくないんですよ」

「ああお布施か……チェキ千円とかそういう?」

「そういう惰弱なもんはないって云いませんでしたっけ?」云ったには云ったが云った相手はカスティーリャ女王である[訳註:第十八章参照]。因みにCheki(Check-It)とは商品名だが、撮影用小部屋カビーナ・フォトグラーフィカのPurikura(Print Club)やSha-Mail(fotos para enviar y recibir por correo desde un celular)同様、今では即席撮影機カーマラ・インスタンターネアを指す一般名詞となっているそうだ。

「じゃあもうマルケーでいいじゃねえかよ……」座りたいとゴネたのは従士だけれど、そもそも食材を仕入れて隊商宿カラバサールに戻るのであればその希望は叶えられたであろう。「それかアレだ、この辺でその――サグラダ・ファミリア・レストラン?リストランテ?とか探す?」

「なんか……凄い最後の晩餐感ありますねその響きだと」朝餐デサジューノであれ昼餐コミーダであれここで取る食事は――もう一泊する予定の従士を除けば――全てが最初プリメーロス最後ウールティモスであろう。尤も取り分け千代さんなどは、午前の軽食アルムエールソ[訳註:この単語はこれまで昼食と訳してきたが、ここでは《昼前後の間食コラシオーン》の意味]こそ控えていたにせよ道中それなりにおやつをやっつけてメレンダンドセ[訳註:西merendar《午後/夕方の軽食を取る》、merendarse《打ち負かす》]きたように見受けられる。「パンとワインと……あとはオレンジと何だっけ、ウナギでしたっけ?」

「うなぎ自腹は無理がありまする」寿司も又然りポル・スシ・タンビエーン。[訳註:第十四章および十一章参照]「アマミノクロウナギもそう思うよね?」

「ひつまぶしは騎士さま来たら喧嘩しちゃうかもだしな」[訳註:武士だから?]

「駅の向こう側にデニーズランドありましたよね」

「サイゼだろ」朝食を取る前に一行が素通りした料理店だ。[訳註:第二十四章参照]

「いやデニーズもあった。サイゼの一本向こうに」

「一本向こうの話はいいよ」太閤通――則ち西口――側に出てしまうと騎士が帰還した折に又行き違う恐れがある。「コンタクト遠視気味なんじゃないの」

「左右一・〇だが。こっちのはもっと視力落ちてるかも」ニコは外側の水晶一対パル・デ・ロス・クリスターレス・エクステリオーレスを外すと、口を尖らせてその表面に付着した埃を吹き払った。

「知力もな」

「流石にホテル内のごはん屋さんはそんな安くないでしょうし」城内の食堂については従者も昨夜の時点で探索済みだ[訳註:第二十二章の末尾、千代は受付で携帯の充電器を拝借したついでに目ぼしい食事処を求め地下を徘徊している]。安藤さんは北の方向を見遣りながら後に続けた。「そこまで歩いて何もなければここかコンビニか決めましょう。朝もヘカトンケイルも奢ってもらったし、お昼は私が出しますよ」

「そのような……うちのドンニャに叱られます!」

 裏切り者の馬場久仁子や年長者たる御子神であれば幾ら銭鉱ミナ・デ・モネーダ[訳註:《造幣局カサ・デ・モネーダ》と《金鉱ミナ・デ・オーロ》の混成語。金蔓程度の意味]代わりにしたところで心も痛まないが、これが心優しきドゥルシネーアとなると――後々主人の耳に入って己が被り得る折檻アソターイナを差し引いたにせよ――然しもの守銭奴アバーラもそのまま厚意に甘んじるというわけにはいかなかった。


前触れ無くニコがサンチョの兜を叩いた。

「ちょっ、叩かんといて」

「そいやチヨさんさっきのフッキーどした?」

「フッキー?」品の無い名前である。[訳註:Fuckyと綴られている]「誰のことです?」

「フッキーとゆうかユッキー」

「さあ何のことだか……マッキーであればもう違法薬物の摂取行為なんてしないなんて言わないよ絶対と歌っていたが」

「逮捕されたんはともかく歌の方知ってるのは古すぎだろ」花を愛する男たる者それが仮令ケシアマポーラアサカーンナビスの花であっても決して差別はしないのであろう。「というかそこはもう違法行為なんてしないと断言させとけよ……あっ隣も食い物屋、居酒屋っぽいか」

「閉まってますやん」

「ハハ……ここにもマッキーが言いそうなこと書いてる」想像するに自然愛護プロテクシオーン・デ・ラ・ナトゥラレーサ博愛精神エスピーリトゥ・フィラントローピコを謳った美辞麗句パラーブラス・フロリーダスが店名と並び掲げられているのに相違ない。

「《色んな形の花びらより~そってひとつのさく~ら》――めっさ言ってそう」[訳註:«De distintas formas de los pedales acostumbrados se compone un cerezo en flor.»《様々な形状の使い慣れた踏み板ペダーレスが花咲く桜の木を形成する》]

「寄り添ってでしょ……花びらの何を剃毛すんのさ[訳註:「«De los pétalos acumlados»... Y ¿qué tipo de cereza se compone de esos debilbichos?」「《花びらペータロスが集まって》でしょ……その弱い虫たちからどんなさくらんぼが出来てんのさ?」これまで幾度となく話題に上った漫画『弱虫ペダル』に西語の定訳があるかどうかについては定かでないが、《弱いデビールビチョ》という単語は形容詞のdebilucho《虚弱な》を捩った表現だろう。《さくらんぼセレーサ》にも少なからず下品な隠喩が込められていそうだけれども、元の科白の剃毛も上品とは言い難いのでここは見て見ぬ振りをしたい)」従士は視線を右手上方から前方へと移した。「――えっ次もうらめし屋?」

「おもてめし屋……あっミコさんミコさん見て」山出しの田舎娘たちカンペスィニータス・モンタニェーサスでもこう何でもかんでも珍しがりはしないであろう!「デコデコーナだって」

「デコはお前だニコ助野郎……おっスペインバルじゃん。ここにすっか」

「余裕で閉まってますけども」

「ありゃ三時まで? タイミングわろすタッチの差で終わっちまった?」

「深夜三時までだよ。メガネでも遠視過ぎてんじゃねえか」

「そりゃこの時間から酒場繁盛してたら名古屋終わってまうだろ」日本には就業時間の合間に取る昼食で――それが酒精の軽いものリコール・リヘーロであれ――飲酒することを許さぬ社会風紀モラール・プーブリカがあるのだ。とはいえ今日は週末である。「このペースじゃサークルK一周すんのに一時間掛かるわ。おらネコ助かニコ助、走って周ってきて」

「いや歩いても五分掛からんと思いますけど――っておい元気か」

「パイセンこっち中華」

「中華?……あっし紹興酒とかあんま好き、く――雀荘じゃねえか」身を乗り出すと桜通の往来が望めた。「レンガってことはもうホテルん端っこなのね」

「ああ、あの雨除けシェードみたいなとこがさっきお手洗いの横にあった裏口なんじゃないですか?」

「そうだ薔薇園のとこの」皆さんにはアンジェリカの指輪を口に含み城内に潜入したドニャ・キホーテが、一階受付横奥の手洗いから現れた両姫に周章し慌てて身を隠した件を思い出していただこう。[訳註:第二十八章参照。但し便所の出口から現れたのではなく、あくまでその奥に施設内の食事処と化粧室がある一画から不意に姿を見せたというだけ]

「薔薇さま……私立リリアン女学園?」

「リリアンは百合だと思うけど[訳註:人名Lilian/Lillianはラティン語lilium《百合リーリウム》由来で、フランスなどを除き原則女性名として用いられる。西語の百合はlirioだが、これにはサトイモ科の菖蒲しょうぶやアヤメ科の菖蒲あやめも含むのだと謂う]」ミコミコーナは北と南を交互に見渡しつつボソリと呟いた。「――つっていつまでもバラバラってわけにゃいかんな」

 ――薔薇はローサス薔薇はローサス毛深く咲いてフロレシエンド・コン・ベージョ薔薇はローサス薔薇はローサス薄く禿げ散るセ・マルチータン・スィン・カベージョ。[訳註:後半部分の直訳は《髪もなく衰える》。尚、bello《美しい》とvello《体毛/綿毛》は同音]

「サンチョ!」

「はいっ」

「お前とっとと反対側行ってチャリ置いてこい」

「蹴らんでよ」止めを刺そうとダールレ・ラ・プンティージャ[訳註:西punta《先端/切っ先》から派生したpuntillaは瀕死の状態にある人間や動物を死に至らしめる為の《慈悲の一撃ティロ・デ・グラーシア》を与える短刀を指すが、一応de/en puntillasには爪先立ちの意味もあることから恐らく足先で車体を小突こうとしたという場面]する王女から愛驢を遠ざける千代さん。「場所決まったんすか?」

「カバレロ、ジョー・ヤブキハスデニモウ死ン――シランデイル」

「はい?」

「燃えつきた……ってヤツやね!」

「ダガ私モモウ白髪シラガダ――バ~イ、ホセ・メンドーサ」

「……お、おう」従士は促されるままシャルロットの鞍に跨った。「絶対王者かよ」

 畢竟、敢えて白髪の紳士カバジェーロ・デ・ラ・ブランカ・ペルーサ[訳註:《銀月の騎士カバジェロ・デ・ラ・ブランカ・ルーナ》。但し漫画『あしたのジョー』に於いて髪が白くなったのはジョーとの死闘を判定で制した直後のメンドーサであって、その介添人セグンドカバレロ氏の髪は試合後も黒々としたままだろう。西pelusaは人や動物のペロというより、植物に生えた毛トリコーマや衣類に付く糸屑・綿埃という意味合いが強い]を引き合いに出すまでもなく、我等が毛むくじゃら嬢ドニャ・ペルーサは歩き回るのがいい加減億劫になっていたのである。


さて、十分かそこら前に受けた母親からの言付けオールデンをすっかり失念していた半坐千代にそれを想起させたのは大ギネアのミコミコーナだったが、この《巫女》という日本語に神薙スィビーラ霊媒師メーディウムの意味があることと、御子神嬢が平素東京近辺で嗜んでいるという変装遊戯コスプレイとの間に分かち難い因果関係があると看破した者が一行の中にひとりでも居たとすれば、それは安藤蓮を置いて他にないであろう。これは小説『ドン・キホーテ』で架空の王女の役柄を演じた――或いはその霊魂を己が身に宿した――ドロテアについても等しく言えることだ。

 しかしながら電話での指図インストゥルクシオーネス・テレフォーニカスが別人の――換言すれば千佳夫人が憑依した何者かのデ・アルグーナ・ポセイーダ・ポル・ラ・セニョーラ・チカ――口を借りて伝えられていた事実に勘付いていた者は、利発なドゥルシネーアは勿論、実の娘も含めただのひとりも居なかったとして驚くには当たらない。というのも、盲に同じく耳だけが頼りであるからこそ登場人物たちが発する声の聴き分けにはそれなりの自信を有する筆者をしても、本人の声色と模倣されたそれを判別することなど到底無理な話だと匙を投げざるを得ないほどに、その声帯模写の精度が極めて高いものだったからである。

 進行方向のまま、則ち北回りに城塞の東側へと戻ってきた千代は、果たして厩舎の前で煩悶していた。

「……う~む」

 案の定イポグリフォの尻尾は垂れておらぬ。それ自体は予想通り――というより当然の有り様だったわけだけれども、そうなると午前中に部長姫が目にしたという自転車は単なる見間違いなのか、若しくは何らかの意図に拠る虚偽報告か……最悪なのは、エル・トボソの姫君も従士の主人と同様の妄想癖スィーントマ・デル・デリーリオを患っていた場合であろう。お似合いの縁組マリダーヘ・アダプタードには違いないが、一介の中学生が面倒を見るには荷が勝ち過ぎている。

「あと」千代は携帯を手にすると液晶画面を見下ろした。「――三時間、とちょい」

 大きく嘆息してからシャルロットの後肢の蹄鉄に施錠すると、その背をポンと叩く。

「――あっそうだ」

 兜の緒バルビケーホを外した千代さんは俄に駆け出した。一歩一歩神聖舗装アスガールト[訳註:西asgaltoは恐らくAsgard《神の領地》とasfalto《土瀝青》の混成語または打ち損じ]の大地へと着地するその都度、堅い鉢の半球が弾性に富む臀部で跳ねる音が聞こえる。軽快な足取りだ。

 自動扉が開く。だがこれは芝馬場トゥルフ――則ちケーバの輪シールクロ・デ・カレーラス・デ・カバージョス[訳註:競馬は西carreras de caballosと綴るべきだが、ここではkarreras de kaballosと頭文字を入れ替えている。尚《サークルK》の名称はテキサス州エルパソにあった食料雑貨店Kay's Food Storesに由来するとのこと]の入り口ではない。そのことは一枚目が閉じるのに先んじて、二枚目の硝子扉が左右へと分かたれる音が聞こえてきたことからも容易に窺い知れよう。

 ところが半坐千代は二つ目の敷居を越える前に踏み止まった。

「ん~?」暫し首を傾げた後に回れ右しディオッ・メーディア・ブエールタ撤退を開始したイ・エンプレンディオッ・ラ・レティラーダ。「……まァ」

 跳ねぬ橋を一足飛びに走り抜けた猫の従士は桜通沿いに踊り出るや、一応有料駐輪空間を一瞥しつつ馬小屋へと――ネクロカブリーオの兜を矢張り小気味好く踊らせながら――駆け戻るのだった。

「……シャロ」弾んだ息を整えてから――「頼む」

 数秒の休息を挿むと、今度は時計の針が進むに倣ってコモ・ラス・アグーハス・デル・レローフ・マールチャン南へと疾駆し、通行人に気を配りつつ便利店の角を右折、腐っても旧西班牙の老女騎士ビエーハ・カバジェーラ・デ・ラ・アンティーグア・エスパーニャ[訳註:新世界ヌエーボ・ムンドたる米大陸を指して《新西班牙ヌエーバ・エスパーニャ》と呼ぶ例は本稿でも幾度となく例示されてきたものの、対立概念として旧世界ビエーホ・ムンドたる欧州およびイスパニアを《古いビエーハ古風な西班牙アンティーグア・エスパーニャ》と称する事例は極めて稀だと考えられる]に仕えただけのことはあるのだとばかりに慣れぬ環状走路ピースタ・シルクラールに於いても実に見事な快走を見せる。尤も日本の競馬場の大半も、欧州のそれに倣ってか時計回りセンティード・オラーリオなのだと謂う。

「……ん?」厩舎の丁度反対側――城郭の西側壁面――に位置すると思しき中華料理店の前で急停止した従士は、無理が祟ったとみえ一時酷く猫咳トス・フェリーナ[訳註:西tos felina/LをRに変えると《百日咳トス・フェリーナ》。西ferinoで《野生の、荒々しい》]宜しく咳き込んだが、脇腹を抑えながら何とか周囲を見回した。

 どうやら早駆けは無駄骨エスフエールソス・エン・バノだったようで、そこにエル・トボソや大ミコミコンの姿はなかった。

「いや待っててよ」

 来た道を引き返すが流石にもう驢馬の足を借りず飛び跳ねる余力は無いようだった。角の葡萄酒居酒屋タベールナ・ビーノスを超えるとニーウィー――名古屋の詰め腸チチャサール・ラ・ナゴーヤ[訳註:勿論《腸詰めサルチーチャ》ではなく鶏肉料理を主力とした店である]――の店が隣接している。意気込んで走らずとも、逐一立ち止まらなければ一分と掛からぬ距離だ。

 自動扉が開く。[訳註:無論コーチン屋ではなくその又隣の便利店の、である]

「いらっしゃいませー」

 千代は単身入店し、今度は屋根のある極めて狭い馬場ピースタ――その長半径アークスィス・セミ=マジョールを横断するのには然程長くない脚線ピエールナ・レークタでも十歩と掛かるまい――の中を壁伝いに周回し始めた。

「おらん――」陳列された食料には目もくれず左右に首を巡らせる。「――やんけ」

 競争相手も居ないのに店内を何周したとて不毛なだけだ。買い物カゴセースタ・デ・コーンプラは疎か商品のひとつも手に取っていなかった従士はそのまま精算台モストラドール・デ・カハを素通りし、出口を目指し歩を進めたのである。

 ――自動扉が開いた。

「らっしゃいませ」

 ところが彼女は店外に出ることなく右折する。どうやら感知器センソールは千代ではなく、入店せんとした誰か別の人物に反応したようだ。彼らとの衝突を避けた猫の従士は図らずも二周目へと突入してしまったということか……

 しかしサンチョは通りに面した雑誌売り場の一画で歩行を中断し、下を向いて身を固くしたかと思えば一切の身動きを止めたのだった。先刻短距離走カレーラ・コールタを終えた直後よりも却って息遣いが荒くなっている。こうなると心拍数も格段に上昇していよう。

 それとなく後方を振り返る。安全を確認すると、千代は顔を伏せつつも慎重に出口へと急いだ……自動扉が開く。

「ありがとうござ~ました~」

 今度はちゃんと店外に出てから右へ折れる。そして硝子張りの壁面を通過し、店内からは死角に入ったとみるなり――ラ・サンチャの馬猫ガトゥカバジューナは全速力で出走したのであったサリオッ・ディスパラード


三十秒後――

「またトイレ……」[訳註:第二十六章に記された客室内での経緯を参照のこと]

 半坐千代は主従揃って昨晩宿泊する手筈であった――そして今晩宿泊する予定でもある――牙城の一階奥に造設された《薔薇園ハルディーン・デ・ローサス》の、その向かいに設置された手洗いの中で洗面台の鏡と相対していた。

 日本で《駆け込み寺テーンプロス・パラ・オフレセール・アスィーロ》といえばまさしく、暴力下に置かれた女たちの避難所レフーヒオス・パラ・ムヘーレス・エン・スィトゥアシオーン・デ・ビオレーンシアを指す言葉であるが、成る程ここ桜通でも贖罪教会テーンプロ・エクピアトーリオと同様、聖なる門戸サグラーダ・レーハス[訳註:西rejaは庭園や牢獄で用いられる格子や鉄柵のこと]は常に開かれているとみえる。そう、彼女は先程ドゥルシネーアが視認した雨除けの小屋根テチート・コントラ・ラ・ジュービアを潜り、西面から城内へと進入したのだ。

 こちらは女子用の化粧室アセーオ・デ・ムヘーレスである為、追手が男の場合(岡崎のご婦人方のように)女装でもせぬ限りア・メーノス・ケ・セ・ビースタ・デ・ムヘール押し入ることも叶うまい。

 それから三分間[訳註:但しこれは入室から退室までに要した時間]、息を押し殺し身を潜め続けた――千代さんではあったものの、流石に馬鹿馬鹿しくなったらしく然も忌々しそうに鼻を鳴らすと、自分相手のにらめっこ遊びフエーゴ・デ・アグアンタール・ラ・ミラーダに漸く終止符を打つのだった。

「居るわけがない――わけで」

 個室クアールト・プリバードが無人だったのでついでにササッと用を足し定位置へと戻ってきた従士は、その後も暫くの間だらだらと手を洗いながら凝りもせずに何やら聴き取れぬ声でブツクサ呟いていたが、不意に化粧室の戸が開いたのを合図に発声を途切れさせると、何食わぬ顔で携帯を弄りつつその女性と入れ替わる形で件の食事処に面する廊下へと出ていくのだった。

 薔薇園の入り口を素通りして待合広間まで出ようとした――若しくは昇降機前に?[訳註:ほんの数分前に玄関の自動扉の二枚目で引き返しているが、そもそもこの立ち寄りが受付で花の到着の是非を直に確認する為だったのか、それとも一旦客室に戻ろうとしたのかについては不明]――自分の掌で突然端末が振動したものだから、モンテシーノスで被った心的外傷で些か神経質になっている千代は思わず「ちぇい!」と意味不明な呻きグリティート・インディフィニート[訳註:西gritito《小喚声グリート》に付く形容詞indefinido《不明瞭な、際限のない》がindifinitoと綴られているのは韻を踏む為か、或いは単なる書き損じであろう]を上げる。

 着信者の表示を確かめ舌打ちを鳴らす従士。

「……パイセンパイシンに悪いよ[訳註:《肺心的にプルモンカルディアカメンテ》。唐突な着信が受信者の心肺カルディオプルモナール――つまり鼓動と呼吸に悪影響を与えるという意味]」電話を取りながら玄関前の長椅子に腰掛ける。「……いやそれこっちのセリフなんすけど。会えてないよ――ってそれ入った時点で教えてくださいよめっさ行ったり来たりしちゃったじゃんかい」

 往ったり来たりデ・アカッ・パラ・アジャッとはその通りで、この城塞を時計に見立てれば我等が従士は他の三人と別れて後、八時から北回りに三時、三時から十二時、それから三時を通って八時、そして五時、最終弧線ウールティマ・クールバを経て現在位置が九時と、僅か十分足らずの間に丸一日の時間旅行ビアーヘ・エン・エル・ティエーンポを体験したに等しいのだった。[訳註:宿泊施設に南側の商店区域を含めたこの街区の周長は約二エスタディオ――則ち三六〇米前後。その二周分ということ]

「すぐ行きますて。えっと一分くらい、ほんじゃ」

 千代は電話を切るなり直ぐ玄関口を向いて立ち上がったものの、「おっと」と呟いてくるり踵を返し、西側の裏口へと向かった。一分で目的地へと辿り着くには最短経路を選ぶべきであろう。

 とはいえ《疑心暗鬼を生ずソスペーチャ・エンヘーンドラ・デモーニオス》の法則[訳註:前章とは違いほぼ成句通りの意味]に例外はなかったようで、手動扉プエールタ・マヌアールを押し開き件の小屋根の下から首を出した従士が幾度となく左右を確認している間に一分の内の殆どが経過してしまったのだった。

