第19章 本章に記されるは此の物語に関する諸事件であり、何らかの解離性興奮に就いてではない

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第十九章

本章に記されるは此の物語に関する諸事件であり、何らかの解離性興奮に就いてではない

Capítulo XIX.

Que trata de casos tocantes a esta historia, y no a alguna histeria.


防護柵バランディージャ駒繋パレンケ代わりに二頭の馬を駐めたふたりは道路脇から改めて顧みた殿堂の威容に暫しの間言葉を失ったが、アメン=ラー[訳註:原文ではAmón-Ra]が隠れた今を以て尚蒸し暑い屋外から一刻も早く避難する意味でも、また購買物一覧に名を連ねし品目が多岐に渡っていたこともあって感嘆もそこそこに人鳥ピングイーノの短き股の間を潜る運びとなった。

「ちょな、なんか異様に広くないですか?……地価が安いのか?」岡崎市は愛知県を代表する都市のひとつだが、勿論世界有数のオシャレ都市シウダッ・デ・モダラ・サンチャに比べれば土地も大分安値なのであろう。「あっだから《大きいサイズの》なのか」

大きいことは良いことマス・グランデ・メホール……かなオ・ノ? 聖クララを素通りしたのは心残りじゃが、」比較的背の高いドニャ・キホーテをしても、更に背の高い商品棚の森の全容を一望することは叶わないようだ。「いざ行かんバヤ・スィ・イレーモス!、手始めとなるのは《水精オンディーナの兜》に代わって明朝よりおぬしの地頭じあたまを保護すべく鋳られしT字型兜バルブータか」

「ブータよりはウーシを所望しますが、頭に乗せるにせよ腹に入れるにせよ重いもんは後回しってのが買い物の鉄則ですな。まずは買う物を整理しましょうや」千代さんが指折りして必要品を数え上げる。「パロマ女王のアパートを一見したところ、ガステーブルだけじゃなく電子レンジもありましたからね。今晩はもう疲れましたし、弁当なり冷凍食品なりを大量に買ってあったか女子会と洒落込みましょう」

「妙案である」

「朝までコースのオネエ様方には負けますがね、外で食べるよりは安く豪華に飲み食いできましょう……で、」待ち侘びた二本目の指が漸く屈曲された。「――今更ながらのうちらのヘルメット。あっこれも超今更感ありますがイポグリフォンには夜間走行用のライトを取り付けた方が良いですよな」

「はァ……ふむ」名古屋までは余すところ四十粁程度である。昼過ぎに岡崎を発ったとしても暗くなる前に到着する筈だが……従者は東京までの帰路も自転車を使う覚悟を決めたのだろうか?[訳註:数十分前の千佳夫人との電話に於いて「千代は明後日か明々後日には帰る」と伝えているので、これについては無意識の発言だと考えられる]「チヨさんに御任せいたそう」

「いたされましょう。後は……そうだ、そもそもこれ買うために来たんじゃんか」携帯端末の電源接続装置である。「アレ――どこだ?……まァ後でいっか」

「今日び城を攻めるも守るも砲台頼みとは……昔乍らの騎士カバリェーロ酒蔵カバ一杯リェーノになる日も然程遠くないようであるな」旧き佳きラ・サンチャの騎士は、火力のみが戦局を左右する、人の痛みに鈍感な非人道的戦争形態を憂えた。大砲の雨の中で幾ら陣太鼓を鳴らそうとて、一体誰の耳に届くだろうか?[訳註:西bateríaという単語は電池の他にも、一揃いの打楽器や砲列・砲兵隊などの意味を持つ]「老兵が此処で嘆いたとて詮無きことじゃ。では従士が空腹でバテる前に早速参ろうかいな」

「いや、――」ここに来て従者が制止する。「折角荷物置いてきたんだし、まずは手ぶらで歩いた方が品定めし放題ですぞ。人として」

「ではどうするのだ?」

「重い物から見て周っていって、折り返し地点的に軽い物から買っていくって寸法です」

「成程、道理じゃ」千代の説明は至極論理的であった。花は専ら彼女の戦術タークティカに従う腹積もりなのだろう、率先して買い物かごを手にした従士の後に続いた。

「ええっと……階段は何処だ?」左右を見回した後、忙しなく品出しレアバステセール・イ・エクスィビール[訳註:直訳ではまま《補充と陳列》]に精を出す店内従業員に声を掛ける千代さん。「ちょっすいません、騎じょ――自転車乗る時のヘルメットって何階ですか?」

「あっ、商品取り扱っております店舗はこちら一階のみとなっております」作業の手を止めて慇懃に対応する従業員。「ヘルメットこちらになります」

「えっあっども」

 先導された鬚なしのバルビランピーニャ従士は騎士の手を取ると、如何にも人道的な火砲装甲バルベータ目指して殿堂の奥へと踏み入っていく。[訳註:兜のbarbutaとbarbetaの言葉遊びだが、後者には《阿呆》の意もある]


大型量販店の常として、広い空間は絶え間ない音楽と大音量の案内放送で満ちていた。

「つうかこれまで何百キロも旅してきて一度もポリスとかに注意されなかったのは儲けもんの幸いでしたよ」因みに二〇一五年現在の日本に於いて、自転車運転時の安全帽着用は義務化されていない[訳註:繰り返しとなるがより正確を期すと、十三歳未満の幼児・児童については保護者が着用させる努力義務を負っている]。イスパニアでは二〇一四年の交通安全法改正により十六歳未満は全面的に義務化され、十六歳以上に関しても都市部または都市間を走行する際には自転車用兜を着用せねばならないが、矢張り他の欧州諸国では実は規制の無い国が殆どである。導入賛成派と反対派の双方にそれなりの合理的な理由があるのだがここでは割愛するとしよう。「まァご主人様がハンザ家にいらっしゃった朝みたいなカブト[訳註:全面型防護帽のこと。第一章参照]を被ったまま旅を始めてたら、ラ・サンチャを出る前に世田谷警察にしょっ引かれたてたでしょうけど。つってもやっぱこのままじゃ遠からずノーヘルぶつ――かります賞を受賞してもおかしくなかったところです」

「イポグリフォとカルラマーニャが如何な駿馬といえど――」花は応じた。「ストックヘルムまで出向いた時には晩夏も暮れ葬列は散開しておることじゃろて」[訳註:ノーベル賞授賞式は平和賞を除き毎年ストックホルムで開催される]

「そこまで訪ねて行って防護帽ヘルム在庫ストックがなきゃ骨折りゾンビのはらわたも煮え繰り返りますからな。そんなすっとこな――」

「こちらになりまーす」誘導してくれた労働従事者が手の平を上にして売り場を指示しつつ器用にお辞儀する。「ごゆっくりどうぞー」

「あ、ありがとうございま……」店員の背を見送りながら従者が口元を膠着させた。「何かごっつくないですか?……心なしか剣道着が目に浮かび」

深桶兜バシネーテ双殻兜ビコック、どうやら鉄騎向けのようじゃな」唸るドニャ・キホーテ。「尤もおか蒸気ほどの馬力はなかろうがね」[訳註:蒸気機関車を意味する西caballo de hierroは通常なら《鉄の馬》と訳する]

「私自転車のって云いませんでしたっけ?」辺りを見回す。どうやら主従が案内されたのは自転車用ではなく、自動二輪乗りが被る安全帽の一角だったようだ。「ジタンシャ[訳註:THE単車?]とでも聞こえたかな?……道理で自転車売り場と区切られてる思ったわ」

「石部金吉鉄兜という訳だ――鉄と謂えど素材は炭素繊維樹脂か」陳列された内のひとつをコンコンと叩いてみる。「柔軟性に優るおぬしのおつむを守る分には悪くないだろうけれど、チヨさんはシーボーズ様式スタイルを御所望だったのよな」

「いやママチャリでアレ被るのはちょっと……あ、ゴーグル付いてるかわゆし」千代もひとつ手に取ると、摩擦音をくぐもらせながら頭に被った。半卵型兜カスコ・メーディオ・ウエーボだろう。「あ、ぴったり……夏場はちょい熱いかもだが風が吹いてれば――鏡はないのか?」

「海の子マナナーンが持ち物でありふたつの宝玉を冠さながらに帯びて北大西洋を隅隅まで照らしたと謂う彼の鈴兜クロガッドでも、斯様に目映く輝いてはおらなんだろうね」

「いかにもたこにもステッカーを貼ってくださいとばかりのこの――ううむ……」

「急いで決めることもない」騎士は恐らく隣り合って展開されている自転車売り場の方を見遣ると、首を傾けて従者を促す。「どれ、軽騎兵の装備の方も覗いてみようではないか」

「ほらっ、これならキャリーぶん回すよりずっと殴りやすいし殺傷能力も――」昼間の荒事を思い出した千代は堅固な安全帽の遠心力を使って身体を一回転させると、俄に淑やかな花娘に戻ってそれを棚へと戻した。「コスパ的にこれは第一候補かもですが、そっちの景気の良い方も拝見しましょう。驢馬は兎も角、グリちゃんに跨る騎手こそシーボーズタイプじゃないとそぐわんでしょうしね」

 しかし果たして肝心の自転車の方には防護帽子の売り場が見当たらなかった。従業員を捕まえて訊ねてもよかったが、敢えて単車用のそれらよりも離れた位置に並べられているとも考え難い。

「便利には違いないが、」ドニャ・キホーテは冗談交じりに苦言を呈する。「――何でもそろってとはゆかんようじゃな」

「ぬ……もうしわけぬ」殿堂に代わって陳謝するドニャ・サンチョ。「あ、でもライトの品揃えはなかなかのもんですよ」

「成程勢揃えの店構えだ」

「ノーヘルはせいぜい怒られる程度だけど無灯火は普通に道路交通法違反ですしね」気を取り直した従士はひとつひとつ仕様と価格を検討した。「すし屋の後海岸沿いの車道走ったじゃないすか、あん時ゃ横びゅんびゅん車通るしこっちがヒヤヒ……」

「慥かに夜行はチヨさんを燭台カンテラ代わりの頼り切りだったからね。採石場カンテーラから採れるコリンドンの中でおぬし程夜道を青青と照らしむる蒼玉を見出す僥倖には金輪際恵まれ得ぬであろうよ」[訳註:蒼玉サフィーロとは首元飾りの吊るし玉の色に対応しての形容だろう]

「――や、青々としてるのはお尻くらいのもんで、そんなもんを夜道で晒しちゃいませんけども……これはバッテリア問題が解決してからだな」

細菌バクテーリアがどうしたね?」

「いやいや、スマホルダなんですけど電池なきゃ意味ないですし」千代は手にした商品を棚に戻す。「アダプタっつうか――チャージャ?買ってからでも。ってドニャ・キホーテ様のナビがある限り、運転しながら携帯見る必要もないですがね」

「ん?――ああ」

「乾電池付いてるしコレなんかいい感じですな。取り付け簡単か分からんですが」複数の簡易前照灯を見比べる。「やっぱ結局ダイナモが楽ですよねえ。明るさどんくらいんだろ?」

「レビアタンの双眸くらいの光量は欲しいところ」

「スルタンの眼力めぢからレベルの神々しさで我慢してくださいな」魔獣と比べると幾分見劣りもするだろうが、それでもそれなりの明るさが見込めよう。「グリのカラーリングとの兼ね合い的にはコッチか。同系統の色だと……第一第二候補といたす」

「スルターンは清四郎よろしく片目かね?」

「このスルタンは中二病だったんですよ」謎の言葉を残してから両手を空にした猫の従士はパンと手を叩く。「さてこの次が本丸ですが――あ、」

「今や戦鼓いくさつづみに舌鼓という訳だな!」[訳註:「充電器と食糧」]

「戦は当分慎みたいとこだけど、備えあれば嬉しいなと!」次いで千代が打ったのは、そろそろ牛蛙が鳴き始めんとしている広い空洞の外膜[訳註:腹鼓のこと]である。「ちょっと待ってください……さっきたしかこの辺に」

今度は従者自らが水先案内人となり、コリント式の柱廊エストーア・コリンティアを掻き分けて行った。


みだりがわしく《東屋の万神殿パンテオン・デ・キオスコ》を彷徨くものではないぞチヨさん、[訳註:驚安きょうやす東屋キョースコを掛けているのだろうが、東屋と神殿では随分と規模が違う。吹き抜けという意味ではパンテオーンより処女宮神殿パルテノーンが近いかとも思うけれど、そもそも冷房の効いている店内は勿論しっかり壁で囲まれている筈]」そう云いつつも何処か愉しげなドニャ・キホーテ。「――一体何処に連れて行こうというのだ?」

「さっき通った時に……あっ、ここ。これ!」日用雑貨ウーソス・コティディアーノス(若しくは健康用品ビエーネス・デ・サルッ)の列に踏み入った千代は、商品棚用鈎ガンチョ・パラ・レヒージャに吊るされた棒状の商品の中から目ぼしい一本を掴むと8の字フィグーラ・オチョに振り回した。「ほら、スーパーカリフラワー――!」

「こ、此れなるは……!」

「―――なんだっけ、デリシャス?……あっ、」棒を引っ込める従士、常に傍らにあった脇息レポサブラーソスが如き豪槍を失って間もない主人の心中を慮る。「これ傘の方だったわ」

「蝙蝠傘だね」

「バンパイヤン……」吸血騒動はもう懲り懲りである。「違くて、えっとアレ――そう、サラダあぶらチュパカブラ、ビビってバビって……ブー?というアレ」

「ふむふむ、カボチャを馬車に、ハツカネズミを馬車馬に変じるアレ、だな」従者が手にした棒とは果たして魔法の杖なのだろうか?

