第36章 が当たる事どもこそサンチータを長らく縛り弄んできたものだが、其等の憶え易きに勝りて忘れ難きは、他ならぬ彼の者にのみ湧きし懐裡哉!
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第三十六章
が当たる事どもこそサンチータを長らく縛り弄んできたものだが、
其等の憶え易きに勝りて忘れ難きは、他ならぬ彼の者にのみ湧きし懐裡哉!
Capítulo XXXVI.
De cosas que ataban y toqueteaban a Sanchita durante mucho tiento,
más inolvidables que memorables, ¡para nadie más que para ella sola!
[訳註:《
甲冑に於いて
籠城戦といってもドニャ・キホーテは固守すべき要塞の外に居たわけだから、この時必要だったのは[訳註:壁上部に設置する]《
あの長く美しい黒髪とて
いや、セビーリャ生まれのベッケルよ、あの
猫の従士とて幾度も忠告していたであろうよ、《
「腹そんな凹んでもない――平らくらいならサークル競馬でもいいけどさ別に」
ところが以上のように壮語した王女の
「ほんじゃとりまサークるか」
「ウマ部は競馬じゃなくて乗馬だろ[訳註:第三十三章終盤に花の所属していそうな部活動に関する言及があった]」千代が大通りの方を顧みつつ以下に続けた。「お城のエントランス見張れるって意味ならあっちのサークラ通りのファミマの方が」[訳註:余談だがこの後
「ファミマなんてそれこそ池袋行けばファッ?ミマ?ってなるほどあんじゃんか!」[訳註:第三十二章では名古屋創業の代表的な飲食店は東京にも支店が多いことから、昼食を取る場所として忌避する旨の発言があった]
「何で三茶のJCなのにブヤとかジュクじゃなくて」ミコミコーナが当然の疑問を口にした。渋谷であれば自転車圏内である。「ブクロが活動拠点みたくなってんのおま?」
「渋谷は怖いし、あと原宿はおねえちゃんの巣鴨だから」
「お姉ちゃん居ねえだろ」
「大須でお座りになる?」
「大須は遠すぎっすけど、やっぱスッペインの騎士さまからしたらさ――」
「うちのドンナは酸っぱいの騎士じゃなくて塩っぱいの騎士ですよ」そして
「ちっぱいはもういいよ」
「そういえばドン・キホーテって最後の方でバルセロナ行くんでしたっけ?」流石は演劇に携わる者、ドゥルシネーアは四百年前の長篇小説にも
「ああはいはい、あの表門と裏門で全然雰囲気ちゃうヤツですよね?[訳註:恐らく伝統的で古風な東側の《
「変なメガネも勉強は専門外ってことだろ」
「ババちゃん桜田門はホラ、皇居の南側……そうだ警視庁とか警察庁あるところ」
「将来お前さんが御用になったら世話んなるとこだぞ」
「世話んならんよ!」これは反論した
「そういや『
「
「違うお兄さんだそれ」
「大英博物館でしたっけ展示されたの」
「あったあったそんなニュース」欧米の主要な
「ここにもV系という新興宗教の狂信者たちが」
「死ぬまでにジーザスブレンド飲んでみたいのよね」恐らく血液と葡萄酒を絶妙に調合させた
「ジーザスブレンドはドリバーで作れるヤツだろ。聖さんのアパートじゃ売ってないよ」
「日本語だとよく聖家族教会って訳されてますよね」[訳註:著者は訳別の為に敢えて直訳の《
「造花を見つけたら片っ端から首刎ねてく生花至上主義の一族かな」
「マッキーはもういいっちゅうに」マッキーとは先述した花卉の
「ガウディが化けて出るぞ!」
「ガウディガウディガウディ……」久仁子が店頭で小刻みに移動したことに依って自動扉が開いた。
「それカバディ」
「いやお前こそマグダラのマリアに謝れや」おお、《
「そっちのマリア様はお母さんの方だとは思いますけどね[訳註:又この他にもイエスの周辺には、しばしばマグダラのマリアとも同一視されるベタニアのマリア、聖母マリアの姉妹とも目されるクロパのマリア、母マリアとマグダラのマリア及びクロパのマリアと共にイエスの磔刑にも立ち会ったという通称《
「こんな炎天下に突っ立って風俗の話してるくらいなら、とっととサークルカバディ入って食材でもお菓子でもいいから調達したらいいんじゃないかな!」涼を取るには理想的だが、外と同じ感覚で騒がれでもしたら店員にとってこれは極めて迷惑に違いない。「サグラダ・ファミリアからはもちろんすぐそこの桜田通りファミリマよか近いぞ」
「それはそう」何しろ一歩踏み出せば店内なのである。
「どけよ冷房逃げるだろ。営業妨害だぞ」
「とりあえずグルっと一周だけして、良さげなお店なかったらコンビニで何か買って」安藤部長がひとり建設的な提案を物した。「――お城のラウンジ借りて食べさせてもらうっていうのは? パンとかおにぎりくらいなら平気でしょ」
「ルパ~ン三世」
「つか連泊してんなら別に客室入っても怒られないっしょ」料金分以上の人数で夜明かしすれば違反だろうが、昼日中の来客数人すら咎め立てされる謂れなどないというのも一理ある。「まァどっか入っても地下とかじゃなきゃフロントからの電話も取れるだろうし」
以上のような、或いはそれに類する
便利店を過ぎて二エスタディオ足らずも直進すれば
「チヨさんほらコーチン」馬場嬢が路面店の看板を指差しながら相方の肩を叩いた。「ウィニー・ザ・ナゴヤ……違うウィーニー、あっコーチンだからニーウィー・ザ・ナゴヤ?」
「ダメだこいつウィーニーネタ相当気に入っちゃってる」箱根峠を下っている折にサラマドラの学士が言っていた《
「ってうちら以外シモネッタだと気付かんから大丈夫やろ」教室内の風紀の乱れを慮る中学生の気苦労をそのような
「さあ……名古屋のウィーンって今晩のライブにピッタシなんじゃないですか」
「ぼ、棒読み!というか投げやりな答えだ!」
「棒読み無表情は演技の基本と心得ております」[訳註:《
「おっ、こんなところでお姫の演技論が……」若き女優の貫禄に思わず感じ入る年上のミコミコーナ。「つってそもそも能面ヅラってそういうことよな」
「おっしゃる通り」
「まあお前さんだって曲りなりにもニコーチンを名乗るからには――」肩に置かれた手を払い除けてから今度は相手の肩に手を乗せ返して、「ニニーウィー・ザ・ババとして生きていくがいいよ」
「ニニーウィ――って言いづらっ!」それでは古代メソポタミアに栄えた都市である![訳註:アッシリアの地名Níniveの日本語表記は《ニネヴェ》]
「当てがウィンナーならビール一択なんだが」
「あれ、ウィーニーがニコチンコでニコシッコはウィンニー?でしたっけ……違うウィーリー、ウォーリー?」
「ウィーウィーじゃないの」先程の猥談では出なかった英単語である。[訳註:前々章で話題に上ったのは大便と男性器の幼児語のみ。一応小水を意味するweeweeも第八章冒頭で花が一度だけ口にしている]「ウィーとかピーとか、ちっちゃい子が発音しやすい感じの」
「じゃあパーがパーでピーがしっこでプーがうんこでペーが林家で……ポーが残っちゃた」
千代さん、今直ぐその
「江戸川乱歩のパクリ元だろってか自分でニコチンコって言うなよ」こちらは流石に他の学友の前では口走らないに如くはない造語であろう。「お前次下ネタ言ったらうちらにアイスかジュースな」
「えっひとり一個?」
「あと何でもいいから歩きながら話せよ、いちいち立ち止まんな」
「あっミコチンパイセン、ビールNG発言からの――」今度は猫の従士が王女の袖を引いて
「ん?……おお、ワインワインじゃねえか!」釣られて仰ぎ見るミコーナ姫の頭上に午後の陽射し受け燦然と照り返る
「そんなウィンウィンみたく言われましても」
「ワインにだってカリウム沢山入ってるでしょうから、」博識の部長に諭されるまでもなく、
「ワインワインでウィンウィンでしかもウィーウィーとな」
「しかしヤツにはポリフェノールがある……」そうギネアは反論したが、
「水を飲みなさい水を」
「チョーサーならカンタベリー……ジュース」
「だばフォッカッチョならデカメロンソーダだよな」ニコミコーナス姉妹は凝りもせずにその書名以外は生涯読むことのない書物の名を挙げた。「まあ姫よ、飲む前から出す話ばっかしてたらウィニーが笑うってな」
「飲まぬワインの
「土日十五時から、書いてる」
「ほんまや。土日で助かりましたやん」そう云いつつも千代さんは店頭に広げられた品書きの一部に目を走らせながら以下に続けた。「しかしこういう店は……一品一品オーダーしてたらひとり数千円とか軽く超えるのでは。ランチタイムとかないのか」
「あっても三時にランチはねえだろ。流石に酒の分とかは自分で払いますけど」
「説明しよう」ニコが友人の心中を代弁する。「サンチョさんは今晩物販もあるからなるだけ今から財布を軽くしたくないんですよ」
「ああお布施か……チェキ千円とかそういう?」
「そういう惰弱なもんはないって云いませんでしたっけ?」云ったには云ったが云った相手はカスティーリャ女王である[訳註:第十八章参照]。因みにCheki(Check-It)とは商品名だが、
「じゃあもうマルケーでいいじゃねえかよ……」座りたいとゴネたのは従士だけれど、そもそも食材を仕入れて
「なんか……凄い最後の晩餐感ありますねその響きだと」
「うなぎ自腹は無理がありまする」
「ひつまぶしは騎士さま来たら喧嘩しちゃうかもだしな」[訳註:武士だから?]