[訳者補遺:著者が私見を提示しないので敢えて訳者個人の解釈――というより推測の域を出ないのだが――を述べさせていただくと、千代さんが先程便利店の出口で遭遇したのは恐らく本坂峠で主従に絡んだ破落戸二人組……に人相または服装等が似ていただけの全くの別人だったのだろう。真偽は兎も角彼女は自身の心の平穏を保つ為にも、数日前の悪夢のような体験が見せた幻覚ないし見間違いだと思い込もうと努めた――そう考えれば一連の奇行にも幾分筋が通るというもの]


六時へとア・ラス・セーイス――嗚呼、彼のアリカンテの魔女ブルーハならば時計の文字盤エスフェーラよりも風の薔薇ロサ・デ・ロス・ビエーントス[訳註:羅針盤ブルーフラとほぼ同義だが、西brújulaの針が磁北を指すのに対しこちらは地理的な北の方位を示す。尤もこの食堂が位置するのは街区の南端である]に喩えたであろうか?――到着し、恐る恐る観音開きプエールタ・ドーブレの一方を引き開ける。

「いらっしゃいませどうぞ」

「サンチヨさ~んぬ!」広い店内の中程で手を振る馬場嬢。「ここなら表見えるっしょ」

「丸見えかい……」窓際あるいは視界の大半を通りに面した大きな硝子窓が占める座席に陣取っているのだろう。窓外を見渡せ且つ椅子に座りたいと所望したのは千代さん自身であるとはいえ、彼の独国人アレマーンもこう忠告していたではないか――《街路をじっと見ている時クアンド・ミラス・フィハメンテ・ア・ウナ・アベニーダその街路も又中のお前を見ているラ・アベニーダ・タンビエーン・テ・ミラ・アデーントロ》と。[訳註:《深淵を覗くミラール・ア・ウン・アビースモ》。最前吸血鼠どもの幻影を見たことにより、千代が軽度の視線恐怖症エスコポフォービアを患っていることを仄めかした引用]「あっあそこでやかましいのの連れですすみません」

「かしこまりました、ごゆっくりどうぞ」

 炎夏に疲弊した近隣住民や観光客が涼を求め利用しているのか、店はそれなりに繁盛しているようだった。

「ネコ助待ってて飲み物すら頼んでないんだけど」

「別に待たんでよろしかったのに」どうせ待つならば路上で待っていてほしかったところだと云わんばかり。「猫待たんでも猫又とかに化けやしませんぜ」

「二本脚で立って歩いてる時点でお前もう猫又じゃん」

「結局単独でまたハコ観に行ってたのん?」

「何でだよ、この時間で帰ってこれねえだろ」さっき橋まで驢馬を走らせて戻ってきたのに、再度挑戦する理由がない。

「何突っ立ってんの?」

「いえあの、テーブルチャージとか」居酒屋や高級料亭レスタウラーンテ・デ・カテゴリーアなど夜間営業の飲食店コメドーレス・ノクトゥールノス[訳註:一般的に西comedor nocturnoというと飲食店ではなく家庭内に於ける夜の台所、つまり《夜食症/夜間摂食症候群》を指す]を除くと、この国に席料クビエールトの発生する大衆料理屋は比較的少ない。尤も葡萄酒が売りの食堂であれば、端からパンの輪切りレバナーダス・デ・バゲーテ阿利布の実フルートス・デル・オリーボをお通し(原註:注文以前に前菜として供される小皿料理ペケーニャス・ターパス・ア・モド・デ・アペリティーボ・アンテス・デ・ペディール)代わりとして卓上に備えてあって不思議はなかろう。「……先立つ物が無い不幸をお許しください」

「先に立たないなら後から座ればいいじゃない」

「現状そうするより他ないわけだが」他の三名は既に着席しているのである。それともここは真打ち登場ロ・メホール・ジェガ・アル・フィナールとばかりに総立ちで歓待オバシオーン・デ・ピエせよとでも?

「あっ奥の方座る?」気配りの出来るドゥルシネーアが腰を浮かせた。「そっちの方が通りがよく見えるし」

「姫はダメだ、美女はお酌しなきゃよ!」隣に座ったミコミコーナがエル・トボソの袖を引いて、彼女の程好く整った小尻ナールガス・ペケーニャス・イ・トルネアーダスより弾性に乏しい座面アスィエント・メーノス・エラースティコを半ば強引に再接着させる。

「お酌って……ボトルで頼む気ですか?」

「ボトラーですか?」[訳註:英bottlerを直訳したembotelladoraが瓶詰業者や従業員またはその為の装置を指す一方で、ニコがこれを日本語の符牒――便所で用を足す為に室外へと出るのが面倒になった無精者が飲料の空き瓶を尿瓶として代用する行為――として発言していることを看破した著者は相槌を二文に分け「瓶詰め女子ですかエンボテジャドーラ? おしっこのデ・オリーナ?」と訳出している。屋外で為された酒精の利尿作用を喚起する意図――つまり呑み過ぎると手洗いが近くなるという警告――を読み取ったのだろうが、馬場さんの性格を鑑みれば特に深く考えることなく単なる語呂合わせで発した軽口だと解釈した方が寧ろ自然であろう]

「いやこんなとこでヤッたら通報モンだわ……いや自分ちでもヤッたこたないが」年弱の三人は未成年である。「お一人様で一本空けちゃダメか、そうか……」

「止めはしませんが」

「まァ色んなのをグラスで呑んだ方が満足度高いかもな」

「色んなのって色は二択じゃないのか」薔薇色ロサードもあろう。「色々というくらいだし……まあ飲める時くらい飲みゃいいよ」

「お、お許しが出た」

「«I drink upon occasion, sometimes upon no occasion.»」こちらは台詞を諳んじる為の抽斗カホネーラに事欠かない女優である。「――ってのは『ドン・キホーテ』の言葉じゃなかったですかね」

「何だ分かってるじゃんドン・キホーテ……どういう意味?」

「いやドン・キホーテの発言かは分かりませんが……原語で何て言ってるかも知らないし」

「つまり飲みたきゃ飲めばオッケージョン――ってこったな」

「ジョンは誰なのよ」

「じゃあ――」部長がもう一度腰を上げたので、

「いえ私は全然こっちで」壁を背にした長椅子バンコス・コリードス・コントラ・ラ・パレッは淑女や年長者に譲るのが作法である。大抵の場合そちらの方が通路側の一人掛け椅子スィージャス・アル・ラド・デ・ラ・ナーベより座り心地に優れるし、より広く視野を確保できるからだ。無論それは方便で、窓に背を向けることが千代自身の姿を架空の追跡者の視界から逃れさせるのに寄与するから――というのが本音やも知れぬ。従士は手荷物を足下に置き椅子を引きつつ以下に続けた。「格段にお付き合いの長いドゥルシネーア様に見張っていただいてる方がサンチョも安心ですんで」

「そんなこと云って~うちの隣に座りたかっただけのくせにぃ」

「承りました」始終窓外に目を光らせておらねばならぬとなればさぞや骨だろうに。「最後に会った時とあんまり変わってたら見逃しちゃうかもだけど」

「そりゃもうアナタ、うちのドンニャとネーヤ様なら魂と魂が結びついてらっしゃいますですから」それは赤い糸で? それとも青い紐?[訳註:前章で交わされた青の飾り紐コルドン・ブルに纏わる遣り取りを参照のこと]「たまたま変な恰好してたり、ちょっと変わり果ててたからって気付かないことはないと思いますよ。逆も又しかり」

「たまたまタマタマが付いちゃってたからって、ドニャキが僕らの泡ガム姫改め泡ガム王子の性別に惑わされるなんてこともないよね。見た目美少女ならタマの有る無し関係ないってバッチャも言ってた」[訳註:余談だが、二〇一五年時点では日本国内にて未放送だったものの、御子神嬢が引き合いに出した件の米国製慢動画『冒険の時間アドヴェンチャー・タイム』の第三期では風船噛飴姫プリンセス・バブルガムが性転換した噛飴玉王子プリンス・ガムボールが登場する]

「やっと消えたと思ったらまだまだ引っ張るんだ……ミコさんもマーリンの男女逆転魔法相当気に入っちゃってますよね」おお、両性具有の美男子エルマフロディート! それとも彼を手篭めにした肉食系妖精ニンファ・ニンフォーマナサルマキスの転生であろうか?「――部屋見に行って来たの?」

「えっどしてです?」

「メット置いてきたんだしょ」自分の首周りに手を翳すミコミコーナ。

「ああ……ヤツはいい加減邪魔なので我がシャルルマーニャのカゴに入れてきました」

「邪魔ってお前、ルトメット先輩はさっき貴様のドタマが生玉子のようにカチ割れるのを未然に防いでくださっただろうが恩知らずな」[訳註:前々章を参照。一応その前にも、宙を飛んだボルランドの携帯を好捕するなどして水没の危機から救っている。ルトメットとは《ルトヴィの印章を貼られた防護帽ヘルメット》の略]

「誰がルドメットだ」徒ならば無用だし、日除けの為というにも却って熱中症になりそうな防具ではある。「まァ誰も盗らんでしょあんなモン……」

「『狼たちの午後』的な……外暑いし、うっかり銀行強盗とかしてなきゃいいけど」

「強盗する側? 立ち向かう方じゃなく?」

「どっちにしろ問題だ」

「ご注文お決まりでしたらどうぞ」

「あっすいませんまだ――」

「飲みもんだけ頼んどこう」ミコミコーナが品書きを広げた。「タマ姫はやっぱタマリンドジュースでも行っとく?」

「えっ置いてますかそんなの?」

「何タマリンドウて、サヤエンドウの仲間?」

「お前リンドウって花知らない? 青いヤツ」

「こらこら」ドロテア嬢の虚言癖を窘める安藤さん。ペテンに掛ける相手は狂気の騎士だけで充分である。「竜胆りんどうよりかはエンドウ豆の方が近いんじゃないですかね……鞘も豆自体も褐色というか、茶色かった気がしますけども」[訳註:第三章ではアンパンの説明の中で、その具材である小豆について《印度棗椰子のような豆類フディーア・コモ・タマリンド》と記されている。因みにタマリンドはマメ科の植物だが、インドナツメはというとクロウメモドキ科で外観は青林檎に似る]

「あっだだちゃ豆?」[訳註:《だだちゃ》とは父ちゃんを指す庄内方言]

「いや枝豆の季節だっちゃけども」エダマメは未成熟な大豆ソハ・インマドゥーラなのだから、アルービアスバーイナスも当然緑色だろう。「ビールか……スパークってない方の白かなあ」

「甘酸っぱいんですよねたしか」

「茶色くて甘酸っぱい豆って腐ってるんじゃ……つかせめてメニューに書いてあるもん言えよ」千代は首を捻って苦笑いしている女給を見上げた。「店員さんも暇じゃねえんだぞ」

「これスペインってことはカバ?」

「そちらは産地が認定地域外なので厳密にはカバではないんですが~、使用しているブドウの品種はほとんど同じでして、ただ発酵にシャルマ方式という――」

「なるほどじゃあこれのグラスで……辛口ブリュットのがいいかな」流石は高貴な女獣ノーブレ・ブルータ[訳註:普通noble brutoは馬の美称として使われる]、舌も肥えていらっしゃる! 「お願いします。この値段だとむしろグラスのがコスパいいんじゃ」

「かしこまりました」

「じゃうちはノンアルコールの赤で」

「あっ一応そちらは――」

「困らせるなよ」無酒精飲料トラーゴ・スィン・アルコオールであれば未成年に提供しても法的な問題は無い筈だが、飲食店に依っては子供用でない商品を給仕するのを忌避する場合もあるだろう。尤も子どもとはいえ客からの注文を頭ごなしに拒絶することにも抵抗がある。「こいつは水道水に赤絵の具混ぜたのでも出してやってください」

「待て待て、せめて赤色何号とかにして」

「余計困らせてどうすんだよ」客とはいえ子どもの冗談に付き合っていられるほど店が空いているわけでもない。「赤いのがいいならアセロラでも何でもいいだろ」

「赤ワインの色ならコーラとかのが近いかもだけど」混ぜ合わせればカリモーチョ[訳註:これはKalimeroとMotxongoというふたりの男性名、或いは前者とバスク語の《醜いモチョ》を掛け合わせた命名とされる混合酒コークテルの通称]だ。「あっアサイースカッシュならセーフなんじゃない?」

「はい大丈夫です」そもそも檸檬水リモナーダが許されて搾汁水スクアシュ――希釈果汁飲料フゴ・パラ・ディルイール――が許されぬ道理がない。[訳註:日本語で《スカッシュ》と呼ぶ場合は果汁を炭酸水で割った飲料を指すが、原義とは違い酒類にも適用される用語となっている]

「アサイーって朝以外に飲んでもいいん?」[訳註:「ここで何しろとケ・アゴ・アキッ?」と訳出。果実のazaíと«Haz ahí.»《そこアイッでしろ》が同音である為]

「朝から店開いてねえよ」[訳註:「うわアイ、じゃあ黙ってればポルケ・ノ・テ・カージャス?」第二十六章の客室内でも引用されたフアン・カルロス一世の発言を参照のこと]

「じゃあ開店してくださいということで私はペリエにします」[訳註:訳は「《止めろこのクソメス犬パーラ・エスタ・プタ・ペーラ!》ということで」。《牝犬ペラ》には癇癪の意味もあるそうなので、要は「黙れカージャテ」と同義なのだろうが、いっそ清々しいほどに口が悪いではないか]

「あっズルいうちもペリエ!」とどのつまりこの娘は、それが炭酸水ペリエールだろうが犬っころペリートだろうが、相棒とお揃いでさえあれば何でも良いのである。「開店してくださいよ~」

「勘弁してくださいよ」

「……じゃあそれ三つで、お願いします」

「かしこまりましたそれではお食事の方お決まりになりましたらお声お掛けくださいませごゆっくりどうぞ~」

「「「「は~い」」」」

 往来に背を向けた猫の従士が呑気に店員の背中を見送っている間も、責任感の強い安藤さんは恐らく一瞬たりとも窓外から目を離してはいなかったであろう。

 しかしこうなってくると――部長には気の毒なことだけれど――先程引用した賢人の箴言プロベールビオは筆者の記憶違いで、正しくは以下の如くだったように思えて仕方がないのである。

《――件の狩蜂を長々と捜している合間にミエントラス・ブスカーバス・ラルゴ・ティエンポ・ア・ウナ・アビースパその蜂は既に上空でお前の監視を終えていたラ・アビースパ・ジャ・テ・アビーア・オブセルバード・デスデ・エル・シエーロ》。[訳註:《深淵も又お前の中を覗いているエル・アビースモ・タンビエーン・ミーラ・デントロ・デ・ティ》。但し花が桜通の対岸から一行の一挙手一投足を偵察していたのは電話を切った辺りまでのこと、つまり優に半時間以上も前の話]


静音設計の羽の主ドゥエーニャ・デ・ラス・アーラス・コン・エル・ディセーニョ・スィレンシオーソ又候またぞろその自前の針を地元の悪童か無辜の市民へと突き立てるまで、今少し食堂の様子を窺ってみよう。

「ブリュットって何すか? ブリュブリュざえもん?」

「食いもんのとこ見ろよっつうか、飯の前にその擬音みたく言うのやめれ」下品な擬音語オノマトページャ・ブリボーナだと、これはブルボン王エル・ボルボーンでもそう言うだろう。「からいじゃなかった?――あっでもセック?も辛いか」

「八月八日は何の節句?」笹と菊の間[訳註:前章に於ける日本の節供の解説を参照のこと]であれば雛芥子アマポーラ唐菖蒲グラディオーロ? それとも向日葵ヒラソールだろうか?「母の節句?」

「お前さっきの話ループしてるぞ」[訳註:第三十一章、観覧車搭乗直前辺りを参照]

嫁節供よめぜっくってのがあったけど、あれは八朔はっさくだし一日かな」

「あっハニーサック……何だっけ?」馬場嬢は卓上の籠に手を伸ばす。「ハニーバターうめえなこれ」

「水だけでバゲット食い尽くすなよ」

「セックはどっちかというとドライですよね」まさに名古屋周遊中の少女たちの肉体がそれ[訳註:《乾燥したセコ》]に当て嵌まるとはいえ、日本の夏は総じて湿潤な気候クリーマ・ウーメドが特徴である。「ブリュットは何ていうか……生? ありのまま?」

「ありの~」

「今は蟻のハハより蜂のハナだけどな」その後は慥か《女性化男子レディボーイ女性化男子レディボーイ》と続くのではなかったか?[訳註:第二十章を振り返ると、岡崎離宮にてパロミ女王御自らの歌唱が確認可能だ]「二外にがいとか何も役に立たんな……そうか、ワインってアレ砂糖足してるのよね」

「加糖? あっ濃縮還元ジュース的な?」

「加糖というか補糖って言うんだと思うけど(原註:katō: azucaración, hotō: chaptalización)……カトーとブルトゥスじゃジュリアス・シーザーみたいだなあ」仮令そういった配役であったとしても、親友の胸に凶刃ダガ・アセスィーナを突き立てる芝居など――その余りの薄さにうっかり貫き通してしまうかもしれない点は捨て置くにせよ――情の深い彼女には到底出来るとも思えなかった。「ほら、アルコールって糖分が発酵して出来るわけだから、原料の糖度が低いとワインの度数にならないんだよ」

「何で高校生が普通に解説できるんよ」

「あ~なるほど甘いわけじゃあないのね」それは無酒精の葡萄酒も同じことだ。「でも役に立つも立たないも苦いことには代わりなくね? わざわざ砂糖ブチ込んでまでアルコーらないでもウェルチとかドールじゃダメなん?」

「渋いとは言うけどあんま苦いってのは聞かないよね」[訳註:安藤さんの発言]

「メガネ、《ニガイ》ってのは第二外国語ってことね」

「まぎらわしんだよ!」これは嘗て千代も同じ間違いを犯している。[訳註:第十一章参照]

「うち中等部は外国語英語だけなので」

「シロノワールもフラ語ですよな」

「白は日本語だろが」シリがクロを意味することは先に述べた。[訳註:第二十七章? 但し具体的に日本語の解説をした文面は見当たらぬ]「《黒い城》だと……シャトーノワール?」

「おっ、モン・サント=ヴィクトワールですね」

「モン・サン=ミッシェル?」

「モンブランのブランて白ですよな?」同胞を突き放して会話に交じる聖黒猫さんサント・シャ・ノワール=サン

「嘘やんモンブラン茶色やんけ。モンブラウンやんけ」

「いやどっちかってと黄色では?」

「でも実際blancってカタカナだとブロンに近いですよね」国際音声記号では/blɑ̃/と表記されている。「brunの方が――発音合ってるか微妙だけど、ブランぽいか」[訳註:/bʁœ̃/若しくは/bʁɛ̃/と発音される。英brown共々語源はゲルマン祖語のbrūnaz《茶色い》]

「アルハンブラ宮殿も白っぽくなかった?」

「ああたしかに壁とか列柱とか、大理石とか鍾乳石とか白の印象強いですよね」メスガキータ[訳註:第三十二章では御子神嬢が素でか故意にかコルドバの回教寺院メスキータを間違えてこう呼んだ]ならば紅白の楔石による弓形梁群アールコス・コン・ドベーラス・エン・ロホ・イ・ブランコが有名である。「庭園ヘネラリーフェの離宮とかアラヤネスの中庭パティオとか……でもアランブラは赤って意味らしいですよ」

「……行ったことないんだよね?」

「ないです」

「ミコさん飯食った後もまた名古ブラの続きすんすか?」

「しねえよ干からびんだろ」再び乾燥状態にエン・エスタード・セコなってしまおう。「だからてめえはこれ読んで何オーダーすっか決めろ任せっから。モンブランでもブラウニーでも好きなもん頼め」

「いきなりケーキ……あらへんやん」卓上に投げ出された品書きに目を走らせるニコニコーナ。「――あっブリュ……レ、があった」

「――で?」御子神が仕切り直した。「どこで油売り捌いてたん?」

「売ってねえよそんなん!」虚を衝かれた従士は空威張りブラバータで切り返す。「むしろカタブラ買ってたくらいだわ!」

「片ブラって何だ? 片乳だけハミ出てんの?」

「授乳用かな?」

「片プラよかマシだろがい![訳註:前々章参照?]……違うよ! こう、こう――」蜂の騎士にも況して平旦な胸の上でそれぞれの腕カダ・ブラーソを波立たせる馬場嬢。[訳註:差し詰め実際の動作は握り締めた両拳を胸の前で上下させるといったところか]「肩ヒモだけで乳を支えてる感じの――」

「もうサスペンダーだそれ」

「サスペンダーつよりスリングショットって完璧ハミってんじゃんよってか」随分と脱線した。「サンチョが油買おうが誑かされようがいいけどお前は食べるモン決まったんかよ」

[訳者補遺:西語訳では以下の通り:

「――で何イ・ケ? どの入り江に錨下ろしてたんエン・ケ・アーブラ・エスターバス・フォンデアンド?」西abra《湾》。

入り江も海底もねえよニ・アーブラ・ニ・フォンド! |むしろヤギみたいに自分のカダブラを振り回してたわ《セ・アーブラ・マス・ビエン・デ・ケ・エスターバ・オンデアンド・ミ・カダーブラ・コモ・ウナ・カーブラ》!」

各ブラって何だケ・エス・カーダ・ブラ? ブラ何枚持ち歩いてんのクアントス・ブラスィエーレス・ジェーバス?」

死体さらいフォンデアンド・エル・カダーベル……」

違うよノ・エス・エソ! こうアスィッこうアスィッ――両腕で交互に波を作って隠せばプエーデス・オクルタールラス・オンデアンド・ラス・ブラーソス・ポル・トゥールノス

それフラ踊りだセ・ジャマ・ウーラアホカブローナ」ハワイ語のhula自体、《踊り》そのものが原義。

ほぼ全部見えてるじゃんよっつかカスィ・トタルメンテ・エスターン・レベラーダス・オ・ケサンチョが入り江に留まろうがロ・ミースモ・シ・サンチョ・フォンデーア・ポル・ウナ・海底に沈もうがいいけどアーブラ・セ・ウンデ・アスタ・エル・フォンドお前は食べるモン決まったんかよアス・デシディード・ジャ・ロ・ケ・セ・コメ