「そう、そのアレです……」共にディスネイ――この名は一説に《古埃及母神の地から来たデ・ラ・ティエーラ・デ・イースィス》というガリアの言葉に由来すると謂う――映画である。「チュパもネズミも金輪際視界に入れたくはありませんがな」

「今時分御女ろ――上臈方は、青いネズミとピンクの象に――正に醉象すいぞうよな――目玉の中を駆け巡られておることだろて![訳註:つまり酔っ払っているということ]」ドニャ・キホーテはからからと笑った。「陛下がフアナならぬメアリ女王であれば、逆に干からびるまで血抜き骨抜きにしてくれたであろうがな」

「ももいろぞうさんというヤツですな……きりんだったかな?」

「――で、アブラムシのたかったカブラ畑がどうしたんだい?」

「どうしたんだいってドニャ様」意図が伝わらぬもどかしさを堪えつつ、千代が棒を差し出した。「――メール欄を?リンク表示にしたら、」

「メールラン?」

「――ほらハマッシーが魔法に掛かって!」

「ん?」受け取った棒の一端を暫しキョトンと見つめる騎士、ハッと気が付いて「お……おお、マーゴ! 此れは魔術師エル・マーゴの手か!」と驚嘆の叫びを上げた。

 読者諸賢の為に説明しよう。マゴとはニエートの意であり、《孫の手マノ・デ・マゴ》とはこれ則ち背中掻き棒ラスカエスパルダの異称なのだ。成る程、可愛い孫に痒い背中を掻いてもらえたならばそれはまさしく天にも昇る心地であろう。そのまま昇天してしまっても悔いなきが如しである。

「さよう!」嘗ては三歩歩けば忘れてしまう鳥頭であったものの、今や記憶力の確かさには定評のある猫の従士、得意になって再び魔法の杖で空を斬る。「これさえ手に入れれば、悪の魔法使いの魔法に掛かってボート化されたハマッシーを、元の首長竜だか首なし芳一だかに戻してあげることだって朝飯前の食前酒ですよ。トンネルの首無しライダーはもう御免こうむりますがね」

「慥かに、方舟はこぶねだろうが虚船うつろぶねだろうが状況に応じて好きな物に变化へんげさせることも容易じゃろうな」ドニャ・キホーテも珍しく興奮気味。「そうなれば浜の罔象みずはもさぞやさぞかし首を伸ばして枕も高く眠りに就けることは請け合い」

「それどころかビッチウィッチの魔の手でみにく――ふつくしい男の身体に変えられてしまった用心棒のネエさま方に、」失礼な従者は思い出し笑い。「元のほんまもんの女王様のバディーを返してあげるのだって容易ドンですがな」

「矢張りおぬしも見抜いておったか……如何にもあれは悪しきメルリンの仕業」花は憤りつつも、千代の洞察力を褒める。「吾が盟友アルカラウスの秘宝がまだこの手にあったらば、一刀両断にして術を解いて差し上げたのだが」

「御前様がその……マルリンだかモンローだかって悪党の杖を分捕って自分の武器とすることは、その何ですか――大の仲好しのアルカリ性の旦那だってきっと賛成してくれましょうぞ」従者は太鼓判を押す。[訳註:千代が花を呼ぶ際の《ご主人様》《旦那様》及び今回の《御前様》の訳出は、全てla señora mi amaに統一されている]「私の猫の手が塞がってる時だって、これさえありゃ代わりに背中を掻くこともできるし。オプションとして」

「されど好事魔多しと謂うからな……この杖も連中の奸計に依って紛い物に擦り替えられておらぬとも限らぬ」騎士は孫の手の指先から肩の辺りまでを如才なく検品する。「というのもそれがしの老いた双眼には、此れが嫋やかなる仙女の手というよりも毛を剃った猿の其れと映っておるからなのだが」[訳註:孫の手の語源は中国の伝説上の仙女・麻姑まこの手の爪が長かったことから。「痒いところに手が届く」という意味の慣用句たる《麻姑掻痒》もこれに由来する]

「そりゃ毛深かったら仙女も天女もヘアリーテイルになっちまいますからね」千代は尤もながら気色の悪いことを口走った。「メルヘン世界の魔法の杖だって有難みが失せまさあ」

「そう云われるとそんなような気もしてきた」疑念が払拭され、ドニャ・キホーテの言葉にも自信が呼び戻される。「謹んで撤回いたそう。この店は何でも揃うな」

「ブラジリアンワックスからミサ服まで、何でも揃えてる店だぜ?」

もう充分じゃバスタ・ジャ!」今度は花の方が杖を掲げてから頭を振った。「第一厳粛な聖体の秘蹟に臨む為の出で立ちをして、そんな物を必要と為さしめる程に露出過多だと云うのかね?」

「私のコスなんて上品なもんですよ!」憤慨する従者。「もしかミコミコーナに見してもらったヤツみたいな、肌色成分多めな衣裳イメージしてやしませんかね?」

「秘術修めし歩き巫女とて裸で旅した訳じゃあるまいに[訳註:《錬金術のアルキーミコ》]、ミコミコーナは大ギアナの姫君ぞ。何れはアフリカの女王に為られる御方」騎士は家来の無礼を窘める。「だがおぬしの云う通り、御女――上臈方に掛けられた禍禍しき呪いを解いて差し上げるのは、遍歴の騎士の為すべき仕事としては申し分ないな」

「仰せの通りで。もしこの杖で呪いが解けなけりゃ、」杖の先を流麗に滑らせて、空中にいい加減な呪文を描いた千代はこれまた輪を掛けて失礼な物云いを発した。「――魔法をかけたトロッコに皆さんを乗っけて、そのままモロッコまで飛ばしてあげるって手もあります。それすら無理となるとお手上げですが――その場合は妥協して六甲くらいで我慢してもらい、おいしい水を飲んで満足してもらいましょう。六甲が何県にあるかは存じませんけど。大阪かな」

「六甲は神戸じゃ」そういえば地理の授業は一切してこなかったことを今にして思い知る遍歴の騎士。「八甲田山が青森ならば日光愚行はもう結構……それはそうとドニャ・サンチョは神咒符呪じんしゅうふじゅに通じておる口振り、後学の為にも一節口唱してくれまいかな」

「口唱と申されましても低俗なのしか知りませんよ」

「構わぬ」ドニャ・キホーテは背中を掻く代わりに、猿の手と己の孤掌を打ち鳴らして挑発した。「それがしとて呪文のひとつも知らんでは、折角のマーゴの手が子宝孫宝の持ち腐れ。とはいえ曾孫玄孫に来孫らいそん昆孫こんそんの指ともなると矮小非力に過ぎて隔靴掻痒かっかそうようの用すら足さんであろうしな」

「無茶振りだなあ……」背中の代わりに頭を掻いた千代さん、まるで犬の足で地中深くに埋もれた記憶を掘り起こさんと試みるが如しである。「ほら、あの、ハリポテの……ちゃんと観たことないけど、あるじゃないですか? エクスタシー――近い、エクトプ……エクソシスト・パトロールなう!」

「Crux sacra sit mihi lux![訳註:「聖なる十字よ吾が光となれ!」]」花は市内安全の為に夜道を宛もなく彷徨う殊勝な、そして恐らく心細いであろう何処かの祓魔師エクソルシスタに代わって十字を切った。「夜な夜な見廻りに駆り出されるとなれば、悪魔祓いの神父様パドレは落ち落ち死神と市松将棋に興じる暇にも事欠くだろうよ!」

「そんなん云われても後はあの……アブラカタブラとか、エロイエス&エムとかそういうお子様レベルのしか思いつきませんよ。マデクラは別に怪しげな新興宗教の団体とかじゃあないんですから」《Elohim, Essaim》とはヘブライ語で神を意味する言葉だが、我らが潔癖の従士からすればこれも変態性欲の一種に過ぎないようだ。「チンプイ……いや、チンカラホイってのもありましたけど、これはさすがにラテン語じゃないでしょうな」

「これ以上聴いても悩みが増えるばかりのようだ[訳註:例えば«Me chinchará, ¡jo!»で「それは私を悩ますだろう、やれやれ!」のような意味になる]」そう云いつつも騎士は魔術師の手を現在空席となっていた左腰に差し入れると、一方で千代がそれを陳列棚エスタンテに戻すのも待ち兼ねるようにその手を取った。「とはいえ大収穫じゃ。吾が第一の妹にして唯一の従者たるおぬしの勲功には報いねばならぬな」

「身に余る光栄」千代は早歩きしながらも恭しく頭を下げた。「あ、ちょっ待っ――まさか開けマ……ゴ?」

「トルデシリャスに帰還したらば条約も結ばねばならぬよって、早く帰って早速魔法の鍛錬をしよう。太陽は分け隔てなく照るのになどと言って、新大陸分配の邪魔立てされても詰まらぬから」

 ふたりの巡礼者が岡崎の万神殿詣でペレグリナシオーン・アル・パンテオーンを開始してから早二十分が経過しようとしていた。


夜分にもかかわらずそれぞれの売り場はなかなかに混雑しているようである。

「カンナエにて軍神の計にまんまと嵌まり込んだローマ兵は、伝令が用を為さぬ戦場の恐ろしさを嫌というほど味わったに違いないが――、」花は案内も無いまま縦横無尽に殿堂の中を席巻し、店内の地理を完全に把握しつつあった。「当世に於いて銅鑼も角笛も持たぬ通信兵の心持ちはといえば、概して丸腰の武人の其れと大差ないであろうな」

「メールなんかもすぐ返信しないとそれこそ情弱無人扱いされますからね[訳註:著者はこれまで傍若無人を《como no hay nadie alrededor》と直訳していたが、ここでは直前の《丸腰の武人ゲレーロ・デサルマード》を受けてかかなり意訳し「絶望的に勝手な奴扱いコモ・グエレーロ・デセスペラード」となっている。西güereroというのは《浅はかな、くだらない》を意味するgüeroを元にした造語で、要は《コミュ障野郎》といった趣意か]」同調圧力の窮屈さを訴えながら、引き摺られるように棚の森を縫って進む千代さん。「だからめんどくささが勝ってラインもツイもやらねえんですよ私ゃ。まァアマデ関連の情報収集のためにアカだけは持ってますけど」

「ラインもミーニョもこの先越える用はないし――」ヴァレンサからミーニョ川を渡った先がトゥイである。「ラサリーリャが単身で無頼を気取るのも絵になるけれど、さりとてそれで、狼の群れから孤立することはないのかね?」[訳註:ラサリーリョは十六世紀中葉に発表され、悪漢小説ノベーラ・ピカレースカの祖と目されるイスパニアの作品『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』――第七章で言及されたメヒコの『ペリキーリョ』と違い、こちらは現在邦訳も出版されている――の主人公Lázaroの愛称。女性形でなのでLazarillaとなっている]

「シートンのロボだってたしか一匹狼だったでしょう。狼女王に俺はなる!」

「おぬしも女王の座を狙っておったか!」

「いや、ドニャ・キホーテはこの先女帝になるんだし、私はそれにあやかって二匹狼でもかまいません」そもそもロボは群れの頭領ヘフェだったし、女王――もとい妃――であればブランカであろう。尤も日焼け止めを塗りたくっていた半坐千代が、今でも白いブランカままであったればの話であるが。「《狼に羽衣》ってヤツで、世間を騒がすダーティペアの出来上がりってなもんですわ」

「騎士[訳註:獅子?]のたてがみが知らぬ内に送り狼へと落魄おちぶれるなど、……」勝手に暴君となる未来を約束されてしまったドニャ・キホーテは大袈裟に嘆いた。「更に云えば如何にヴォルフ閣下の崇拝者にして天性の女悪漢ピカラたるサンチョ・ハンザとはいえ、おぬしの下っ腹に毛がないなんてことは――斯くいうそれがしとて思いもよらなんだ!」

「もうブラジルのは忘れてくださいって!」ラ・サンチャのラーサラが精一杯声量を抑えて反論する。「ミコプリやマリファナクイーンのはスルー検定で済みもしましょうが、この高潔な老騎士様ときたらいきなり不意を突いて下ネタぶっ込んでくるから心臓ドキドキしますよまったく」

「フロレンシア随一の尤物ゆうぶつなら幾らでも不意を突いて御登場願いたいものだね。奇しくも明ければ金曜日[訳註:フィレンツェのシモネッタ・ヴェスプッチはボッティチェッリの描いたウェーヌスの原型モデーロとされている]」騎士は満更でもない声色で応じた。「マルスがアッティラの剣を回復したのだから、吾がウェヌスよ、おぬしこそクピドに持たせ己が麗姿を映す為の三国一の真十鏡まそかがみを、一刻も早くその手に取り戻すのじゃ」