「駅の向こう側にデニーズランドありましたよね」
「サイゼだろ」朝食を取る前に一行が素通りした料理店だ。[訳註:第二十四章参照]
「いやデニーズもあった。サイゼの一本向こうに」
「一本向こうの話はいいよ」太閤通――則ち西口――側に出てしまうと騎士が帰還した折に又行き違う恐れがある。「コンタクト遠視気味なんじゃないの」
「左右一・〇だが。こっちのはもっと視力落ちてるかも」ニコは
「知力もな」
「流石にホテル内のごはん屋さんはそんな安くないでしょうし」城内の食堂については従者も昨夜の時点で探索済みだ[訳註:第二十二章の末尾、千代は受付で携帯の充電器を拝借したついでに目ぼしい食事処を求め地下を徘徊している]。安藤さんは北の方向を見遣りながら後に続けた。「そこまで歩いて何もなければここかコンビニか決めましょう。朝もヘカトンケイルも奢ってもらったし、お昼は私が出しますよ」
「そのような……うちのドンニャに叱られます!」
裏切り者の馬場久仁子や年長者たる御子神であれば幾ら
前触れ無くニコがサンチョの兜を叩いた。
「ちょっ、叩かんといて」
「そいやチヨさんさっきのフッキーどした?」
「フッキー?」品の無い名前である。[訳註:Fuckyと綴られている]「誰のことです?」
「フッキーとゆうかユッキー」
「さあ何のことだか……マッキーであればもう違法薬物の摂取行為なんてしないなんて言わないよ絶対と歌っていたが」
「逮捕されたんはともかく歌の方知ってるのは古すぎだろ」花を愛する男たる者それが仮令
「閉まってますやん」
「ハハ……ここにもマッキーが言いそうなこと書いてる」想像するに
「《色んな形の花びらより~そってひとつのさく~ら》――めっさ言ってそう」[訳註:«De distintas formas de los pedales acostumbrados se compone un cerezo en flor.»《様々な形状の使い慣れた
「寄り添ってでしょ……花びらの何を剃毛すんのさ[訳註:「«De los pétalos acumlados»... Y ¿qué tipo de cereza se compone de esos debilbichos?」「《
「おもてめし屋……あっミコさんミコさん見て」
「デコはお前だニコ助野郎……おっスペインバルじゃん。ここにすっか」
「余裕で閉まってますけども」
「ありゃ三時まで? タイミングわろすタッチの差で終わっちまった?」
「深夜三時までだよ。メガネでも遠視過ぎてんじゃねえか」
「そりゃこの時間から酒場繁盛してたら名古屋終わってまうだろ」日本には就業時間の合間に取る昼食で――それが
「いや歩いても五分掛からんと思いますけど――っておい元気か」
「パイセンこっち中華」
「中華?……あっし紹興酒とかあんま好き、く――雀荘じゃねえか」身を乗り出すと桜通の往来が望めた。「レンガってことはもうホテルん端っこなのね」
「ああ、あの雨除けシェードみたいなとこがさっきお手洗いの横にあった裏口なんじゃないですか?」
「そうだ薔薇園のとこの」皆さんにはアンジェリカの指輪を口に含み城内に潜入したドニャ・キホーテが、一階受付横奥の手洗いから現れた両姫に周章し慌てて身を隠した件を思い出していただこう。[訳註:第二十八章参照。但し便所の出口から現れたのではなく、あくまでその奥に施設内の食事処と化粧室がある一画から不意に姿を見せたというだけ]
「薔薇さま……私立リリアン女学園?」
「リリアンは百合だと思うけど[訳註:人名Lilian/Lillianはラティン語lilium《
――
「サンチョ!」
「はいっ」
「お前とっとと反対側行ってチャリ置いてこい」
「蹴らんでよ」
「カバレロ、ジョー・ヤブキハスデニモウ死ン――
「はい?」
「燃えつきた……ってヤツやね!」
「ダガ私モモウ
「……お、おう」従士は促されるままシャルロットの鞍に跨った。「絶対王者かよ」
畢竟、敢えて
さて、十分かそこら前に受けた母親からの
しかしながら
進行方向のまま、則ち北回りに城塞の東側へと戻ってきた千代は、果たして厩舎の前で煩悶していた。
「……う~む」
案の定イポグリフォの尻尾は垂れておらぬ。それ自体は予想通り――というより当然の有り様だったわけだけれども、そうなると午前中に部長姫が目にしたという自転車は単なる見間違いなのか、若しくは何らかの意図に拠る虚偽報告か……最悪なのは、エル・トボソの姫君も従士の主人と同様の
「あと」千代は携帯を手にすると液晶画面を見下ろした。「――三時間、とちょい」
大きく嘆息してからシャルロットの後肢の蹄鉄に施錠すると、その背をポンと叩く。
「――あっそうだ」
自動扉が開く。だがこれは
ところが半坐千代は二つ目の敷居を越える前に踏み止まった。
「ん~?」暫し首を傾げた後に
跳ねぬ橋を一足飛びに走り抜けた猫の従士は桜通沿いに踊り出るや、一応有料駐輪空間を一瞥しつつ馬小屋へと――ネクロカブリーオの兜を矢張り小気味好く踊らせながら――駆け戻るのだった。
「……シャロ」弾んだ息を整えてから――「頼む」
数秒の休息を挿むと、今度は
「……ん?」厩舎の丁度反対側――城郭の西側壁面――に位置すると思しき中華料理店の前で急停止した従士は、無理が祟ったとみえ一時酷く
どうやら早駆けは
「いや待っててよ」
来た道を引き返すが流石にもう驢馬の足を借りず飛び跳ねる余力は無いようだった。角の
自動扉が開く。[訳註:無論コーチン屋ではなくその又隣の便利店の、である]
「いらっしゃいませー」
千代は単身入店し、今度は屋根のある極めて狭い
「おらん――」陳列された食料には目もくれず左右に首を巡らせる。「――やんけ」
競争相手も居ないのに店内を何周したとて不毛なだけだ。
――自動扉が開いた。
「らっしゃいませ」
ところが彼女は店外に出ることなく右折する。どうやら
しかしサンチョは通りに面した雑誌売り場の一画で歩行を中断し、下を向いて身を固くしたかと思えば一切の身動きを止めたのだった。先刻
それとなく後方を振り返る。安全を確認すると、千代は顔を伏せつつも慎重に出口へと急いだ……自動扉が開く。
「ありがとうござ~ました~」
今度はちゃんと店外に出てから右へ折れる。そして硝子張りの壁面を通過し、店内からは死角に入ったとみるなり――ラ・サンチャの
三十秒後――
「またトイレ……」[訳註:第二十六章に記された客室内での経緯を参照のこと]
半坐千代は主従揃って昨晩宿泊する手筈であった――そして今晩宿泊する予定でもある――牙城の一階奥に造設された《
日本で《
こちらは
それから三分間[訳註:但しこれは入室から退室までに要した時間]、息を押し殺し身を潜め続けた――千代さんではあったものの、流石に馬鹿馬鹿しくなったらしく然も忌々しそうに鼻を鳴らすと、自分相手の
「居るわけがない――わけで」
薔薇園の入り口を素通りして待合広間まで出ようとした――若しくは昇降機前に?[訳註:ほんの数分前に玄関の自動扉の二枚目で引き返しているが、そもそもこの立ち寄りが受付で花の到着の是非を直に確認する為だったのか、それとも一旦客室に戻ろうとしたのかについては不明]――自分の掌で突然端末が振動したものだから、モンテシーノスで被った心的外傷で些か神経質になっている千代は思わず「ちぇい!」と
着信者の表示を確かめ舌打ちを鳴らす従士。
「……パイセンパイシンに悪いよ[訳註:《
「すぐ行きますて。えっと一分くらい、ほんじゃ」
千代は電話を切るなり直ぐ玄関口を向いて立ち上がったものの、「おっと」と呟いてくるり踵を返し、西側の裏口へと向かった。一分で目的地へと辿り着くには最短経路を選ぶべきであろう。
とはいえ《
[訳者補遺:著者が私見を提示しないので敢えて訳者個人の解釈――というより推測の域を出ないのだが――を述べさせていただくと、千代さんが先程便利店の出口で遭遇したのは恐らく本坂峠で主従に絡んだ破落戸二人組……に人相または服装等が似ていただけの全くの別人だったのだろう。真偽は兎も角彼女は自身の心の平穏を保つ為にも、数日前の悪夢のような体験が見せた幻覚ないし見間違いだと思い込もうと努めた――そう考えれば一連の奇行にも幾分筋が通るというもの]
「いらっしゃいませどうぞ」
「サンチヨさ~んぬ!」広い店内の中程で手を振る馬場嬢。「ここなら表見えるっしょ」
「丸見えかい……」窓際あるいは視界の大半を通りに面した大きな硝子窓が占める座席に陣取っているのだろう。窓外を見渡せ且つ椅子に座りたいと所望したのは千代さん自身であるとはいえ、彼の
「かしこまりました、ごゆっくりどうぞ」
炎夏に疲弊した近隣住民や観光客が涼を求め利用しているのか、店はそれなりに繁盛しているようだった。
「ネコ助待ってて飲み物すら頼んでないんだけど」
「別に待たんでよろしかったのに」どうせ待つならば路上で待っていてほしかったところだと云わんばかり。「猫待たんでも猫又とかに化けやしませんぜ」
「二本脚で立って歩いてる時点でお前もう猫又じゃん」
「結局単独でまたハコ観に行ってたのん?」
「何でだよ、この時間で帰ってこれねえだろ」さっき橋まで驢馬を走らせて戻ってきたのに、再度挑戦する理由がない。
「何突っ立ってんの?」
「いえあの、テーブルチャージとか」居酒屋や
「先に立たないなら後から座ればいいじゃない」
「現状そうするより他ないわけだが」他の三名は既に着席しているのである。それともここは
「あっ奥の方座る?」気配りの出来るドゥルシネーアが腰を浮かせた。「そっちの方が通りがよく見えるし」
「姫はダメだ、美女はお酌しなきゃよ!」隣に座ったミコミコーナがエル・トボソの袖を引いて、彼女の
「お酌って……ボトルで頼む気ですか?」
「ボトラーですか?」[訳註:英bottlerを直訳したembotelladoraが瓶詰業者や従業員またはその為の装置を指す一方で、ニコがこれを日本語の符牒――便所で用を足す為に室外へと出るのが面倒になった無精者が飲料の空き瓶を尿瓶として代用する行為――として発言していることを看破した著者は相槌を二文に分け「
「いやこんなとこでヤッたら通報モンだわ……いや自分ちでもヤッたこたないが」年弱の三人は未成年である。「お一人様で一本空けちゃダメか、そうか……」
「止めはしませんが」
「まァ色んなのをグラスで呑んだ方が満足度高いかもな」
「色んなのって色は二択じゃないのか」
「お、お許しが出た」
「«I drink upon occasion, sometimes upon no occasion.»」こちらは台詞を諳んじる為の
「何だ分かってるじゃんドン・キホーテ……どういう意味?」
「いやドン・キホーテの発言かは分かりませんが……原語で何て言ってるかも知らないし」
「つまり飲みたきゃ飲めばオッケージョン――ってこったな」
「ジョンは誰なのよ」
「じゃあ――」部長がもう一度腰を上げたので、
「いえ私は全然こっちで」
「そんなこと云って~うちの隣に座りたかっただけのくせにぃ」
「承りました」始終窓外に目を光らせておらねばならぬとなればさぞや骨だろうに。「最後に会った時とあんまり変わってたら見逃しちゃうかもだけど」
「そりゃもうアナタ、うちのドンニャとネーヤ様なら魂と魂が結びついてらっしゃいますですから」それは赤い糸で? それとも青い紐?[訳註:前章で交わされた