 西como una cabraで《狂ったように》。サパートス脚衣パンタローネス――こちらは単数パンタローンを用いることもあるが――とは違い、椀部分コパを一対と捉えて一枚の乳押さえソステーンそのものを複数形で表すことはない為、cada braといえばそこに何枚かあるように受け取られるであろう。余談だが《呪文のcadabraとcadáverを聴き間違えられる》というのは、恐らく某巨大通販会社の社名の由来に纏わる比較的有名な挿話から得た発想だと思われる。《油を売る》という日本語自体は第二十九章でセビリアの紳士がvender el bálsamoと直訳していたのを受け、著者もほぼ同様の表現を三十四章にて借用していたが、意味の解説を挿んでいなかったこともあってかここでは敢えて語感を優先した意訳を選択したようだ]

「食べ散らかそうモンはおおむね」[訳註:「議論の余地はないでしょうノ・カブラッ・ディスクティール全て決定済みトド・エスタッ・デシディード」西caber《ぴったりと嵌る》、no cabe+動詞で《~することが出来ない》だがここでは未来形cabráが用いられている]

「じゃあ呼ん――あ飲みもん来た」

 先程の店員が発泡葡萄酒ビノ・エスプモーソの注がれた笛型の洋盃コパ・デ・フラウタと、三組の小瓶および平底の盃バーソス・コン・フォンド・プラーノを盆に乗せ現れたので、四匹の猫は卓上を空けてそれらを迎え入れた。


食事の注文を恙無く終えた四つ目が早速面前の瓶の蓋を捻るや、炭酸瓦斯ディオークスィド・デ・カルボーノの噴出音が清涼感溢れる一時を演出する。

「ささっ、わらわがドゥルシネ殿にお注ぎいたしましょうぞ」

「あ……ご丁寧にどうも」展開上、瓶詰め婦エンボテジャドーラから酌婦セルビドーラへと転職せざるを得なかったミコミコーナは、それでも女店主カンティネーラの威厳を帯びつつエル・トボソの小瓶を手に取った。

「あっずっりィ、うちにも注いでたもれ」

「何でメガネをメガミと同列に扱わなきゃならねんだよ」[訳註:《眼鏡ガーファス宝飾品ガーラスと》西galaには祝祭やそこに着て出席する為の晴れ着の意味がある]

「階級社会!……じゃあチヨさん!」久仁子が瓶を相棒の前に突き出すも、

「自分のことは自分でなさい」千代さんは既に自分の洋盃を無数の気泡インコンターブレス・ブルブーハスで満たしているのだった。

「じゃあご返杯を……」部長も(冗談でエン・ブローマ)己の小瓶を御子神の洋盃に向け傾けたが、

「おっとそこはお気持ちだけで……」慌てて手の平で蓋をするミコミコーナ。「さすがにこんなスプリッツァー見たことない」[訳註:噴出酒スプリッツァとは通常無発泡の白葡萄酒を炭酸水で割ったもの。発泡酒を炭酸水で割ってしまえば只々味や酒精が薄くなるだけ]

「いやまァ返杯ってこういうことじゃないですけど」《戻る盃コパ・デ・ブエールタ》というと単に酌を交わすだけではなく、注がれた酒を飲み干してから同じ盃を相手に渡して注し返すのが作法なのである。

「それではミコ先輩おっぱいの感度を――じゃない乾杯の音頭をお願いします」

「寄せて寄せてって爆乳音頭思い出しちゃったじゃんよ……まあそれじゃ、」笛盃フラウタタジョを抓むと、王女は目の高さまで持ち上げて中の液体を透かし見つつ以下に続けた。「アタイ今晩何時まで居座るのかまだ未定だけど、一応ハニャ様の顔見てから帰るつもりしてるからそのミサ?始まるまでは少なくとも残るかな……つうわけでサンチョ」

「はい?」

「とっととご主人様と合流するように」

「……そりゃもう、モチの輪舞曲ロンド……」今し方まで街を徘徊していたエスターバ・ロンダンド・ラ・シウダッからこその発想であろうか?「いやモーツァルトの小輪舞曲ロンディーノにございますれば」

「堂々巡りみたいな」蜂の恋人が何気なく繰り出したこのひと刺しプンターダ・デ・ウナ・アグーハはさぞかし肝の小さい従士の毛並みを逆立てたことだろう! 何せ今朝駅の銀時計前で集合してから実に八時間が経過して尚、未だ愛しきドニャ・キホーテとの再会が叶わないでいるのだから。

「まあまあプリンセス、どうどう……」彼女を窘めることが出来るのは大陸を違えるにせよ同格に列せられる己のみと、大ミコミコン王国の継承者が今一度一同の注目を惹いて盃を掲げた。「期せずして全員泡物を手にしておりますけれども」

「あわわわわ」

「――我等が麗しき泡姫さまのご健勝を心よりお慶びしますとともに、近々目覚ましき戦果を手土産にご帰還なさるであろうラ・サンチャの蜂の騎士ことドニャ・キホーテとの益々のご発展を……あと家来のサンチョとメガネもついでに末永く仲好く――」

「よっ、気が利いてるネ!」

「祝いのついでに呪いを掛けないでください」持ち上げた洋盃を搗ち合わせようと身を擦り寄せてきた相棒を巧みに避けながら、従士が苦しい弁解を物した。「主人同士が昵懇の仲っつってもその従者同士に密接な繋がりは要らんのですよ」

「いやチヨさんチヨさんクソうるせえから」

「そのチヨさんは私ではなくてヤツの想像上の友人イマジナリー・フレンドです」そんなものが見えるとすれば、ニコニコーナの眼鏡はけだし《魔法の眼鏡ガーファス・マーヒカス》に違いない。「お前前から云ってんだろ、透明人間に人の名前勝手に付けんのやめろよな」

「いやアッチは二世で君が初代ってだけだから」

「ホントに居んのかよ」

「イマジン・ゼアーズ・ノー・フレンズってジョンも歌ってた」

「それは八割方ヨーコのせいだろ……」

「炭酸抜けちゃうよ」ドゥルシネーアが苦言を呈した。

「うちにも想像上の透鏡イマジナリー・レンズを見るスキルさえあればほらチヨさん、こいつだって眼鏡枠フレームだけの料金で視力一・〇分の役割を果たしてくれたことでしょう」

「いやだったらフレームもイマジナれや……私も想像上の炎イマジナリー・フレイムで隣のメガネを焼き尽くす能力を所望いたします」

「……えっとじゃあこいつらの部分は削除して、おふたりの方はお前百までわちゃ九十九まで、共に白髪が生え――映えあるシラガネーゼにおなりあそばすまでということで」漸く中央に硝子の筒シリーンドロス・デ・ビードリオが集合する。「かんぱ――あれ、チンチンって何語だっけ?……イタリア語か」

「もうその話はいいよ!」

「チンチンはビジン語(原註:lengua de las bellas)ですよ」大した記憶力だが惜しい、それは交易語ピージンである![訳註:第十八章の、岡崎の楽屋裏でオカマ達と乾杯する件を参照のこと。cin cin/chin-chinの語源は北京語の《チィン/请qǐng》で頼む、願い出る、或いは何処かに招待する程度の意味だが、副詞的な間投詞として使えば《どうぞ~してくださいポル・ファボール》というような敬語表現に当たる。尚pidginとは使用言語の異なる両者が意思疎通の為に用いる互いの言葉の混成語のことで、英語のbusinessが訛言化ディアレクティサーダしたもの]「ご自身の美貌に驕り高ぶり酔い痴れておられるのでしたらどうぞチンチンで」

「言いづらっ……じゃあウィーニーで」

「ウィ、ウィニ~」「「ウィニー」」硝子盃が僅かな時間差を以て、一度二度と細やかに打ち鳴らされた。「ウィニーじゃなくてウィーニーな」

「あやべっ、ウィーニー三種盛り頼むの忘れた」

「来たの食べ終わってからね」しかしドゥルシネーア、胃袋の容量や財布の中身以上に時間が有限であることを貴女方は忘れるべきでないのではないか?「ウィーニーだと何か写真撮る時の掛け声みたいね」[訳註:中南米でも同じく/i:/で終わる«¡whisky!»が主流だが、西班牙では何故か《じゃがいもパタータ!》と叫ぶ伝統がある。恐らくは只口角を上げるよりも、表情筋を弛緩させより自然体で撮影することを優先した結果か]

「チーーーズは通してたよな今、三種盛り」

「うん」

「やっぱパイセンは乾杯の方が何かと説得力出る感」

「ミコパイの完璧なオッパイなら世のオスどもも完敗するでしょうしな[訳註:翻訳は《乾杯の価値はありますよカンパイ・ビエン・バーレ・ラ・ペナ、ミコーナ、その絶景なπ達はヤリたい放題ですからピス・パイサヒースティカス・カーンパン・ポル・スス・レスペートス》。原文ではtus πsと希語表記が用いられているが、これはpisと綴ると小便ピスと区別が付かないし、かといって英語発音に倣いpaisと書いたら書いたでpaís《パイース》との混同が危惧されるからであろう]」そう嘯いて、自分のペリエと同時に毛むくじゃら王女プリンセーサ・ペルーサをも持ち上げるスビール抜かりないニコニコーナ。「おお美味い……あんま味しないな」

「いや何で頼んだし!」素直に亜桜桃アセローラ排水果アサイーでも飲んでおれば良かったのだ。

「こんくらいがいっちゃん飲みやすいっちゃやすいな。シャルドネって酸味強いし」朝食の後にも記した通り、カバを含めイスパニアの発泡葡萄酒でもシャルドネ種を使用している例はある。[訳註:第二十五章冒頭を再度参照されたい。多分シャンパーニュチャンパーン等他の製品と比較してのことだろう]「えっ、フランスだと? シャンパ~イ?」

「いや言わないでしょう」しかし豊かな収穫を齎した葡萄畑ビニェードに感謝を捧げるという意味では、《沃野ブエーナ・カンパーニャ!》という掛け声ブリンディースも中々に説得力が有る。

「ドイチュ語なら《幸あれかしプロースト》」

「訊いてないよ。つかサンチョはドニャ・キホーテの子分なんだからスペイン語で云えなきゃあかんやろ」

「ドンニャはよく《エスパーニャ!》って叫んでましたが」

「それは国名だろ……」恐らく《イスパニア万歳ビバ・エスパーニャ!》のことであろう。[訳註:他に何度か《新大陸ヌエーバ・エスパーニャ!》という叫号も発している]「お前ならともかくスペイン人全員がそんな猫が超能力者発見したみたいに叫んでたら嫌だわ」

「猫は叫ばんだろ」

「サルーとかサルーテってのは健康ですよね」

「不健康な猿とておりましょう」

「ああなるほど、さすが健康のためなら死ねる連中は乾杯の時も言うことが違うね」いや王女よ、その手の論理矛盾コントラディクシオーン・ローヒカは大西洋の向こう側に住む《自由の為に死にたい連中アケージョス・ケ・キエレン・モリール・ポル・ラ・リベルタッ》(或いは《汎ゆる殺戮の自由を自ら付与した連中アケージョス・ケ・セ・アン・リベラード・デ・トダ・マターンサ》)の専売特許であり[訳註:合州国同様――一般には内戦と訳される――《市民戦争ゲーラ・シビール》を経験済みのイスパニア人が米国人を揶揄する場合、それは勝ち獲るべき権利というよりは形骸化し概念として迷走する幻影を指しているのだと思われる。加えて欧州各国からすれば米国など肥満社会の不健康大国に過ぎず、同列に扱われては心外だという意識もあろう]、我等の健康は古来より地中海の恵みと午睡の伝統に依り培われてきた賜り物だ!「じゃあサリューってのも健康か」

「サリュっていうと挨拶のイメージですけど、健康の意味もあるのかな」[訳註:西語のsalud《健康》とsaludo《挨拶》も元を辿ればラティン語のsalūsで同様の意味があった。出会った相手に「元気?」「最近どう?」と訊ねることには何ら疑問も湧くまい]

「メガネザリュが急に静かなんだけど」ミコミコーナは対角線上の座席から正面へと視線を戻す。「まァ健康っつうか、長旅の道中安全だったのはえがったね」

「オッサンですな![訳註:第十八章の「乾杯オサスーナ!」を参照されたい]」後ろ暗いところアルゴ・ソラパードのある千代は話題を逸らさんとしてか、貴人たちの遣り取りを遮るような形で応答した。

「誰がだよ。おっさんこそ成人病とか、生活習慣病のドンキホーテだろ」読者諸兄には沼津の殿堂にて耳にした《何でも揃う便利なドンキホーテプエーデス・オブテネール・トド・ロ・ケ・キエーラス・エン・ドン・キホーテ・コンビニエーンテ》なる有名な文句[訳註:第八章に類似する英語の一節あり]を思い出していただこう。中年男性オンブレス・デ・メディアーナ・エダッといえばまさに不摂生の殿堂サントゥアーリオ・デ・ビダ・ダニィーナ万病の宝庫テソレリーア・デ・ミーレス・デ・エンフェルメダーデスだが、だからこそ酒を酌み交わす度に健康を祈願する必要に迫られているとも斟酌できるのではないか?「こっちのオッサンチョは静岡で見た時より若干引き締まっちゃってるみたいだけど……我々が愛したあの、いかにもリアル中坊っぽいリアルなぽっこりイカ腹はもう帰ってこないのね」

「何がリアルだよ目の前にいてバーチャルだったらその方が怖いわ――って抓むなおい!」

「さァ次何行こ、最初に何持ってくっかにもよ――」

「爆乳音頭あった!」

「ここで再生すんなよ」何ともそれ[訳註:《爆発的乳房の歌と踊りカンテ・イ・バイレ・デ・ラス・テータス・エクスプロスィーバス》]は実在する楽曲だったようで、馬場嬢は検索ブースケダに依り探り当てたのだとみえる。

「じゃあイヤホンで聴く……あっそうだ忘れてた」

「オッサンすな……」朧気な記憶を手繰り寄せる千代さん。白い奴等ロス・ブランコス青と暗紅色ブラウグラーナといった超大型蹴球団クールベス・デ・フートボル・メガヒガーンテスならまだしも、敢えて赤っぽい団体エキーポ・ロヒージョを連想する者などこの場には誰一人としていなかったのだった。[訳註:順に蹴球連盟一部プリメーラ・ディビスィオーンのレアル・マドリード、FCバルセロナ、CAオサスナの愛称。オサスナはバスク州とフランス国境に面するナバーラ州パンプローナの職業蹴球団体で、定期的に二部に降格する]「オサワリ……すな?」

「よろしければ次頼む繋ぎで」

「おっ、畏れ入ります……」小瓶の残りを空いた笛型に注いでもらう御子神。「いやあお姉さん肌キレイね」

「お触りは禁止ですけど」

「そんな……ほんの先っぽだけだから」

「何のですか」

「あったパイオツ!」

「お待たせいたしましたこちらお先にマグロとアボカドのタルタル、それからチーズの三種盛りになりまーす」

 店員が丁度好い頃合いを見計らって料理を運んできてくれたおかげで、ミコミコーナもこれ以上の痴態を晒すことなく居住まいを正すことが出来たのである。


猫の従士が長い首を伸ばす。

「やったーミコ姫さま枝豆入ってますよ?」

「耳付いてんのかお前。もうね、アボかと」王女は飲み物の品書きを広げた。「アフォガード……はないか。あっじゃあすみません、アロマ――いやちょっと待って、赤ワインの味噌煮込みってあったな……後にしよう、ミラモンテのグラスお願いします」

「ミラモンテの白、かしこまりました他にお飲み物お食事よろしいですか?」

「私まだ大丈夫です」

「アサイースカッシュ」

「まだいいです」

「……かしこまりました以上でよろしいですか?」

「あと何だっけ?」御子神がニコニコーナを横目で睨んで、「――何つったスパイシー……違うスパイッシュオムレツ?」

「えっうち? 頼みたきゃどうぞ?」覗き込んで、「あったかそんなん?」

「じゃあパィ――エリアとか……また後で追加します」

「かしこまりましたでは空いたボトルとグラスお下げしま~す」

「は~い」ガチャガチャチンチンカチャカチャティンティン

「それではもう少々お待ちくださいませごゆっくりどうぞー」

「は~い」厨房コシーナへと下がる店員を見送りながら王女は嘆息した。「マジ勘弁しろなもう」

「パイアツならアップルパイっぽくないですか」千代が卓上に品書きを立てて甘味の項を閲覧する。「アップルパイも無いか」

「それも流すなよここでは。出禁になんぞ……」

「いやでも曲名とかそんな色物じゃないっすよ」馬場嬢は自分の携帯の液晶に表示された文字を順々に読み上げた。「……あでも『おっぱいボール』って自主映画っぽいのが」

「エロ物じゃねえか。何だそれ『おっぱいバレー』とは違うのか?」

「ちょい待って」久仁子は動画を無音で再生すると、備え付けの紙布巾セルビジェータス・デ・パペールを一枚引き抜いて手元に敷いた。「ペンペン……これが、――《パイオツ》でしょ?」[訳註:地元名古屋を中心に活動するV系楽隊バンダ・ビスアール=ケイ《π乙。》が初めて話題に上ったのも第三十二章、地下鉄を下りて名古屋城の外堀を渡った辺りのことであった]

「お前それアイライナーだろ」

「ババちゃん何でπの最後無駄に跳ねちゃってて」日本語の漢字や仮名文字には、取り分け毛筆を用いる書道カリグラフィーア・コン・ピンセールに於いて三つの重要な筆運びトレス・トラーソス・エセンシアーレス――則ちtome《停止パラーダ》、hane《湾曲ガンチョ》、harai《一掃バリード》――があることを憶えておこう。「乙の方は跳ねさせないの……これじゃパイオツじゃなくてコツゼットだよ」[訳註:《兀Z》?]

「コルセット?」馬場嬢の相槌に思わず天井――何階分突き抜けようと、彼女の一張羅が眠っているのはもう少し北側の一室になろうが――を見上げる猫の従士。「ああオッパイ締めるから?……えっでもこのπも結構勢いよく跳ね上がってますぜ?」

「やそれは隣の乙に合わせてるからで――」

「何の授業だよ」傍らで繰り広げられる不毛な講義を脇目に、ミコが置かれて間もない皿へと早速手を伸ばす。新しい酒はまだ届いておらぬ。「牛すじと後はアヒージョかなあ……オカマン(原註:Ocaman=O-Camembert)はいいけどゴルゴンだとやっぱ赤のが合うよね」

「えっゴルゴン?」――つまりはアイギスの胸当て(ペチェーラ)?[訳註:第八章参照]「……アテネの――ニュンパイ?を護るんでしたっけ?」

「何云ってんの?」

「……部長これ《カイデー》はどうしましょうかね?」空の盃をもう一度煽ってから、ニコニコーナが腕組みして重々しく唸った。「対称性シンメトリー狙うならやっぱし《回る》に《出る》?」

「パイに合わせるんならこんなのでもいいんじゃない?」

「何何……バツ? 乳にダメ出しすか」逆様になった紙布巾を元に戻し目を凝らす。「……あっ違うエックスか。Xデー? これ何すか、ガーンの口でしょ?」

「カイとデー……こっちはギリシャ文字じゃないけど」[訳註:《ΧД/χд》?]