「マゾ鏡って、私は自虐的な自撮り画像をインスタにアップとかしませんよ」

 以上のような、又はそれに類する益体ない会話を交わしている内に主従は携帯関連の一角に到着した。

「おお、さすがに色々あんな!」従士は感嘆する。「ここまで来たらもうモバッテ買っちゃうかなあ……ぶっちゃけラーメン食った後に何軒かショップは素通りしてたんですけどね、こういうとこのが安いだろうしまァ――あれ、ショップでも充電出来たんだっけ?」

「存分に好きな物を選びなさいな。兜ともども本日の大義への返礼じゃ、磯に乗り上げた船に乗っているくらいには安心して良いよ」乗り上げているならばよもやこれ以上波に攫われることもあるまい。

「いやさすがにこれは自分で払いますて……ええっと、」千代は手荷物を開いて中をゴソゴソと漁っていたが、遂にはそれを足元に乗せて整理し始めた。「ん?んん?……ちょい待ってください?」

「どれだけ待ってもペロどん程の待ち惚けエスペロンにはなるまいよ」憶えておられるだろうか? ペロとは半坐家の愛犬である。但しペロ発音はペルロではなくペロだ。[訳註:犬を意味するperroは巻き舌となる]「此方は気にせず心残りなきようご緩りとお探しあれ」

「いえそっちじゃなくて……」ガサガサススーロ。「れ、どこしまったっけ?」

「如何した」

「最近その、携帯見る習慣がなくなってきて……ん?」うずくまっていた従士は徐ろに立ち上がると腕組みして唸った。「んんんんん?」

「女王の宮室に置いてきたのでは?」騎士が口を開いたままの鞄の中を覗く。

「そうかなあ……いや、パロミさんの部屋入ってから触ってないですよ」通行の邪魔にならぬよう壁際に移動した千代。「――って最後に触ったのいつだ? ドニャ様私が携帯触ってるの最後に見たのいつか憶えてますか?」

「岡崎入城の後は……否、ラー=アメンの午餐の時分から見ていないな」

「ちょっとちょっとちょっと!」狼狽した従者は所構わず荷物の中身を大理石の床にひとつひとつぶち撒け始めた。他の客の迷惑にならぬよう配慮はしているものの、これは相当焦っている。「ないないない……あっ、ポケット! ポケット!」

旅行鞄マレータの側面に隙間があっただろう」

「えっ、キャリーのポッケですか?……そうか、無意識に――いや薄いし、無意識には入れないよ」千代の頭がいつになく高速回転するがそれは空転ラレンティッに終わる。「いやジッパー開けて……わざわざ?」

 全ての持ち物を並べた後、ゆっくりと力なく元あった場所へ戻していく。

「消えた」従者は膝を落とし、そのまま五体投地プロステルナシオーンした。「――無くなった。落としました」

「少少我慢いたせ」千代がまるでこれから警官に身体検査カチェーオされようとしている被疑者のような姿勢で跪いていたものだから、騎士は遠慮なく彼女の衣服に不自然な凹凸が認められぬか調べ、それから改めて首を捻ると自ら片膝を付いた。「……真か?」

「マジです」

「マジッド・マジディ?」

「マジッド……マジでぃす」

 今や驚異の魔術師ラ・マーヒカ・プロディヒオーサの魔力を手に入れんとしていたラ・サンチャの騎士はゆっくりと立ち上がり店内を一望すると一言、「……大いなる魔法マグナ・マジア(原註:但しこれはヴァティカヌスのラティン発音である)」と呟く。おのれ悪魔の子メルリン……「《Príncipe de la mágica, y monarca y archivo de la ciencia zoroástrica...》――ふん、狐どもの王アストロ・デ・ロス・ソーロスとは笑わせおる。執拗しつこく御油から追ってきおったか!」[訳註:《魔術の王子、拝火神学の大王にして図書寮……》図書寮とはつまり生き字引ということ。名詞mágicaはイスパニア語読みなので《マーヒカ》が近い。因みにZoroastroを分解して《ソロアストロ》という理屈だが、正確には狐の綴りはzoroではなくてzorroである]

 丸天井クーポラに穿たれた天窓からは、年の割に好色な美少女戦士エルモーサ・チカ・ゲレーラの発するそれよりもずっと慈愛に満ちた月光が燦々と注がれ、主従の頭上と足下に一対パンテオーンの双眸を象っていたが、自分の影しかその両目に入らぬ状態の半坐千代にとってはたとえ今宵がノビルーニオであったところで何も変わりはしなかったであろう。[訳註:無論実際の建物には丸天井もなければ、採光用の円窓も開いてなどいなかったであろうが]


家臣の非常事態を受けて阿僧祇花は素早く対応した。

 先ずは入店してから携帯商品売り場までの自分たちが辿った動線を極力正確に検分して廻る。その過程でメルリーンの手は元あった場所に戻した。(というのも、少なくとも現時点では新米魔法騎士カバジェーラ・マーガ・タン・ベルデに過ぎぬドニャ・キホーテが魔法を掛けた術士本人の杖を使ったところで、その強力な呪詛を解くには如何せん力不足だと思われたからである)

 店の中で紛失した可能性は依然低いままではあったが、念の為従業員――混み合っている会計は避け、不遇な悪魔祓師よろしく店内を巡回している店員――に声を掛けて事情を説明し、万が一ここで発見された場合の連絡先・送付先を伝える。殿堂内部に於いて出来ることと云えばこのくらいであろう。

 騎士は糧食の徴発について千代に訊ねたが、すっかり気落ちした従者には微塵の食欲も無いとのことだったので、結局何も購わずに店を出ることとなった。

 道路脇で主たちの帰りを待っていた一組の馬と驢馬は即座に繋ぎを解かれたものの、従者が手綱を牽いたのは主人から預かっていたイポグリフォではなく自前のシャルロットの方であった。尤も今駿馬に跨ったら足が地に付かずに引っ繰り返るだろうし、乗鞍の上がったままの愛驢にしてもそれは同様である。[訳註:だから乗らずに押して移動しているのである。文脈上少し不自然な描写]

「愚かなり……かなり愚かなり」平生の死声デスヴォほどドスの利いた声ボス・アメナサンテではなかったものの、我等が《憂い顔の従士エスクデーラ・デ・ラ・トリステ・フィグーラ》がより一層低く暗い吐息を交えて漏らす言葉は、鼻息荒く獲物を追い詰める冥界アンヌンの猟犬ですら靴を履いてコン・ロス・ピエス・カルサードス逃げ出す程度の凶々しさを帯びていた。「携帯どっかに忘れたカナリアはかなりい……公園でも出してないし……やっぱラーメン屋のテーブルか、床に落としてたんだろか」

「正直に申せば、」騎士は寄り添うように並ぶと、残酷な告白をものする。「――それがしがおぬしの手にする《魔法の蝋版タブリーリャ・デ・セーラ・マヒカ》をこの目に認めたのは、峠にてサカモンテシーノスの闇穴へと竄入ざんにゅうした折が最後じゃ」

「……たしかにあの時手に持ってた気がします」どうせ使えないのだから大人しく仕舞っておけばよかったものを、千代は歯噛みして己の浅はかさを詰った。「なんで――ああ、あの後バイカーの人たちに会って、で、トランシルバニアネズミーか……奴らマジ許すまじ」

「祓い屋は見当たらぬまでも……」花は夜道を前後に見渡す。パロミ女王の集合住宅までは直ぐである。「平の警吏であればその辺を警邏していよう。取り敢えず当たってみるか」

「いやそれは……」唇を噛む従者。「うちらお尋ね者ですしおすし」

「だがあれなくして――」

「それはそうなんだけど、直近の問題はシェーンブルンのアインがあの中だってことなんですよね」千代の入場券は携帯電話から受信保存された物デスカルガーダであった。情報が入っている端末そのものを紛失した際には再発行が利かないのだろう。花のそれは印刷された物であったが――「つまり明後日の夜、っつか夕方までに戻ってこないと死亡確定です」

「なら一際急ぐべきでは?」

「下のでかい道だったら誰かが拾って届けてくれてるかもですけど、あんな山ん中の真っ暗のトンネルですよ? すでに車に轢かれて粉々になってるかも」従士の云う通り、洞穴の中に照明はなかった。真っ昼間であの暗さなのだから、この時間帯ではオディンの息子ホズルでもない限り、一度潜り込んだが最後二度と月影を臨むことは叶わぬだろう。倉皇としている割に存外冷静な分析である。「あ……最悪、あの何だっけ――マルッパともうひとりがあの後拾ってたりしたら」

「チヨさん」

「――私パスロック無効にしてるから、ああ、ヤバイわ。どうしよう」まだ中学生であるが故に信用支払板タルヘータ・デ・クレーディト決済などの機能が付いていなかったことは不幸中の幸いだが、不正利用を避ける為には矢張り早急に利用停止手続きを取るべきではないか?「電池切れてっしGPSで位置特定もできん」

「チヨさん、落ち着きなさい」花は制止する。「宮廷じゃ」

「現実的に考えてこれは」足を止めた千代が主人に同意を求める。「――夢ですね?」

「そうかも知れぬが、夢であったところで同じこと」物理的な停止と引き換えに思考が逃避に走り始めた従者を一度は突き放すドニャ・キホーテ。「いつ覚めるとも知れぬし、目覚めたところでその先未来永劫微睡むことすら罷りならんという訳にはゆかぬからな」

「夢の中でまた同じ夢を見てたら普通夢だと気付きませんかね? だったらデジャブだろうがひでぶだろうが、自分の秘孔を突いてでも目を覚ましますよ私なら」

「明晰夢というやつだね」駐車場の隅に馬を繋ぐ。「そこは気付いたからこそ解決してから覚醒したいところではないか」

「夢でも現でも鬱な方にはゆめゆめ留まりたくないです」しゃがみ込んでしまった。「これが現実だったらそれでもいいからとっとと成仏したい……」

嗚呼この娘ときたらアイ・カランバ・コ・ネスタ・チーカ!」騎士は従士を立たせようとするが、フニャフニャとまた膝が折れてしまう。「物情騒然たる憂き世とはいえそれ、見てみい。いついつまでも干涸らびておらねばならん謂れはないぞ。雲行雨施うんこううしという言葉もあるではないか」[訳註:この時、月夜に一瞬雲が掛かったのだと思われる]

「もううんこもしっこも出やしません」芳紀十四五の乙女には到底相応しくない下品で幼稚な悪態ではあったけれど、その隠った声から察するに千代は顔を自分の膝に埋めているようだ。端ない如何様なセリフすらも哀愁を誘う様相。そして漸く顔を上げる。「……いえ、すみません。鼻血も出ないと云いたかったまでで」

「花の血が出るのは端からこの鼻以外にあるまいて。安心しなさいよ」

「え?」

「牛の糞は元より、吾等が清らなる御馬様方とて一切の排出器官を持たぬからね。馬糞が欲しいと思ってもそう易易と手に入らぬさ」

「……はァ、まァ」

「それにオシッコウンコという単語も行く行くはそれぞれ、《起立せよ》《安座せよ》という意味に転化すると、何処かの物の本で読んだ記憶がある」小便は立って、大便は座ってするという概念は理解し難くもないが、それはそうとそんな法外な未来を予知した物の本アルグン・リーブロが世にあるだろうか?[訳註:オシッコピピッはpipí/ウンコポポッはpopóと共に律動的リートゥミコ

「何ですか、人の苗字を排泄物呼ばわりするその本とは?」堪らず千代が顔を上げる。[訳註:イスパニア語ではHの発音が欠落するので安座も半坐も同じだが、日本語としては当然アンザとハンザで異なる読みとなる。千代の聞き間違いかも知れぬ]

「どうじゃ、それがしも流行モードを先取りして、不肖の従者を大声で立たせてみようかの……そらっ、オシッ――!」

「分かりました分かりました!」膝をパンパンと払う音。「いや分かりませんけど、立ちますよ」

 行きはたった二分の道のりだったが、帰りは意気消沈の半坐千代が牛の歩みであったこともあり、万神殿を後にしてより合鍵で女王の宮室を解錠するまで四分と半分も費やされたのである。


ふたりが荷鞍に何も積まずに戻ったのは、勿論千代の腹の牛蛙がすっかり鳴りを潜めてしまった珍事あってのことだが、何よりも先ず投宿先に残してきた台車付き鞄トローリを先んじて検めたかったからだ。これで外面のちょっとした物入れや、又は何かの拍子で紛れ込んだか菓子を詰めた袋かあるいは丸めた予備の衣類などの中からでも発見されさえすれば一件落着カソ・セラード――この人騒がせな空騒ぎムーチョ・ルイード・イ・ポーカス・ヌエーセス[訳註:直訳は《大きな騒音と僅かな胡桃》。殻を割る際に派手な音が鳴る割には中身が存外ちっぽけということか]も単なる笑い話となる訳で、そうなれば改めて買い出しに出掛けるなりして、その他愛ない事件を肴に宴会を盛り上げれば良い。