「たまたまタマタマが付いちゃってたからって、ドニャキが僕らの泡ガム姫改め泡ガム王子の性別に惑わされるなんてこともないよね。見た目美少女ならタマの有る無し関係ないってバッチャも言ってた」[訳註:余談だが、二〇一五年時点では日本国内にて未放送だったものの、御子神嬢が引き合いに出した件の米国製慢動画『
「やっと消えたと思ったらまだまだ引っ張るんだ……ミコさんもマーリンの男女逆転魔法相当気に入っちゃってますよね」おお、
「えっどしてです?」
「メット置いてきたんだしょ」自分の首周りに手を翳すミコミコーナ。
「ああ……ヤツはいい加減邪魔なので我がシャルルマーニャのカゴに入れてきました」
「邪魔ってお前、ルトメット先輩はさっき貴様のドタマが生玉子のようにカチ割れるのを未然に防いでくださっただろうが恩知らずな」[訳註:前々章を参照。一応その前にも、宙を飛んだボルランドの携帯を好捕するなどして水没の危機から救っている。ルトメットとは《ルトヴィの印章を貼られた
「誰がルドメットだ」徒ならば無用だし、日除けの為というにも却って熱中症になりそうな防具ではある。「まァ誰も盗らんでしょあんなモン……」
「『狼たちの午後』的な……外暑いし、うっかり銀行強盗とかしてなきゃいいけど」
「強盗する側? 立ち向かう方じゃなく?」
「どっちにしろ問題だ」
「ご注文お決まりでしたらどうぞ」
「あっすいませんまだ――」
「飲みもんだけ頼んどこう」ミコミコーナが品書きを広げた。「タマ姫はやっぱタマリンドジュースでも行っとく?」
「えっ置いてますかそんなの?」
「何タマリンドウて、サヤエンドウの仲間?」
「お前リンドウって花知らない? 青いヤツ」
「こらこら」ドロテア嬢の虚言癖を窘める安藤さん。ペテンに掛ける相手は狂気の騎士だけで充分である。「
「あっだだちゃ豆?」[訳註:《だだちゃ》とは父ちゃんを指す庄内方言]
「いや枝豆の季節だっちゃけども」エダマメは
「甘酸っぱいんですよねたしか」
「茶色くて甘酸っぱい豆って腐ってるんじゃ……つかせめてメニューに書いてあるもん言えよ」千代は首を捻って苦笑いしている女給を見上げた。「店員さんも暇じゃねえんだぞ」
「これスペインってことはカバ?」
「そちらは産地が認定地域外なので厳密にはカバではないんですが~、使用しているブドウの品種はほとんど同じでして、ただ発酵にシャルマ方式という――」
「なるほどじゃあこれのグラスで……
「かしこまりました」
「じゃうちはノンアルコールの赤で」
「あっ一応そちらは――」
「困らせるなよ」
「待て待て、せめて赤色何号とかにして」
「余計困らせてどうすんだよ」客とはいえ子どもの冗談に付き合っていられるほど店が空いているわけでもない。「赤いのがいいならアセロラでも何でもいいだろ」
「赤ワインの色ならコーラとかのが近いかもだけど」混ぜ合わせればカリモーチョ[訳註:これはKalimeroとMotxongoというふたりの男性名、或いは前者とバスク語の《
「はい大丈夫です」そもそも
「アサイーって朝以外に飲んでもいいん?」[訳註:「
「朝から店開いてねえよ」[訳註:「
「じゃあ開店してくださいということで私はペリエにします」[訳註:訳は「《
「あっズルいうちもペリエ!」とどのつまりこの娘は、それが
「勘弁してくださいよ」
「……じゃあそれ三つで、お願いします」
「かしこまりましたそれではお食事の方お決まりになりましたらお声お掛けくださいませごゆっくりどうぞ~」
「「「「は~い」」」」
往来に背を向けた猫の従士が呑気に店員の背中を見送っている間も、責任感の強い安藤さんは恐らく一瞬たりとも窓外から目を離してはいなかったであろう。
しかしこうなってくると――部長には気の毒なことだけれど――先程引用した賢人の
《――
「ブリュットって何すか? ブリュブリュざえもん?」
「食いもんのとこ見ろよっつうか、飯の前にその擬音みたく言うのやめれ」
「八月八日は何の節句?」笹と菊の間[訳註:前章に於ける日本の節供の解説を参照のこと]であれば
「お前さっきの話ループしてるぞ」[訳註:第三十一章、観覧車搭乗直前辺りを参照]
「
「あっハニーサック……何だっけ?」馬場嬢は卓上の籠に手を伸ばす。「ハニーバターうめえなこれ」
「水だけでバゲット食い尽くすなよ」
「セックはどっちかというとドライですよね」まさに名古屋周遊中の少女たちの肉体がそれ[訳註:《
「ありの~」
「今は蟻のハハより蜂のハナだけどな」その後は慥か《
「加糖? あっ濃縮還元ジュース的な?」
「加糖というか補糖って言うんだと思うけど(原註:katō: azucaración, hotō: chaptalización)……カトーとブルトゥスじゃジュリアス・シーザーみたいだなあ」仮令そういった配役であったとしても、親友の胸に
「何で高校生が普通に解説できるんよ」
「あ~なるほど甘いわけじゃあないのね」それは無酒精の葡萄酒も同じことだ。「でも役に立つも立たないも苦いことには代わりなくね? わざわざ砂糖ブチ込んでまでアルコーらないでもウェルチとかドールじゃダメなん?」
「渋いとは言うけどあんま苦いってのは聞かないよね」[訳註:安藤さんの発言]
「メガネ、《ニガイ》ってのは第二外国語ってことね」
「まぎらわしんだよ!」これは嘗て千代も同じ間違いを犯している。[訳註:第十一章参照]
「うち中等部は外国語英語だけなので」
「シロノワールもフラ語ですよな」
「白は日本語だろが」シリが
「おっ、モン・サント=ヴィクトワールですね」
「モン・サン=ミッシェル?」
「モンブランのブランて白ですよな?」同胞を突き放して会話に交じる
「嘘やんモンブラン茶色やんけ。モンブラウンやんけ」
「いやどっちかってと黄色では?」
「でも実際blancってカタカナだとブロンに近いですよね」国際音声記号では/blɑ̃/と表記されている。「brunの方が――発音合ってるか微妙だけど、ブランぽいか」[訳註:/bʁœ̃/若しくは/bʁɛ̃/と発音される。英brown共々語源はゲルマン祖語のbrūnaz《茶色い》]
「アルハンブラ宮殿も白っぽくなかった?」
「ああたしかに壁とか列柱とか、大理石とか鍾乳石とか白の印象強いですよね」メスガキータ[訳註:第三十二章では御子神嬢が素でか故意にかコルドバの
「……行ったことないんだよね?」
「ないです」
「ミコさん飯食った後もまた名古ブラの続きすんすか?」
「しねえよ干からびんだろ」再び
「いきなりケーキ……あらへんやん」卓上に投げ出された品書きに目を走らせるニコニコーナ。「――あっブリュ……レ、があった」
「――で?」御子神が仕切り直した。「どこで油売り捌いてたん?」
「売ってねえよそんなん!」虚を衝かれた従士は
「片ブラって何だ? 片乳だけハミ出てんの?」
「授乳用かな?」
「片プラよかマシだろがい![訳註:前々章参照?]……違うよ! こう、こう――」蜂の騎士にも況して平旦な胸の上で
「もうサスペンダーだそれ」
「サスペンダーつよりスリングショットって完璧ハミってんじゃんよってか」随分と脱線した。「サンチョが油買おうが誑かされようがいいけどお前は食べるモン決まったんかよ」
[訳者補遺:西語訳では以下の通り:
「――
「
「
「
「
「
「
西como una cabraで《狂ったように》。
「食べ散らかそうモンはおおむね」[訳註:「
「じゃあ呼ん――あ飲みもん来た」
先程の店員が
食事の注文を恙無く終えた四つ目が早速面前の瓶の蓋を捻るや、
「ささっ、
「あ……ご丁寧にどうも」展開上、
「あっずっりィ、うちにも注いでたもれ」
「何でメガネをメガミと同列に扱わなきゃならねんだよ」[訳註:《
「階級社会!……じゃあチヨさん!」久仁子が瓶を相棒の前に突き出すも、
「自分のことは自分でなさい」千代さんは既に自分の洋盃を
「じゃあご返杯を……」部長も(
「おっとそこはお気持ちだけで……」慌てて手の平で蓋をするミコミコーナ。「さすがにこんなスプリッツァー見たことない」[訳註:
「いやまァ返杯ってこういうことじゃないですけど」《
「それではミコ先輩おっぱいの感度を――じゃない乾杯の音頭をお願いします」
「寄せて寄せてって爆乳音頭思い出しちゃったじゃんよ……まあそれじゃ、」
「はい?」
「とっととご主人様と合流するように」
「……そりゃもう、モチの
「堂々巡りみたいな」蜂の恋人が何気なく繰り出したこの
「まあまあプリンセス、どうどう……」彼女を窘めることが出来るのは大陸を違えるにせよ同格に列せられる己のみと、大ミコミコン王国の継承者が今一度一同の注目を惹いて盃を掲げた。「期せずして全員泡物を手にしておりますけれども」
「あわわわわ」
「――我等が麗しき泡姫さまのご健勝を心よりお慶びしますとともに、近々目覚ましき戦果を手土産にご帰還なさるであろうラ・サンチャの蜂の騎士ことドニャ・キホーテとの益々のご発展を……あと家来のサンチョとメガネもついでに末永く仲好く――」
「よっ、気が利いてるネ!」
「祝いのついでに呪いを掛けないでください」持ち上げた洋盃を搗ち合わせようと身を擦り寄せてきた相棒を巧みに避けながら、従士が苦しい弁解を物した。「主人同士が昵懇の仲っつってもその従者同士に密接な繋がりは要らんのですよ」
「いやチヨさんチヨさんクソうるせえから」
「そのチヨさんは私ではなくてヤツの
「いやアッチは二世で君が初代ってだけだから」
「ホントに居んのかよ」
「イマジン・ゼアーズ・ノー・フレンズってジョンも歌ってた」
「それは八割方ヨーコのせいだろ……」
「炭酸抜けちゃうよ」ドゥルシネーアが苦言を呈した。
「うちにも
「いやだったらフレームもイマジナれや……私も
「……えっとじゃあこいつらの部分は削除して、おふたりの方はお前百までわちゃ九十九まで、共に白髪が生え――映えあるシラガネーゼにおなりあそばすまでということで」漸く中央に
「もうその話はいいよ!」
「チンチンはビジン語(原註:lengua de las bellas)ですよ」大した記憶力だが惜しい、それは
「言いづらっ……じゃあウィーニーで」
「ウィ、ウィニ~」「「ウィニー」」硝子盃が僅かな時間差を以て、一度二度と細やかに打ち鳴らされた。「ウィニーじゃなくてウィーニーな」
「あやべっ、ウィーニー三種盛り頼むの忘れた」
「来たの食べ終わってからね」しかしドゥルシネーア、胃袋の容量や財布の中身以上に時間が有限であることを貴女方は忘れるべきでないのではないか?「ウィーニーだと何か写真撮る時の掛け声みたいね」[訳註:中南米でも同じく/i:/で終わる«¡whisky!»が主流だが、西班牙では何故か《
「チーーーズは通してたよな今、三種盛り」
「うん」
「やっぱパイセンは乾杯の方が何かと説得力出る感」
「ミコパイの完璧なオッパイなら世のオスどもも完敗するでしょうしな[訳註:翻訳は《
「いや何で頼んだし!」素直に
「こんくらいがいっちゃん飲みやすいっちゃやすいな。シャルドネって酸味強いし」朝食の後にも記した通り、カバを含めイスパニアの発泡葡萄酒でもシャルドネ種を使用している例はある。[訳註:第二十五章冒頭を再度参照されたい。多分
「いや言わないでしょう」しかし豊かな収穫を齎した
「ドイチュ語なら《
「訊いてないよ。つかサンチョはドニャ・キホーテの子分なんだからスペイン語で云えなきゃあかんやろ」