「ああこれ《デー》って読むんだ……《デーッ!》て叫んでる口だったんね」

「だから何をやってんの君ら?」

「あっそれカビ生えてんじゃないすか」

「うっるせえよてめえで頼んだんだろ!」ミコミコーナがこちらはイスパニア選抜の襯衣カミセータ・デ・ラ・セレクシオーン・エスパニョーラが如き色合い[訳註:国際試合で着用されてきた歴代の統一服ウニフォールメは、原則として赤字に黄色の線が入った意匠が多い。鮪の赤身と鰐梨アボカドの中身?]の――いや、枝豆と見間違えたのであれば小海老国カメルーンか?――料理を乗せたもう一枚の皿をニコの前へと押しやった。「そんなにヨシキが好きならこいつをXに四等分でもしてれ」

「よしきた」金物入れセースタ・パラ・クビエールトスから食刀と肉刺しを取り出すと、恰もこの酒場の紋章を模するかのようにそれらを交差して自身の意気込みを如実に表すのだった。「フォエバラー」

「ババちゃん取り皿」

「サンチョとハナちゃんもあんな感じ?」

「何が?」

「東京からこっち来るまで留年防止で勉強教えてもらってたんしょ?」

「あれ、そんな話してました……?」千佳夫人を通して馬場久仁子には粗方筒抜けなのだから、最早恥も外聞も捨て去るよりない。「もう少し実のあるというか、テストに出ることしか教わってないと思うが」

「カルテットでけた……これカルパッチョってヤツ?」

「カルパッチョも生だけど、こんな微塵切りみたくはしないでしょ」

「あっじゃあガスパッチョ!――ガス爆パンツ・サンチョ!」[訳註:《瓦斯入りコン・ガス太鼓腹パンソーンサンチョのデ・サンチョ》]

「自分のおならに引火して爆死したみたく言うなよ」

「ガスパチョは微塵切りにするけどあれは野菜だしスープね、ビシソワーズみたいな冷たい……はいソースも」

「まァパイオツ相手じゃ秀才も中二も出番なしか……ねえお姫さんパイオースって女神さまいなかったっけ?」

「パイオース……ペオースですかね?」後輩の介添えをしていたエル・トボソが今度は食器を並べながら答えた。「女神というかフサルク――あの、昔の北欧の神秘ルーン文字で(原註:ᛈ : peorð)……あ、ミコさん」

「あんがと……」取り分けられた韃靼風マグロアトゥーン・タールタロを受け取りつつ、「レンちょん?」

「はい」

「ちゃんと学校の勉強もしてる?」

「え、何で?」

「ミラモンテお待たせいたしましたー」

「あ、どうも」

「部長ギターとベースとドラムとキーボードならどれ出来ますか?」

「ちょっちょっ一度に色々訊かないでよ……チヨちゃん」

「あ、いただきます」

「バブ姫はおうちにストラディバリウスあるんでしょ?」

「ストランドバーグもスタンウェイもありません」王女プリンセーサ売女プティージャ牝仔犬ペリータも自在に演じ分ける安藤さんとて、一旦舞台を下りれば一介の第三身分の女子高生コレヒアーラ・デル・テールセロ・エスタードに過ぎないのだ。「そんなもん秘かに愉しめるほどブルジョワジーじゃないですて」

「まあでもピアノ弾けるし大丈夫か……ミコさんは? レスポールとか持ってる?」

「何が? レスポールもサンポールも使ってないぞ」

「マダムサンポールといえば鉄のコルセットざんす」

「いやうちマジックリンだから」

「ニコラスピアノなんか弾けたっけ?」

「それは部長。うちはホラ、リコーダー三段まで取ってるから」

「平均以下で挫折してるじゃねえか……」《記録する物レコルデール》とは練習用の楽器インストゥルメント・パラ・プラクティカールを意味し、要するに甘い縦笛フラウタ・ドゥールセのことだ。「――あっ小学校の頃の話です」

「いやだからカイデーのバンド編成をさ……」

「対抗意識燃やすな!」音節毎に逆さ読みするとスィ・セ・レーエ・アル・レベース・エン・カダ・スィーラバ、tetaを意味する単語oppaiつまりots-paiがpai-ots(u)となる旨は名古屋城で述べた。dekaiがgrande(より近い語感ではgrandote)であるから、«pai-ots kai-dé»とは大巨な房乳ノセ・デーグランを指す――主に品位に欠ける若者がお巫山戯で使う類の[訳註:寧ろ中年以上の世代では?]――隠語というわけだ。「何でVギャがけいおんブームを引き摺ってんだよ?」

「いやだからごはんはおかずにしませんて」

「そいやカイデーで思い出したけどデカイパーって何の会社だっけ?」

「でかいパイってつまりデカパイ? デザートじゃなくてオカズ系のパイ?」

「パイは三・一四だから……四・二五くらいじゃね?」

「デカは十倍ってことだし約三十一・四ってことなんじゃないの?」

「デカイパーだってば。姫までアホどもに付き合わんでいいよ」

「デカイパー……デカイパー、あっリキュールか何かのブランドじゃないですか?」

「ああそうだそうだカクテルとかに使うヤツか――ってだから何で知ってんの?」

「いやまァたまにカフェのカウンターとかにも並んでますし」上半身を捻って厨房を顧みる甘味姫。「ほらあんな感じで」

「あホントだ」釣られて身を捩るギネア王女。「――いや目に入っても興味なかったら憶えんでしょ普通……一体どんな風に脳みそお使いで~」

「そもそもカイデーなのがこん中で正味一名様しかおらんのだが」この四人編成クアルテートの中で?――千代は補足した。「……ドニャ・キホーテを含めたら尚更だべ」

「まァJAROは怖いし?」だがそれを言うなら本家のパイオツとて男所帯だし、豊かな乳房など――おっぱいの仕事ブーブ・ジョブ[訳註:豊胸治療アウメント・デ・セーノスを指す英語]や女性化化学療法テラーピア・オルモナール・デ・フェミニサシオーンでも受けておらぬ限り――到底望めまい。そもそも《房乳ノーセス》の付かぬ只の《大巨テヒーガン》ならば、大きいのが胸である必要もないのである。「看板男フロントマンは――ウーマン?はミコさんに譲るけど」

「タシにホテルの受付とか務まらんと思うけど」それ[訳註:《受付レセプシオニースタ》]は正面受付嬢フロント・デスク・レイディだが、ミコミコーナは適当にあしらいながらも以下に続けた。「ああ、カラオケで時間潰しても良かったな今更だけど……汗だくで散策するよか」

「超歌上手そう」

「意外とド演歌ばっか歌ってそう」

「何でよ」

「いやコブシを回すテクニックが」これを聞いたホセ・ミコンドーサが腰を浮かせ、右肘を引きながら拳骨を捻る。「――どうどう! ここはリングの上じゃないぜ!」

「ワイン好きだしコークスクリューだってそりゃもうお手のモンだぜ……まァそこまで歌わんけど、そいや前に『天城越え』で九十九点採ったことはあんな」

「じゃあ『喘ぎ声』歌ったら百点イクんじゃないすか?」

「ねえよそんな曲、ガンズのアルバムかよ」女王違いであるエス・ラ・レーイナ・エキボカーダ[訳註:一九八七年に発表された初音盤『破壊への欲求』内の最終曲の曲名が«Rocket Queen»]。次いで薔薇姫プリンセス・ローゼズの肩を引き寄せ、「そもそも組むなら姫とふたりでそれこそプリンセスプリンセスでもやるわ」

「そして今度はJASRACが怖い?」

「いやもっとさ、オルタナとかそういう路線の」

「言いたいだけだろオルタナて……あんまギャルバン知んねんだが」代替の女性集団バンダ・フェメニーナ・アルテルナティーバ……つまり代えの利くススティトゥトーリア?[訳註:明らかに主人の捜索を怠って新しい集団に溶け込んでいる千代を皮肉った表現だが、西alternativoには《伝統に囚われない》の意味も]「君と夏の終わりがどうたらって何てバンドだっけ?」

「井上陽水だろ。小坊ん時何かで歌わされたわ」

「いや絶対違うだろ。パフィーじゃねんだぞ」

「まァ俺らはギャバンじゃなくてバンギャだしな……つって!」

「いやギャバンっての初めて聴くわ……それギャルどころか《男、男って何だ?》だかんな」ギネアの姫君もエル・トボソに負けず劣らず存外渋い趣味であるようだ。[訳註:筆者は仏俳優のジャン・ギャバンを指しているようだが、御子神が言及したのは八〇年代前半に放送された日本の子供向け特撮番組の主人公のこと]「あっそだそだ、男といえばNANA中毒の患者は『バキ』とか『カイジ』を読むと自然治癒するらしいよ姫」

「だから中毒じゃなくてニワカなので『バキ』も『カイジ』も結構ですけど、そもそも『NANA』に出てくるのだってどっちもボーカルが女の子ってだけでガールズバンドじゃないでしょ?」

「そうか、そうだな」

「てか《男、男って何だ?》って何だよ……ギャルバン何処行った?」

「だから詳しくねんだって……何だろ、ガチャピンとかスキャちゃんみたいな?」

「あいつバンドもやってたのかよ!……てかムックとのコンビは解消されたんか」ガチャピン(貴族気取り野郎ガチュピーンではない[訳注:西gachupínとは本国では貧しくさしたる称号も持たないくせに、移り住んだ先の新大陸にて高貴な生まれを自称し傲岸不遜に振る舞ったイスパニア人を指す蔑称で、広義には植民地で生まれた彼らの子孫も含まれた。語源はイベリア半島北部に実在した貴族の家名Cachopínと葡語のcachopo《少年/奴》の混交か])といえばフランコの右腕[訳註:カレーロ・]ブランコが爆殺された年に放送を開始した幼児向け番組に出演する緑色の恐竜――二足歩行し人語も解するが、一説には剣竜類エステゴサーウリドの変異種とされる――で、弱視アンブリオピーアないし眼瞼下垂プトースィス気味の眠そうな両目からは想像も付かぬほどに活動的な生物クリアトゥーラ・アクティーバなのだと謂う。ムックとは彼の相棒、こちらは逆に目玉を過剰に露出させた赤い雪男イェーティ・ロホ・コン・ロス・オーホス・ソブレサルトーネスである。エダマメとマグロ!「……音楽性の違いか?」

「俺はピンでやる――てそのガチャピンじゃねんだよ!」《扉の取っ手が自転ガチャリックスピン》と《醜聞スキャンダル》は二〇一〇年代の日本を代表する女性のみの揺転楽隊バンダス・デ・ロク・フェメニーナスで、欧州含め海外での知名度が高い。そも九〇年代に隆盛を極めたV系を始めとする華美揺転寄りの楽隊人気ポプラリダッ・デ・ラス・バンダス・セルカーナス・アル・グラムロクとて、国内でとなると今や下火であることに疑いはないのだ。「いやムックはムックで別に居るけども」[訳註:但し実在するV系楽隊のムックの欧字表記ははMUKKUではなくMUCC]

「こ、こりゃ十連ガチャ引いてる場合じゃねえぜ……いやだから、ミコさんバンメって知りません?」

「貴様がメイドコス着て人前出て許されっと思ってんの?」

「レ、レイヤーの口から出たとは思えんあるまじき人種差別的発言!」楽隊女中バンドメイドとはその名の通り、構成員の皆がカワイイ家政婦の衣裳を着てエン・トラーヘ・デ・ムカーマ・カワイイ[訳註:西mucamaはポルトゥガル語由来で女中スィルビエーンタのこと。共に英語のhandmaidに相当する]激揺的かつ重金属的な演奏アクトゥアシオーン・デ・ロク・ドゥーラ・イ・メタル・ペサードを披露することで知られる。「――あ、バンメで思い出したけどチヨさん?」

「んあ?」雑談には加わらず、取り分けられた韃靼風の皿を左手に、それから肉刺しを持った右手の肘を背凭れに乗せて薄ぼんやりと窓外を眺めていた従士は、突然名前を呼ばれたものだから首だけ捩じり、気の抜けた鼻声を以て答えた。

聖夜弥撒ヴァイナハミサの時買ってた絆創膏持ってきてる?」

「バンドエイドは登録商標だぞ」そして数十年前に英蘭で多数の音楽家たちの連合に依り結成された慈善企画プロジェークト・デ・カリダッの名称でもある。「何を売ってるんだアマデ物販、ライブで負傷者続出すんの?」

「……なんで?」

「いや今日こんな歩くと思ってなかったからさあ、踵が」椅子に座ったままで片足を持ち上げるミコミコーナ。[訳註:ニコニコーナの間違い。ふたつ前の発言が御子神嬢のもの]

「いや見せんでいい」

「剥けちゃった?」面倒見の好いドゥルシネーアが身を乗り出した。

「いやまだそこまではなんですけど、擦れて微妙に痛いので」

「き、貴様閣下を足蹴にする気?」

「って別にメンの顔はプリントされてねーべや」人相が分かるほどの解像度となると、小さな絆創膏に施すにはかなりの印刷技術と費用が必要となろう。図案化された楽隊名の紋章ブラソーン・デル・ノンブレ・デ・ラ・バンダ・ディセニャードを貼り付けるのがせいぜいとみた。「持ち歩いてるっしょどうせ?」

「え、あ、うん?」

「何個入りだったか忘れたけど一枚おくれ」

「アレは……セットのお値段で持ってないと、ご利益が」

「何枚でいくら?」[訳註:御子神嬢はそれが適正価格なのか興味を持ったのだろう]

 この旅には携えていない、若しくは自身の靴擦れ治療の為にパラ・クラール・ラス・アンポージャス・デ・ス・タローン全て使い切ってしまったと答えるべきところだ。けだし従者の頭には、あの忌まわしき峠にてドニャ・キホーテの掌を負傷させた危機一髪の冒険アベントゥーラ・ポル・ウン・ペロ――というのも《散髪の冒険ラ・デ・ロス・ペーロス》の方は彼女の知るところではなかったので――がよぎったのに違いないのである。[訳註:第十六章参照。恐らくここで完品でない絆創膏を取り出してしまうと、欠けた一枚は何に使用したのかを問い質される展開が予想されたので、そこから軽傷とはいえ花に怪我をさせてしまったことが露見するのではないかと千代さんが危惧したのだろうという推測に基づく。因みに西por un peloは通常《髪の毛一本の差で逃げ切るエスカパール・ポル・ウン・ペロ》のような副詞的表現に用いる]

話題を打ち切ろうと千代さんが視線を街路へと戻したその時だった。


――ガチャピン![訳註:これまで例えば自転車が倒れ路面に打ち付けられる金属音ガチャン!は一貫して«¡clonc!»と音写――日本語の音を忠実に反映させる意志がない以上、この場合はtranscripción《音声転写》よりもtransliteración《翻字》と呼ぶ方がまだ近しいか――されていたが、ここでは文脈に沿って«¡gachapín»と書かれている。因みに西語の形容詞gachoとchapínにはそれぞれ《腰の曲がった》《内反膝/O脚の》という意味があるので、不格好または不均衡な状態を連想する響きかもしれない]

「ちょっ!」ガタリクレック……思わず右手の肉刺しを取り落した従士は、一拍遅れて椅子から立ち上がった。「――った!」[訳註:卓の角で太腿でも打ったか?]

「おい、こぼすぞ!」

「タルタル垂るるぞっ」傾いた左手の皿を支えてその水平を保ってやる馬場嬢。

「……どうしたの?」

「いや――なんでも」千代は皿を卓上に戻すと、目を閉じて眉間の下を揉みほぐした。「人違いです……おっとフォーク」

「あっお預かりしまーす」

「すみません」駆け付けた店員に落ちた肉刺しを渡す。「一瞬似たカッコしたモデル体型が歩いてたように見えたもんで……みらもんて」

「ミラノじゃあんめえし名古屋じゃモデル体型そんなに歩いとらんと思うぞ」ミラモンテやミルモンでもそう多くはあるまい。[訳註:Miremontはフランス国内に同名の自治体コミューンが複数ある。一方、御子神が試飲中のMiramonteは南米チレ中央部バジェ・セントラールで生産される葡萄酒だが、これは飽くまで銘柄名であり特定の地名ではない。意味は《山の見える場所ルガール・コン・ビースタ・ア・ロス・モーンテス》、多分アンデス主脈と太平洋沿岸の海岸山脈に挟まれた谷間バジェが生産地であることに由来するのだろう]「ミラノにドニャキと似たカッコして歩ってるモデルが居るかは謎だが」

「今現在イケメン武将どもなら多少は闊歩してるだろうけどな!」

「――アレ、あの人」

「ん?」

「いや違うか」

「何だよ」

「はあああ」北部とはいえ彼の美しい国イル・ベル・パエーゼとてそう涼しくもあるまい。獣蛇ビショーネ退治を果たさんが為と、重い甲冑着込んで真夏の古都を練り歩く三英傑ロス・トレス・エーロエス[訳註:第三十二章で出会った名古屋城東門の門番の言を信ずるなら、この日信長・秀吉・家康はミラノ万博に出張中]に代わり、薄着の千代は固い椅子に身を沈めた。

「お疲れだね……ご苦労さま」安藤さんはそう言って天の配剤プロビデーンシア・デ・ディオースに依り多血な騎士カバジェーラ・サンギーネアの世話を仰せつかってしまった従者の艱難辛苦を労うや、新しい肉刺しをその取り皿に乗せてやってからそのまま徐ろに席を立つ。「失礼してちょっとお手洗いに」

「部長姫、うちもお供しやすぜ」

「ババちゃんはさっきお店入った時に行ったばっかでしょう?」猫の従士が己の尻尾を追い掛けるが如く、城壁の周囲をグルグルと周っていた時分のことである。

「いやほらちょっとでも溜まると……さっき言ってた、何だっけ?」ニコは音を立てて排水果水を啜りながら、「――タマリン?に発酵しちゃうから」

「タマリンじゃお猿さんだよ」尿仔猿のメスタマリーナ・デ・オリーナ?[訳註:植物のtamarindoと動物のtamarínの語源はそれぞれアラブ語および南米トゥピ語族とされる]「タマリンド」

「リンド――に発酵しちゃうから」

「発酵すんならたまり醤油だろうよ」日本の醤油には三種があり、それらは《暗い口ボカ・オスクーラ》と《明るい口ラ・クラーラ》――色が薄いだけで塩分濃度は他の物より高い――、そして《溜まりラ・タマーリ》に分類される。タマリとは貯蓄アオーロスのことで、小麦は使わずに大豆のみで発酵させ絞り出したそれは旨味ウマーミ豊かな風味サボール・リコ)に満ちているのだと謂う。尤もそんなものが自身の下腹アブドーメン・バホから排出されたとすればそれは血尿以上の衝撃であろう。「つかあんま溜めずにトイレばっか行ってっと膀胱が縮んで溜められる容量減ってくらしいぞ(原註:過活動膀胱症スィーンドロメ・デ・ベヒーガ・イペラクティーバのこと)」

「やだ奥さん、都市伝説でしょ?」

「知ってる、メモリー効果ってヤツやね」憶える能力カパシダッ・デ・メモリサールより思い出す能力ラ・デ・レコルダール[訳註:《暗記力より記憶力》? 試験勉強には弱いくせにどうでもいい事象だけはよく憶えていることから]に長けた従者がなけなしの知識をひけらかす。

「それもうガラケーすら普及する以前の電池の話だろ」それこそニカド電池バテリーア・デ・ニーケル=カードミオが主流だった時代である。ミコミコーナはそう言いながら隣席の洋盃の脚をそれとなく抓むと――というのも三人が益体もない会話を交わしている間に、常識的な淑女であれば当然そうする如くエル・トボソは化粧室へと向かってしまっていたからなのだが――、さも自分の飲み物であるかのようにくっと煽った。

「おい!」

「注ぎ足す[訳註:継ぎ足す]なら全部飲み切ってからにしないと」炭酸水の小瓶を手に取るなり、残っていたのとほぼ同量を注ぎ直して隠蔽工作コルティーナ・デ・ウモ[訳註:原義は煙幕]を完了する王女。「――ぬるくなっちゃうでしょ?」

「新しいグラス持ってきてもらおう」

「いやタシそんな口内に悪玉菌飼ってないと思うんだけど……」《間接接吻ベソ・インディレークト》という概念は(恐らく慢動画愛好家アニメーフィロでもない限り)我々には余り馴染みがないが、これは食器を共有して食事したり他人の食べ掛けを口にすることで体験できる擬似的な口付けセウド=ベサールセである。これには神道の《穢れ》――不浄インプレーサ――に由来する感覚が多分に影響していると思われる一方、飽くまで衛生上の生理的嫌悪アンティパティーア・インスティンティーバ・デ・イヒエーネではなく思春期のときめきパルパティシオーネス・エン・アドレセーンテス性的昂揚エクシタシオーン・セクスアールを問題としている点にも等しく留意せねばなるまい。《片想い中の級友の縦笛を舐めるラメール・ラ・フラウタ・ドゥルセ・デ・ス・アモール・ノ・コレスポンディード》という奇行とて――実際に甘い味がするわけでもないのに![訳註:学校で使う教育用の縦笛を西語で《甘やかな笛フラウタ・ドゥールセ》と呼ぶのは勿論音色のことを指している]――子供時代だからこそ看過される変態行為コンドゥークタ・ペルベルティーダに過ぎないのだ。

「代わりにその外にぶら下げてるでかいのふたつが悪玉なのでは?」

「こ、このパイオーツ・カブ・レズビアンが!」

「誰がカリビアンドットコムやねん」密林商業団体アマソーン・プント・コムのようなものだろう。「女子校ノリの連れション動画とかどこに需要があるよ」

「連れションは共学でもすんでしょ」日本人が海外で団体旅行に参加する際、強盗や掏摸すりを警戒した旅行会社の添乗員が観光客たちを複数人ずつまとめ、順々に訪問先の共用便所との間を往復させるといった例はあるが、勿論ここでいう《連れ小便ピス・アコンパニャード》までもが校内の治安問題に起因する習慣というわけではない(そして彼女ら自身、これは集団意識イデンティダッ・コレクティーバの強い日本の女学生特有の文化なのだと自認している)。尚、男子にこの傾向が薄い件については我々欧州人と異同がないものの、《友人が使っている隣の小便器ウリナーリオは使用しない》《用を足している間は話し掛けない》等の暗黙の了解アプロバシオーン・ターシタ(或いは紳士協定パークト・エントレ・カバジェーロス)に関しては例外らしく、殊更に顕著とも言えぬ――という話は以前知り合いの日本人から直接聴いた記憶がある。「てめえが溜まってないからって鏡ん前で溜まんなよとはいっつも思いますけども」

「玉が無いから溜まらない……とな?」

「あっカガミさん……いないわ、てか動画に撮んな」別の派閥の女子チカ・デ・オートラ・カマリージャと化粧室に連れ立った現場を盗撮し、脅迫のネタチャンターヘに使うとか?「まァそんじゃおしっこ我慢すればするほど膀胱に溜められる容積というか目盛り?を水増しできる効果があるというこっちゃな」

「いやまその話もお前の膀胱もこれ以上膨らませんでいいけどさ、」己の変態行為が中学生たちの記憶の中で最早充分に希釈されたのを見てとったミコミコーナは、公共の場での下世話な話題を早々に打ち切って以下に続けた。「結局サンチョのメモリアル効果は充電してこなかったの?」

「あ?――ああ、そこまで古かないですけど。つか部屋戻ってないし」従士は荷物を弄って携帯電話を取り出す。「……切れてーら」

 液晶画面を擦ろうが起動用釦ボトーン・デ・エンセンディード長押しマンテンガ・プレスィオナードしようが、千代の携帯は四角い深淵からこちらを覗くばかりであった。


数秒間の沈黙の後、王女が溜息混じりに口を開く。

「……いや、フロントから掛かってくんのお前の番号宛だろ」薔薇園前の手洗いで御子神からの電話を取ってからこれまでの間にもし騎士帰還の報があったとしても、宿の受付従業員には知らせる手立てがなかったことになる。[訳註:勿論その十分間超の間のどの時点で電池が切れたかについては不明である]