 しかしそうはならなかった。

 三軒茶屋から持ってきた大小全ての荷物を引っ繰り返して所持品を端から並べてみたが、あれだけ肌身離さず携帯していた携帯は霞のように消えてしまったのである。

これは実際のところ少女にとって我々が想像する以上に由々しき事態だった。半坐家の汎用電算機コンプタドーラは家族共用であった為、千代の有する情報的財産プロピエダーデス・デ・ラ・インフォルマシオーンの大半は自身の携帯端末の中に保存されていた。いつ購入した物かは明らかでないが、彼女の数年分の人生が詰まっていると言って過言ではない。

 尤も治安の良いこの国であれば、近日中に手元に返ってくる望みも無くはない。五分五分といったところだろうか?(筆者の地元であれば、二日後に近所の蚤の市フェーリア・デ・ラス・プルガスを探して歩いてみる方が得策かも知れないが)

 しかしながら喫緊の問題は――千代自身が先程指摘したように――、それが今から四十数時間後の、名古屋市内の所定の演奏小屋前で待機している彼女の手元に果たしてあるかどうかだった。

「それがしが付いておりながら、全く申し開きのしようもない」花は居住まいを正すと徐ろに頭を下げる。これは誰よりドニャ・キホーテにとっても予期せぬ誤算であったのだ。

「ちょ、御前様が謝るのは筋違いですよ。普通相方の面倒見なきゃいかんのは家来の方でしょうが」従者は恐縮しながら畳の上に並べられた栄養飲料を一本取ると――あれだけ徴収しておいて更に数本あの楽屋から失敬していたのだ!――、音を立てて開栓してから主人の前に置いた。だがなかなか指に力が入らなかったとみえ、蓋が開くまでには数秒を要したようだ。そんな些事にも彼女の動揺が垣間見えた。「まァこれでも飲んで……落ち着いてください。私は顔洗ってきます」

「探すのをやめた時見つかる事もよくある話じゃ」

「よくありますか……天下のドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャのお言葉ですし、信じて待つこととしましょう」力なく立ち上がった千代はフラフラと覚束ない足取りで洗面所へと向かった。「うふっふ~」

「――夢中にあらば尚更、善道を往くを憚ること勿れ」

 騎士は正座を崩さぬまま従士の背を見送ると、嘗てポローニアの王子が山陰の獄舎および王宮の中で得た豁然大悟グラン・イルミナシオーン・レペンティーナを無意識の内に唱えずにはおれなかった。(邦訳訳者)

  Es verdad; pues reprimamos

  其は真、然らばこの先堪えてゆこう

 esta fiera condición,

 此れなる蛮野の本性を、

 esta furia, esta ambición

 此れなる赫怒、此の野心

 por si alguna vez soñamos.

 いつしか夢見るその日まで

 Y sí haremos, pues estamos

 してしかと為せば、吾等は此処に在り

 en mundo tan singular,

 生きること是則ち只只夢見ることと

 que el vivir sólo es soñar;

 思しき偏奇の世界なり

 Y la experiencia me enseña

 して見聞が教へるは

 Que el hombre que vive sueña

 人とは夢を生きるもの

 Lo que es hasta despertar.

 只其は覚醒めるまでのこと

「わかった!」玄関の側の浴室手前にある脱衣所から轟く奇態な叫び声、次いでドタドタと走り来る足音が響いた。「ドニャえも~ん」

「どうしたねちょび太くん」駆け寄るや膝の上に泣き伏せるしどけない従士の髪を優しく撫でてやる花。

「とりよせバッグを……いや、」主人の脚衣の布地で顔を拭く従者。「いっそもしもボックスを」

「遺憾にもドラとドニャでは五百年の隔世があるのじゃ」[訳註:ドラえもんの製造年は西暦二一一二年とされる。対してドン・キホーテの没年は、作中サンチョが故郷の妻へと送った手紙に記された日付を信ずるなら一六一四年]

「あんなゆめもこんなゆめもありゃしない……」千代は顔を上げた。「ごめんなさい濡らしました」

「日頃は濡れぬ先こそ露払いで世話になっておる身。濡れ鼠は御免だが、猫の目の涙など雀のそれと然して変わらぬ」ドニャ・キホーテは従者の両肩に手を置く。「進めねばならぬは馬の脚だが、明朝は更にもうひと仕事――失われた端末をも探し出さねばならぬ。精を付ける意味でも牛の肉など食らいに行こうかの」

「ドニャ・キホーテ様行ってきてくださいましな。今日のサンチョはへとへとくたびれましたでな」そのままその場に寝転がる。「私も寝ずにいろってのは御免ですが、寝込むのだけはのび太並の――つまりは世界レベルの強者なのです……ぐう」

「覚醒めと共に目の雨は晴れ、空を仰げばイリスが弓に矢つがえ構え蒼天目掛け引き絞っておることじゃろて[訳註:イリスとは虹の女神だが、イスパニア語では虹そのものを《イリスの弓アルコ・イーリス》と呼ぶ]」騎士は立ち上がって部屋の明かりを消すと、従者の傍らに仰向けとなった。侘びしく索居するカスティーリャ女王の質素な宮室を照らすのは今や窓から射し込む仄かな月明かりのみ。まだ十時を過ぎてそれ程経ってはいない。

「――パトラッシュ、ぼくはもう疲れたよ」千代が寝言のように呟く、「なんだかとっても眠いんだ……」

「寝ろ」

 当意即妙なる主人の返答に思わずプッと噴き出すラ・サンチャのサンチョだったが、数秒と待たずしてその吐息は安らかな寝息へと変わっていった。(これは日本の慢動画『フランダースの犬』の最終話を出典とした遣り取り。著者が子供の頃に視たカスティーリャ語版の吹き替えでは主人公の名前がニコラスだったと記憶しているので初めの内は気が付かなかったのだが、英国の原作小説ではNelloであり、アーニメが制作された際には日本語の発音に則してNero――ローマ帝国の暴君と同じ綴り――と表記されている。そしてネロとは寝るドルミールの命令形、つまり「寝ろドゥエルメ」を意味していることをここに補足せねばなるまい)


寝返りを打つこともなくすやすやとスィレンシオサメンテ、或いは昏々とプロフンダメンテ眠り続ける千代の体温を傍らに感じながら、目を皿のように見開いた阿僧祇花は闇に溶けた天井の中央にオルフェオの光明を見出さんと努めていたが、ふと数時間前に観劇した髷物の芝居オーブラ・テアトラル・デ・モニョ・サムライが頭をよぎるとその視線は自然に光の射す方へと吸い寄せられていく。

モノ……天窓ドモ……か。あたら命を散らしたあの浪人どもが其処な明り採りから此方を覗いておるようだわい」切れ長の両眼アンボス・オーホス・ラスガードスを細め窓外を凝望する蜂の騎士。「差し詰め精螻蛄しょうけらの如し――成程奴等は片目に斬られ、冥府に鎮座まします大将が御用聞きへ転生したとみえる」[訳註:石燕の描いた妖怪――《せうけら》は、屋根に開いた窓から屋内を覗き見る猿のような獣。その家に住まう人間の所業を逐一観察し、悪事を見て取るや本人の寝ている間にそれを閻魔に報告する為天へと昇るとされる。尤もこれを防ぐ為に寝ずに過ごすのは庚申の日――別名には《おさるの日》――の晩であるが、二〇一〇年代で八月の六日がこれに当たる年は一度もない]

 不可視の第三者の視線オーホス・イマヒナーリオス・インビスィーブレスに居心地が悪くなったか、従者の睡眠を邪魔せぬようすっくと立ち上がると暫くの間黙想していた花だったが、突然その場で流麗かつ安定感ある片足回転ピルエットを三連続で決めると、これ又静かにその小さな踵を畳の目へ落とした。窓から内部を注視していた妖怪も、突如として壁に映ったおどろおどろしい旋回錯視イルスィオーン・デ・ラ・ピルエータの影に度肝を抜かれたことであろう。[訳註:正確には影絵錯視イルスィオーン・デ・ラ・スィルエータである。殆ど音の出ないこれらの動作を著者が録音された音源から如何にして読み取ったかといえば、それは騎士の次のセリフからの連想だろう]

「はて、よし牢櫃ろうびつの床を三十と二回廻ったところで修道僧デルビーチェの行法のようには行かぬ。全く遠く及ばぬな[訳註:回教徒の神秘主義者スーフィーが精神集中の為に踊る《旋舞セマ》の真似をしてみたのだと推測できる。尚、三十二回転というからには爪先回転ピルエットではなく鞭状回転グラン・フェッテだったのかも]」室内空調を調節するドニャ・キホーテ。寝転けている従士が寝冷えしないよう弱冷房に設定し直したか、若しくは時間設定を仕掛けたのか判らぬ。窓の戸締まり確認、次いで自分の荷物から何か(大きな輪奈織浴布トアージャ夏用の上掛けマンタ・デ・ベラーノだろう)取り出して彼女に掛けてやる。「《Tui gratia Iovis gratia sit cures...》[訳註:《天父ユピテルの恩寵が汝の癒しとならんことを》――奇しくもこの夜は木曜――歳星神フーピテルの日であった]さて……已んぬる哉」

 それから四十秒で支度を整えた騎士は、忍び足で玄関の上枠を潜り合鍵が固く再施錠するまでの間、噂好きの女神フェーメ・ラ・フェメニーナが全ての窓を覆い、叡智の猿モーノス・サービオス――天窓のではなく――宜しく目耳口をしっかりと閉じていてくれるよう切に願った。

 戸口から千代の表情を伺えるような間取りであったか否かは読者諸兄の想像にお任せするとしよう。何せ筆者自身も知らないのだから。

「いざやイポグリフィート、いやパトラニージャよ[訳註:西patrañaで《御伽噺》。ところで『フランダースの犬』の舞台はアントウェルペンに隣接するベルヒエの村であるが、NelloやPatrascheという名前は蘭語にはない。原作ではパトラッシュとは元々ネロが死別した母親の中間名だったとされるものの語源は不明。《高貴/貴人》を意味するパトリーシアの転化か。一説には切り裂き魔リッパーの隠語とも]」駐車場の端で愛馬の縄を解きながらその背を撫でる。鞍の位置を元の高さへと戻してゆく。「宵越しの密勅みっちょくに駆り出す仕儀となりそれがしも心苦しい限りなのじゃが、其処は人馬一体一心同体、同行二人どうぎょうににんと諦めて暁の明星仰ぐまで存意存分付き合うてもらうぞ」

 だが単騎馳せ何処へ向かうのかと思えば、鞭と鐙を合わせてからたった三十秒で手綱を絞ったドニャ・キホーテ。「暫くウン・モメント」そう云ってパトラスの悍馬を僅か三分ほど路上に待たせたラ・サンチャの騎士が、その間何処を訪れていたかは皆様ご承知の通りである。

「吾が強盗ちゃんパトラケリータ、そして闇の翼煙鏡の神テスカポリトカよ。月の女神ディアーナの加護の下黒曜石オブシディアーナで纏い尽くした御身の身体、願わくば猫目石シモファーノ一粒で暗夜を照らし給え。というのも遥か地球の裏側の不滅の冥界アアルの王にしてオシリの神たる緑の旦那にこっそりと、メジェドの眼だけを御守り代わりに借りて来たのだ」悪戯めかしてイポグリフォの馬耳に耳打ちした花は、先達て従者が手に取っていた前照灯を物の十数秒で取り付けた。この騎士の言葉から何が読み取れるか、それは《テスカポリトカ》が彼のケツァルコアトルの宿敵であったことを鑑みれば自ずと知れてこよう。[訳註:補足すると、ケツァルコアトルが人身供犠に異を唱えたのに対し、生贄を課したアステカのテスカポリトカと心臓を喰らったエヒプト神話のメジェドでは幾許かの共通点がある。余談だがオシリスの懐刀メジェド神といえば「目から光線ビーム」で有名]「子の刻にはまだ早いが、ぼつぼつ捲土重来といこうか」


三度目にパロマ宮の門前へと至った時にその門戸を叩くことは勿論なかったが、それでも只素通りするような無礼を犯すドニャ・キホーテではなかった。急制動でイポグリフォ――或いはテスカポリトカを竿立ちにした騎士が、往来の騒音に負けぬ大音声で以下のように呼ばわる。

「あいやカロリンヒアの女王カルラマーニャよ、」距離的には花と千代の丁度中程に位置した駐車場の隅にて休息を取っていたシャルロットは、主人の主人アーマ・デ・ス・アーマによる突然の喚呼に面食らいながらも思わずそのロバの聞き耳オイードス・パラ・オイール・デル・アスノを立てた。「今宵ばかりはこの転蓬てんぽうの騎士に代わり、紅翼の迦楼羅かるら天女となりてお前の娘ビスヌーの女神を護るのじゃ。お前であれば此の先此の地に蛇が出ようが邪鬼が出ようが、ドニャ・キホーテも遠く離れて平気の半坐という訳よ」[訳註:ケツァルコアトルが《羽根持つ蛇》であることと、迦楼羅天が龍や蛇を食う霊鳥であったことに対応している]

 これが宵鳴きの鶏であればキキリキーと鳴いて己の役目を復唱したことであろうが、幸いにして迦楼羅天はそのような野暮天カルーラではなかったので、気品ある者の常として沈黙を以て了承の意を示したのだった。[訳註:西caruraの本来の意味は《不相応に値段が高い物》、転じて自分の価値や存在を声高に主張する無粋者ということ]