「ドンニャはよく《エスパーニャ!》って叫んでましたが」
「それは国名だろ……」恐らく《
「猫は叫ばんだろ」
「サルーとかサルーテってのは健康ですよね」
「不健康な猿とておりましょう」
「ああなるほど、さすが健康のためなら死ねる連中は乾杯の時も言うことが違うね」いや王女よ、その手の
「サリュっていうと挨拶のイメージですけど、健康の意味もあるのかな」[訳註:西語のsalud《健康》とsaludo《挨拶》も元を辿ればラティン語のsalūsで同様の意味があった。出会った相手に「元気?」「最近どう?」と訊ねることには何ら疑問も湧くまい]
「メガネザリュが急に静かなんだけど」ミコミコーナは対角線上の座席から正面へと視線を戻す。「まァ健康っつうか、長旅の道中安全だったのはえがったね」
「オッサンですな![訳註:第十八章の「
「誰がだよ。おっさんこそ成人病とか、生活習慣病のドンキホーテだろ」読者諸兄には沼津の殿堂にて耳にした《
「何がリアルだよ目の前にいてバーチャルだったらその方が怖いわ――って抓むなおい!」
「さァ次何行こ、最初に何持ってくっかにもよ――」
「爆乳音頭あった!」
「ここで再生すんなよ」何ともそれ[訳註:《
「じゃあイヤホンで聴く……あっそうだ忘れてた」
「オッサンすな……」朧気な記憶を手繰り寄せる千代さん。
「よろしければ次頼む繋ぎで」
「おっ、畏れ入ります……」小瓶の残りを空いた笛型に注いでもらう御子神。「いやあお姉さん肌キレイね」
「お触りは禁止ですけど」
「そんな……ほんの先っぽだけだから」
「何のですか」
「あったパイオツ!」
「お待たせいたしましたこちらお先にマグロとアボカドのタルタル、それからチーズの三種盛りになりまーす」
店員が丁度好い頃合いを見計らって料理を運んできてくれたおかげで、ミコミコーナもこれ以上の痴態を晒すことなく居住まいを正すことが出来たのである。
猫の従士が長い首を伸ばす。
「やったーミコ姫さま枝豆入ってますよ?」
「耳付いてんのかお前。もうね、アボかと」王女は飲み物の品書きを広げた。「アフォガード……はないか。あっじゃあすみません、アロマ――いやちょっと待って、赤ワインの味噌煮込みってあったな……後にしよう、ミラモンテのグラスお願いします」
「ミラモンテの白、かしこまりました他にお飲み物お食事よろしいですか?」
「私まだ大丈夫です」
「アサイースカッシュ」
「まだいいです」
「……かしこまりました以上でよろしいですか?」
「あと何だっけ?」御子神がニコニコーナを横目で睨んで、「――何つったスパイシー……違うスパイッシュオムレツ?」
「えっうち? 頼みたきゃどうぞ?」覗き込んで、「あったかそんなん?」
「じゃあパィ――エリアとか……また後で追加します」
「かしこまりましたでは空いたボトルとグラスお下げしま~す」
「は~い」
「それではもう少々お待ちくださいませごゆっくりどうぞー」
「は~い」
「パイアツならアップルパイっぽくないですか」千代が卓上に品書きを立てて甘味の項を閲覧する。「アップルパイも無いか」
「それも流すなよここでは。出禁になんぞ……」
「いやでも曲名とかそんな色物じゃないっすよ」馬場嬢は自分の携帯の液晶に表示された文字を順々に読み上げた。「……あでも『おっぱいボール』って自主映画っぽいのが」
「エロ物じゃねえか。何だそれ『おっぱいバレー』とは違うのか?」
「ちょい待って」久仁子は動画を無音で再生すると、備え付けの
「お前それアイライナーだろ」
「ババちゃん何でπの最後無駄に跳ねちゃってて」日本語の漢字や仮名文字には、取り分け
「コルセット?」馬場嬢の相槌に思わず天井――何階分突き抜けようと、彼女の一張羅が眠っているのはもう少し北側の一室になろうが――を見上げる猫の従士。「ああオッパイ締めるから?……えっでもこのπも結構勢いよく跳ね上がってますぜ?」
「やそれは隣の乙に合わせてるからで――」
「何の授業だよ」傍らで繰り広げられる不毛な講義を脇目に、ミコが置かれて間もない皿へと早速手を伸ばす。新しい酒はまだ届いておらぬ。「牛すじと後はアヒージョかなあ……オカマン(原註:Ocaman=O-Camembert)はいいけどゴルゴンだとやっぱ赤のが合うよね」
「えっゴルゴン?」――つまりはアイギスの胸当て(ペチェーラ)?[訳註:第八章参照]「……アテネの――ニュンパイ?を護るんでしたっけ?」
「何云ってんの?」
「……部長これ《カイデー》はどうしましょうかね?」空の盃をもう一度煽ってから、ニコニコーナが腕組みして重々しく唸った。「
「パイに合わせるんならこんなのでもいいんじゃない?」
「何何……バツ? 乳にダメ出しすか」逆様になった紙布巾を元に戻し目を凝らす。「……あっ違うエックスか。Xデー? これ何すか、ガーンの口でしょ?」
「カイとデー……こっちはギリシャ文字じゃないけど」[訳註:《ΧД/χд》?]
「ああこれ《デー》って読むんだ……《デーッ!》て叫んでる口だったんね」
「だから何をやってんの君ら?」
「あっそれカビ生えてんじゃないすか」
「うっるせえよてめえで頼んだんだろ!」ミコミコーナがこちらは
「よしきた」
「ババちゃん取り皿」
「サンチョとハナちゃんもあんな感じ?」
「何が?」
「東京からこっち来るまで留年防止で勉強教えてもらってたんしょ?」
「あれ、そんな話してました……?」千佳夫人を通して馬場久仁子には粗方筒抜けなのだから、最早恥も外聞も捨て去るよりない。「もう少し実のあるというか、テストに出ることしか教わってないと思うが」
「カルテットでけた……これカルパッチョってヤツ?」
「カルパッチョも生だけど、こんな微塵切りみたくはしないでしょ」
「あっじゃあガスパッチョ!――ガス爆パンツ・サンチョ!」[訳註:《
「自分のおならに引火して爆死したみたく言うなよ」
「ガスパチョは微塵切りにするけどあれは野菜だしスープね、ビシソワーズみたいな冷たい……はいソースも」
「まァパイオツ相手じゃ秀才も中二も出番なしか……ねえお姫さんパイオースって女神さまいなかったっけ?」
「パイオース……ペオースですかね?」後輩の介添えをしていたエル・トボソが今度は食器を並べながら答えた。「女神というかフサルク――あの、昔の北欧の
「あんがと……」取り分けられた
「はい」
「ちゃんと学校の勉強もしてる?」
「え、何で?」
「ミラモンテお待たせいたしましたー」
「あ、どうも」
「部長ギターとベースとドラムとキーボードならどれ出来ますか?」
「ちょっちょっ一度に色々訊かないでよ……チヨちゃん」
「あ、いただきます」
「バブ姫はおうちにストラディバリウスあるんでしょ?」
「ストランドバーグもスタンウェイもありません」
「まあでもピアノ弾けるし大丈夫か……ミコさんは? レスポールとか持ってる?」
「何が? レスポールもサンポールも使ってないぞ」
「マダムサンポールといえば鉄のコルセットざんす」
「いやうちマジックリンだから」
「ニコラスピアノなんか弾けたっけ?」
「それは部長。うちはホラ、リコーダー三段まで取ってるから」
「平均以下で挫折してるじゃねえか……」《
「いやだからカイデーのバンド編成をさ……」
「対抗意識燃やすな!」
「いやだからごはんはおかずにしませんて」
「そいやカイデーで思い出したけどデカイパーって何の会社だっけ?」
「でかいパイってつまりデカパイ? デザートじゃなくてオカズ系のパイ?」
「パイは三・一四だから……四・二五くらいじゃね?」
「デカは十倍ってことだし約三十一・四ってことなんじゃないの?」
「デカイパーだってば。姫までアホどもに付き合わんでいいよ」
「デカイパー……デカイパー、あっリキュールか何かのブランドじゃないですか?」
「ああそうだそうだカクテルとかに使うヤツか――ってだから何で知ってんの?」
「いやまァたまにカフェのカウンターとかにも並んでますし」上半身を捻って厨房を顧みる甘味姫。「ほらあんな感じで」
「あホントだ」釣られて身を捩るギネア王女。「――いや目に入っても興味なかったら憶えんでしょ普通……一体どんな風に脳みそお使いで~」
「そもそもカイデーなのがこん中で正味一名様しかおらんのだが」この
「まァJAROは怖いし?」だがそれを言うなら本家のパイオツとて男所帯だし、豊かな乳房など――
「タシにホテルの受付とか務まらんと思うけど」それ[訳註:《
「超歌上手そう」
「意外とド演歌ばっか歌ってそう」
「何でよ」
「いやコブシを回すテクニックが」これを聞いたホセ・ミコンドーサが腰を浮かせ、右肘を引きながら拳骨を捻る。「――どうどう! ここはリングの上じゃないぜ!」
「ワイン好きだしコークスクリューだってそりゃもうお手のモンだぜ……まァそこまで歌わんけど、そいや前に『天城越え』で九十九点採ったことはあんな」
「じゃあ『喘ぎ声』歌ったら百点イクんじゃないすか?」
「ねえよそんな曲、ガンズのアルバムかよ」
「そして今度はJASRACが怖い?」
「いやもっとさ、オルタナとかそういう路線の」
「言いたいだけだろオルタナて……あんまギャルバン知んねんだが」
「井上陽水だろ。小坊ん時何かで歌わされたわ」
「いや絶対違うだろ。パフィーじゃねんだぞ」
「まァ俺らはギャバンじゃなくてバンギャだしな……つって!」
「いやギャバンっての初めて聴くわ……それギャルどころか《男、男って何だ?》だかんな」ギネアの姫君もエル・トボソに負けず劣らず存外渋い趣味であるようだ。[訳註:筆者は仏俳優のジャン・ギャバンを指しているようだが、御子神が言及したのは八〇年代前半に放送された日本の子供向け特撮番組の主人公のこと]「あっそだそだ、男といえばNANA中毒の患者は『バキ』とか『カイジ』を読むと自然治癒するらしいよ姫」
「だから中毒じゃなくてニワカなので『バキ』も『カイジ』も結構ですけど、そもそも『NANA』に出てくるのだってどっちもボーカルが女の子ってだけでガールズバンドじゃないでしょ?」
「そうか、そうだな」
「てか《男、男って何だ?》って何だよ……ギャルバン何処行った?」
「だから詳しくねんだって……何だろ、ガチャピンとかスキャちゃんみたいな?」
「あいつバンドもやってたのかよ!……てかムックとのコンビは解消されたんか」ガチャピン(
「俺はピンでやる――てそのガチャピンじゃねんだよ!」《
「こ、こりゃ十連ガチャ引いてる場合じゃねえぜ……いやだから、ミコさんバンメって知りません?」
「貴様がメイドコス着て人前出て許されっと思ってんの?」
「レ、レイヤーの口から出たとは思えんあるまじき人種差別的発言!」
「んあ?」雑談には加わらず、取り分けられた韃靼風の皿を左手に、それから肉刺しを持った右手の肘を背凭れに乗せて薄ぼんやりと窓外を眺めていた従士は、突然名前を呼ばれたものだから首だけ捩じり、気の抜けた鼻声を以て答えた。
「
「バンドエイドは登録商標だぞ」そして数十年前に英蘭で多数の音楽家たちの連合に依り結成された
「……なんで?」
「いや今日こんな歩くと思ってなかったからさあ、踵が」椅子に座ったままで片足を持ち上げるミコミコーナ。[訳註:ニコニコーナの間違い。ふたつ前の発言が御子神嬢のもの]
「いや見せんでいい」
「剥けちゃった?」面倒見の好いドゥルシネーアが身を乗り出した。