「ったくチカさんが謎の電話してくるから……」清正像の前を歩いていた時点で既に残り百分の十五の表示だったのだから[訳註:第三十二章終盤を参照。あれから二時間超経過している]、仮令あの電話がなくとも遅かれ早かれ端末は沈黙していたであろう。「ニコ助さんや、電源のアダプダって持ってる?」

「ニコ助さん持っとるけどチヨさんのとそれ――穴?合うの?」

「えっアイポンしょ?」

「コネクタの規格が変わってんだよ」ミコミコーナが註釈を加えた。「タッチID付いてないってこた4か5の中間くらいってことだべ?」

「それどっか書いてます?」魔法の蝋版の裏表を吟味する千代さん。

「だからお前突っ込む穴が全然横にでかいだろ!」王女が手を伸ばし、端末の上下を逆さまにした。「もちっと自分の所有物に興味持てや、骨董品やぞ」

「年代物つっても所詮は親のお古なもんでイマイチ愛着がね……」その割に岡崎での狼狽ぶりは目を覆うばかりだったではないか?[訳註:第十九章では携帯を紛失した千代が放心する場面があるが、機械本体に愛着がなくともその中に収められた情報に価値がないわけではないし、何よりアマデウスの電子招待状は端末なくしては提示できないのだ]「あっれ~フロントが貸してくれたヤツは使えたんだけど」

「まァメガネのが使えたところでこんなとこでコンセント繋がれても困るんだけど」

「やっぱ飯食い終わったら一旦部屋戻って充電せんとあかんか……」

「いいじゃん、どうせハコ行く直前に着替えたり顔作ったりすんしょ?」折しも携帯と再会した昨朝そこに腹を通して以降デスデ・ケ・アビーア・メティード・ラ・バリーガ・エン・エソ、件の《アベンセラーヘ》は台車付き鞄トローリの中で眠ったままである。「また一回外出るにしてもさ、ホテルの人にはうちら誰かの番号教えてチヨさんのポンは電源繋いだまんま部屋に置きっぱにしとけば?」

「ああ」

「つか今上がって繋いできたら? ダッシュで行けば五六分で戻ってこれんべ」昨晩貸与された充電器は未返却のまま室内の枕元に置かれている筈だから、費やされる時間は十三階の客室との往復のみだ。「ついでにロビーの人に伝言とか、連絡先の変更伝えてこいな」

「それはいいすけど、五六分ダッシュとか軽くマラソンじゃねえですか……」別段走る必然性はない。

「しゃあないなじゃあニコさんが連れソンしてしんぜようじゃまいか」

「なんソレ? 連れなきゃソンソン?」

「だってもう六時までにここ出てハコ向かってなきゃ間に合わねえだろ。二三十分とか中途半端に充電してミサの途中でまた切れたら面倒じゃん」完全放電デスカールガ・ポル・コンプレートから満充電レカールガ・コンプレータまでには恐らく二時間以上を要するであろう。限度いっぱいでないにせよ憂いが少ないに越したことはない。そもそも現在最も流通している鉱石電池バテリーア・デ・リーティオ過充電ソブレカールガ過放電ソブレデスカールガこそその寿命を早めるというから、ニカド電池とは対照的に寧ろ八分方で充電を中断するのが良いとされる。[訳註:つまり満充電の回避と小忠実こまめな継ぎ足し充電が推奨されている]「待ってっからふたりで行ってきな」

「ガキどもの居ぬ間に釣らなきゃソンソンという心の声が聴こえた」《釣るペスカール》というのは無論甘い水の魚ペス・デ・アーグア・ドゥールセ[訳註:淡水魚。再び第十五章の訳註を思い出されたい]のことに相違ない! 彼女は真実両性愛者ビセクスアールなのだろうか?「ご同行願うならミコミコーナ殿下にお頼み申しましょう」

「「つ、つれない!」」

「ハモるなよ」ハモアモとはウナギに似た塩っぱい水の魚ペス・デ・アーグア・サラーダ[訳註:海水魚。《合唱するアルモニサール》に対し、第一音節のrを落として「ハモるなよノ・アモニセーイス!」]である。「最前我らが目撃したわいせつ行為とて、ドゥルシネア様なら嫌な顔は淑やかなる仮面にひた隠し表向き苦笑いする程度に留められるでしょうが、さてこの所業がひとたび我があるじの耳に入ったとすれば、果たして憎きフィンランドのパンダを退治するその前に、依頼者ご本人の方がパンダ顔にされる未来こそ目に浮かぶやうではありませぬか?」

「猥褻て……乙女の戯れだろ。お前さんホントご主人の語り口に似てきたな」ちょっとした悪巫山戯が随分と高く付いたものである。「ラ・サンチャの騎士には言わずもがな、念の為バブ姫さまにも内密にするように……」

「花とお菓子が揃ってて蜜が無いとはこれ如何に!」

「片手にハナ様のつもりが期せずして両手に花束のチャンス到来したってのに、その花束ご両名にそっぽ向かれて最終的に両手にお前らじゃ、わざわざ名古屋くんだりまで電車乗り継いできた甲斐がないからな」

「両手に雑草でも生やしたらよろしいかと」

「草生える!」風に戦ぐ草原の音が爆笑の波カルカハーダ・コモ・ウナ・オンダにでも聴こえるのだろう。それにしても彼女たちの雑草魂アールマ・デ・ラ・マレーサには畏れ入る。[訳註:潔くも自分らが雑草だと自認ししぶとく生き抜こうという強い意志に対して?]「亭主!、除草剤をこれに」

「いやまァ、女装罪に問われると困る方々が少なくないからそこは穏便にな」[訳註:翻訳では《殺草剤エルビシーダ》に呼応して「いっそ釜茹でに依る処刑モリール・エルビーダという選択肢も」と、却って攻撃的な西語が当てられている]

「……な、なんならここの払いを持ってもかまわん」

「懐寒々しき中坊を買収なさるおつもりか?」

「悪くない話だろ……告げ口は女の腐った奴のやることだぜ?」

「だからこいつは腐った女ですってば」

「女は腐りかけが一番うまいんだぜ」

「いや腹壊すわ」

「一生のお願い」

「それはうちの持ちネタだ!」

「何だよ持ちネタて……じゃあ一升瓶のお願い」

「一升じゃワインボトルの二・四倍あるじゃないですか」御子神が顔を上げると用を済ませた安藤さんが目の前に立っていた。「いったいグラス何杯飲むおつもりですか?」

「おお姫、おかえり」不在の間に領地を侵食していたとみえ、腰をずらしてエル・トボソを迎え入れる。「一生分のお願いがちょっと訛っただけですのよ」

「何をお願いされていたので?」

「俗に《膀胱にもの誤り》と謂いますれば」千代が容喙する形でこれに答えた。「――これなる尿近き者は一升便サイズの尿瓶[訳註:又は《一小便》、つまり逆に一回分の小振りな瓶か?]を携帯するのが当人の為と、老婆心ながら説き伏せておった次第にございます」

「そんなん持ち歩くくらいなら一生トイレ籠もって暮らすわっ!」外出時はおむつパニャールを穿くという選択肢も残ってはいる。「――てか誤りがあるとしたら膀胱よか尿道でしょう」

「尿道というか尿道括約筋だろ」

「……まあ我慢は良くないとは思いますけども」

「あっじゃあ――」ドゥルシネーアの控えめな腰付ポールテ・モデースト押し出されるエストゥビエーラ・エンプハーダ[訳註:気圧される?]かのようにしてミコミコーナがその重い腰カデーラ・ペサーダを上げた。「ミコ殿下はサンチョに付き合ってロビーに確認行ってきますわ」

「あらそれはそれは……お役目ご苦労さまです」部長はその場の空気を読み取ったものか、《いや私がジョ・ボイ》などと出しゃばる愚を犯さなかった。「さっきの何でしたっけ?――牛すじ頼んどきます?」

「おねが。あと何か」葡萄酒一覧カールタ・デ・ビーノスを開いて、「それに合いそうなのテキトーに頼んどいて」

「合いそうなの……あったまっちゃいません?」

「赤だったらいいよ別に室温でも」通路に出た御子神は従士の椅子の脚を蹴った。「つかそんな掛からないし。十分くらい」

「「増えとる……」」

「おら立て、行くぞ」

「ではちょっくら、お名残惜しゅうはございますが……」渋々席を立つ猫の従士。「しばしのお別れを」

「はーい、暑いの気を付けてね」

「いてらー」尿近き者ラ・デ・ラ・オリーナ・セルカーナ[訳註:直訳は《近場にある尿の女》? この字面を読んで直ちに頻尿ミクスィオーン・フレクエーンテと結び付けられる西語話者は稀であろう]は椅子を引いて早速ドゥルシネーアの花顔に向き合うと、「あっそうだここもミコ姐さんがおごってくれるらしいっすよ」

「こらたからないの」

「俺たちのタダ食いはこれからだ!」[訳註:西«¡Nuestra batalla apenas comienza!»《我らの戦いバタージャは始まったばかりだ!》を多少カタコトに魔改造する形で、«¡Nuestra vitualla apenas comiendo comenzamos!»《我らの糧食ビトゥアージャは食い始められたばかり》と言い換えられている。文法上は«comenzamos a comer»が教科書通りの語順]

 一方で人並みの分別を以てコン・ラ・プルデーンシア・コムーン・イ・コリエーンテ身分を弁える千代さんは貴人に先立ち入り口の扉を開ける為、身を屈めながらそそくさ王女の前へと進み出るのであった。


先ずアフリカの王女が「ばあ!」と、次いでラ・ハンザの従士が「ぶっわ!」と呻きつつそれぞれ食堂の出口を潜った。

「たしかに五六杯空けてからこの炎天下はヤバいかもね……」とはいえ陽射しは少女らの襟首を照らすのみ、そうでなくとも高々百歩足らずの小十里走マラトンシート――差し詰め千分の十里走ミリマラトーンに過ぎぬ。

「五六杯程度じゃそのおっぱいは満たされますまい」[訳註:《葡萄酒の五杯か六杯じゃシンコ・コーパス・オ・セーイス・デ・ビノ》に対し、《乳房の失神は起きますまいノ・プエーデン・カウサール・ラ・スィーンコペ・デ・セーノス》。どういう状態かは分からないものの、兎も角心臓発作よりは軽症であるに違いない]

「母乳は血液から作られるらしいが……あいにく俺のからは赤ワインも白ワインもほとばしらんのでな」[訳註:葡萄酒といえば神の子の血だから? 西訳では《散弾銃なしではスィン・エスコペータ異常者めスィコーパタお前を殺すにも両手だけでやるしかないなテ・アセスィーノ・コン・ナダ・マス・ケ・ロス・マーノス》という物騒な前置きが付加されているが、これは千代の発言内の《失神》と意味上・語感上の関連付けを意図したものか]

「血尿みたく血乳ってのもあるんすかねえ」因みに日本語でchi《サーングレ》を二回続けて発音するとchichi《レチェ》となる。「つか赤ワインてどっちかてと紫だし、白ワインは黄色っぽいから母乳つうよりどっちかっつうとおしっ――」

「サンチョってつくづく赤白っつうか、白黒ハッキリしてるよなあ」ふたりは城塞の裏門から侵入した。「――なるほどやっぱここに出んのね」

「そりゃ歯に衣着せてたらマスクよろしく物も食えませんでな……全然温度違う」

「それもだけど、表の顔と裏の顔というか」

「そうすかね?」ミコミコーナは従士のどの辺りを見てそう感じたのだろう?「――じゃあラ・サンチャに戻って叙任された暁には《ウラオモテヤマネコの騎士》とでも名乗らせてもらいますかね!」

「まァお前さんは天然記念物というよか養殖危険物って感じだけど……いや可燃物か」[訳註:第十章の時点で既に《天然ナトゥラール養殖クルティバーダか》という表現が西語版の文中にある]

「いやゴミみたく言うなよ」化粧室の向かい、右手の薔薇園を覗き込む千代さん。「ここも美味そうな……ならばうちの旦那ャ様はさしづめ荒唐無稽文化財ですかな」

「お前その咄嗟のヒラメキみたいのって数学の試験中とかには全然発動せんの?」

「つかド天然の蜂の騎士は別格にしても、二重人格具合で云ったら役者とかレイヤーのがそれこそ病気レベルでしょ」

「ハナ様はアッチの人格しか拝見してないから、寧ろ一貫性あるんでは?」

「……それを言ったら」

「もっとも数時間しか会ってないミコミコーナと違って艱難辛苦を共にした遍歴の従者の前でくらいならまあ、たまには素でしゃべったりしてたんかもだけど」

「……はぁ、……まァ?」知らず識らずあの言動こそが彼女の素エジャ・ミースモであると信じて疑わなくなっていた従士からすれば、今になって常識的な見解を耳にしたところでその場はお茶を濁すより他なかった。「……じゃあ私携帯置いてくるんでその間にホテルの人に言っといてくれます?」

「え? アシも部屋上がるけど」

「いや何でだよ」昇降機を呼ぶ為に壁をひと押しする。「うちのドンニャの残り香をクンカクンカしようってことなら昨晩ベッド使ってないし無駄足ですぜ?」[訳註:第二章で著者が考察したkunkaクンカ-kunkaクンカも、実は遥々この発言から遡って補説されたもの?]

「お前もガチとネタの区別くらいしてちょうだいよつうか、仮に昨日泊まってても午前中にハウキー入ってんだからシーツも何も取っ替えてんでしょ」

「何ハウキーって、ハウスキー?」これは《家内維持ハウスキーピング》、つまり家庭内の家事全般タレーアス・ドメースティカスや宿泊施設に於ける室内清掃セルビーシオ・デ・リンピエーサを指す略語である。(だよねア・ケ・スィ?)

「《吠える猿ハウリング・モンキー》……」そう惚けつつ御子神自身もニコガキの顔を頭に描いたようだけれど、あの娘ならどちらかといえば《喚く猿ヒューイング・モンキー》なのでは?「とりまず先にフロント行ってこよ」

「うむ、マイク持たせちゃダメな奴ですよ」

「……あ」正面受付に至るまでの十数歩の途中で王女は一旦足を止めた。「三茶に帰って叙任ってのは誰がすんの?」

「誰って私以外の誰がいますよ?」今のところ――顔がふたつあるデ・ドス・カーラスかは兎も角――猫の二つ名を有するのは半坐千代その人のみであろう。

「それはされる側だろ? 叙任するのはよ?」

「あっそうか……そりゃドニャ・キホーテを置いて他におるまいよ」偶さかマルグラーベの騎士[訳註:第一章および三章に花の叙任式の模様が詳述されている]に再会でもせぬ限り、その役目を負うに値する別の人物を都内の何処かから探し出すのは極めて困難に違いない。

「……そういうことなら、」天井照明カンデラーブロス・デ・テチョを見上げるミコミコーナ。「大丈夫なのか?」

「何が?」

「すーみーまーせ~ん……」

 無用な心配に心を砕くのも甚だ馬鹿らしいと考え直した牝牛の王女は口を開いて返答を待つ猫の従士を無慈悲にも広間の半ばへと残し、帳場モストラドールの内側からにこやかな表情で待ち構えている《受付嬢フロント・レイディ》に先んじて声を掛けたのだった。


親切な女性従業員が念の為裏にある事務所オフィシーナ・デ・トラスティエーンダにも確認を取ってくれたが、矢張り昨晩最後に[訳註:第二十二章参照。午後八時前後で、これは千代が無用な遠回りの後に漸く到着した時間とも符合する]応対してからラ・サンチャの騎士を目撃したという証言は得られなかった。こうなるとアンジェリカの指輪の効験とて、頭ごなしに眉唾物だと決めて掛かるのも憚られる感があるではないか?[訳註:第二十八章で一度は正面受付前の広間に姿を表している筈なので、それで本当に誰の目にも留まらなかったとすれば、件の錠菓を口にした花が真実不可視の状態になっていた可能性も無視できないということ]

「ちょっとこの子の携帯電池切れちゃったんで、連絡先自分の携帯の番号に変えていただけますか?」

「充電器借りっぱなしですみません……」

「いえいえお帰りになるまでご使用いただいててかまいませんよー。かしこまりましたそれでは、」覚書帳を一枚破いた婦人は、球書筆を添えてミコミコーナの手元へとそれを差し出した。「――番号の方お願いいたします」

 それから半坐千代は、丁度五時間前に同級生を伴って降りてきたのと同じ自動昇降機に、今度は女子大生と共に乗り込んで一路十三階の自室へと向かった。

「ああどうせ戻んならメット回収してくりゃよかったか……」

「チャリ乗ってっ時以外にゃ使わねんだからカゴ入れたままでよくね?」とはいえ実際に役立ったのは、常に従士がシャルロットを厩舎で待たせている時分であった。「ママさんの遺産ってことはそれ三四年は使ってるってこったろ? バッテリー交換とかしてるん?」

「はて……少なくとも受け継いでからは一度も。たしかに夏場とかすぐ熱持っちゃう感じあっけどまァ、膨張してきてからでいいかなと」

「発火すんまで替えねえなこりゃ」カハを降りる。「じゃあこれどう、サンチョは機種変してさ、それは一応電池だけ新調してドニャ様に献上するとか」

「献上て、おフルのおフルとか流石に失礼っしょ」

「だってハナちゃん東京戻ってもガラケーなんでしょ?」[訳註:第二十六章に於ける安藤さんの証言に拠る]

「ガラケーにはガラケーの……利点というか」ガラパゴス携帯――胃の、否、井の中の蛙ラナ・エン・エル・ポソこそ深淵を覗く己を水面に映した虚像イマーヘン・ビルトゥアールということだろうか?[訳註:第十章以降、《胃の中エン・エル・エストーマゴ》や《井の外フエーラ・デル・ポソ》という表現は幾度も行き交ったが、『荘子』の故事を正しく引いた例はこれが初めて]「――人前じゃ、とても着れないガラパゴスロリ」[訳註:恥ずかしい衣装を自室でのみ着用してこっそり愉しんでいる内に、気付けば服飾に対する価値基準が外界と乖離し、独自の進化を遂げてしまうという現象? 恐らくは彌撒用礼装のこと]

「何無理やり一句捻ってんのじゃ……何番?」

「ここっす」尻隠しに入れていた薄板式鍵タルヘータ・ジャベーロ差込口アペルトゥーラへと滑り込ませる。ガチョンクラック。「――おっ一発。どうぞ」

「くるしゅうない……おおク~ルな室内! 冷房入っとる!」どれだけ省電力アオーロ・デ・エレクトロシダッが叫ばれる昨今であろうと、宿泊客が不在の間に許可なく空調の設定を変更するような勝手は罷りならぬのである。「てかパロミちゃん何でこんなまともなホテル取ったげてんのよ、学生なんだから年相応にユースホステルとかにしときゃいいのに」

「そこは同感ですけど……案外《若者ユース》とか《接客婦ホステス》とかいう単語に、陛下は敵がい心を抱いておられるのやもしれませんな!」[訳註:《青少年向け宿泊所オスタール・フベニール》《敵愾心を持ってコン・オスティリダッ》]

「ホステスは関係ねえだろ」彼女エジャは若くもなければ女性ですらないから?「……おお白き誘惑、プリズムダーイ――!」[訳註:《三稜鏡飛込みプリズムダイブ》]

 バフンプム

「こら! 君ら本当に姉妹っつか双子じゃあるまいな?」君らとは勿論ミコミコーナとニコニコーナを指している。[訳註:午前中ニコも同じように寝台への《背ダイ》を試み、相方に阻止された]

「シワ寄ってんじゃん。雑な仕事だな」

「いやうちらがコメダ行ってる間にお掃除の人入ったんでしょ。あのバカがその後寝っ転がったんす」しかし二台ともに皺が寄っているのは、その他にも尻餅を搗いた犯人が居たからに他ならない。「岡崎じゃ地べたに雑魚寝だったから気を遣ってくれたんかしら?」

「お泊りした夜って三人川の字になって寝たの?」

「三人?……ああ女王は朝まで打ち上げだか中打ちだかしてたみたいっすよ」御子神が仲立ちしてくれたお陰である。[訳註:第十八および十九章を参照のこと]「うちらラ・サンチャの弥次喜多だけで仲好く……リの字? アレ何だっけ立刀りっとう[訳註:漢字の旁の《刂》]っていうの?――の字で惰眠を貪りましたけど。珍しくドンニャがなかなか起きませんでしたね」

「年寄りは朝早いのに?」浜名湖で迎えた朝までは慥かにそうであった。「つかはよ繋げや」

「あそうだ」壁に空いた差込口に嵌められたままの被覆電線カーブレ・エレクトーリコの反対側、枕元に垂れた接続部を携帯の下部へと挿入する千代さん。「そもそもあの部屋で三人並んで寝れねえだろ。パンロミさん牛並みにでかいし」[訳註:第十八章冒頭にて上演された芝居の最中、彼女が担当した牛丸うしまるという名の浪人は徹頭徹尾舞台上で鼾睡しているだけの役柄であった]

「馬じゃないん……何お前一緒にシャワーでも浴びたんか?」

「いやアンタじゃねえよ!」仮に焼津の君との裸の付き合いレラシオーン・デスヌーダ・コン・エル・プリーンシペ・ヤイヅ[訳註:第三十章に拠れば、この事件そのものは都内での出来事]を自分も体験できるとなれば、あの宿主オステレーラフアナなら有り金全てトダ・ラ・パースタ叩いてもその権利を買い取っただろうに!「まァケツは見られましたが」

「えっストリップとか演目にあった? そんなん分かってたら流石に誘わねえぞタシも」

「脱いじゃねえよ!……ああケツって私のケツですよ?」

「なんだ見られたってのは受身形なのね」但し下着は付けていたように記憶している。[訳註:第二十章参照]「オカマにケツ見せとか――露出狂にしても歪みすぎだ」

「純然たる事故だよ! どういう性癖だ!」

 あの事件は寧ろ、狂女フアナにとってこそ貰い事故アクシデーンテ・スィン・ス・クールパと呼べる代物であった。というのもつまらない身体の女子中学生チカ・デ・セクンダーリア・コン・ウン・クエールポ・コムーンが風呂上がりの着替えを済ませるまでの四十秒間、その部屋の所有者である筈の彼女の方が蒸し暑い夏の朝方に閉め出しを食らったのだから。


自らのズボラチャプセリーアが招いた不手際を記憶から払拭せんとしてか、千代さんは批難の矛先をミコミコーナへと向けつつ以下に続けた。

「せっかく愛しの舎弟さん来ると思って乙女回路全開で待ってたのに、客席にケツもとい顔を出したのが中坊でしかもメスガキとか……陛下の心中はお察しするに余りあって溜まり溜まってタマリンドの多摩ピューロランドですよ」

「タマタマうっせえわ、お前ホモのおっさんには寛容なのな……女同士だと辛辣なのに」

「えっそこ男とか女関係あります?」

「あと多摩は埼玉みたいでダサいからピューロに怒られっぞ」

「いやそれこそぐでたまに謝れし」

「まあ、男は男でてめえが攻略対象になっかもっていう自己防衛の意識が働いてゲイバーとか敬遠すんのかもしんねえけど」実際男色酒場バーレス・ガイの常連の多くは女性客だと謂う。「ソレと同じか」

「やっぱ敬遠されてんのか……」畢竟カルデニオ少年に、である。「――何が同じ?」

「やっだからメガネが纏わり付いてきてもめっちゃ拒否ってるから」

「いや別にレズだろうがラムレーズンだろうがいいと思いますけど」焼津の便利店前に主人と腰掛けて賞味した氷乳菓を口内で反芻する千代さん。[訳註:第十二章参照。従士の科白では《糖蜜酒漬け干し葡萄ラムレーズンのハゲ》とある]「それ以前の話相手が男だろうが女だろが、好きでもない奴にベタベタくっつかれるのクッソウザくないです? 特に夏場」

「不憫な奴……いやそういうとこが好きなのかアイツは」何しろドメガネメガニッスィマを自認する娘である。[訳註:馬場嬢は前々章にて、自称を《ドM》から《ただメガネのM》へと訂正している]「まあ変人に免疫なけりゃドニャキの家来は務まらんよね」

「いやアンタも相当変だよ……」従士は口元を手で隠しながらそう呟いた。人格障害というものは細分化すれば結局は人の数だけあるのに違いない。「思うんすけど、動物っつか大抵の生物の生存目的って種の保存なわけじゃないすか」

「何だいきなり。ラムレーズンテートル?」[訳註:仏raisin d'être《存在する干葡萄パサ・デ・セール》?]