「猛猛しきイポグリフォ、仲好しのパトラッシュことあのロバ君とも暫しの別れじゃ……はて、腹を鳴らせて目を覚ますだろう彼女の御主人には、コパ入りのラー=アメンでも買って帰ってやるとしようかの」そう柔和に語り掛けたドニャ・キホーテは俄に相好を崩したかと思うと、噴き出すようにしてクスクスと笑い出す。「――ら、らめえ……ん、とはこのことか」[訳註:『フラン~』の著者は英国人だが、父親がフランス人だった為本名の姓はde la Raméeであった。因みにコパ入りのラーメンとはカップ麺のことを指すのだと思うのだけれど、西語でcopaは本来タジョの付いた洋盃のこと。普通脚のない硝子容器ならvaso、取っ手付き円筒茶碗ならばtazaと呼ぶ]

 日本のヤギカーブラは「めえ」と鳴くそうだが[訳註:欧米では大体「ばあ」]、類推するにこの東国一の荒くれ郷士が同じく「めえ!」と一喝してから拍車を掛けたのは、大方王宮に眠りし妹の首筋へ忍び寄る狡猾な山羊血吸いチュパカーブラの注意を自分の方へと惹き付けたかったが為だろう。その甲斐あってか、これから数時間千代の安眠を妨害する魔物は一匹足りとも現れなかった。

行く末を見よミーラ・エル・カミーノ・ア・セギール――」星空を仰ぎ呟くドニャ・キホーテ。

 このまま真っ直ぐ南下すればいずれはガマの都に到達するトルデスィージャスの大道の、恐らく一つ目か二つ目を東に折れた騎婦人ヒネータ[訳註:騎乗の婦人を表す場合も通常であれば男性形のjineteを用いる。一応amazonaという単語もあるが些か語感が野卑に過ぎる。ここに来て著者がドニャ・キホーテの女性性を強調していることの証左であろうか。尚、jinetaは鐙を短くする乗馬法を指す他、ジャコウネコ科には同じ名を持つ品種がある]は程なくして国道1号線、則ち天下の東海道へと舞い戻った。それからは直向きに昼間上ってきた道を逆走していく。尤もこれは、花が姫街道に再進入する為の最短経路を選んだことを念頭に置いた場合の道筋であるが、特に時間の余裕があるわけでもない彼女が余計な遠回りをする謂れなどないと考えるのは至極妥当であろう。従士が眠りについてから出発したということは、当然眠っている間に帰還したい筈だ。

「Contamos contigo, hipo.」[訳註:「頼りにしておるぞ」主語は一人称複数]

 《ネズミの時間オーラス・デ・ラ・ラタ》とは午後十一時から午前一時までの二時間を示す(但し現代の日本人の多くにとって瞬時に換算することが難しい時刻の呼び方であるのは言うまでもない)。集音器が拾う車の走行音の量の変化を鑑みると、東海道に入った辺りで丁度この《ネズミの時間》が訪れたと見て然程の大きなズレはないものと思う。

 これから千代の傍らに立って我々が耳にすることが出来る物音といえばせいぜい時折集合住宅物件の前を通過する自動二輪たちの排気音程度だろうから――無論筆者は根気に任せて何も起こらぬ敷地内の音源を最後まで聴き通した上でこう記しているのだけれど――、今はこの物語のもうひとりの主人公にして表題役たる稀代の騎士阿僧祇花の深夜の強行軍に身を寄せて行きたいものと考える。


さてここでこの偉大なる物語の著者が改めて感じ入るのは、自由意志と偶然が綯い交ぜとなって紡ぎ出す《運命デスティーノ》なるものの妙味グストである。[訳註:西destinoには他にも《行先/目的/役職》等の語義がある]

 思えば七月最後の日――日付が変わればそれはもう一週間も前のことになるのだが――、太陽に灼かれラ・サンチャを発つ旅人の落とした遍歴の影ソンブラ・エランテがもしもひとつであったなら、……更に言えば半月前の午後、砂塵舞うエル・トボソの高等女学校アカデーミア・ウニベルスィターリア・フェメニーナ・デル・トボーソの木曜、その校庭の中程にて騎士と従士が予言的な出逢いエンクエントロ・プロフェーティコ(千代の信仰を慮れば《偶然の出逢いエンクエントロ・カスアル》)を果たしていなければ、この真実の物語の紙幅は蓋し十分の一に抑えられていただろう。それは読者の皆さんにとっては貴重な時間の節約に過ぎないが、一日二十四時間で二週間以上に渡り録音された音源を花と千代の二人分、ただ只管に聴解し書き起こしていく作業をする人間にとっては苦行以外の何物でもない。[訳註:これは完全に著者の単純な計算間違いか書き損じ。音源の時間表示を確認すれば、――仮にアマデウスの名古屋公演が二〇一五年八月八日土曜日だと決め打ちしたとして――三軒茶屋を出発したのが七月三十一日金曜日、終業式は二十四日金曜日、そして主従ふたりの邂逅は二十一日の火曜日となる筈で、録音が開始されてからこの日までで実に十七日目]

 というのも、それが幾ら演劇性人格障害トラストールノ・イストリオーニコ・ペルソナリダを患った多感な少女であったとしても、単身で行動する人間が四六時中独り言を発しているなどということはそうそうあり得ないからだ。《ひとりならより早く進むソーロス・バーモス・マス・ラーピドふたりならより遠くに辿り着くフントス・ジェガーモス・マス・レーホス》という先見の民プエーブロ・プレサヒアドールの格言[訳註:第十五章参照]はある意味的を射ていた訳である。それが証明されたのがこの往復八十粁近い一人行脚だった。

 つまり宮殿を――そして万神殿ともう一度宮殿前を――後にしてから二時間と少しの間、多弁で知られる我等が《蜂の羽音の騎士カバジェーラ・デル・スンビード・デ・アベーハス》は一言も口を利かなかった。少なくとも胸元に垂れた機械仕掛けの貴石はその羽音の振動を、養蜂箱の精霊の囁きススーロス・デル・エスピーリトゥ・デ・ラ・コルメーナを只のひとつも聴き取ることが出来なかったということだ。巣穴セルディージャスのひとつの中で眠る千代と車道を飛ぶように走る花各々の集音器が拾う楽の調べノータス・ムスィカーレスに違いがあるとすれば、車の往来が生む環境音の音量くらいのもので、これを以てドニャ・キホーテが何処を走っているか、何を目にしているかを窺い知ることは到底不可能だったのである。[訳註:西los susurros del espíritu《御霊の囁き》とは人に真理を教え肯定的な効果を齎すような神の啓示を指す。パロミ女王の住まう庶民的な集合住宅を蜂の巣の共同生活に準えている辺り中々に皮肉が効いているが、単語の区別として天然の蜂房はnido、人口の巣箱ならcolmenaと呼ばれる]

 早い。圧倒的に早い。しかし鐙は昼間とは比べられぬ程に重く、騎士の困憊具合が垣間見える荒い息遣いは、時折夜空に響くイポグリフォの嘶きに引けを取らぬ程の悲壮感に満ちていた。[訳註:風切り音が徐々に衰えていくのが聴いて取れたので、実際に花の走行速度は徐々に落ちていったと思われる。平素の彼女――否、ここは平素の《ドニャ・キホーテ》と慎重に言葉を選ぶべきであろう――であれば、たとえ信号待ちの途中停車が数十回あったにせよ、四十粁足らずの距離なら一時間半と掛からなかったのではないか]


沈黙が破られたのは、天空のユピテルがウェヌスの色香に七曜の座を譲り、《ネズミの時間》から《ウシの時間オーラス・デル・ブエイ》へと移行しようとしたまさにその頃であった。

「¡Gato!」思わず息を飲んだ花が咄嗟に手綱を引き絞るや、後輪を強引に引き摺る摩擦音は三秒間余りも夜陰を劈いた!「……黒猫かガト・ネグロ猫らしき黒い何かオ・ネグーラ・ガトゥーナ寝座ねぐらからまろび出た仔狸か何かかしら?」

 どうやら路上に飛び出した小動物を避けて急停止した模様。

「¡Feliz viernes 13 y los gatos a todo color![訳註:「十三日の金曜日と凡ての色の猫たちに幸あれ!」因みにこの日も翌週の金曜日も十三日ではない]そら、見ておらんでとっととお帰り」ドニャ・キホーテは一旦馬を落ち着かせてから騎乗姿勢ポストゥーラ・エクエストレを正すと、囁くような声音で以下に続けた。「これはネコさんの光る団栗眼に感謝せねばなるまいて。闇夜の山道、何の光明もなく暗中探索しておったらあのままムジナの背なに乗り上げて、お前さんは主諸共暗中跳躍、あわや雲海の藻屑となり果て兼ねんところじゃったわ。それがしとて荒ぶる半鷲半馬に付き合おうて、――すわ、面黒おもくろ狸の腹何たらが聴こえてきよる!――戒名も差し詰め天翔あまかけるファエトン滑落大姉とでも名乗る羽目になったか知れんよな」

 山道ということは――我々の知らぬ間に御油を越え、苦難の道ビーア・ドロローサ[訳註:姫街道のこと]を逆打ちしペレグリナンド・アル・レベース始めていた花は、漸くアル・フィンというべきか遂にポル・フィンというべきか、あの忌まわしき本坂峠――つまりサカモンテスィーノスの洞穴に至る三キローメトロスもの上り坂へと踏み入っていたのである。直前で前照灯を買い求めていなければ、暗路に突然現れた獣を轢いた弾みに防護柵を飛び越えて、そのまま崖を転げ落ちていた――という架空の過去パサード・イレアルは、彼女が自省するまでもなく十二分にあり得たことだった。(その前にそれなりの速度で夜道を走っていたのだから、十中八九道中半ばにして巡回中の警察車両コチェ・デ・ポリシーア・パトゥルジャンド・ロス・カージェスにでも呼び止められていただろうが……自転車の無灯火運転は千代の云う通り明白な犯罪なのである)[訳註:道交法では五万円以下の罰金だそうだが、現実には注意のみで解放される場合が多いそうである。無論事故を起こした場合はその限りではない。尤も旧本坂隧道を通る迂回路には道路灯もないようなので、夜間星明かりだけを頼りに走行するのは安全か否か以前の問題かも知れぬ]

「結句で相応しい最期であったかと思わぬでもないけれど……いててて」衝突事故は未然に防がれたものの何処か捻ったのか或いは擦り剥きでもしたか、珍しく痛みを声に出すドニャ・キホーテ。不浄のドブネズミに齧られても弱音ひとつ吐かなかったあの烈女が、である。「――今宵ばかりは無事生きて還らねばならぬ。何せ大事な御役目があるでな」

 遥か昔の半日前アセ・ムーチョ・ケ・ラ・ミタ・デル・ディーア、木洩れ陽を裂きながら全速で駆け下りた坂道を、今は恰もガリラヤ湖で網を引く聖なる兄弟の如く慎重に、一歩一歩踏み込むように上っていくのだった。

蜿蜿長蛇えんえんちょうだの峠の道も、……余すところは後僅か。ちょいとそちらを面掛おもがいで、……面舵切ってもらえれば、県境フロンテーラは蛇神様の胃の腑の辺りにあるだろう。とはいうものの、口縄の胃が何処から何処までなどという解剖学の知見は皆目ないのだけれど」

 左に山肌、右に断崖。その双方から鬱蒼と頭上を覆う山林が、騎士の身に降る星影すらも奪い取る。

「昏昏として、目に映らねどこの先に……暗い顎門をパクリと開き、間抜けな旅人たびとに喰らい付こうと、……夜気やきに紛れて潜んでおるのはケツァルコアトル乃至コルテス――のけつか口かは此処からじゃ到底見分けが付くまいな。双頭蛇アンフィスベーナじゃない限り……どちらかふたつにひとつじゃろ。鳴り物入りの猫目鷲の目当たり目で、蛇形記章ウラエウスの影認めたならば……どうか儂にも教えておくれ」そう言付ける花は総身汗だく、渇いた唇から漏れる息も絶え絶えだ。この時間では流石に車と擦れ違ったり追い越されたりすることもないようで、イポグリフォの獲た猫の一つ目が照らし出すのは細く舗装された十数メートロス分の隘路のみ。今にも失神しそうな騎手ヒネーテの落馬を何とか妨げつつも、殊勝なラ・サンチャの悍馬がその脚を休めることはなかった。数刻前の人いきれに満ちた芝居小屋で、若しくは騒然とごった返す楽屋の中から聴こえてきたあの滑車の音が、途切れること無くまるで十万八千里シエント・オチョ・ミル・ミージャスの彼方まで真っ直ぐ紗幕テローン・デ・ガサを引き伸ばすかのように、馬の駆け足として愛知の果てに木霊する。[訳註:西ciento ocho mil millasでは約十七万粁だが、長安~天竺間の距離とされる十万八千里を唐代の単位で換算すると六万余粁。因みに現在の西安からインド北東の街ナーランダまでの直線距離は二千五百粁程度なので随分と盛っているのは慥か。要は花の鼻息には少なく見積もってもそのくらいの苦労が聴いて取れたということ]