「いやまだそこまではなんですけど、擦れて微妙に痛いので」
「き、貴様閣下を足蹴にする気?」
「って別に
「え、あ、うん?」
「何個入りだったか忘れたけど一枚おくれ」
「アレは……セットのお値段で持ってないと、ご利益が」
「何枚でいくら?」[訳註:御子神嬢はそれが適正価格なのか興味を持ったのだろう]
この旅には携えていない、若しくは
話題を打ち切ろうと千代さんが視線を街路へと戻したその時だった。
――ガチャピン![訳註:これまで例えば自転車が倒れ路面に打ち付けられる
「ちょっ!」
「おい、こぼすぞ!」
「タルタル垂るるぞっ」傾いた左手の皿を支えてその水平を保ってやる馬場嬢。
「……どうしたの?」
「いや――なんでも」千代は皿を卓上に戻すと、目を閉じて眉間の下を揉みほぐした。「人違いです……おっとフォーク」
「あっお預かりしまーす」
「すみません」駆け付けた店員に落ちた肉刺しを渡す。「一瞬似たカッコしたモデル体型が歩いてたように見えたもんで……みらもんて」
「ミラノじゃあんめえし名古屋じゃモデル体型そんなに歩いとらんと思うぞ」ミラモンテやミルモンでもそう多くはあるまい。[訳註:Miremontはフランス国内に同名の
「今現在イケメン武将どもなら多少は闊歩してるだろうけどな!」
「――アレ、あの人」
「ん?」
「いや違うか」
「何だよ」
「はあああ」北部とはいえ
「お疲れだね……ご苦労さま」安藤さんはそう言って
「部長姫、うちもお供しやすぜ」
「ババちゃんはさっきお店入った時に行ったばっかでしょう?」猫の従士が己の尻尾を追い掛けるが如く、城壁の周囲をグルグルと周っていた時分のことである。
「いやほらちょっとでも溜まると……さっき言ってた、何だっけ?」ニコは音を立てて排水果水を啜りながら、「――タマリン?に発酵しちゃうから」
「タマリンじゃお猿さんだよ」
「リンド――に発酵しちゃうから」
「発酵すんならたまり醤油だろうよ」日本の醤油には三種があり、それらは《
「やだ奥さん、都市伝説でしょ?」
「知ってる、メモリー効果ってヤツやね」
「それもうガラケーすら普及する以前の電池の話だろ」それこそ
「おい!」
「注ぎ足す[訳註:継ぎ足す]なら全部飲み切ってからにしないと」炭酸水の小瓶を手に取るなり、残っていたのとほぼ同量を注ぎ直して
「新しいグラス持ってきてもらおう」
「いやタシそんな口内に悪玉菌飼ってないと思うんだけど……」《
「代わりにその外にぶら下げてるでかいのふたつが悪玉なのでは?」
「こ、このパイオーツ・カブ・レズビアンが!」
「誰がカリビアンドットコムやねん」
「連れションは共学でもすんでしょ」日本人が海外で団体旅行に参加する際、強盗や
「玉が無いから溜まらない……とな?」
「あっカガミさん……いないわ、てか動画に撮んな」
「いやまその話もお前の膀胱もこれ以上膨らませんでいいけどさ、」己の変態行為が中学生たちの記憶の中で最早充分に希釈されたのを見てとったミコミコーナは、公共の場での下世話な話題を早々に打ち切って以下に続けた。「結局サンチョのメモリアル効果は充電してこなかったの?」
「あ?――ああ、そこまで古かないですけど。つか部屋戻ってないし」従士は荷物を弄って携帯電話を取り出す。「……切れてーら」
液晶画面を擦ろうが
数秒間の沈黙の後、王女が溜息混じりに口を開く。
「……いや、フロントから掛かってくんのお前の番号宛だろ」薔薇園前の手洗いで御子神からの電話を取ってからこれまでの間にもし騎士帰還の報があったとしても、宿の受付従業員には知らせる手立てがなかったことになる。[訳註:勿論その十分間超の間のどの時点で電池が切れたかについては不明である]
「ったくチカさんが謎の電話してくるから……」清正像の前を歩いていた時点で既に残り百分の十五の表示だったのだから[訳註:第三十二章終盤を参照。あれから二時間超経過している]、仮令あの電話がなくとも遅かれ早かれ端末は沈黙していたであろう。「ニコ助さんや、電源のアダプダって持ってる?」
「ニコ助さん持っとるけどチヨさんのとそれ――穴?合うの?」
「えっアイポンしょ?」
「コネクタの規格が変わってんだよ」ミコミコーナが註釈を加えた。「タッチID付いてないってこた4か5の中間くらいってことだべ?」
「それどっか書いてます?」魔法の蝋版の裏表を吟味する千代さん。
「だからお前突っ込む穴が全然横にでかいだろ!」王女が手を伸ばし、端末の上下を逆さまにした。「もちっと自分の所有物に興味持てや、骨董品やぞ」
「年代物つっても所詮は親のお古なもんでイマイチ愛着がね……」その割に岡崎での狼狽ぶりは目を覆うばかりだったではないか?[訳註:第十九章では携帯を紛失した千代が放心する場面があるが、機械本体に愛着がなくともその中に収められた情報に価値がないわけではないし、何よりアマデウスの電子招待状は端末なくしては提示できないのだ]「あっれ~フロントが貸してくれたヤツは使えたんだけど」
「まァメガネのが使えたところでこんなとこでコンセント繋がれても困るんだけど」
「やっぱ飯食い終わったら一旦部屋戻って充電せんとあかんか……」
「いいじゃん、どうせハコ行く直前に着替えたり顔作ったりすんしょ?」折しも携帯と再会した昨朝
「ああ」
「つか今上がって繋いできたら? ダッシュで行けば五六分で戻ってこれんべ」昨晩貸与された充電器は未返却のまま室内の枕元に置かれている筈だから、費やされる時間は十三階の客室との往復のみだ。「ついでにロビーの人に伝言とか、連絡先の変更伝えてこいな」
「それはいいすけど、五六分ダッシュとか軽くマラソンじゃねえですか……」別段走る必然性はない。
「しゃあないなじゃあニコさんが連れソンしてしんぜようじゃまいか」
「なんソレ? 連れなきゃソンソン?」
「だってもう六時までにここ出てハコ向かってなきゃ間に合わねえだろ。二三十分とか中途半端に充電してミサの途中でまた切れたら面倒じゃん」
「ガキどもの居ぬ間に釣らなきゃソンソンという心の声が聴こえた」《
「「つ、つれない!」」
「ハモるなよ」
「猥褻て……乙女の戯れだろ。お前さんホントご主人の語り口に似てきたな」ちょっとした悪巫山戯が随分と高く付いたものである。「ラ・サンチャの騎士には言わずもがな、念の為バブ姫さまにも内密にするように……」
「花とお菓子が揃ってて蜜が無いとはこれ如何に!」
「片手にハナ様のつもりが期せずして両手に花束のチャンス到来したってのに、その花束ご両名にそっぽ向かれて最終的に両手にお前らじゃ、わざわざ名古屋くんだりまで電車乗り継いできた甲斐がないからな」
「両手に雑草でも生やしたらよろしいかと」
「草生える!」風に戦ぐ草原の音が
「いやまァ、女装罪に問われると困る方々が少なくないからそこは穏便にな」[訳註:翻訳では《
「……な、なんならここの払いを持ってもかまわん」
「懐寒々しき中坊を買収なさるおつもりか?」
「悪くない話だろ……告げ口は女の腐った奴のやることだぜ?」
「だからこいつは腐った女ですってば」
「女は腐りかけが一番うまいんだぜ」
「いや腹壊すわ」
「一生のお願い」
「それはうちの持ちネタだ!」
「何だよ持ちネタて……じゃあ一升瓶のお願い」
「一升じゃワインボトルの二・四倍あるじゃないですか」御子神が顔を上げると用を済ませた安藤さんが目の前に立っていた。「いったいグラス何杯飲むおつもりですか?」
「おお姫、おかえり」不在の間に領地を侵食していたとみえ、腰をずらしてエル・トボソを迎え入れる。「一生分のお願いがちょっと訛っただけですのよ」
「何をお願いされていたので?」
「俗に《膀胱にも
「そんなん持ち歩くくらいなら一生トイレ籠もって暮らすわっ!」外出時は
「尿道というか尿道括約筋だろ」
「……まあ我慢は良くないとは思いますけども」
「あっじゃあ――」ドゥルシネーアの
「あらそれはそれは……お役目ご苦労さまです」部長はその場の空気を読み取ったものか、《
「おねが。あと何か」
「合いそうなの……あったまっちゃいません?」
「赤だったらいいよ別に室温でも」通路に出た御子神は従士の椅子の脚を蹴った。「つかそんな掛からないし。十分くらい」
「「増えとる……」」
「おら立て、行くぞ」
「ではちょっくら、お名残惜しゅうはございますが……」渋々席を立つ猫の従士。「しばしのお別れを」
「はーい、暑いの気を付けてね」
「いてらー」
「こらたからないの」
「俺たちのタダ食いはこれからだ!」[訳註:西«¡Nuestra batalla apenas comienza!»《我らの
一方で
先ずアフリカの王女が「ばあ!」と、次いでラ・ハンザの従士が「ぶっわ!」と呻きつつそれぞれ食堂の出口を潜った。
「たしかに五六杯空けてからこの炎天下はヤバいかもね……」とはいえ陽射しは少女らの襟首を照らすのみ、そうでなくとも高々百歩足らずの
「五六杯程度じゃそのおっぱいは満たされますまい」[訳註:《
「母乳は血液から作られるらしいが……あいにく俺のからは赤ワインも白ワインもほとばしらんのでな」[訳註:葡萄酒といえば神の子の血だから? 西訳では《
「血尿みたく血乳ってのもあるんすかねえ」因みに日本語でchi《
「サンチョってつくづく赤白っつうか、白黒ハッキリしてるよなあ」ふたりは城塞の裏門から侵入した。「――なるほどやっぱここに出んのね」
「そりゃ歯に衣着せてたらマスクよろしく物も食えませんでな……全然温度違う」
「それもだけど、表の顔と裏の顔というか」
「そうすかね?」ミコミコーナは従士のどの辺りを見てそう感じたのだろう?「――じゃあラ・サンチャに戻って叙任された暁には《ウラオモテヤマネコの騎士》とでも名乗らせてもらいますかね!」
「まァお前さんは天然記念物というよか養殖危険物って感じだけど……いや可燃物か」[訳註:第十章の時点で既に《
「いやゴミみたく言うなよ」化粧室の向かい、右手の薔薇園を覗き込む千代さん。「ここも美味そうな……ならばうちの旦那ャ様はさしづめ荒唐無稽文化財ですかな」
「お前その咄嗟のヒラメキみたいのって数学の試験中とかには全然発動せんの?」
「つかド天然の蜂の騎士は別格にしても、二重人格具合で云ったら役者とかレイヤーのがそれこそ病気レベルでしょ」
「ハナ様はアッチの人格しか拝見してないから、寧ろ一貫性あるんでは?」
「……それを言ったら」
「もっとも数時間しか会ってないミコミコーナと違って艱難辛苦を共にした遍歴の従者の前でくらいならまあ、たまには素でしゃべったりしてたんかもだけど」
「……はぁ、……まァ?」知らず識らずあの言動こそが
「え? アシも部屋上がるけど」
「いや何でだよ」昇降機を呼ぶ為に壁をひと押しする。「うちのドンニャの残り香をクンカクンカしようってことなら昨晩ベッド使ってないし無駄足ですぜ?」[訳註:第二章で著者が考察した
「お前もガチとネタの区別くらいしてちょうだいよつうか、仮に昨日泊まってても午前中にハウキー入ってんだからシーツも何も取っ替えてんでしょ」
「何ハウキーって、
「《
「うむ、マイク持たせちゃダメな奴ですよ」
「……あ」正面受付に至るまでの十数歩の途中で王女は一旦足を止めた。「三茶に帰って叙任ってのは誰がすんの?」
「誰って私以外の誰がいますよ?」今のところ――
「それはされる側だろ? 叙任するのはよ?」