「だから死物狂いで川さかのぼって実際卵産んで速攻死んだりさ、あと交尾した直後にメスに食われたりしても一片の悔いなしって感じで身を捧げるわけっしょ?」成る程、蟷螂マーンティス蜘蛛アラーニャといった捕食性の虫インセークトス・デプレダドーレスが繁殖に於いては自己犠牲に殉ずるというのは中々に感慨深いものだ。[訳註:無論クモは厳密には昆虫類インセークトスではなく節足動物クモ類アラークニドスに該当する。因みにカマキリのオスに関しては複数回の生殖行動が可能なので、食われる前にヤリ逃げし、新たに別のメスを探すドン・フアンさながらの猛者もいるのだとか]「子孫残すのが正義みたいな」

「何で急にオカマをディスる流れになるんだよ。男は子供を産ませる機械か?」それならいっそ《種付け用筋肉さんマチートス・デ・セメンタール》で良いのでは?[訳註:《子供を産む機械マーキナス・デ・パリール》の対義語か。西machoは《男性、逞しさ》の他に《凝乳啜りパパナータス》――所謂《脳筋》を意味する単語だが、一般にmachitoというとメヒコ名物の臓物もつ料理を指す]

「逆逆、そういう下等というか原始的というか」恐らく千代さんに性的少数者を弁護する意図はなく、単に漠然とした持論を展開しているのに過ぎないのだろう。それともパロミとカルデニオの――ラ・サンチャとエル・トボソではなく?――取り持ち役ロル・デ・クピードを、こんな場違いな舞台の上で果たそうとでもいうのか?「――有性生殖するヤツでももっと単純な生き物で同性としかくっつけないんだとしたらまァそれは異常ってか欠陥なのかもしれんけど」

「いやそれはそれで偏見だろ」敷布の上に横臥したミコミコーナが反駁した。「サルとか他の哺乳類とかでも結構普通に同性同士でイチャコラしたり、ばんばんヤッたりってのは一般的らしいぞ」[訳註:鳥類や魚類、一部の昆虫等にも同性間の性行動は確認されている]

「そ――うなんか、すまんヒト以外の動物」従士はそう詫びて己の管見を恥じた。とはいえ《一般的にヘネラルメンテ》という範囲に限った場合、そういった習性には社会的な意味――例えば集団に於ける連帯の形成や繁殖に向けての何らかの戦略等――があるわけで、個体の志向としての同性愛が非合理的だという彼女の見解それ自体を否定するものではないだろう。「まあでも人間は子孫残す為だけに生きてるわけじゃないじゃないすか。王家とか世継ぎ産めなきゃ存在意義なしみたいな身分の方々は知らんけど、下々代表の私なんぞは子供どころか死ぬまで結婚の予定もないし」

「中坊が……」如何にも恋愛経験に乏しい十代の少女の言いそうなセリフではある。「そういうガキに限って二十歳そこそこで出来婚とかすんのな」

「あまつさえ子供は要らねえけどそういう……超時空要塞みたいなことするわけじゃん?」

「超時空――何だっけガンダムか?」

「いや……もしくは美墨みすみなぎさの所属する――的な」

「それはキュアブラックだろ」なぎさは袋球部クルーブ・デ・ラクロッセの主将を務める活発な少女だ。「人間だって草食系多いし、誰も子作りしなくなったら絶滅するわけだが……」

「ホモじゃなくても、働きアリとか生まれた時点でてめえは生殖に参加しない役割の連中も居るわけだし!」人間は高等生物クレアトゥーラス・スペリオーレスであるが故に同性愛にも文化的な意味付けが加わることを鑑みれば、性的少数者を異常と見做す世間一般の風潮は論理的根拠に基づいていない――当初はそんな論題テマかと思ったけれど、結局話が虫の領域まで下りてきてしまったようである。「……何の話ですか?」

「こっちのセリフだ。働き蟻より女王蜂のこと考えろよ」花の望みは王位レアレーサにあらず、尤も然程近からぬ未来の女帝蜂アベーハ・エンペラトリース・エン・ウン・フトゥーロ・ノ・ムイ・セルカーノとて現時点では一介の騎士蜂ウナ・メラ・アビースパ・デ・カバジェーロに過ぎぬ。[訳註:南北米大陸の新熱帯圏エコソーナ・ネオトロピカールに棲むアシナガバチの仲間に西語で《ウマバチアビースパ・デ・カバージョ》と呼ばれる種がある]「……アカン眠くなってきた」

「化粧付けないでね」枕覆フンダ・デ・アルモアーダくらいであれば裏返して誤魔化せるものの、固定されている白敷布に付いた汚れについては隠しようがない。清掃係をもう一度呼び出すとなると流石に心付けプロピーナの幾らかでも渡す羽目となろう。

「これがほんとのベッドメイク」[訳註:《寝具を整えるテンデール・ラ・カマ》に対し《オカマを横たえるテンデール・アル・オカーマ》。己の厚化粧を女装男性に擬えた自虐表現――という解釈が妥当か]

「やめれ」他所行って汚せベテ・イ・エンポールバテ![訳註:西empolvar《化粧する》/empolvarse《粉塵塗れになる》)

「飯食ったらニコミ連れてハナちゃん探してこいよ」御子神は寝台の上で無法にもゴロゴロと転がりつつ以下に続けた。「その間レンちょんとふたりしっぽりここで休んで待ってっから……大丈夫ベッド一個しか使わないから、今晩ドニャキが寝る分は新品のまま」

「アンドーさんはまだお若いので殿下ほどお疲れではないと思いますよ」己も寝台に腰掛けた従士は主譲りの舌鋒ボカドゥーラ・デ・ス・アマ[訳註:西boca duraで《容赦ない口振り》? 第十七章にも用例があるが恐らく蜂の一突きピカドゥーラ・デ・アベーハを捩った表現だろう]をお見舞いする。「それから騎士の居ぬ間に姫と甘い夢見ようったっても、その布団で偽りのハーレム睡眠が見せんのは蜂に滅多刺しにされるナイトメアがせいぜいっすわ……大体パロミーナにお預け食らわしといて自分だけしっぽりとか、ポリスが許してもポリハンナが許しませんぜ」

「そんな愛少女、毒針スティングが認めるかよ」それはもう、手に取った全ての胸エヴリ・ブレスト・ユー・テイク[訳註:英take the breastで《赤子が乳を飲む》だが、刺されるとすればそれは乳房であろう]が穴だらけにされるに違いない!……少なくともその寝台の上で見る夢の中では。「この部屋を姫と過ごす愛の巣とするのじゃ……『部屋とワイセツと私』とあの平松も歌ってただろうに」[訳註:西訳では「警察ポリシーア任意猥褻的なヤツアサールト・デセーンテ・マス・オ・メーノスなら逮捕できまい」]

「今ワイセツ松の話はやめろ!」[訳註:第八章では烏小路を指して《強制わいせつ松アサールト・インデセーンテ=マツ》なる呼称が一度だけ用いられた]

「そんな来月末みたく云わんでも[訳註:「もっと卑猥にとでも云うみたいにコモ・ディシエンド・マス・インデセーンテ」]……情緒不安定な奴め」ミコミコーナは微かに呻きながら寝返りを打った。「まァね、別にあの子もパロミちゃんが嫌いなわけじゃないのよ」

「あの子って舎弟さん?」俄に感興を示す千代さん。

「アイツ割と変な人好きだし……ただ人に好かれるのが苦手というか」

「なんそれ? 難儀な方ですね」

「だからアタシみたく好意の欠片もないもん同士なら別に一緒に風呂にも入れる」

「それはアンタが勝手に不法侵入しただけだろ……」

 山猫張りの穿った見方をすればデ・ビースタ・ペネトラーンテ・デ・リンセ、馬場久仁子とて猫の従士の気兼ねのない――というより半ばぞんざいな――扱いに心地好さを感じているからこそ、ああも懐いているのだとは考えられぬだろうか?


大ミコミコン王国の後継者はひとつ大きな欠伸をすると、婉容に尻を突き出しながら枕へとその花顔を埋めた。

「あとパロミは別にチョン切ってるわけちゃうから作ろうと思えば子どもは作れんだと思うよ……人工授精とか含めて」

「ああ、カンガンてヤツでしたっけそういうの」これはイスラム帝国や中国歴代王朝の印象が強い慣習だが、実際には古代ギリシャやローマでも採用されていた文化だ。「――ってミコさんパロミさんとも風呂入ったの?」

「いや見れば分かるだろそっちは……むしろ焼津のヤツのがよっぽど性別不詳だわ」しかしこうなってくると、御子神嬢が実際に付き合う男の顔触れが果たしてどういった系統なのかも興味を唆るところではある。「そいやサンチョ飼ってるワンコってペロミだっけ?」

「オスですよ!」

「犬でペロペロとかバタコさん的連想しかできないけど」pero《しかし》やpelo《髪》は二度繰り返すとひと舐めする擬音オノマトページャ・デ・ウン・ラメトーンとなるのだ。「アレ(原註:動物への去勢や避妊手術カストラシオーン・イ・エステリリサシオーン・デ・アニマーレスのこと)もペッツ飼わねえ身からするとかなりの動物虐待通り越してナチスかよ!って思っちゃうけど、愛好家の言い分だとペット自身の為らしいな。それこそ犬畜生のレゾンデートル的な話どういう理屈なの?って小一時間」[訳註:但し優生保護的観点に拠る強制不妊は、連合側の欧米諸国に於いても戦後暫くに至るまで公然と行われていた]

「いやそこは……ほら人間だってカンガンとかあるし、中国?」

「あいかわらず世界史の知識偏っとる……」宦官エウヌーコスといえばオスマン帝国等、東洋に於ける後宮で徴用された去勢男性という印象が強いが、古代ギリシアやローマ(取り分けビザンティン帝国)にも広く存在した文化ではある。[訳註:著者が何故繰り返したのかは不明]

「うちのもタマリンド取られちゃってますけど、アレは人間の勝手で愛玩動物は人間に愛玩されることが生存目的って決めちゃってるだけだから仕方ないですよ」

「シビア!」

「家畜が食われるために生かされてるのと同じでしょ」時折勉強の苦手な年相応の少女らしからぬ鳥瞰的な物云いレダクシオーン・デ・ビースタ・パハレーラをする現実主義者レアリースタの半坐家長女である。尤も視点を変えれば家鶏や牧羊牛馬とて、種の繁栄に人間を利用しているだけなのだとも考えられよう。

「文脈的にゲイピーポーが食いもんにされてるみたいで流石に不謹慎な感あるが」

「オカマはその点食われる側じゃなくて食わせる側ですから……コメを!」これは――既にドゥルシネーアが警告しているように[訳註:前々章の地下通路にて、安藤部長が用語の混同について戒めている件があった]――自ら女装者の属性を巧みに活用して社会的な地位を築いている手合いにのみ該当する事例だ。「脳ミソ軽い大抵のヘテロなんざ入れ喰いですよ。テヘペロっすよ」[訳註:《いつでも餌に食い付くピーカン・エン・カダ・ランセ》。《刺すピカール》《長槍ランサ》という単語を思い出しておこう]

「一応食われると分かっててまた会わせるってのもなァ……人としてどうなのっていう」

「今のナシで」矢張り従士は一宿および援助二度分の感謝アグラデシミエーント・ポル・ウン・アロハミエーント・イ・ドス・アジューダス[訳註:晩は千代の不貞寝に依り夕餉が割愛された為、翌朝の食事と昼の外食を指す。《宿泊と朝食アロハミエーント・イ・デサジューノ》]を形にして返さんと試みていたようである。「人としてというよりひとりの人間としてだね……」

「どっちよ」

「オケラだって虫ケラだって甘えん坊だってみんなみんな生きているんだビバラビーダとリッキー・マーティンも歌っておりますし」

「それはコールドプレイだろ」存外洋楽も抑えているとみえる。「まァ過剰なプレイつか期待はNGにしても、何とか一回くらいなら騙くらかして鉢合わせてやってもいいけどな」

「や、やったぜ……やってやりましたぜ陛下」窓の外――主従に割り当てられた部屋が名古屋駅に面していたらの話だが[訳註:岡崎市が名古屋から見て南東に位置する為]――に眼差しを投げ安堵の笑みを湛える従士。「なるべく自然に……穏便に」

「但し条件がある」

「条件による」

「となるとお前もビバリーヒルズとかズビアンローズとか云うんだったら、み~んなホモダチみ~んなヤンドル![訳註:《全員が同性愛の友人トーダス・オミーガス全員が悪意ある偶像トードス・イードロソス!》。第二十四章で男性形homigoだったのを敢えて女性形へと変更したのは、つい先程話題に上がった働き蟻hormiga trabajadoraに合わせてのことと思われる。後者は西ídolo+doloso=ídolosoであるが、《痛みのあるドロローソ》と合成してídolorosoとした方がより性的少数者の悲哀を帯びたであろう]とらぁらさんも声高に叫んどる昨今――」

「ら、ラーラさん?」

「もちっとメガネにも優しくしたげなさいよ」おお、半日行動を共にした限りでもミコニコーナスの間には確かな姉妹愛が目覚めているではないか!「その内お前刺されっぞ」

「いやあ私BLもGLも別に悪かないとは思うんですけど、好きになった人が好きでいいじゃんね~っていうか……つってもこれはまた別話べつばなでして、女の腐ったようなヤツのようにトゥッテい――」これはけだしアマデウスに対してのみ用いるべき動詞であったのだろう、従士は以下のように云い直した。「尊いって感覚は今いちピンと来ないんすよね」

[訳者補遺:喜歌劇オーペラ・ブッファ女なら皆そうするコズィ・ファン・トゥッテ』に由来すると思しき謎の形容詞《トゥッテい》が劇中初めて発せられたのは第六章、千代とニコの通話中に於いてであった。日本語としては先ず《尊い》があってこその《トゥッテい》だが――本稿でも《尊い》の定訳は原則nobleで統一している――、西訳版では前者をtutear《相手をtúと呼ぶ/打ち解けて話す》、後者を臨時語アーパクス(西hápax)tuttear《全女性に訴求する?》なる動詞に置き換えている。つまり本来自分とは違う高次元の事象と見做すが故の転用的用法《尊い》が、逆に共感や親近感を抱かせる対象として意訳されている点に注意されたい。類綴語にtuitear《呟くトゥイート》、titear《嘲る》等]

「何も直接絡み合えってんじゃねんだから――レンハナカッポーのなら有り金叩くけど誰もお前らのなんざ金貰っても見たかないんだし」雪山で遭難し山小屋の中凍えているとでもいう状況なら兎も角、茹だるような真夏の名古屋で肌と肌を寄せ合うのは相当に仲睦まじい友人でも普通は御免であろう。「ニコニコが間抜けなドジ踏んでなきゃこうやってうちら出会うこともなかったわけだし」

「でもだったらせめて名古屋まで一緒に……あっワイハがあったのか……なら渋谷はお詫びとして私に譲るとか」いつまで溢れた乳や垂れた乳についてクアーント・タールダス・ソブレ・ラ・レチェ・オ・エル・ペチョ……? 千代は大きく嘆息してから以下に続けた。「――さ、いつまでも姫をお待たせしちゃいくら王族同士といえど礼に失するってもんすよ?」

「ちょいま」敷布の上を転がり落ち地面へと軟着陸した王女はすっくと立ち上がって、「礼を失する前に禁を失っても困るので――」

「殿下には付いてないでしょ」

「たまかずら、溜まるは玉のみにあらず……紫式部」王女はいい加減な歌を詠んでから出口へと歩み寄った。「お花を摘んでから出ますことよ? お借りしてもよろしくて?」

「ああ、どうぞ」

「それとも先程従者さんがおっさってたようにお鼻を抓まなきゃ入れない状態かしら?」

「最後に使ったのがニコチーナなのでね、ババ臭くても私の責任じゃないですぞ」先んじて浴室の扉を開けてやる千代さん。

「ああ、芳香――膀胱剤の匂いがする」

「――うっせえな訴えるぞ、とっとと執行しろ」

 施錠音を聞いた従士は一旦部屋の奥へ戻ると、窓際の腰掛けに両膝を立てて眼下の狭い路地を見渡しつつ「――ったく」と独りごちた。

 ふと振り返って足下に視線を落とせば、彼女が百レグアもの間それこそ我が子を背負うかの如く前籠に載せ運んできた車輪付き鞄が起立している。

「シャワー浴びたい!」個室の方からくぐもった声が聴こえた。「浴びてよい?」

「部長さん待ってるっつってんでしょ」掛布団側敷布の上に旅行鞄を横たえる。「なして借りてる本人より先に浴びんのよ」

「そっちは着替える直前の方がいいだろ」

「……そう考えるとやっぱもうほとんど時間ねえのな」

 千代は徐ろに荷物の整理を始めた。三茶を発ってから出戻りレトールノ・ア・メーディオ・カミーノを挿んで早九日、明日にはこの終着地を離れることとなろう。手切れ金ディネーロ・デ・コンスエーロにも手を付けておらぬし、身ひとつで鉄道に頼る分には訳無い。問題はシャルロッテの処遇である。とどのつまりは郵送するよりも、郷里にて新たな女帝を迎えた方が余程に安上がりだ。とはいえ――


火急の案件アスーント・アクシアーンテから目を逸らし眼前の単純作業スィーンプレ・タレーアに没頭していると突然、寝台と寝台に挟まれた小机の上の電話――但し《釣鐘草グロッケンブルーメ》ではなく《魔法の笛ディ・ツァウバーフレーテ》の方の[訳註:当初は後者が携帯電話、前者がそれを所持せぬ花が客室の電話機の隠喩としてその場凌ぎに編み出した置換語であったが、途中から双方共に携帯を示すようになっている]――が鳴り響いた。

「よっと」今度は寝台の上に飛び乗って、膝立ちのまま一歩二歩移動した千代さんが充電中の端末へと手を伸ばす。「誰?――ああ、また?……何さ」

 楽な体勢で着信履歴あるいは受信した文面を確認しようとでもしたのだろう、バネの効いた緩衝敷物コルチョーンの上でうつ伏せになって跳ねた拍子に開きっ放しの車輪付きを蹴飛ばしてしまう――ドサドサッカタプーンバ

「ちょっ――くっそ!」やり直しである。「こら~ミコねえさん!」

「なにー?」

「遅いよ何プーさんなの?」[訳註:「こんなに時間使ってケ・ジェーバス・タント・ティエーンポプーさんしてるのプサンド・オ・ケ?」西pusarという動詞は存在しないが、pasandoであれば《経過している》、pujandoなら《押して/奮闘している》]

「何だプーさんて……ああ[訳註:第八章訳註および前々章を参照のこと]」売女プタ呼ばわりされたものかと誤解したわけではなさそうだ。[訳註:こちらも西putarという動詞は無い。正しくはputear《売春している》]「プーさんじゃないよ、流す音聞こえったろ」ガチャクリック――鍵の回る音。[訳註:用を足している最中ではないから、入ってきたければ入ってこいという合図だろう]「ちょっち顔直してるだけすぐに終わる」

「直す価値のあるお顔とはまったくお羨ましいこって」ブブブブビビビビ……「――ん? 違う、ミコさん鳴ってるよ~」

「んー?」

「あ~明日どうしよ……」従士は暫くの間海の星エストレージャ・デ・マルよろしく掛布団の上にへばり付いていたが、短く身震いすると上体反らしフレククスィオーネス・アーシア・アトラースの要領でガバッと身を起こした。「――あかん!」