 そして右手に折れてから三分と少し。ラ・サンチャの精華はどうにか餓えたコアトルが開く大口――静岡側の入り口が口であった以上、双頭アンボス・ラードスでもない限り矢張りこちらは尻の穴と呼ぶべき代物――への到達を見る。徐ろに下馬するドニャ・キホーテ。昼間の大立ち回りで落としたのであれば、千代の携帯はこの辺りに、それこそ蛇のり出した糞の一片トローソ・デ・ポポよろしく転がっているやも知れぬ。然もなくば、完全なる無明の闇ティニエーブラス・コンプレート・スィン・ルス・ニ・ルストレの中に蛇神様の宿便コプロスタースィスを漁る無謀を犯す羽目へと相成る始末だ。

 あれからもう既に十数時間が経過していた。自動二輪に蹴飛ばされたか、或いは乗用車に踏み潰されたか――どちらにせよ、無傷で戻ってくるという期待は虫が良すぎるだろう。

「はてさて――掛川のようには行くまいか」愛馬の頭から猫の目を外すと、朝焼けを以て世界の隅々までを侵食する不寝ねず暁光神ヘイムダルさながらに如才なく地面を照らし始める。成る程二日前の晩も、彼女の従者が丁度同じような姿勢で林立する墓石の間を捜し回っていた。あの時の遺失物は護謨底靴の片っ方で、今意中の物となっているまさにそれがその時の千代の手元にはあった。懐中電灯代わりだったのだ。そこで電池が切れてそのまま――と、こういう次第である。「其の方はも少し保ってくれような?」

 ふとデ・レペンテ

 闇の奥に気配。

……花は楕円状に切り取られた土瀝青アスファルトから頭をもたげた。


王たちの玄室へと連なる隧道の内奥は黒よりも暗く、王家テーバスの谷よりも又深かった。

「ラーの左目猫頭女神バステトよ、」洞穴の腹の中をしかと見据えたラ・サンチャの騎士は、カンテラ代わりの前照灯にそう小声で呟いてから、凝望は解かず手探りで路上競技用の操舵角クエルノスへと再装着させる……カチリクリック。「――鎌首もたげた大蛇アポフィスの闇のとばりを焼き払え」

 左手で手綱を捉まえたドニャ・キホーテ、もう片方の手がジリジリと左腰へと引き寄せられていく。白き突撃槍ランサが敢え無く湾曲飛散してしまいその手を離れた後も、騎士は再三その残り香ラストロ・オロローソを剣帯に求めてきた。無意識の内であったことは言わずもがなである。そしてその都度彼女の利き手ディエストラは虚しく空を切った。思うに任せ居合抜きしたところで、それは飽くまで妄想上の横薙ぎゴルペ・オリソンタルであり刺突アプニャラミエントだったに過ぎない。

 だが此度も騎士は、天神差しされたコン・ラ・オハ・アーシア・アバーホ腰の何か――視えざる何かアルゴ・インビスィーブレを敢然と振り抜いた。

 ……否、それは神聖なる何かアルゴ・インビオラーブレ

「Hominēs revilio!」[訳註:「汝等姿を見せよ!」]

 隧道内を朗々と響き渡る可視化呪文エチーソ・デ・レベラシオーン。その声はきっと瞬時に筒の出口を抜け出るや、浜名湖に微睡むハマッシーの耳孔にまで届いたであろう。

 一歩、又一歩と踏み進めた履物サンダーリアスの一方が、今まさにアステカの神獣――若しくは古鰐神シパクトリ口腔カビダッ・ブカルないし肛門カナル・アナルへとその太踵を落とした。最早後には退けぬ……蝸牛はコクレア――否、賽は投げられたアーレア・ヤクタ・エスト![訳註:第十四章参照]

「その声はやっぱし、」聴き覚えのある抑揚が闇の奥から投げ掛けられる。「――東京の、ドンキのネエさんとちゃうか?」

 すると次いで一アルペンデ[訳註:仏語のarpent《野尺アルパン》に相当し、長さとしては約六~七〇米、並びにそれを平方した面積値の単位としても用いられた。声が聴き取れる以上、実際はもっと近かったのだろう]先の暗穴の中、不意にひとつふたつと光源が灯った。

「ほんまやん」

「え、なんで戻ってきてしもたん?」

 揃って支え台を蹴り上げるや、ズルズルと車体を引き摺って近寄り来る男女の影。

「貴殿らは――」掲げた手を一旦下ろしたドニャ・キホーテ、こちらも馬を牽いて隧道の中を進み入った。「モンテシーノス翁の従弟殿、そしてその想い姫たる風見のベレータ――佳人ベリェーサベレルマではありませぬか」[訳註:西veletaには風見鶏の意味があるが、花が云い違えた理由は不明である。浮気性を匂わせるような出で立ちだった?]

「そうだうちベレルマ姫やった」女が思い出したように呟く。「あのおもろい妹ちゃんは?」

「チ――吾が不肖の従士など今頃は客亭かくていにて、磯に上がった舟漕ぎながらそれがしの帰りを待っておることでしょう」

「となると、岡崎まではよう行かんかったちゅうこっちゃな」心優しく心なき騎士ドゥランダルテがそう言って一息吐いた。

「……第一の従弟殿ドン・プリモ・プリマーリオ、」岡崎という町の名を聞き咎めた花は眉を顰めて問う。「其処許それを何処で――?」

 突然爆音が鳴り響いたかと思うと、浜松の方角から出現した光の玉が見る見る内に膨れ上がっていく。三人の前で派手な音を立て急停車する自動二輪。

「あかんわこっち……何やサボって誰と呑気にくっちゃべっとんか思たら昼間のポッピンデルモのチャンネーやんけ」

「だほっ!……危ないやろがほんま殺すぞ自分」こちらはベレルマ姫のお言葉である。

「ヤンキーからジャンキーに格下げなったんちゃうの? 脳みそ溶け落ちてんきっと」

「しばっ、バッキバッキに倒すぞコラ」金髪の依存症患者ジョンキが凄味のない胴間声で凄んでみせる。[訳註:西yanqui《米国人》、yonqui《中毒者》]「何しとん、ママチャん方の子は?」

「ホテルかどっかに置いてきてんて」サカモンテスィーノス翁の忠実なる盟友アミーゴ・レアル・イ・フィエルが花に代わって答えた。「豊橋? 豊川までは行ったん? そっからわざわざ戻って来んかこんな時間に」

「ふむ、そんなところですじゃ」一先ず己の疑問を飲み込んだドニャ・キホーテ。

「ほなちょうどよかったわ。俺の名前何やっけ? グア――ム?……グアバ何とか?」

「ドン・グワディアナでしたろうか」

「グワディアナグワディアナ! グアム人名でググっても全然見つからへんねんもん」

「あっ、せやダンちゃん」

「ああ、うん」ドゥランダルテは振り返ると、己の従者に向かって訊ねた。「お前さっきのちゃんと消しよったやんな?」

「うんもちろん」ジャンキが応じる。「――何が?」

「もしかすっと嬢ちゃんこれ探しに来よったんとちゃうの?」

「――其れは!」男が差し出した矩形の蝋版タブリージャ・レクタングラールを目にした騎士が思わず声を上げる。

「あん、それ妹子いもこちゃんのやなかったん?」

「お姉ちゃんが代わりに取りに来たってんやろ夜遅いし」

「遅すぎやろ」グワディアノは月の隠れた穴の中で小さく吠えた。[訳註:擬音語gua単体では犬などの吠え声を意味する。およそ月の女神ディアナに似つかわしくないその風体を踏まえて、申し訳程度の変更を加えた結果が《ワン月男神グワ・ディアーノ》か]「それにコッチの方が狼寄って来そうやし……いや餓えた狼なら逆にアッチか?」

「だからだっとれジャンキー・チェンは」従者の非礼を詫びる代わりにその頭を気前良く叩くドゥランダルテ。「まあせやかて若い娘が不用心やんけ、なあ?――ん?」

霊力ヌーメンが……」回復した千代の携帯を起動させた花は、当たり前のように電源が入ったことを訝った。

「ああ……ああそれ、誤解せんといてなそれ」男は多少慌てた様子で弁解に徹する。「別に何やイタズラしようとかそんなんとはちゃうかってん」

「ホラ、拾った時点で電池切れとってんやんか。何分くらい経っとるもう?」

「一時間は経っとらへん思うで。わしら来て割とすぐやろ?」

「見つけたん俺やねんけど!」従士グワディアナが口を挿む。淋しがり屋なのだろう。

「初めん内はそんまま警察届けよう思っとってん、なあ?」

「うん」

「……俺やねんけど?」

「わかったちゅうねん」鬱陶しく近付いてくる従者の顔を押し退ける主人。「でもほら、すぐ必要かも分からんし、いっちゃん交番持ってったら手元戻ってくんまでに何日か掛かってまうかもしれへんやん」

「仰る通りですな」花は同調の相槌を打った。

「それにさあ、警察は嬢ちゃんら――」

「それはええねん」姫の論及を制する心臓なき騎士。少なくともこの恋人たちにはラ・サンチャの主従が置かれた状況に対する――その正確性の多寡は別にしても――それなりの配慮があるようだった。「あとまぁ……壊れてへんかどうかとか、一応調べておかんと後でうちらが壊したことになったら困るやろ」

「御尤もです」

「――で、発見者の俺が偶然ポータブルのアレ……充電するの、持っててん」グワディアナが胸を張る。「これ、三台分フルチャージ出来んねんで」

「えらいえらい」主人が恋い焦がれる姫君にお褒めの言葉をいただく従士。適当にあしらった姫が以下に続けた。「ロック掛かっとってもチャージが出来れば壊れてはおらんちゅこっちゃろ」

「おらんちゅことに異議異論は御座いませぬ」ラ・サンチャの騎士は深々と頭を垂れた。

「ええねんええねん、第一発見者のわいがええちゅうとんねんから」

「今や浮遊艦隊フロータ・フロタンテの乗員たる吾が妹に代わって重ね重ね御礼申し上げまする」

「オレオレ。お礼はオ――」

「ゆうたって勝手にアドレスとか見るわけにゃいけへんやろ?――あぁ、セキュリティちゃんとかけとらなあかん云うといてな……パスコード?」

「承りました」

「結局電話掛かってきよったら出るくらいんことしか出来ることなかってんけど」ベレルマがそう言って笑った。「そんで掛かってけえへんだらしゃーないから帰りにどっか――」

御注意をオヒート!」

 ドニャ・キホーテが背後への意識を呼び掛けたので、三人は反射的に振り向き様後方を確認しようとした――と同時に洞内をけたたましい警笛音が駆け抜ける。

 ピピィィィィィィィィッ!

「「「グワッ!」」」不意を突かれた三人の西の民は堪らず両耳を抑えた。「――ディアナ」

辛抱ならバスタ……ジャ?」

 浜松市に開いた穴――勿論この時間では何処からが穴で何処までが洞壁なのか区別することは、今この時までは到底不可能だったのだが――から一頭の鉄牛の光るふたつの目、それがのそのそと接近してくるのが、豊橋側の穴からでも容易に見て取れたのである。


察しの良い読者諸賢が共感してくださったように、魑魅魍魎エスピーリトゥス・マリーグノス・デ・リーオス・イ・モンターニャス[訳注:字義通りだと《山川の悪霊》]が跋扈するという《丑の刻》、この由緒正しき物の怪の棲家にしてトランスィルヴァーニアの不名誉な姉妹都市――勿論これは森の彼方公国民プエーブロ・デル・プリンシパード・トランスィルバーノにとっての不名誉である訳だが――たる曰く付きの観光名所へと集った四名が、この凄まじい号砲を耳にして大層――実は中でも、取り分け一行の喇叭クラリーン役であったドン・グワディアナこそが致命的なまでに――肝を冷やしたことは、以下に語られる経緯を聴けば至極納得の行く結果であったろう。

「ふわぁ……」彼は堪え難い恐怖心からか、無意識に気の抜けた象牙笛オリファンテ(又は袋付き角笛コルナムーサと呼んでも良いだろう)のような調子外れの呼気をそのしだらない口元より漏らした。

「おいテッシはよどけろや。道塞いどんぞ」一足先に恋人と鉄馬を壁沿いに寄せていたドゥランダルテは、トゥネルを東側より徐行してきた一台の車に対しいまだ通行妨害をしている頼りない友人を諌めた。「えろすんません」

 我に返ったサカモンテッシーノスが反対側の壁に愛車を引き摺っていくのを待っていた乗用車は、特に返事をすることもなくそのまま洞穴の外に退出すると俄に大きな排気音を立てて愛知県の東端に当たる山道を下っていった。

「びびった」それを見送りながらグワディアナがボソリ呟く。

「まあまあビビったな、今のは」ドン・ダンも同意した。「アレもっとブワーッてな音やったもんなたしか」

「ブワーディアナン股の下漏れとんで、だいじょぶ?」

「ブワーッちびってもうたやんかなんわーってアホか」

「風邪引かんといてな。置いてくで」

「漏れとらんちゅうてん」従士ブワディアナが単車を牽いて戻ってくる。「さっきから気になっててんけど、お姉ちゃんそれ何持ってんの?」

「其れ?――此れで御座るか?」急迫の敵に備え、知らぬ間に攻撃呪文の杖を構えていた己に漸く気付くドニャ・キホーテ、照れ臭そうに一旦下ろした腕をもう一度差し上げて三人の眼前へと突き出す。