「あっそうか……そりゃドニャ・キホーテを置いて他におるまいよ」偶さかマルグラーベの騎士[訳註:第一章および三章に花の叙任式の模様が詳述されている]に再会でもせぬ限り、その役目を負うに値する別の人物を都内の何処かから探し出すのは極めて困難に違いない。
「……そういうことなら、」
「何が?」
「すーみーまーせ~ん……」
無用な心配に心を砕くのも甚だ馬鹿らしいと考え直した牝牛の王女は口を開いて返答を待つ猫の従士を無慈悲にも広間の半ばへと残し、
親切な女性従業員が念の為
「ちょっとこの子の携帯電池切れちゃったんで、連絡先自分の携帯の番号に変えていただけますか?」
「充電器借りっぱなしですみません……」
「いえいえお帰りになるまでご使用いただいててかまいませんよー。かしこまりましたそれでは、」覚書帳を一枚破いた婦人は、球書筆を添えてミコミコーナの手元へとそれを差し出した。「――番号の方お願いいたします」
それから半坐千代は、丁度五時間前に同級生を伴って降りてきたのと同じ自動昇降機に、今度は女子大生と共に乗り込んで一路十三階の自室へと向かった。
「ああどうせ戻んならメット回収してくりゃよかったか……」
「チャリ乗ってっ時以外にゃ使わねんだからカゴ入れたままでよくね?」とはいえ実際に役立ったのは、常に従士がシャルロットを厩舎で待たせている時分であった。「ママさんの遺産ってことはそれ三四年は使ってるってこったろ? バッテリー交換とかしてるん?」
「はて……少なくとも受け継いでからは一度も。たしかに夏場とかすぐ熱持っちゃう感じあっけどまァ、膨張してきてからでいいかなと」
「発火すんまで替えねえなこりゃ」
「献上て、おフルのおフルとか流石に失礼っしょ」
「だってハナちゃん東京戻ってもガラケーなんでしょ?」[訳註:第二十六章に於ける安藤さんの証言に拠る]
「ガラケーにはガラケーの……利点というか」ガラパゴス携帯――胃の、否、
「何無理やり一句捻ってんのじゃ……何番?」
「ここっす」尻隠しに入れていた
「くるしゅうない……おおク~ルな室内! 冷房入っとる!」どれだけ
「そこは同感ですけど……案外《
「ホステスは関係ねえだろ」
「こら! 君ら本当に姉妹っつか双子じゃあるまいな?」君らとは勿論ミコミコーナとニコニコーナを指している。[訳註:午前中ニコも同じように寝台への《背ダイ》を試み、相方に阻止された]
「シワ寄ってんじゃん。雑な仕事だな」
「いやうちらがコメダ行ってる間にお掃除の人入ったんでしょ。あのバカがその後寝っ転がったんす」しかし二台ともに皺が寄っているのは、その他にも尻餅を搗いた犯人が居たからに他ならない。「岡崎じゃ地べたに雑魚寝だったから気を遣ってくれたんかしら?」
「お泊りした夜って三人川の字になって寝たの?」
「三人?……ああ女王は朝まで打ち上げだか中打ちだかしてたみたいっすよ」御子神が仲立ちしてくれたお陰である。[訳註:第十八および十九章を参照のこと]「うちらラ・サンチャの弥次喜多だけで仲好く……リの字? アレ何だっけ
「年寄りは朝早いのに?」浜名湖で迎えた朝までは慥かにそうであった。「つかはよ繋げや」
「あそうだ」壁に空いた差込口に嵌められたままの
「馬じゃないん……何お前一緒にシャワーでも浴びたんか?」
「いやアンタじゃねえよ!」仮に
「えっストリップとか演目にあった? そんなん分かってたら流石に誘わねえぞタシも」
「脱いじゃねえよ!……ああケツって私のケツですよ?」
「なんだ見られたってのは受身形なのね」但し下着は付けていたように記憶している。[訳註:第二十章参照]「オカマにケツ見せとか――露出狂にしても歪みすぎだ」
「純然たる事故だよ! どういう性癖だ!」
あの事件は寧ろ、狂女フアナにとってこそ
自らの
「せっかく愛しの舎弟さん来ると思って乙女回路全開で待ってたのに、客席にケツもとい顔を出したのが中坊でしかもメスガキとか……陛下の心中はお察しするに余りあって溜まり溜まってタマリンドの多摩ピューロランドですよ」
「タマタマうっせえわ、お前ホモのおっさんには寛容なのな……女同士だと辛辣なのに」
「えっそこ男とか女関係あります?」
「あと多摩は埼玉みたいでダサいからピューロに怒られっぞ」
「いやそれこそぐでたまに謝れし」
「まあ、男は男でてめえが攻略対象になっかもっていう自己防衛の意識が働いてゲイバーとか敬遠すんのかもしんねえけど」実際
「やっぱ敬遠されてんのか……」畢竟カルデニオ少年に、である。「――何が同じ?」
「やっだからメガネが纏わり付いてきてもめっちゃ拒否ってるから」
「いや別にレズだろうがラムレーズンだろうがいいと思いますけど」焼津の便利店前に主人と腰掛けて賞味した氷乳菓を口内で反芻する千代さん。[訳註:第十二章参照。従士の科白では《
「不憫な奴……いやそういうとこが好きなのかアイツは」何しろ
「いやアンタも相当変だよ……」従士は口元を手で隠しながらそう呟いた。人格障害というものは細分化すれば結局は人の数だけあるのに違いない。「思うんすけど、動物っつか大抵の生物の生存目的って種の保存なわけじゃないすか」
「何だいきなり。ラムレーズンテートル?」[訳註:仏raisin d'être《
「だから死物狂いで川さかのぼって実際卵産んで速攻死んだりさ、あと交尾した直後にメスに食われたりしても一片の悔いなしって感じで身を捧げるわけっしょ?」成る程、
「何で急にオカマをディスる流れになるんだよ。男は子供を産ませる機械か?」それならいっそ《
「逆逆、そういう下等というか原始的というか」恐らく千代さんに性的少数者を弁護する意図はなく、単に漠然とした持論を展開しているのに過ぎないのだろう。それともパロミとカルデニオの――ラ・サンチャとエル・トボソではなく?――
「いやそれはそれで偏見だろ」敷布の上に横臥したミコミコーナが反駁した。「サルとか他の哺乳類とかでも結構普通に同性同士でイチャコラしたり、ばんばんヤッたりってのは一般的らしいぞ」[訳註:鳥類や魚類、一部の昆虫等にも同性間の性行動は確認されている]
「そ――うなんか、すまんヒト以外の動物」従士はそう詫びて己の管見を恥じた。とはいえ《
「中坊が……」如何にも恋愛経験に乏しい十代の少女の言いそうなセリフではある。「そういうガキに限って二十歳そこそこで出来婚とかすんのな」
「あまつさえ子供は要らねえけどそういう……超時空要塞みたいなことするわけじゃん?」
「超時空――何だっけガンダムか?」
「いや……もしくは
「それはキュアブラックだろ」なぎさは
「ホモじゃなくても、働きアリとか生まれた時点でてめえは生殖に参加しない役割の連中も居るわけだし!」人間は
「こっちのセリフだ。働き蟻より女王蜂のこと考えろよ」花の望みは
「化粧付けないでね」
「これがほんとのベッドメイク」[訳註:《
「やめれ」
「飯食ったらニコミ連れてハナちゃん探してこいよ」御子神は寝台の上で無法にもゴロゴロと転がりつつ以下に続けた。「その間レンちょんとふたりしっぽりここで休んで待ってっから……大丈夫ベッド一個しか使わないから、今晩ドニャキが寝る分は新品のまま」
「アンドーさんはまだお若いので殿下ほどお疲れではないと思いますよ」己も寝台に腰掛けた従士は
「そんな愛少女、
「今ワイセツ松の話はやめろ!」[訳註:第八章では烏小路を指して《
「そんな来月末みたく云わんでも[訳註:「
「あの子って舎弟さん?」俄に感興を示す千代さん。
「アイツ割と変な人好きだし……ただ人に好かれるのが苦手というか」
「なんそれ? 難儀な方ですね」
「だからアタシみたく好意の欠片もないもん同士なら別に一緒に風呂にも入れる」
「それはアンタが勝手に不法侵入しただけだろ……」
大ミコミコン王国の後継者はひとつ大きな欠伸をすると、婉容に尻を突き出しながら枕へとその花顔を埋めた。
「あとパロミは別にチョン切ってるわけちゃうから作ろうと思えば子どもは作れんだと思うよ……人工授精とか含めて」
「ああ、カンガンてヤツでしたっけそういうの」これはイスラム帝国や中国歴代王朝の印象が強い慣習だが、実際には古代ギリシャやローマでも採用されていた文化だ。「――ってミコさんパロミさんとも風呂入ったの?」
「いや見れば分かるだろそっちは……むしろ焼津のヤツのがよっぽど性別不詳だわ」しかしこうなってくると、御子神嬢が実際に付き合う男の顔触れが果たしてどういった系統なのかも興味を唆るところではある。「そいやサンチョ飼ってるワンコってペロミだっけ?」
「オスですよ!」
「犬でペロペロとかバタコさん的連想しかできないけど」pero《しかし》やpelo《髪》は二度繰り返すと
「いやそこは……ほら人間だってカンガンとかあるし、中国?」
「あいかわらず世界史の知識偏っとる……」
「うちのもタマリンド取られちゃってますけど、アレは人間の勝手で愛玩動物は人間に愛玩されることが生存目的って決めちゃってるだけだから仕方ないですよ」
「シビア!」
「家畜が食われるために生かされてるのと同じでしょ」時折勉強の苦手な年相応の少女らしからぬ
「文脈的にゲイピーポーが食いもんにされてるみたいで流石に不謹慎な感あるが」
「オカマはその点食われる側じゃなくて食わせる側ですから……コメを!」これは――既にドゥルシネーアが警告しているように[訳註:前々章の地下通路にて、安藤部長が用語の混同について戒めている件があった]――自ら女装者の属性を巧みに活用して社会的な地位を築いている手合いにのみ該当する事例だ。「脳ミソ軽い大抵のヘテロなんざ入れ喰いですよ。テヘペロっすよ」[訳註:《
「一応食われると分かっててまた会わせるってのもなァ……人としてどうなのっていう」
「今のナシで」矢張り従士は
「どっちよ」
「オケラだって虫ケラだって甘えん坊だってみんなみんな生きているんだビバラビーダとリッキー・マーティンも歌っておりますし」
「それはコールドプレイだろ」存外洋楽も抑えているとみえる。「まァ過剰なプレイつか期待はNGにしても、何とか一回くらいなら騙くらかして鉢合わせてやってもいいけどな」
「や、やったぜ……やってやりましたぜ陛下」窓の外――主従に割り当てられた部屋が名古屋駅に面していたらの話だが[訳註:岡崎市が名古屋から見て南東に位置する為]――に眼差しを投げ安堵の笑みを湛える従士。「なるべく自然に……穏便に」
「但し条件がある」
「条件による」
「となるとお前もビバリーヒルズとかズビアンローズとか云うんだったら、み~んなホモダチみ~んなヤンドル![訳註:《
「ら、ラーラさん?」
「もちっとメガネにも優しくしたげなさいよ」おお、半日行動を共にした限りでもミコニコーナスの間には確かな姉妹愛が目覚めているではないか!「その内お前刺されっぞ」
「いやあ私BLもGLも別に悪かないとは思うんですけど、好きになった人が好きでいいじゃんね~っていうか……つってもこれはまた
[訳者補遺:
「何も直接絡み合えってんじゃねんだから――レンハナカッポーのなら有り金叩くけど誰もお前らのなんざ金貰っても見たかないんだし」雪山で遭難し山小屋の中凍えているとでもいう状況なら兎も角、茹だるような真夏の名古屋で肌と肌を寄せ合うのは相当に仲睦まじい友人でも普通は御免であろう。「ニコニコが間抜けなドジ踏んでなきゃこうやってうちら出会うこともなかったわけだし」