「お前ドニャキにフラレてボッチになってからずっと」《ボッチ》というのは一人きりペルソーナ・ソリータで、仲間の居ない人物スィン・コンパニィーアを指す。幾分声が聴き取りやすくはなったものの、アフリカの王女はまだ浴室の鏡と向き合ったままのようである。「独り言ばっか云ってたんじゃねえの?」

「設定温度が低すぎんですよ」墜落現場スィーティオ・デル・アテリサーヘ・ビオレーントとは反対側に着地した――というのも彼女は靴を履いたまま寝転がっていたからなのだが――千代はそのまま玄関前の通路へと向かった。

「てめえで調節しろや……ああ結局すんのね、ちょい待ってあと二秒――ほい」

「あ、コスメティックルネッサンス貸して」散らばった化粧品を片付けようとしたミコミコーナに、ちゃっかり便乗せんとしてその手を中断させる従士。「――くださりとう」

「別にいいけど」小物入れカルトゥチェーラを洗面台の脇に戻そうとした美女は、それを一旦己の顔の辺りまで持ち上げてから以下のように付け加えた。「さっきのメガネみたく扱わないでな」

「何が?」自身の腰回りの肉カルトゥチェーラ[訳註:《弾薬筒カルトゥーチョ》の派生語cartucheraには小型の箱や袋に加え、腰に提げる拳銃嚢ピストレーラの意味がある。恐らくその装着部位が影響して、脇腹から尻に掛けての贅肉を指す言葉となったのだろう]を大分減らしていた千代さんは、その補充としてミコの分を受け取りつつ訊き返す。「アイツまた何かやらかしました?」

「見てないならいいけど」主よセニョールお赦しくださいペルドーナラ宜しければ教えてやってくださいイ・セニャーララ・スィ・キエーレス)、あの娘は化粧道具フエーゴス・デ・マキジャーヘ筆記用具エラミエーンタス・デ・エスクリトゥーラの区別すらもままならぬのです![訳註:先刻食堂で鉛筆等が見当らなかった馬場嬢は、咄嗟に囲み目用化粧筆デリネアドール・デ・オーホスを以てその代用とした]

「最後に見た時の奴のポーチは中でファンデ割れてて大惨事になってました」

「ちゃんとせえよ女子校……」

「ちょっと後でうちのドンニャの顔もお願いします。いくらスッピンでド美人つったってやっぱり周りと浮くので」狭い個室からさっさと退散してしまった長姉の背中に末妹の依頼が届く。「見ての通り私のは下手クソというか、色々と投げやりな感じだし」

「ってなるとやっぱもう出歩いてる暇ねえな――っと」入れ替わりに窓際へと進み出たミコミコーナが何かを踏んづけた。「何これお前……やりっぱ? ヤリ捨て御免なの?」

「すっげーこれ全部でいくらくらいしました?」

「幾らって……別に百均のとかあるし」

「あ、さらさらパウダーシート……でもシャネルの五番は無いのか」

「何時代の中学生だてめえは! ガキはねるねるねるねご飯にでもブッかけてろ![訳註:著者は「矯正用腰巻の発想でも閃かせてろインテーンタ・チャネラール・エル・ヌーメン・デ・シンチョメスガキモコーサ!」と大胆に意訳することで、千代の云った《シャネルの五番チャネール・ヌーメロ・シンコ》を引き取るとともに続く話題へと引き継いでいる]」そのように悪態を吐きながらも、御子神嬢は絨毯の上に散乱した衣類を一枚一枚抓み上げては敷布の上に広げてやるのだった。「これ銭湯でハナ氏が水着の上に着てたヤツか……個人的にはコルセットよかビスチェのがコスパいい気がすんだけど」

 それを言うならギネアの姫君よ、矯正用胸着ブスティエールより矯正用長胴着コルセッ・バースコの方が費用対効果レンディミエーント・デ・コーストスに長けるのではないでしょうか?

[訳者補遺:それぞれ種類が豊富なので飽くまでも類型毎の定義として例示すると、corcé矯正用胴着は腹部のみ、bustierビュスティエはその綴りが表すように胸部から肋骨に掛けて、そしてvascoはそれらに腰回りを足して締め上げる女性用下着のこと。三種の中では最も補正範囲の広いbasque/vascoについては第二章、半坐家更衣室にて《アベンセラーヘの帷子》が登場した際の訳註も併せて参照されたい。これは元来フランス人が、バスク地方の伝統衣装である丈の長い女性用の上着を自国の被服文化へと取り入れたことに由来するのだと謂う。尚cinchoには革帯シントゥローンの意味もあるがここでは足を通して装着する腰着ファハのことで、主に腹と尻、長い物では太腿部までの贅肉を覆い下半身の輪郭を美しく見せる]

 浴室からの応答がない。

「ねえこれやっぱサンチョの私物?」御子神がこれを身に付けている花に遭遇したのは劇的な邂逅から脱衣するまでの僅か数分間のみであったが[訳註:入浴後に別の衣類に着替えていることが前提であり、実際のところは判断できない]、荘重なる漆黒ネグリトゥッ・ソレームネを基調としていたにしてもこの華美な意匠はよもや彼女の嗜好ではあるまいノ・フィグラリーア・エン・スス・グーストス。「……ん?」

 ミコミコーナは静岡の脱衣場にて三人仲好く――番台の老人も含めれば四人だけれども――賞味期限と生産地ウエーボス・ネーグロス・コン・ラ・フェーチャ・デ・カドゥシダッ・イの怪しい黒たまご・エル・ルガール・デ・プロドゥクシオーン・ムイ・ソスペチョーソスを味わった時のことを反芻していた。ふと財布を取り出すと、然程多くない紙幣やそれなりに枚数のある会員証類の隙間に指を差し入れ、何か自分の嗜好ではない物アルゴ・ケ・ノ・フィグーラ・エン・スス・グーストスがこの辺りに挿まってなかったかと確認してみる……さあ己の仕出かした過ちに気付くのだアオーラ・フィーハテ・エン・ロ・ケ・アス・エーチョエティオピア女よムヘール・エティーオペ

「――あっ!」寝台の角を迂回しようとした王女が依然転がったままの車輪付きに蹴躓き、二三歩蹌踉けるとともにその手から紙入れが零れ落ちる。又もや散乱する内容物コンテニード。「いってクッソ邪魔ッ!」

 ミコミコーナご自身それまで椰子の実を食べ過ぎていたセ・ア・コミード・エル・ココ・エン・エクセーソと感じていたが、なかなかどうして本当は幾ら食べても食べ過ぎということはなかったのである。[訳註:西comerse el cocoで《思い悩む》。椰子の実ココが頭蓋に覆われた脳味噌の隠喩となるので、《自分の脳を食べる》――つまり特定の思考にその容量の多くを割くという意味なのだろう]


鍵は元より扉も半開きのままだった。中を覗いてみると――

 半坐千代の視線は面前のエスペーホではなく両手に広げられた紙屑パペルーホに注がれていた。それは恰も幽霊エスペークトロ虚仮威しエスパンターホ[訳註:《怖がらせる物アルゴ・デ・エスパーンタ》の意で多くは鳥除け案山子エスパンタパーハロのこと]とでも睨めっこしているかのような形相であったと伝えられる。

「……執行はしないの?」

「ミコさんこれは――」どうやら引っ込んだようであるパレーセ・ケ・ア・レコヒード・ベーラス。[訳註:原義は《帆を畳む》。無論尿意のこと]「あの後自分でチケ予約して買った?」

「え?」

「――なわけないわな」従士は裏返したり照明に透かしたりしながら、その紙片を矯めつ眇めつ検札した。「アレ何日前だ……三、四日前か。どっちにしても電子でラドゥン頼まない理由がないし」[訳註:馬場嬢が花の為に代理注文した入場券が紙製であったのは利用者が携帯端末を不所持だったからだが、そうでなければ郵送等に費やされる時間を考慮に入れる限り電文で送付される券の方が安心安全であるに違いない。尤も県境で起こった一連の事件――第十六~十九章を参照――を省みるまでもなく、その携帯を紛失したが最後肝心の入場券も同時に失う憂き目を見ることとて充分に留意するに足る点ではある]

「何でタシがアマデミサなんぞの為に自腹切ってチケット買うよ?」成る程、慥かに布施オフレーンダス贖宥状の購買コーンプラ・デ・インドゥルヘーンシアスというものは、けだし信仰のある者のみが行うべき営みであろう。

「さすがに番号ヌメルスまでは憶えとらんが」千代が片手を小刻みに震わせると、その招待状はまるで川を上る鯉のように宙空で跳ねた。「――これはまさしく、かつてラ・サンチャの空を舞ったあの一枚と同じものですな」[訳註:第二章終盤を参照のこと]

「舞った?」

「……その直後に我が主人もろとも我が家の庭先へと」従士が抓んでいた指を開くと、紙片はひらひらと上下を入れ替えながら浴室の床へと降下した。(ウィーンの神童よダス・ヴィナー・ヴンダーキントこれはある種の冒瀆行為アクシオーン・サクリーレガなのではないか?)「落下――もとい転落?着地?したのですが」

「いや、わけわからん」

「こっちのセリフだ」落ちたアインラドゥンを拾ってミコミコーナの前に翳す千代。[訳註:腰を屈めた時に出る呼気と思しき声が聞こえたことによる著者の推測]「一体全体どうしてこれがミコ殿下の化粧ポーチから発掘されたのか――是非ともその訳が知りたい」

 御子神はたった数秒ではあるが、口を開いたまま暫く言葉を失った。

「ぐうぜん」……そう、四日前の晩に財布に入れたものと思っていたところ、今日に限って何の拍子でか《偶然カスアルメンテ》小物入れに紛れ込んでしまっていたのである。「――手に入り?」

「そんな道端にゃ落ちてないでしょうが」しかし猫の従士も忘れたわけではあるまいが、半坐家二階自室内部より生じた旋毛風に乗ってその露台から出奔しそうになった折、ラ・サンチャの騎士が既のところで掴み取らねば結果そのようになっていたに違いない。「……えっ、お風呂屋の?」

「あー、他にないな」

「ドニャ・キホーテが扇風機のとこで落としたってこと? どのタイミングで……あのおっちゃんから忘れ物の連絡とか入ったんですか?」

「あ~りえなくはない、な」あと数十秒でも想を練る余裕があれば、もう少しマシな誤魔化しようもあったかもしれぬ。兎も角ミコミコーナはそのようにしてお茶を濁した。尤も宿帳のように事前に記名でもせぬ限り、一旦退散した利用客に拾得物の通知をする手段など容易には思い付かぬことでもある。「……巡り巡ってというか、まかり間違って相応しくない人間の手に渡るということもまァ往々にしてあるさね」

「あっそれでか!」

「何?」

「今朝んなって唐突に名古屋駅に出没したんは」千代は招待状を掴んだまま両手を打ち鳴らした。「今宵シェーンブルンに参宮予定のうちのドンニャに届けようと」[訳註:登城のような使い方をしているが、《参宮》は飽くまで神宮への参拝であり、宮中に罷り越すといった意味合いは恐らく無い]

「ははは、こいつはとんだ名探偵だ――が、まかり間違ってはない、かな」

「はははじゃないよ、そんな大事なことそれこそ前もって連絡入れてくれよ」仮に不意討ちの愉しみディベルシオーン・ソルプレンディエーンテといっても時と場合がある。音信が途絶えたまま当日を迎え、万が一可能な通信手段の何れも通じなかったとしたら一体どうするつもりだったのか?「まァギリギリ間に合ったから感謝はいたしますけども……ん?」

「いやそもそもお前の携帯これまでもやたら電池切れてたんだろ」

「いや、蜂の騎士は気付いてないってこと? これ無いと入れないのに?」

「さあ……どうでしょ」

「――ったく、人が携帯失くした時には偉そうに慰めといて……いい気なもんだ」そういえば紛失した電子券入りの携帯電話テレーフォノ・モービル・ペルディード・ケ・コンテニーア・エル・ボレート・エレクトローニコが発見されたのも又便所であった。[訳註:第十九~二十章冒頭までを参照]「いずれにせよ主人に代わって御礼申し上げる。ぺこり。とりま念の為私が預かっておきませう」

「おう。そうして」

 岡崎での観劇が、結果として《シェーンブルンの夜伽ビースペラス》との物々交換の産物レスルタード・デ・ウン・トゥルエーケであったなどと、この時の従士には想像するべくもなかったのである。[訳註:第十一章の王女が主従と別れる場面で特別そのように言及されたわけではないが、ミコミコーナが半ば強引に押し付けられた招待状の返礼としてパロミが出演する――当人は端から行くつもりがなかったと思しき――芝居の入場券を思い付いたのであろうことは容易に想像が付く]


御子神からすれば、一応これで訪名した当初の主目的は果たしたことになろう。

「あの、小も化粧もせんのなら片付けたいんだけども」

「ああ、ハイ出来ればシャワー浴びた後に私の顔もプロのミカさんにお頼み申したい」

「ミカさんて誰?」

「いや貧乏な――じゃない美貌のミコさんに」本来《美香さん》という人物は極めて裕福な姉妹の片割れなのである。[訳註:第二十章にてパロミは一度だけミコを指して《貧乏な叶美香》なる呼称を用いた。《粗末なミコさんミコ=サン・ウミールデ――そうではなくノ・タン・アスィ千の金剛石たるデ・ミル・ディアマーンテス》と云い直しているが、後者は《千の悪魔たるデ・ミル・ディアーブロス≒いやマジで》という慣用表現を下敷きにしたのだと思われる]「是非ともさっき言ってた地下何階かのアイドル並みに仕上げてくだされ」[訳註:前々章の自転車置き場前での会話を参照されたい]

「まあ地下三階くらいでよろしければ」

「ミカさんとまでは云わんがチカさんのつらベースは出来ればご容赦いただきたい」わざわざ化粧をせずとも二十年も待てば似たような顔になる筈である。「シャワー浴びて、ふたり分順番に顔やってもらって、あと髪も……所要時間何十分だ?」

「リミットによる。おしっこもいいの?」

「ああ、何か変な汗っこかいたら尿道手前で一緒に蒸発した」一般に乏尿オリグーリアと呼ばれる症状かもしれぬ。「一気に体温冷えたわ、気化熱――地下熱というやつですな」

「知恵熱の間違いだろ」然程裕福ではない娘チカ・ノ・タン・リカは所有物を掻き集めつつ以下に続けた。「今めっちゃ地上(原註:十三階)だし……あっちはよ片付けてこいよ。腐りかけの草メガネはいいけどこれ以上ハナ様のレンゲ姫殿下をお待たせするのは不敬だぞ」

「言われてしもた」事実交差の食堂コメドール・デル・クルーセ[訳註:これは商標の図案にある交差と店を構えている交差点双方を絡めた形容だろう]を出てから優に二十数分が経過していた。当初五分の約束が都合二度倍加した計算になる。千代は半開きとなっていた浴室の扉を僅かに押し、次いで取手を支点としてくるりと己の身体とその位置を入れ替えるなり[訳註:つまり扉の裏側に回ると]そのまま窓際まで向けて戻らんとした。「――あ、服ありがとうございます」

「あっ、そこ――」御子神嬢が開け放されたままの蝶番の扉プエールタ・デ・ビサーグラス[訳註:引き戸に対する開き戸のことだが、Puerta de Bisagraのように書き始めを大文字にすると十世紀に建造されたトレドの城門を指す]の陰から顔を覗かせ、「アシの財布落ちてっから踏まんでね」

「ん?」背後の声に反応し、その歩みを止めぬままに振り返る従士――彼女はその瞬間まで敷布の上や、若しくは枕元の携帯端末に目を奪われていたとみえ、床面への注意が全くもって散漫となっていた。長姉の発言内容を理解すると同時にその視線とて足下へと落とされただろう。とはいえ踏み出された右足――それは既に着陸態勢に入っていたリースタ・パラ・アテリサールので――の着地点を今更変更するにはかなりの高い熟練度ペリーシアを要するものと思われた。「――ちょ!」

 半坐千代はその猫の身軽さを最大限に活用し――この件は筆者も書き憶えがある――、絨毯の上から衣類の並べられた傍らの寝台へと反射的な《背ダイ》を決めた。[訳註:第二十六章参照]

「……またやってもた」再びナバーサナ――つまり《舟の姿勢ポストゥーラ・デル・バールコ》[訳註:寝台と接地した臀部を頂点とし、ピンと伸ばした上半身と脚部でV字を形成した体勢のこと]のまま金縛りに掛かった従士。まさか他ならぬアビンダラエスの遺物をその尻の下敷きとしてしまったのか?

「何、こんなとこで腹筋鍛えてんの?」

「……んぐ、いや」無論左右に開いた両脚の間から密着型透鏡一枚ウナ・レンテ・デ・コンタークトを落とした馬場久仁子の姿は確認できなかったし、今度ばかりは何も落としていない――にもかかわらず何食わぬ顔で何かを拾おうと腰を屈める――彼女の姿についても又同様であった。「腹筋、失禁……百均じゃない――何か思い出しそう」

「まァそんだけ腹へっこませられんならお前さんでも入るのかもしれんが」王女は顔を引っ込ませると、鏡に接近して数回瞬きしてから口唇をポンと鳴らした。「着こなせるかどうかってなるとこのミコミコーナにも保証は出来んね」

 千代はそれらを聞き流しつつ、手の届く範囲の水面に浮遊していた――というのも少女はいまだ瑜伽ヨーガの[訳註:舟の]姿勢を保っていたからなのだが――らしき自分の手持ち鞄を引き寄せ、その中から何とか財布を掘り当てた。

「出禁……出金……入金……」

 そして恐らく数分前に御子神がしたように――但し弛緩レラハミエーントとは対照的な状態で――その中身を一通り弄り終えるなり、

「あっ!」

「だか何だよッ!」

「やべっ――ミコさん先行ってる!」

 猫の従士は尻ひとつで跳ね上がるやデ・ウン・ブリンコ・コン・ウン・ソロ・クロ満点の着地アテリサーヘ・デ・ラ・プントゥアシオーン・マークスィマを決めたのも束の間――といってもこれは絨毯に散らばった長姉の財布とその中身の上をしっかり避けて降り立ったのであればの点数だが――客室階を南北に貫く廊下目掛け一目散に駆け抜けていく。


とはいえ逸る気持ちで下向きの矢印フレーチャ・アーシア・アバーホをどれだけ連打したところで、彼女の心中を察した昇降機がその到着を早めてくれるわけではなかった。

「ちょっちょっちょ――いて」

「コレ忘れんなよ、締め出されっぞ」部屋に置き忘れられていた薄板式鍵を、従士の背中の内どこかそうするに相応しいと思しき部位――上半身で口部以外にそのような場所があるかについては俄然疑わしいけれども――を選んで挿し込みながら、結局追い付いてしまったギネアの王女が年長者らしき忠告を与える。「いっきなし走り出してバシリスクかお前は……あ? 甲賀忍法帖なのか」(原註:水面を駆ける小王竜バスィリースコ――則ち基督蜥蜴ラガールト・ヘスクリースト――を日本では俗に忍者トカゲラガールト・ニンジャと呼ぶことがある)

「あっすんましぇん、ダンケシェン」千代さんは心拍数の上昇を抑えようと深呼吸を繰り返しながら鍵を受け取った。「あっぶねえあぶね……」

「廊下は走んなよな」

「へえ、少年少女老いやすく……天人天女もうかうかシエスタ、などしてると――」[訳註:第十三章および十七章ではそれぞれ《老化を走るな》《天人の午睡》という言葉遊びが為されており、無慈悲な時間との戦いに敗れつつあった千代の焦燥感をよく表している]

「別に眠ってはないだろうに[訳註:西語版でも«No es que estuviera durmiendo…»と一人称か三人称かを特定しない翻訳がなされている通り、天女という言葉から花のことを指した科白だという解釈も残したのだろう]……来た」自動扉が左右に開いた。「つか何でこいつタシんとこに掛けてくんだ? フロントからかと思ったのに」

「――え?……いや別にミサの間使っててもいいですけど。泊まれはしませんよ?」

「何が?――いや風呂じゃねえよ」従士は又もや上の空の模様だ。「あそっかアタシ今晩電車何時だ?……姫帰りは夜行バスなんだっけ、サンチョおサルに時間とか聞いてる?」

「遅いな」

「おい」

「――えっ、はい聴いてますよ?」《1》と書かれた正方形を凝りず引っ切り無しに連打し続けている忙しなき少女。「九時半バラシとして……十時過ぎの電車なら別に間に合うと思うし、駅まで見送り行きますわ。えっ東京までですか?」

「もういいよ」左右に開く自動扉。「――っておい、何」

「先戻っててくださいすぐ行くんで!」

 受付のある階で降りた千代は先に通ってきた通路――薔薇園と化粧室、それから裏口へと続く、昇降機を出て右手側――ではなく、硝子張りの正面入り口に向け走り出したが、反応の遅い第二の自動城門セグンダ・プエールタ・アウトマーティカ・デル・カスティージョの前で詰まるところ足踏みを強いられる。


玄関室ザグアーン――つまり第一城門――を潜り終えると、従士は桜通に続く跳ねぬ橋をまま直進することなくその手前で面舵を取った。というのも薄暗い四頭立て用の屋根付き厩舎エスターブロ・テチャード・パラ・ラス・クアドリーガス・コン・ラ・ルス・テヌーエを東に突っ切れば丁度シャルロッテの休む馬小屋の直ぐ隣に出るのである。

 それから再び陽光の下――いや、この刻限であれば城壁の東側は概ね夏陰となっているだろうか――へと転び出るなり、壁面に穿たれた大穴へと大股で近付いていった。新たに激しく打ち始めた鼓動を抑える術もなく……荒い鼻息が二三度続いたかと思うと、