「何って……孫?の手やろ」

「此れなるは彼の大魔術師メルリンからもぎ取った、彼奴のマーゴの手ですじゃ」

「マーゴ? タマゴ?」

「然様。此の一振りでおんじ亭の愛らしい孫娘も、二振りで腐れ玉子が齎した諸諸のいざこざも――勿論メルリン其の人により掛けられた貴殿らの呪いすらも、三四五振りで目出度く解き放つことが出来るのです……それっ」

「そりゃありがたいわ。おおきにおおきに」手を合わせるグワディアナ。「誰がのろいっちゅうねん」

「なるほど、孫の手に持ち替えたってことはやぱそうか。見た感じ丸腰やもんな」

付加物ヤパとは?」

「ちょい待っとき」ドゥランダルテはそう言うと、仲間ふたりとドニャ・キホーテを残し豊橋側の出口に歩み出て、少しの間彼らの視界から消えた。

「何?」

「ここら辺やな……せぇのっ、うりゃ!」トゥネル外から何やらタンタンと、石壁を蹴け上るような音。「あっおっ、あっぶな!」

「……何やっとん」

「もいっちょ!……どりゃっ、おっ、や、取れた!――グワッ」転落音。「いったケツ打った」

「ちょっほんま何しとんアンタ?」ベレルマが追っていくその後ろ姿をグワディアナの愛機が照らす。「立てる?」

「下、落ち葉……いって、滑った。忘れとったわ」姫君の肩を借りながら心臓を欠く騎士が――否、このような運動に耐える身体ということは、先程ドニャ・キホーテが物した解呪の魔法により、嘗て奪われた心臓も見事回復されたのに違いない――何か白い物を手にして戻ってきた。「こんなこったらさっき戻さなよかったわ……ほれ、嬢さんねやんな?」

「バ……バルガス・イ・マチューカ!」ベレルマの恋人が差し出したのは、フランク王カルロマーニョのパラディンことロルダンが愛剣ドゥリンダーナ――の変わり果てた姿ニ・ソンブラ・デ・ラ・ケ・セーアである。「ドゥリン――ドゥランダルテ殿……其処許此れを何処で?」

「一応説明したっといた方がええかな」

 永きに及んだ臥褥がじょくの日々に終止符を打ち、遂にはその満ち溢れる活力を取り戻した《心臓ある騎士カバジェーロ・コン・コラソン》は、隧道の側壁に凭れ掛かるや徐ろにことの顛末を語り始めたのである。


逸事アネークドタは遡ること十二時間、昼日中のまさにこの場所――旧本坂トゥネルの最も闇に近い場所に端を発する。

「うちらと会うた後、何や揉めとったやんかヤバイおっさんらと、ちょうどここらで」

「ははあ、吸血鼠バンピラータどもですな」

「バンビっちゅうよかピラニアやなあの感じは」宮騎士は鼻で笑った。「で途中からめっちゃがなり出したやろ。何にキレたんか知らんが」

「巻き込まれんのもアホくさいからな、とっとと逃げたってもよかってんけど」

「かわいいJKを置き去りにはでけへんやろ人として」グワディアナが柄に似合わず徳の高い発言をした。

「人として?」鸚鵡返しするドニャ・キホーテ。

「お前がいっちゃんはよ行こはよ行こ言っとってんやんか」

「ちゃうねんそれは、はよ助け行こって意味やってん」

「うっわくるし!」ベレルマが笑った。

「――でまあ、結局ぐだぐだしとったら、いよいよ何かヤバイ感じになってんやんか。アレは何があったん? 何か後ろからも車来ててんやんな」

「はあ。カマを掘るだの寝床でヤるフォジャール・エン・ラ・カマだのとあの破落戸ども、人倫が車輪諸共泥土に嵌まり込んだような口振りで喚いておりましたわい」

「オカマやったん?」グワが見当外れな口を挿む。「そんな感じにも見えひんかったが」

「まあオシリス神をホルス神だとか――他愛もない戯言ですじゃ」

「ほんまもんのヤンキーやってんな。キチっとるわ胸糞ワル」代理で似非ヤンキセウドジャンキに侮蔑の眼差しを送りながら姫君。

「――でそうこうしとったら何か乱闘臭くなったやん? ヤバイこら流石に警察か思て一一〇番押そうとしたら即行静かになってん」

「そいつらの車がドーン停まってたからそん向こうで何起こっとるかよう分からへんかったんようちら」

「すぐ行かんですまんかったな」

「いえ――あ、失敬」ドニャ・キホーテは思わず突き出した《マーゴの手》を腰に戻すと、ドゥランダルテの謝罪を制した。「貴殿は第一に御護りすべき御婦人がおる身。それがしどもに加勢せんが為に姫の御身体を危険に晒したとあっては、此のドニャ・キホーテにも立つ瀬がありませぬ故」

「まあわしよかこいつのが戦闘力高いねんけどな実際――いた」謙遜するドゥランダルテ。

「で静かんなったんはええねんけど、今度は警察かそれとも救急車かって話やんか」ベレルマが割って入った。人情の厚い人たちだ。「で結局状況分かるまでそこでちんたらしとってん。したら――」

「物騒な二人組がバタバタと車乗り込んでこっち突っ込んでくるやん」緊迫感溢れる場面である。「こいつなんかマジでちびる寸前やってん。失禁城やで」

「呼吸吐くのとぶつかんのとどちらが先かという土壇場ですから、それも已むを得ませなんだろう」

「どういう意味?」とグワディアナ。

「まあやむをえませなんですわ。でもそんまま通り過ぎっかなー過ぎてくれへんかなー祈っとったらギリギリんとこで停まりやがって、で中からふたりとも出てきおってん」

「ごっつ柄悪いんがな」忌々しそうに吐き捨てる姫君。高貴な生れのご婦人の目には、如何にも耐え難い醜悪なる風貌であったのだと拝察する。

「んでメスガキ二匹どっち行ったか見とったかワレェ――とこうくるわけや」(mesgaquíとは女の子供を表す軽蔑語ペジョラティーボである。差し詰め《洟垂れ娘モコーサ》といったところか)

「……成程」悪漢はふたりとも比較的すぐに立ち上がり動き出したようだから、少なくとも入院沙汰が如き怪我までは負わせていなかったらしい。安堵と共に湧き上がる新たな不安――花は唇に指を当てて小さく唸ると、ベレルマの恋人が先を続けるのを待った。

「そしたら丸っこい方が、岡崎だか岡山だかまで行きたい言うとるの聞いたでえ言うてん」

「ふむ、得心いたしました」情報の出処はここである。延いては花の自業自得だ。

「――ででかい方がお前らもあっち行ったん見とったんやな、と」

「でな、ダンちゃん賢いねん」恰も自分の手柄のように恋人を持ち上げるベレルマ。「ほれ言うたり言うたり」

「普通やろ。いや余計なことやったらすまんかったけど――」そう断ってから先を続けるドゥランダルテ。「まあ何となく状況が分かった気ぃがしたさかい、こっち戻ってきぃひんかったから出てくんはそっちから行ったん思うねんけど――」

「思いますねんけど、やろ」

「うっさい、――思うねんけど何やここで喋った時には夕方には浜松戻って観覧者乗る言うとったでえ……って言うといたん」

「――ほう、それは」

「何でわざわざ静岡戻んねんて、でかいんが吠えおったから、――いや昨日浜名湖の向こう側にあるっちゅう……遊園地?で遊んどったらしんやけど何や夕方にトラブルあって逃げてきてんてえ、で観覧車乗れへんかったから仕切り直しで今晩再チャレンジする言うとりましてん、とか何とかテキトーに」

「嘘八百科事典やろこの人、天才やわ」

「弁舌の女神カリーオペすらも舌を巻く三枚舌、いや御見逸れいたした」口から生まれたナシーダ・ポル・パルト・デ・ボカ然しもの遍歴の騎士も彼の機転と手並みには素直に兜を脱いだ。「智の分水嶺たる彼の碩学とて己の物した名著をかずにはおれますまいて」[訳註:知恵の峰フィーロ・デ・ソフィーア哲学フィロソフィーア、つまりアリストテレス。名著とは恐らく『弁論術レトーリカ』のことだろう]

「ついでにうなぎ食ったら明日ん朝には東京帰って花火行く言うとったて言うたったわ」

「週末花火やっとるん?」

「いや知らんけど。毎週どこかしらでやっとるやろ今ん時季」

「まあやっとるやろな」

「それがしの尻にも火が付いておりますわい」

「え、何て?」

「いえ、」花の緊張の糸も解れてきたようだった。「――してそのドブネズミ共はどちらへ?」

「ああ、んででかいんがその遊園地ちゅうのはボート置いてるとこか?観覧車って何やでかいんか?とぐだぐだ質問してきおっていや自分らは知らんねんけどぉ言うとったらこんアホがわざわざ――」

「助け舟やろうが何やねんアホて」

「タスケもバスケもあるかい。こいつしゃしゃり出てきおってん、で」懐中点火器メチェーロ・デ・ボルスィージョ火打ち輪ルエーダ・デ・ペデルナルを鳴らすドン・ドゥランダルテ。「――富士山見える言うとったからでかいんちゃいますかって」

「黙っとりゃええんに……」

「そしたらじゃあお前キンパツ案内せいやって腕つかまれてん」

「もう言わんといてえ思い出しただけでサブイボ立つわ」

「それは災難な……」ドニャ・キホーテは良心の呵責を覚えたが、現実に今グワディアナが目の前で立っている以上大した災難は起こらなかった筈である。

「案内せえ言われても自分その子らの顔も憶えてません赤の他人やしーて」

「そんだらそいつにバカの他人やろがツッコまれてん」

「バカにバカ言われたらいよいよほんもんやな」

「バカ言うなや。アホはええけどバカは言わせへんで。しばくぞ」

「……彩り豊かな御他人をお持ちで……」花は真面目な顔を崩さぬよう努めた。

「しゃあないからいやこいつの単車遅いから先導させても邪魔なだけですわぁ、それよりうちら念の為こっち側の坂下りてって、もしメスガキ共発見したらコワイお兄ちゃん岡崎の方にアンタら追ってったっから安心して浜松戻り言うたりますよってに、急げばまだ下の一本道で湖着く前にうまいとこ捕まえられるかもしれまへんでーって」

「閻魔さんに舌抜かれるわ」ベレルマが呆れて笑う。

「何枚もあれど食事の邪魔でしょうからな、一枚くらい間引いてもらっても貴殿にとっては舌三寸ほどの不便もありますまい」釣られて口角を上げるドニャ・キホーテ。「いや、騎士殿の御裁量の御陰様で後顧の憂いが売り切れました。貴殿らには厚謝に厚謝を重ねても充分な厚みには到りますまい」

「――で、見つけおったら電話せえ言うて番号無理やり教えてきよったんやけど」

「あ、ダンちゃんアレ教えた番号だいじょぶやったん?」

「だいじょぶだいじょぶ、バイト先のクソ店長の教えたったから。もしもん時んために名前登録テキトーなんに変えとってん」海千山千マエーストロ・ア・ディエーストロ・イ・スィニエーストロである。きっとこれらのあらゆる手練手管は数百年に及ぶ睡眠学習で修めたものだろう。[訳註:ベレルマに恋い焦がれたロンセスバーリェスの騎士ドゥランダルテは、従兄のモンテスィーノスに自分の心臓を抉り取り愛の証としてフランシアのベレルマ姫へと送り届けるよう頼む。しかし大魔術師メルリンの魔法に依って彼等は全員五百年もの間洞穴の中に閉じ込められ、騎士も不起の眠りについたままとなった……という設定]「今すぐ飛ばせば多分追いつけまっせってったら」

「ほんまダッシュでカッ飛ばしてったな」

「カッ飛ばしてったなやないがな」グワディアナが恨めしそうに口を出した。「そん前にあのクソデブ、いきなり俺のスマホふんだくりよって、車乗ってガーッとバックさした思たら窓からポーンて放り投げくさりおったん」

「デブの方やっけ、助手席からやんな」

「どっちかてええわ。でまた戻ってきてホラお前らもちんたらしとったらんとはよ追えややと! ほんましばき倒そ思たわあんときゃ」

「思たんなら本能おもむくままにしばき倒せやほんま」赴くままに行動に移していたら彼等とて今ここにはおるまい。「で何やっけ、何の話やっけ」

「傘やろ」

「あ、せや」ドゥランダルテは話を継いだ。「でっと――そうそう、しゃあないからテッシーの携帯拾いに行ってん。バカネズミとブタネズミが消えよってすぐ」

 西の三人ロス・トレス・デル・オエーステはその時のことを反芻するかのように西側の出口へと歩いていく。


鬱蒼と茂るルソーの密林フングラは、今や青々というよりも黒々とした重みを持ち、真夏の星々の恩恵を地上の民から奪いながら痴れ痴れとしていた。

「綺羅星を一重に浴びる万緑は宛ら霧に覆われた牧場ベーガ・デ・ネブリーナ、されど地べた這いずる土塊の吾等は激昂の有体コン・ラ・アルタ・イーラ」[訳註:一等星の三つ巴Vega Deneb Altairを引っ掛けた洒落と思われる。慥かに八月上旬ならば天体観測に持って来いだが、少なくともここまで遅い時間となれば夏の大三角トリアングロ・デ・ベラーノも天頂には望めぬであろう]