「でもだったらせめて名古屋まで一緒に……あっワイハがあったのか……なら渋谷はお詫びとして私に譲るとか」
「ちょいま」敷布の上を転がり落ち地面へと軟着陸した王女はすっくと立ち上がって、「礼を失する前に禁を失っても困るので――」
「殿下には付いてないでしょ」
「たまかずら、溜まるは玉のみにあらず……紫式部」王女はいい加減な歌を詠んでから出口へと歩み寄った。「お花を摘んでから出ますことよ? お借りしてもよろしくて?」
「ああ、どうぞ」
「それとも先程従者さんがおっさってたようにお鼻を抓まなきゃ入れない状態かしら?」
「最後に使ったのがニコチーナなのでね、
「ああ、芳香――膀胱剤の匂いがする」
「――うっせえな訴えるぞ、とっとと執行しろ」
施錠音を聞いた従士は一旦部屋の奥へ戻ると、窓際の腰掛けに両膝を立てて眼下の狭い路地を見渡しつつ「――ったく」と独りごちた。
ふと振り返って足下に視線を落とせば、彼女が百レグアもの間それこそ我が子を背負うかの如く前籠に載せ運んできた車輪付き鞄が起立している。
「シャワー浴びたい!」個室の方からくぐもった声が聴こえた。「浴びてよい?」
「部長さん待ってるっつってんでしょ」掛布団側敷布の上に旅行鞄を横たえる。「なして借りてる本人より先に浴びんのよ」
「そっちは着替える直前の方がいいだろ」
「……そう考えるとやっぱもうほとんど時間ねえのな」
千代は徐ろに荷物の整理を始めた。三茶を発ってから
「よっと」今度は寝台の上に飛び乗って、膝立ちのまま一歩二歩移動した千代さんが充電中の端末へと手を伸ばす。「誰?――ああ、また?……何さ」
楽な体勢で着信履歴あるいは受信した文面を確認しようとでもしたのだろう、バネの効いた
「ちょっ――くっそ!」やり直しである。「こら~ミコねえさん!」
「なにー?」
「遅いよ何プーさんなの?」[訳註:「
「何だプーさんて……ああ[訳註:第八章訳註および前々章を参照のこと]」
「直す価値のあるお顔とはまったくお羨ましいこって」
「んー?」
「あ~明日どうしよ……」従士は暫くの間
「お前ドニャキにフラレてボッチになってからずっと」《ボッチ》というのは
「設定温度が低すぎんですよ」
「てめえで調節しろや……ああ結局すんのね、ちょい待ってあと二秒――ほい」
「あ、コスメティックルネッサンス貸して」散らばった化粧品を片付けようとしたミコミコーナに、ちゃっかり便乗せんとしてその手を中断させる従士。「――くださりとう」
「別にいいけど」
「何が?」自身の
「見てないならいいけど」
「最後に見た時の奴のポーチは中でファンデ割れてて大惨事になってました」
「ちゃんとせえよ女子校……」
「ちょっと後でうちのドンニャの顔もお願いします。いくらスッピンでド美人つったってやっぱり周りと浮くので」狭い個室からさっさと退散してしまった長姉の背中に末妹の依頼が届く。「見ての通り私のは下手クソというか、色々と投げやりな感じだし」
「ってなるとやっぱもう出歩いてる暇ねえな――っと」入れ替わりに窓際へと進み出たミコミコーナが何かを踏んづけた。「何これお前……やりっぱ? ヤリ捨て御免なの?」
「すっげーこれ全部でいくらくらいしました?」
「幾らって……別に百均のとかあるし」
「あ、さらさらパウダーシート……でもシャネルの五番は無いのか」
「何時代の中学生だてめえは! ガキはねるねるねるねご飯にでもブッかけてろ![訳註:著者は「
それを言うならギネアの姫君よ、
[訳者補遺:それぞれ種類が豊富なので飽くまでも類型毎の定義として例示すると、corcé矯正用胴着は腹部のみ、
浴室からの応答がない。
「ねえこれやっぱサンチョの私物?」御子神がこれを身に付けている花に遭遇したのは劇的な邂逅から脱衣するまでの僅か数分間のみであったが[訳註:入浴後に別の衣類に着替えていることが前提であり、実際のところは判断できない]、
ミコミコーナは静岡の脱衣場にて三人仲好く――番台の老人も含めれば四人だけれども――
「――あっ!」寝台の角を迂回しようとした王女が依然転がったままの車輪付きに蹴躓き、二三歩蹌踉けるとともにその手から紙入れが零れ落ちる。又もや散乱する
ミコミコーナご自身それまで
鍵は元より扉も半開きのままだった。中を覗いてみると――
半坐千代の視線は面前の
「……執行はしないの?」
「ミコさんこれは――」
「え?」
「――なわけないわな」従士は裏返したり照明に透かしたりしながら、その紙片を矯めつ眇めつ検札した。「アレ何日前だ……三、四日前か。どっちにしても電子でラドゥン頼まない理由がないし」[訳註:馬場嬢が花の為に代理注文した入場券が紙製であったのは利用者が携帯端末を不所持だったからだが、そうでなければ郵送等に費やされる時間を考慮に入れる限り電文で送付される券の方が安心安全であるに違いない。尤も県境で起こった一連の事件――第十六~十九章を参照――を省みるまでもなく、その携帯を紛失したが最後肝心の入場券も同時に失う憂き目を見ることとて充分に留意するに足る点ではある]
「何でタシがアマデミサなんぞの為に自腹切ってチケット買うよ?」成る程、慥かに
「さすがに
「舞った?」
「……その直後に我が主人もろとも我が家の庭先へと」従士が抓んでいた指を開くと、紙片はひらひらと上下を入れ替えながら浴室の床へと降下した。(
「いや、わけわからん」
「こっちのセリフだ」落ちたアインラドゥンを拾ってミコミコーナの前に翳す千代。[訳註:腰を屈めた時に出る呼気と思しき声が聞こえたことによる著者の推測]「一体全体どうしてこれがミコ殿下の化粧ポーチから発掘されたのか――是非ともその訳が知りたい」
御子神はたった数秒ではあるが、口を開いたまま暫く言葉を失った。
「ぐうぜん」……そう、四日前の晩に財布に入れたものと思っていたところ、今日に限って何の拍子でか《
「そんな道端にゃ落ちてないでしょうが」しかし猫の従士も忘れたわけではあるまいが、半坐家二階自室内部より生じた旋毛風に乗ってその露台から出奔しそうになった折、ラ・サンチャの騎士が既のところで掴み取らねば結果そのようになっていたに違いない。「……えっ、お風呂屋の?」
「あー、他にないな」
「ドニャ・キホーテが扇風機のとこで落としたってこと? どのタイミングで……あのおっちゃんから忘れ物の連絡とか入ったんですか?」
「あ~りえなくはない、な」あと数十秒でも想を練る余裕があれば、もう少しマシな誤魔化しようもあったかもしれぬ。兎も角ミコミコーナはそのようにしてお茶を濁した。尤も宿帳のように事前に記名でもせぬ限り、一旦退散した利用客に拾得物の通知をする手段など容易には思い付かぬことでもある。「……巡り巡ってというか、まかり間違って相応しくない人間の手に渡るということもまァ往々にしてあるさね」
「あっそれでか!」
「何?」
「今朝んなって唐突に名古屋駅に出没したんは」千代は招待状を掴んだまま両手を打ち鳴らした。「今宵シェーンブルンに参宮予定のうちのドンニャに届けようと」[訳註:登城のような使い方をしているが、《参宮》は飽くまで神宮への参拝であり、宮中に罷り越すといった意味合いは恐らく無い]
「ははは、こいつはとんだ名探偵だ――が、まかり間違ってはない、かな」
「はははじゃないよ、そんな大事なことそれこそ前もって連絡入れてくれよ」仮に
「いやそもそもお前の携帯これまでもやたら電池切れてたんだろ」
「いや、蜂の騎士は気付いてないってこと? これ無いと入れないのに?」
「さあ……どうでしょ」
「――ったく、人が携帯失くした時には偉そうに慰めといて……いい気なもんだ」そういえば
「おう。そうして」
岡崎での観劇が、結果として《シェーンブルンの
御子神からすれば、一応これで訪名した当初の主目的は果たしたことになろう。
「あの、小も化粧もせんのなら片付けたいんだけども」
「ああ、ハイ出来ればシャワー浴びた後に私の顔もプロのミカさんにお頼み申したい」
「ミカさんて誰?」
「いや貧乏な――じゃない美貌のミコさんに」本来《美香さん》という人物は極めて裕福な姉妹の片割れなのである。[訳註:第二十章にてパロミは一度だけミコを指して《貧乏な叶美香》なる呼称を用いた。《
「まあ地下三階くらいでよろしければ」
「ミカさんとまでは云わんがチカさんの
「リミットによる。おしっこもいいの?」
「ああ、何か変な汗っこかいたら尿道手前で一緒に蒸発した」一般に
「知恵熱の間違いだろ」
「言われてしもた」事実
「あっ、そこ――」御子神嬢が開け放されたままの
「ん?」背後の声に反応し、その歩みを止めぬままに振り返る従士――彼女はその瞬間まで敷布の上や、若しくは枕元の携帯端末に目を奪われていたとみえ、床面への注意が全くもって散漫となっていた。長姉の発言内容を理解すると同時にその視線とて足下へと落とされただろう。とはいえ踏み出された右足――それは既に
半坐千代はその猫の身軽さを最大限に活用し――この件は筆者も書き憶えがある――、絨毯の上から衣類の並べられた傍らの寝台へと反射的な《背ダイ》を決めた。[訳註:第二十六章参照]
「……またやってもた」再びナバーサナ――つまり《
「何、こんなとこで腹筋鍛えてんの?」
「……んぐ、いや」無論左右に開いた両脚の間から
「まァそんだけ腹
千代はそれらを聞き流しつつ、手の届く範囲の水面に浮遊していた――というのも少女はいまだ
「出禁……出金……入金……」
そして恐らく数分前に御子神がしたように――但し
「あっ!」
「だか何だよッ!」
「やべっ――ミコさん先行ってる!」
猫の従士は
とはいえ逸る気持ちで
「ちょっちょっちょ――いて」
「コレ忘れんなよ、締め出されっぞ」部屋に置き忘れられていた薄板式鍵を、従士の背中の内どこかそうするに相応しいと思しき部位――上半身で口部以外にそのような場所があるかについては俄然疑わしいけれども――を選んで挿し込みながら、結局追い付いてしまったギネアの王女が年長者らしき忠告を与える。「いっきなし走り出してバシリスクかお前は……あ? 甲賀忍法帖なのか」(原註:水面を駆ける
「あっすんましぇん、ダンケシェン」千代さんは心拍数の上昇を抑えようと深呼吸を繰り返しながら鍵を受け取った。「あっぶねえあぶね……」
「廊下は走んなよな」
「へえ、少年少女老いやすく……天人天女もうかうかシエスタ、などしてると――」[訳註:第十三章および十七章ではそれぞれ《老化を走るな》《天人の午睡》という言葉遊びが為されており、無慈悲な時間との戦いに敗れつつあった千代の焦燥感をよく表している]
「別に眠ってはないだろうに[訳註:西語版でも«No es que estuviera durmiendo…»と一人称か三人称かを特定しない翻訳がなされている通り、天女という言葉から花のことを指した科白だという解釈も残したのだろう]……来た」自動扉が左右に開いた。「つか何でこいつタシんとこに掛けてくんだ? フロントからかと思ったのに」
「――え?……いや別にミサの間使っててもいいですけど。泊まれはしませんよ?」
「何が?――いや風呂じゃねえよ」従士は又もや上の空の模様だ。「あそっかアタシ今晩電車何時だ?……姫帰りは夜行バスなんだっけ、サンチョおサルに時間とか聞いてる?」
「遅いな」
「おい」
「――えっ、はい聴いてますよ?」《1》と書かれた正方形を凝りず引っ切り無しに連打し続けている忙しなき少女。「九時半バラシとして……十時過ぎの電車なら別に間に合うと思うし、駅まで見送り行きますわ。えっ東京までですか?」