「……ちょっと」微動だにせず、暫く路上に立ち尽くす千代さん。又候天下に名立たる驢馬泥棒ヒネス・デ・パサモンテ改めサラマンドラの学士サンソン・カラスコにしてやられたか?[訳註:第八章の海岸にて一時ママチャリを消失した事件に加え、二十四章の同じ駐輪場前でもその再現が起こったかと早合点した場面も併せて参照のこと]「ちょっとちょっと」

 どうやらそうではないようだった。

「多動性障害児童かお前は[訳註:差別表現として配慮したか、前傾の《過活動膀胱ベヒーガ・イペラクティーバ》と絡めた《超行動的乳児ベビータ・イペラクティーバ》なる意訳を用いている。《注意欠陥的多動性障害トラストールノ・ポル・デーフィシト・デ・アテンシオーン・コン・イペラクティビダッ》]……天才の真似しても何も肖れんぞ[訳註:意識しての発言かは不明だが、モーツァルトに発達障害の特徴があった史実は広く知られている]」ここでもエティオピア王女は悠々とした足取りで従士の背後を取ったとみえる。「何よ、ドニャ様の帰ってきてねえだろ?」

「……ないじゃん」

「あ?」

「消えてる」

「消えてるも何も……あっち、日陰もクソもねえわ」地面を塗り固める土瀝青アスファールトに接着したかのように一歩も動けぬ仔猫――というのも今ならまだ幻覚の一言で済ますことも可能だけれど、実際手の感触で確認してしまったが最後それを現実と認めざるを得ないからなのだが――に代わって年代物の葡萄酒が眠っているわけでもない地上の酒蔵ボデーガ・ソーブレ・ニベールへと、奇特にも自ら進んで足を踏み入れる酒豪ミコミコーナ。

 おお純潔の聖幹細母サンタ・セールラ・マードレ・デ・ラ・プレーサ![訳註:幹細胞セールラ・マードレ聖母サンタ・マードレを掛け合わせた表現?]半坐家の長女は充電を途中で切り上げ、己が携帯セルラールを左胸に潜ませているとでもいうのか?[訳註:千代さんの心臓が端末の振動機能さながらに早まっているという誇張表現]

「……あれ、メットは? カゴ入れてきたっつってなかったっけさっき――ん?」御子神がカルラマーニャの片耳オレーハ(原註:自転車の握り手マニジャール部分の他に何かを引っ掛けられる部品としては警音鈴カンパニージャが挙げられよう)へと手を伸ばした。「何コレ、帽子引っ掛かってっけど」

「あっ!」慌てて穴蔵へと駆け入る千代さん。「……オンディーヌの」

「オンディーヌ?」手に取って頭上の蛍光灯に照らす。「――とは書いてないと思うが、何だネオ・ヴェネツィアか?」

「ちょっと拝借」

「ん……何メットの代金としてコレ置いてったってこと? 安くない?」

「この兜は……元々このチヨ・デ・ラ・ハンザが遊園地を徘徊してたクソロリペどもの魔の手からお孫ちゃんをお護りした勲功により他ならぬ浜松湖のヌシたるおんじ殿ご本人手ずから拝領たてまつりまつった」概ね嘘ではないけれども、単純に熱中症対策に乏しい従者を見兼ねた老人からの施しが如き代物チースメ・コモ・ウナ・ダーディバといえばより正確であったろう。「――代物にござる」

「ホントお前よくアドリブでそんな意味のない長文スラスラつっかえずに云えるな」

「いえ」

「浜松――浜名湖? ああさっき云ってた……観覧車で[訳註:第三十一章参照]、何だっけふなっしー、違うはまっしーのヤツ」ここで漸く王女が得心した。「あ~あ~そうゆこと」

「来とったんかいわれ……」

「カイワレもモヤシもブロッコリースプラウトもねえわ、チェックインはしてんだから」ミコミコーナはサンチョから《オンディーナ》の庇を奪い取るなり、パタパタと扇いで胸元の暑気を散らさんとした。「さっきチャリ置きに行ってから何分だ……一時間前後か。少なくともその間のどこかでここ来たってこった。よかった~安心したわ、マジ行方不明だったらおねえさん罪滅ぼしにアンドーちゃんの――」

「貸しッ、貸して!」

「――恋人の座を奪わにゃならんとこだったよ!」それでは贖罪エクスピアシオーンならぬ搾取エクスプロタシオーンだ。

「アッ――」

「あ?」

「アルジャン!」[訳註:第十三章のカラオケ店内同様「銀貨プラータ!」と訳出]

「――うっせえわ響くわ![訳註:「待ち惚け喰わされてテ・デハ・プランターダ……イ・ケ?」]」次いで王女は怪訝そうな眼差しを従者へと向けた。というのも主人の無事に欣喜しているかと思えばこの猫――というものは穴さえあれば首を突っ込みたくなる習性があるからこそとはいえ――、兜の内側から依然として目を離さない。深淵アビースモと呼ぶには些か深みに欠けるポコ・プロフンダ・ニ・ウン・アーピセ、それこそ洗礼バプティースモに入り用な水を掬うにしたとて如何にも心許ない容積ではあるまいか?

「ビ、バ……ビバ・ラ・フラワー!」サンチョは指を突っ込んで帽子の中身を確かめると今一度大きな雄叫びを上げた。[訳註:西訳では「カリバチ万歳ビバ・ラ・アビースパ!」]

 ここで《野球帽ゴラ・デ・ベーイスボル》――前庇の付いた帽子を日本人はこう呼ぶのである――の構造を思い返してみよう。ビセーラと接している正面生地パネール・フロンタールの丁度裏側、ここには汗取り帯バンダ・デ・スドール[訳註:日本ではスベリなどとも呼ばれる内側の淵の部分]にて折り返される形で補強材レスフエールソを仕込んでいる商品が多い。子供ならば――自動車の運転席や助手席の頭上にあるあの蝶番付き板タブレーロ・コン・ビサーグラスを想像してほしい――下方に向けて両目の前に飛び出させ、日除け代わりにしたりもする――色眼鏡じゃあるまいし殆ど目隠しも同然ではあるのだが――この網目織りの小板プラキージャ・デ・マジャには、薄い物であれば帽子の内側に挟み込んで保持する留め具クリップの機能も備わっている。筆者自身試したことはないものの、理論上そのようになる筈だろう。

 換言すると、千代さんは先達て財布の中身を確認した時と同じ要領で――則ち二本の指で押し広げて――その隙間に何が挿まっているのかを確認したのである。

「よかったちゃんと入ってる」

「何が」

「いえいえこちらの話で」封筒の口から指でも突っ込んだか、中の紙幣を指の感触で慥かに認めたようだけれど、それそのものを兜の中から引き出して見せることをしなかったのは恐らく王女の目を警戒してのことに違いない……そう筆者が邪推したところで異論を挿む向きが読者諸兄の中におられようか? 節約すればママチャリの郵送代にも回せる資金だが、ここで露見したが最後気前の良い年長者に昼食をご馳走になろうという中学生にしては少しばかり懐が温すぎるという事実が明るみに出てしまう。「お前さんもお久しぶり――の塩焼き。さあさあ麗しのドゥルシネーア様にとっととこの吉報をお持ち帰りましょうぜ」

「いやブリなら照り焼きだろが!」

 やれやれ、それではこれまで行方知れずだったラ・サンチャの蜂が実際には付近に潜んでいたことではなく、従士がネクロカブリーオの兜に隠し持っていた諭吉翁ビエーホ・ユッキの無事が別の兜の中に確認されたことの方こそが彼女の云う《吉報ブエーナス・ノティーシアス》であったかのようではないか!

「ご本人持ち帰れるでもないのにそんな滅法勝ち誇った面見せんなやイラつくな……十秒前までシオシオだったのは何なん?」

「お浄めですよ……ほらほら塩! 塩でも撒いといてください!」

「土俵入りならひとりでやってくれる?」

だが皆さん、サンチョの笑顔もそう長くは持続しなかったのだ。


いくら宿泊客だからといってそう何度も出入りを繰り返しては従業員の目にも不審に映るのではないか……そのように考えたかどうかは定かでないが、ギネア女と千代さんは南回りに城壁を伝って食堂に戻る経路を選択したようだった。おや又従者の心拍数が――いや今度は本物の携帯端末である。

「うっるせえな今戻るよ、あと一分弱」着信を受けたミコミコーナが吐き捨てるように答えた相手は間違いなく馬場嬢であろう。「……何でだよ充電してんだから部屋置いてきたに決まってんだろ。ホテルの備品持ち出してわざわざ外の飯屋で電源パクって充電とか二重に厚かましすぎんだろが」

「……ん?」

「――たりめーだろ、コンセント繋ぎっぱだよ。分かってるって忘れねーだろまたどうせ着替えに戻んだから」

 便利店に差し掛かる手前で俄に立ち止まる猫の従士。

「いやホウレン草もチンゲン菜もねえべ」便利店を素通りするも、自動扉は律儀に反応して内部より冷風を戦がせてくれる。「どうせ電話掛けるならこの偉大なる大根――大ミコミコン国女王の労をねぎらう意味でもな、お前じゃなくお姫の涼やかにして澄み切った美声でだな……あれ、どこ行った?」

「おかしいだろ」

「おかしいのはてめえだ、独りで勝手に一時停止すんな、姫がお待ちなんだぞ」先程も聞こえた入店客を迎える為の電子的な音楽ムースィカ・エレクトローニカ・デ・ビエンベニーダ・ア・ロス・クリエーンテスが絶えず鳴り響く。あと四十歩も進めば食堂であろうに、どうせ立ち止まるならたった数秒でも空調の恩恵に肖ろうという算段なのだ!「――って切りやがったこいつ何様……お菓子なら飯食い終わってから買えな、どした?」

「風呂屋のおっちゃんが見つけんならチケットなんかよりもまず充電器だろ」

「……なんかってアンタ」替えの利かぬ昵懇の招待状インビタシオーン・デ・トゥテーオ・イレエンプラサーブレを《なんかアルゴ》とは……自然に鎮火してくれたものと高を括っていた火種ブラーサスはいまだ燻っていただけとみえ、今まさに目の前で再燃し始めている。「ゴチャゴチャしてる洗面台周りよか床に落ちてる紙切れの方が目立つんじゃねえの普通……つかそもそも営業中の女湯の脱衣所で忘れ物気付くっつったらおっちゃんより先に利用客の方だろうし、動線上にある足下のがよっぽど目ぇ行くべさ」

「それはそうか……ですよね」然れど末妹の方は依然として腑に落ちぬ様子。

「俺らが出る頃には結構混んできてたし」行進を再開するふたり。御子神嬢は右手にて営業中の鶏料理専門店の看板に一瞥を呉れながら(止せばいいのにダンド・ウン・パソ・エン・ファールソ)以下のような軽口を以て従者を急かした。「ほらまた名古屋ニコーチンが電話掛けてきてもウザいからさ」

「これ何て読むんでしょう……霊柩車のキュウ?――は《久しい》か」千代は一時間半前のニコーチンがそうしたように、不用意に足を止めてしまう。「ハマッシー、ハマチってこんな漢字じゃなかった?」[訳註:泥江町通上の便利店と食堂間に建つ料理屋の店名は《名古屋コーチン樞》]

「もしかしてカマチのこと云ってる?」これは半坐家や浜名湖岸のうなぎ屋にもあった玄関口の上がり框ポールチェを指し、通常日本人はここで下足する。「これ《しな》って書くのは《メ》の旧字体だろたしか」

「メ?……目にはメニー、メニューを?」

「歯にはハニーをじゃねえよ……つってアシも『黒執事』の作者の名前でしか見た記憶ないけど。待て――あっほら、ドゥルシネーア・デル・トボーソで合ってた」思い出せない単語はその場で検索する――これはエル・トボソの姫君の教えだが、そもそも《生きグーグルグーグレ・ビビエーンテ》ご本人がその場に居らぬ限り自分で調べるより術がないのである。「ドニャ・キホーテの家来のお前さんが読めないのはマズイっしょ」

「目には目ヤニーを……」

「汚えな、つまりサンチョの目は節穴か」

「そういう殿下はふしだらな目をお持ちのようで……いや、く――」店先の灯籠リンテールナ・フント・ア・ラ・エントラーダに鼻先を近付ける猫の従士。「《くるる》?って書いてますけど」

「あれ?……そういや枢木くるるぎスザクの《枢木》って同じ字だっけか」

「朱雀(原註:中国の不死鳥フェーニクス)……コーチンの品種?」

「じゃなくて、知らない? ランスロットに搭乗する――つかご主人も何か云ってたべ銭湯で」この娘も中途半端に記憶力が働くことよ!「何つったっけランスロットの穴を……ガウェインので埋めるみたいなBL臭いことを」

 浜名湖では《湖の騎士カバジェーラ・デル・ラーゴ》の異名を取ったラ・サンチャのドニャ・キホーテのことだ、ランサローテ[訳註:湖精に育てられたという逸話を持つ騎士は後に《湖のランスロットランスロー・デュ・ラック》と呼ばれた]を引き合いに出した件も或いはあったやも知れぬ。しかし仮に事実であれば、少なくとも[訳註:アーサー王の妃を奪い出奔した]ランスロットの穴を埋めた人物こそが彼に三人の弟を殺されて復讐に燃える嘗ての盟友ガウェイン卿だったと、こう述べたに相違ない。[訳註:第十一章を読み返すと夕闇では威力を失うガウェインに代わり自分が先陣を切ろうというような文脈で触れたに留まり、ランスロットの出番はない。尚ガウェインについては関西弁の男女と駐輪場前にて再会した第二十八章でも言及あり]

「うちのメガネザルじゃあるまいにラ・サンチャの騎士ともあろうお方がそんなお下劣な話をしますかいな」フンと鼻を鳴らして歩き出す従士。《たくさん槍で突くランス=ア=ロット》とは成る程、どうしてなかなか如何にも含みのある美名ボニート・ノンブレ・タン・インプリカティーボではないか。[訳註:但し西語綴りがLanzaroteである点には注意]「そうじゃなくてもオカマ掘りにゃ岡崎の女王様関連以外で少々トラウマがあるんすよ」

「そこまでは知らんがな」ここでもギネアは凝りずに余計なことを付け加えた。「長槍ランスといえばあの小洒落た日傘は番台の傘立てに忘れてこなかった? ちゃんと回収してたっけ?」

「いやあの後アンタ一緒に寿司屋行ったんでしょうが」《聖蜂の針アグーハ・デ・サンタ・アベーハ》ことドゥランダルテの喪失を知らぬ筈のミコミコーナの口から新たにオカマ掘りカバドラカーマスの心的外傷を掘り起こされた千代は、当該の事件に関して告白する代わりに頭を軽く前傾させて以下に続けた。「……その節はお風呂とお寿司ごちそうさまでしたぺこり」

「だって君ら財布を出す素振りすら見せんのだもの致し方なく」

「財布は出してましたよ。金は出さんかったかもだけど」《狂気の沙汰も金次第ポデローソ・カバジェーロ・エス・ドクトール・ディネーロ》[訳註:直訳は第十一章で引用されたケベードの改竄を参照されたい]。「……つか昨日まで私が財布預かってたんよなずっと」

「あと十歩! 中入ってから考えなよ!」

「いやちょっと、財布ン中には入ってなかった……じゃドンニャは紙ラドゥンどこ入れてたんだ?」

「ダメだこりゃ」ここまで来れば交差点の斜向いに建つ南西側の建築物の加護の下、陽光の猛威からは遮らているのかもしれない。とはいえ気温も湿度も高いのだから一刻も早く空調の効いた屋内へと避難するに如くはないのだが……口の悪さとは対照的にすこぶる面倒見の良い長姉神ウルズ末妹神スクールーを置いてとっとと再入店することもなく、腰に手を当て彼女の前進を待ってやるのだ。

「アビエにはポッケの類い付いてないし、水着のカップに挿むとか……って脱ぐとこ見てたし」これは入浴前に三人並んで脱衣していた時分の話である。サンチョは己の職務を全うせんと務める大方の従者がそうするように、甲斐甲斐しくも主人の介添えを買って出てすらいたのではないか?「となると……あ、私が貸したキュロパン[訳註:第二章の半坐宅で花が《膝丈脚衣オー・ド・ショース》と称したもの]にはポケットあった――けど、洗濯物出す時の癖で中に手ェ突っ込んだから空だったのは憶えてます」

「そうなんだ。じゃあ続きは中で」

「他に中に持って入ったもんといえばイポグリフォに付けてたポーチだが……お風呂屋入ってから一回でも中開けてたか?」これは《魔法の板タルヘータ・マーヒカ》が入っていた腰巾着リニョネーラのことだ。恐らく箱根連山スィエーラ・ハコーネでの気違い沙汰の折に従者の手へと紙入れを預けた際にも[訳註:第六章参照]、この物入れだけは愛馬の鞍に結わえたままであったとみえる。「……あ、トイレ」

「まったくどうして最近の若ぇモンは財布の紐だけはあんな固いのに尿道の括約筋だけはそうもユルユルなんだよ!」遂に食堂の玄関扉の取っ手へと指を掛ける王女。「さっき出しとけよな……ほらお店の使わしてもらいなさい」

「その前に――」千代は御子神の上衣の裾を引いた。「私が和式にまたがってお花に水やりしてる一分弱の間に、おふたりは一体何を話してらっしゃったんです?」

「え?……そりゃお花摘みの間っていやあ――何だアレ、蜂の蜜溢るる約束の地で」

「罪作りな密約でも交わしてたってんじゃあないでしょうな」

 何を糸口として斯様にも素早く鋭い勘を働かせたものか、然しもの大ミコミコンが正嫡の知慮を以てしても直ぐには思い当たらなかったに違いない。ギアナ王女は詰まるところ、これ以上の誤魔化しも詮無きものと判断し、終いにはことの次第を明かす覚悟を此処に決したのであった。


此処な稀なる真実の書『冒険狂たる蜂の騎士カバジェーラ・アベントゥレーラ・デ・ラス・アベーハスドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ』をここまで息を詰めてレテニエンド・エル・アリエント、若しくは鼻を穿りながらピカンドセ・ラ・ナリース紐解いてこられた辛抱強き者たちロス・ペルセベラーンテスよ、物語は着々と終焉に近付いていようぞ。

 というのも我々は今まで《研いでは磨きピカール・イ・アフィラール磨いては研ぎアフィラール・イ・ピカールしかして芝生は雑草塗れイ・エル・プラード・スィン・セガール》だの《猫の尻尾を尖らすアフィラール・エル・ラボ・デル・ガートそれは馬鹿のやることエス・デ・メンテカート》だのいう格言が示す通り一見して無益に時間を浪費しただけかのように思える一方で、猫の従士が物した《狩蜂に刺される夢スエーニョ・コン・ピカドゥーラ・デ・アビースパ》[訳註:自身に降り掛かる危険への不安を表すとも、親しい人間に裏切られるなどの不幸を予知した凶兆とも謂われる。但しこれはスズメバチ等の大型種に限った迷信で、一般的なアベーハの夢は寧ろ吉祥だとする向きもある]を、憎きフィンランドのパンダに国を追われ毎夜忸怩たる思いで枕を濡らすアフリカ王女の寝床レチョの上でもなければ屋根テチョの下でもなく、他ならぬ半坐千代本人が、アポロンの矢が降り注ぐ名古屋の石畳の上で、目を開けて見る羽目に陥るという本稿切っての重要な場面まで到頭漕ぎ着けてしまったことも又、揺るぎなき現実だったからである。

 然りながら筆者もここに心中を開陳せざるを得ない……ダメ・ヤメテが[訳註:つまりペニンポリが唐突なる電文の添付にて]送って寄越した音源に収録されし物語の結末までを敢えて聴取せぬままに見切り発車で執筆を開始したのも、或いは過ちだったやも知れぬという無様な泣き言ケハ・トールペ・デ・アフリクシオーンを。何故かといって、阿僧祇花が依然として千代たち一行と合流せぬ内に道中記の幕が閉じるようなことがあれば矢張りこれは甚だ後味の悪い大長編となってしまうし、ここまでお付き合いくださった皆様にも申し開きが立たぬ。何より小生自身、少女騎士の行末が気掛かりで如何にも座りが悪くて敵わない。せめて誰か道連れと行動を共にしてくれさえしたら、少なくともその消息だけは辿ることが叶うのだが……最早セビリアの罰当たり共との馬鹿げた決闘の約定に望みを懸けるより他には一切手がないとでも?

 否、下手に救いのない締め括りレスルタード・デサンパラードを知ったが最後、アベンダーニョは仮令大幅に真実を捻じ曲げてでも幸福な終劇フィナール・フェリースをでっち上げていたのではという疑いの声に対し、筆者が胸を張って否定できるほどの自信を持たぬのも又事実――ここは《謬伝は此れを是とせずエロール・デ・トランスミスィオーン・ノ・エスタッ・ビエーン・ビースト》の初心を貫徹する為にも(王女の英断に範を取って)潔く覚悟を決め、運命の車輪が導くままを心して見届けようではないか……


――昏き燕たちならば還ってこよう

--Volverán las oscuras golondrinas

 お前の軒下に巣を拵える為に。

 en tu balcón sus nidos a colgar.

然らばあの黒き後ろ髪は、

Pero aquel negro colondrino,

 羽を休め前言の如く

 aquella aveja que el aleteo refrenaban

 姉妹たちに見入っていたあの蜂は、

 sus hermanas por todo lo dicho a contemplar,

 その名と声を記憶の内に

 aquella que aprendió

 留めてしまった彼女は果たして?

 sus nombres y voces... ¿de verdad?

[訳註:十九世紀の詩人グスタボ・アドルフォ・ベッケルの有名な抒情詩オダリマ五十三』の冒頭部分から始まるが、忠実なのは初めの二行のみで残りは出鱈目な翻案の相を呈している。本章の書き出しでも説明があった通り、本来《シコロコロンドリーノ》は兜の襟首を守る部分のこと]

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