「もういいよ」左右に開く自動扉。「――っておい、何」
「先戻っててくださいすぐ行くんで!」
受付のある階で降りた千代は先に通ってきた通路――薔薇園と化粧室、それから裏口へと続く、昇降機を出て右手側――ではなく、硝子張りの正面入り口に向け走り出したが、反応の遅い
それから再び陽光の下――いや、この刻限であれば城壁の東側は概ね夏陰となっているだろうか――へと転び出るなり、壁面に穿たれた大穴へと大股で近付いていった。新たに激しく打ち始めた鼓動を抑える術もなく……荒い鼻息が二三度続いたかと思うと、
「……ちょっと」微動だにせず、暫く路上に立ち尽くす千代さん。又候天下に名立たる驢馬泥棒ヒネス・デ・パサモンテ改めサラマンドラの学士サンソン・カラスコにしてやられたか?[訳註:第八章の海岸にて一時ママチャリを消失した事件に加え、二十四章の同じ駐輪場前でもその再現が起こったかと早合点した場面も併せて参照のこと]「ちょっとちょっと」
どうやらそうではないようだった。
「多動性障害児童かお前は[訳註:差別表現として配慮したか、前傾の《
「……ないじゃん」
「あ?」
「消えてる」
「消えてるも何も……あっち、日陰もクソもねえわ」地面を塗り固める
おお
「……あれ、メットは? カゴ入れてきたっつってなかったっけさっき――ん?」御子神がカルラマーニャの
「あっ!」慌てて穴蔵へと駆け入る千代さん。「……オンディーヌの」
「オンディーヌ?」手に取って頭上の蛍光灯に照らす。「――とは書いてないと思うが、何だネオ・ヴェネツィアか?」
「ちょっと拝借」
「ん……何メットの代金としてコレ置いてったってこと? 安くない?」
「この兜は……元々このチヨ・デ・ラ・ハンザが遊園地を徘徊してたクソロリペどもの魔の手からお孫ちゃんをお護りした勲功により他ならぬ浜松湖のヌシたるおんじ殿ご本人手ずから拝領たてまつりまつった」概ね嘘ではないけれども、単純に熱中症対策に乏しい従者を見兼ねた老人からの
「ホントお前よくアドリブでそんな意味のない長文スラスラつっかえずに云えるな」
「いえ」
「浜松――浜名湖? ああさっき云ってた……観覧車で[訳註:第三十一章参照]、何だっけふなっしー、違うはまっしーのヤツ」ここで漸く王女が得心した。「あ~あ~そうゆこと」
「来とったんかいわれ……」
「カイワレもモヤシもブロッコリースプラウトもねえわ、チェックインはしてんだから」ミコミコーナはサンチョから《オンディーナ》の庇を奪い取るなり、パタパタと扇いで胸元の暑気を散らさんとした。「さっきチャリ置きに行ってから何分だ……一時間前後か。少なくともその間のどこかでここ来たってこった。よかった~安心したわ、マジ行方不明だったらおねえさん罪滅ぼしにアンドーちゃんの――」
「貸しッ、貸して!」
「――恋人の座を奪わにゃならんとこだったよ!」それでは
「アッ――」
「あ?」
「アルジャン!」[訳註:第十三章のカラオケ店内同様「
「――うっせえわ響くわ![訳註:「
「ビ、バ……ビバ・ラ・フラワー!」サンチョは指を突っ込んで帽子の中身を確かめると今一度大きな雄叫びを上げた。[訳註:西訳では「
ここで《
換言すると、千代さんは先達て財布の中身を確認した時と同じ要領で――則ち二本の指で押し広げて――その隙間に何が挿まっているのかを確認したのである。
「よかったちゃんと入ってる」
「何が」
「いえいえこちらの話で」封筒の口から指でも突っ込んだか、中の紙幣を指の感触で慥かに認めたようだけれど、それそのものを兜の中から引き出して見せることをしなかったのは恐らく王女の目を警戒してのことに違いない……そう筆者が邪推したところで異論を挿む向きが読者諸兄の中におられようか? 節約すればママチャリの郵送代にも回せる資金だが、ここで露見したが最後気前の良い年長者に昼食をご馳走になろうという中学生にしては少しばかり懐が温すぎるという事実が明るみに出てしまう。「お前さんもお久しぶり――の塩焼き。さあさあ麗しのドゥルシネーア様にとっととこの吉報をお持ち帰りましょうぜ」
「いやブリなら照り焼きだろが!」
やれやれ、それではこれまで行方知れずだったラ・サンチャの蜂が実際には付近に潜んでいたことではなく、従士がネクロカブリーオの兜に隠し持っていた
「ご本人持ち帰れるでもないのにそんな滅法勝ち誇った面見せんなやイラつくな……十秒前までシオシオだったのは何なん?」
「お浄めですよ……ほらほら塩! 塩でも撒いといてください!」
「土俵入りならひとりでやってくれる?」
だが皆さん、サンチョの笑顔もそう長くは持続しなかったのだ。
いくら宿泊客だからといってそう何度も出入りを繰り返しては従業員の目にも不審に映るのではないか……そのように考えたかどうかは定かでないが、ギネア女と千代さんは南回りに城壁を伝って食堂に戻る経路を選択したようだった。おや又従者の心拍数が――いや今度は本物の携帯端末である。
「うっるせえな今戻るよ、あと一分弱」着信を受けたミコミコーナが吐き捨てるように答えた相手は間違いなく馬場嬢であろう。「……何でだよ充電してんだから部屋置いてきたに決まってんだろ。ホテルの備品持ち出してわざわざ外の飯屋で電源パクって充電とか二重に厚かましすぎんだろが」
「……ん?」
「――たりめーだろ、コンセント繋ぎっぱだよ。分かってるって忘れねーだろまたどうせ着替えに戻んだから」
便利店に差し掛かる手前で俄に立ち止まる猫の従士。
「いやホウレン草もチンゲン菜もねえべ」便利店を素通りするも、自動扉は律儀に反応して内部より冷風を戦がせてくれる。「どうせ電話掛けるならこの偉大なる大根――大ミコミコン国女王の労をねぎらう意味でもな、お前じゃなくお姫の涼やかにして澄み切った美声でだな……あれ、どこ行った?」
「おかしいだろ」
「おかしいのはてめえだ、独りで勝手に一時停止すんな、姫がお待ちなんだぞ」先程も聞こえた
「風呂屋のおっちゃんが見つけんならチケットなんかよりもまず充電器だろ」
「……なんかってアンタ」
「それはそうか……ですよね」然れど末妹の方は依然として腑に落ちぬ様子。
「俺らが出る頃には結構混んできてたし」行進を再開するふたり。御子神嬢は右手にて営業中の鶏料理専門店の看板に一瞥を呉れながら(
「これ何て読むんでしょう……霊柩車のキュウ?――は《久しい》か」千代は一時間半前のニコーチンがそうしたように、不用意に足を止めてしまう。「ハマッシー、ハマチってこんな漢字じゃなかった?」[訳註:泥江町通上の便利店と食堂間に建つ料理屋の店名は《名古屋コーチン樞》]
「もしかしてカマチのこと云ってる?」これは半坐家や浜名湖岸のうなぎ屋にもあった玄関口の
「メ?……目にはメニー、メニューを?」
「歯にはハニーをじゃねえよ……つってアシも『黒執事』の作者の名前でしか見た記憶ないけど。待て――あっほら、ドゥルシネーア・デル・トボーソで合ってた」思い出せない単語はその場で検索する――これはエル・トボソの姫君の教えだが、そもそも《
「目には目ヤニーを……」
「汚えな、つまりサンチョの目は節穴か」
「そういう殿下はふしだらな目をお持ちのようで……いや、く――」
「あれ?……そういや
「朱雀(原註:中国の
「じゃなくて、知らない? ランスロットに搭乗する――つかご主人も何か云ってたべ銭湯で」この娘も中途半端に記憶力が働くことよ!「何つったっけランスロットの穴を……ガウェインので埋めるみたいなBL臭いことを」
浜名湖では《
「うちのメガネザルじゃあるまいにラ・サンチャの騎士ともあろうお方がそんなお下劣な話をしますかいな」フンと鼻を鳴らして歩き出す従士。《
「そこまでは知らんがな」ここでもギネアは凝りずに余計なことを付け加えた。「
「いやあの後アンタ一緒に寿司屋行ったんでしょうが」《
「だって君ら財布を出す素振りすら見せんのだもの致し方なく」
「財布は出してましたよ。金は出さんかったかもだけど」《
「あと十歩! 中入ってから考えなよ!」
「いやちょっと、財布ン中には入ってなかった……じゃドンニャは紙ラドゥンどこ入れてたんだ?」
「ダメだこりゃ」ここまで来れば交差点の斜向いに建つ南西側の建築物の加護の下、陽光の猛威からは遮らているのかもしれない。とはいえ気温も湿度も高いのだから一刻も早く空調の効いた屋内へと避難するに如くはないのだが……口の悪さとは対照的にすこぶる面倒見の良い
「アビエにはポッケの類い付いてないし、水着のカップに挿むとか……って脱ぐとこ見てたし」これは入浴前に三人並んで脱衣していた時分の話である。サンチョは己の職務を全うせんと務める大方の従者がそうするように、甲斐甲斐しくも主人の介添えを買って出てすらいたのではないか?「となると……あ、私が貸したキュロパン[訳註:第二章の半坐宅で花が《
「そうなんだ。じゃあ続きは中で」
「他に中に持って入ったもんといえばイポグリフォに付けてたポーチだが……お風呂屋入ってから一回でも中開けてたか?」これは《
「まったくどうして最近の若ぇモンは財布の紐だけはあんな固いのに尿道の括約筋だけはそうもユルユルなんだよ!」遂に食堂の玄関扉の取っ手へと指を掛ける王女。「さっき出しとけよな……ほらお店の使わしてもらいなさい」
「その前に――」千代は御子神の上衣の裾を引いた。「私が和式にまたがってお花に水やりしてる一分弱の間に、おふたりは一体何を話してらっしゃったんです?」
「え?……そりゃお花摘みの間っていやあ――何だアレ、蜂の蜜溢るる約束の地で」
「罪作りな密約でも交わしてたってんじゃあないでしょうな」
何を糸口として斯様にも素早く鋭い勘を働かせたものか、然しもの大ミコミコンが正嫡の知慮を以てしても直ぐには思い当たらなかったに違いない。ギアナ王女は詰まるところ、これ以上の誤魔化しも詮無きものと判断し、終いにはことの次第を明かす覚悟を此処に決したのであった。
此処な稀なる真実の書『
というのも我々は今まで《
然りながら筆者もここに心中を開陳せざるを得ない……ダメ・ヤメテが[訳註:つまりペニンポリが唐突なる電文の添付にて]送って寄越した音源に収録されし物語の結末までを敢えて聴取せぬままに見切り発車で執筆を開始したのも、或いは過ちだったやも知れぬという
否、下手に
――昏き燕たちならば還ってこよう
--Volverán las oscuras golondrinas
お前の軒下に巣を拵える為に。
en tu balcón sus nidos a colgar.
然らばあの黒き後ろ髪は、
Pero aquel negro colondrino,
羽を休め前言の如く
aquella aveja que el aleteo refrenaban
姉妹たちに見入っていたあの蜂は、
sus hermanas por todo lo dicho a contemplar,
その名と声を記憶の内に
aquella que aprendió
留めてしまった彼女は果たして?
sus nombres y voces... ¿de verdad?
[訳註:十九世紀の詩人グスタボ・アドルフォ・ベッケルの有名な
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