「この状況でも貫くちゅうことは」心臓の騎士カバジェーロ・デル・コラソーンは苦笑しながら星影の下に立った。「――それも単なるキャラ付けってわけじゃないねんやろな」

「ベガとアルタイルがロミジュリでしょ」ひと月前に終わった日本の伝統行事を思い出したベレルマ姫が、聞き覚えのある星の名前を記憶の隅からほじくり返さんと試みる。「デネブってなんだっけ……彦星の牛、とか?」

 出番を誤ったヒグラシが数秒だけカナカナと鳴いたかと思えば――というのは日本に棲むこの蝉の名は《終日トード・ウン・ディーア》を意味するものの、平素は早朝と黄昏刻にだけ鳴く虫だと相場が決まっているからなのだが[訳註:第十二章参照]――、直ぐに一陣の夏風が呼び覚ました幾万の葉擦れの音に掻き消される。

「そんであのデネブが――デブが投げ捨てくさったんがこの辺やってん。ざっけんなしばくぞ割れとったらワレー思いながら地面探してもないねん。でくっそどこやねんなー言うてこうやって、」すると従士グワディアナは、トゥネル出口付近の道路の山側を固める石垣に向かって不格好な飛び蹴りを繰り出す。「――したらスコーンて。ここにコイケヤスコーンて」

 ベレルマ姫とその恋人が噴き出した。その瞬間の情景を思い出したのだろう。

「笑かすなや」

「笑うなや」不貞腐れるテッシー。「そのお姉ちゃんの持っとるお上品な傘の……その先っぽんとこが俺のつむじんとこに突き刺さってん」

 ドゥランダルテは遂に堪え切れず声に出して大笑した。

「姉ちゃんその傘もっかい貸して」グワディアナは了解を得ずに花からロルダンの剣を奪い取ると、その長槍と同じ名を持つ己の主人の頭へと大仰な身振りで振り上げた。

「ダホ、それは騎士様の持ち物やぞ。お前みたいな卑しい身分のもんが使ってええもんとちゃうんや」敢え無く奪い返されたドゥリンダーナは、たった五秒で元の持ち主の手へと戻される。「でこいつが死ぬ死ぬ言いながら頭抑えてうずくまっとる間にな、一体どっから落ちてきてん思て上見上げたらホレ、枝がヴァーッて張り出しとんやろ。ああアレに引っ掛かっとったんかー言うてよう見たらな、グワなんとかのスマホも……つかその影がもちっと上のとこにこれまた引っ掛かっててん」

「奇遇ですな」

「奇遇やろ。ぐうの音も出えへんわ」

「ぐう」グワディアナが呻く。「いやそこはグワの音も言うべきとこやぞ」

「で、この傘も――申し訳ないけどもう柄のとこ折れとったしええか思て、スポーン投げたら巧いこと当たって携帯落ちてきてん」

「ナイスキャッチ」と姫。

「でホレこれも引っ掛かっとったでえ言うて返したってん。不幸中の幸いっちゅうやっちゃ、お陰でキズひとつ付いとらんかったん、なあ? そんだら――」

「ああああ、不幸中の災害やっ!」

「泣きっ面に蜂――」と蜂の騎士が云い掛ける。「もとい八月の槍に何が起こりました?」

「よっしゃこれもわいの日頃の行いがーとか言うて受け取った瞬間に」従士の主人が代弁した。「――このアホ落ち葉に滑ってスッ転びおったん」

「しばるぞコラ、お前かて今さっき滑って転びくさったやんけ」

「――でその拍子にスマホ手からスッコ抜けて、プッ――」騎士は何度か咳をして呼吸を整えた。「何やよう分からんけどトンネルの中の方にポーンて、投げおってんな?」

「投げとらんわ。勝手に飛んでってん」

「いや勝手に五メートルも飛んでかへんやろ」ベレルマが従士の背を叩く。「バースやないねんから」

「そこは江夏ちゃうんかい」

「江夏はええねん」ドゥランダルテが仕切り直した。「ほんでな、アホや言いながらトンネルん中戻ってん」

「ふむ」ドニャ・キホーテは三人に続いて再度洞穴の中に侵入する。今や外も中も照度の点では然程変わらない。

「昼間は多分こんくらいまで陽ぃ射しててんやんか。でちょうど陰になっとるとこまでスッ飛んどったんな」トゥネル内出口付近の地面を指で示す心臓の騎士。「でこいつ、携帯見つけて拾い上げて……でこっち明るいとこまで持ってきてん、で――」

「やったー画面割れとらんんん!」ベレルマがグワディアナの口真似をして叫んだ。「これも俺の日頃の行いが……」

「似とらんなー。八十点」

「――って誰のじゃーい!」恋人たちが口吻を同調させてスィンクロニサダメンテ叫ぶ。ドゥランダルテがひとりで後を続けた。「――妹ちゃんのでした。めでたしめでたし」

「それな」花の手元――傘を握っているのとは別の手――を指してベレルマ。「無傷やろ」

「はい。波紋ひとつない、水仙の水泉面が如しです」ラ・サンチャの騎士は深々とお辞儀した。「……してグワ殿の方は」

「水洗便所に流したが如しですわ」液晶の背景光源レトロイルミナシオーンを点灯させた従士は、クモの巣状に亀裂の入った知的電話の画面を見せびらかす。「そっちのの三十センチ奥に転がっとった。名誉の負傷やな」

「最悪動くだけ便所よかマシやんけ」家来思いのドゥランダルテが優しく慰める。「で、昼間の時は妹ちゃん手に持っとんの見えとったし、すぐ取りに戻ってくるかもしらん思たから、一応――」

「車とか、バイクに轢かれんよう思てな」

「――んああ、壁の下んとこに立て掛けといてん」

理解したコンプレンド大凡おおよその全容が掴めもうした」騎士は小さく唸った。

「いやまあ一応最後まで話すとな」とモンテスィーノスの従弟。「その後はうちら、あのバカどもの車とかち合わんよう気いつけながら浜名湖のこっち側中心に遊んで回とってん。んで妹ちゃんも美味い言うとったさかい――って同じ店ちゃうやろけど、うなぎ食いに行ってんやんか」

「松茸は入っとらへんかったけどな」

「アホ、松竹梅の松竹のレベルいう意味やんか」ベレルマが半日遅れのツッコミを入れる。

「ち、ちくしょう」理解の遅い従士も漸く得心した様子。「まぁでもうまかったで」

「うなぎは今引っ張らんでもええねん別に」賢明なドゥランダルテは従士を制して以下に続けた。「まあ美味かったけどな。天然モンだったかは分からん――で、夜になったからこっちはほんまもんの再チャレンジや」

「再ちゃれんじ?」

「お化けお化け」さも楽しそうに姫君が笑って言った。「昼間不発やったし、夜暗うなってからやったら地縛霊はんも恥ずかしがらんと出てきてくれるやん」

「で、宿に荷物だけ置いてまたダーッ走ってこっち戻ってきてん。ついさっきな。そしたらまだ――」今から一時間余り前に時計が戻る。日付が変わってから間もない時間帯であろう。「携帯元あったとこにそんままやったけアッレー思て」

「御身の聡明なる従士殿が霊気を蓄えてくだすったと、」礼儀正しいドニャ・キホーテはここでも恩人の家来を立てた。「――こういう次第で御座いますな」

「そういう次第でございますですよ」胸を張るグワディアナ。彼の《魔法の蝋版》が、東京の花娘の掛け替えのない生命線スステントが傷物となることを妨げその身代わりになって傷を負ったのだと思えば、幾分はその尊い犠牲とて報われようものである。「つってあと二三時間も保たん思うけどな。応急処置でやっただけやし。アダプターかバッテリーくらい持ち歩いとんねやろ妹はんも」

「その点遺漏ありますまい」トルデスィージャスの宮室から徒歩二三分のところで販売されていることは確認済みだ。「ともあれ数奇なる巡り合わせとはいえ御三方の御機転なくば、吾が無二の妹に送られた招待状インビタシオンも、隠微の闇から鼠の寝床に持ち去られていたとも知れませぬ。然もなくばシオンの受けた淫靡の罰さながらに、煤よりも黒く焼き焦がされるか暗翳の内に早晩溶け消えておったことでしょう」

「まぁあいつらが戻ってきたかは分からへんけど、他の車やらに轢かれてブッ壊れとった可能性は低うなかったやろな」と心臓の騎士。「つって偶然やし別に気にせんでええよ」

「何か御返しをとは思えど、報恩の一念が忘恩に一転しては有難迷惑この上なし……と申しますのも、今この瞬間とてそれがしの出しゃばりが貴殿らの宿願たる峠のお化け諸氏を遠ざけておる故」ドニャ・キホーテは恭しく頭を垂れた。「彼等は恥ずかしがり屋と聞いておりますれば、ラ・サンチャの目立ちたがり屋は此処らで拝辞といたしましょう」

 そう云った阿僧祇花は、一礼の後に愛馬の尻をひょいと持ち上げると、その鼻先を西へと向けた。鼻が西向きゃ尾は東エル・オシーコ・アル・オエステ・イ・ラ・コーラ・アル・エステ、逸る気持ちはイポグリフォの飛行距離ブエーロ・ディスタンシア・デ・イポグリーフォが如しである。[訳註:《鳥の飛行距離ディスタンシア・ア・ブエーロ・デ・パーハロ》とは最短距離のこと。空を飛べば目的地まで直線的に飛んで行けようが、地を這う彼女の現実がそれを許さない。因みに彼女の従者はこれまで幾度か《馬が西向きゃ~》をもじった言葉を発しているが、正しくは《犬が西向きゃ~》であろう]


「そんなあ、妹ちゃん寝てるんやったらもうちょいおってもええやん」紅一点のベレルマは美少女騎士カバジェリータ・ベージャの突然の暇乞いに待ったを掛けて追い縋る。「うちは寂しがり屋やで」

「俺サンガリア」グワディアナは喉の渇きを訴えた。「せや、サングリア飲み行こか」

「御気持ちだけ……それがしは寸暇を惜しんで宿場に立ち帰り」花の決意は覆らなかった。千代が目を覚ます前にパロミの部屋に戻り、何事もなかったかのように横になっていなければならない。「――従士のものしたガリア戦記を紐解くことにしますわい」

「こないな時間に未成年引き止めんなや、捕まんぞ」ドゥランダルテはふたりを制して年長者の思慮深さを見せた。「んじゃあホテルまで送ってこか」

「ダンちゃん送り狼や!」恋人が囃し立てる。まさか妬いた訳ではあるまい。

「ふふふ、そちらも御気持ちだけ戴きまする」ドニャ・キホーテは掌を見せた。[訳註:昼間従士に貼ってもらったヴォルフ閣下の絆創膏が剥がれずに残っていれば、より文脈も通じるというものだ]「それがしも憚りながら《荒野の狼ラ・ローバ・エステパーリア》の端くれに御座いますので」

「ロバ?」

「老婆ならこっちに――イッタ!本気で叩くことないやろ!」

「女子高生と比べちゃアカンて。わしかてジジイつか、それこそ天寿まっとうしてお化けなっとるで」恋人の名誉を固守する病み上がりの騎士。「ほな気ぃつけて。従士んとこ帰り着く前にくたばらんようにあんじょう頼むで」

「承った」騎士はイポグリフォの鞍にその軽い尻を預けると、振り返って西の三人に会釈する。「暁のヴェヌスを拝むまでは一兵士として斃死することも許されぬ身、吾が自慢の悍馬には精精安全運転で頼むことといたしましょう。では此れにて御免、左様然らば御機嫌よう」

「おやすみ~またな」

「おやすみじんこ」

「……あっ、そや」華奢な背中を傾けて幽かな星明かりの下に漕ぎ出すラ・サンチャの精華を呼び止めたサカモンテスィーノスの親友は、仲間ふたりを洞穴に残すと手綱を絞って振り向く騎士の傍らまで歩み寄った。「ドンキの姉さんよ」

 イポグリフォの蹄が打ち鳴らす大地の大皷が俄に演奏の手を休める。「どうなされました、ドン・ドゥランダルテ?」

「時に何処まで行くつもりなん? 名古屋か、それか京都とかもっと向こうかいな?」

「何用あってそれを訊ねなさるか」ドニャ・キホーテは背筋を伸ばすと、もう一度背後を顧みた。腰帯が新顔に占拠されていた為、かの古株たる神槍はいまだ彼女の右手にあった。

「つまりその何や、敵はあのアホ共だけやないちゅうこっちゃろ?」手慰みに灯されていた点火器の火が、その時初めて本来の役割を果たす。紫煙ウーモ・アスル。「まあ他ん連中があいつらみたく、あああと後ろのアホみたくアホやったらそないに心配せんでもえかってんやろけど」

「……伺いましょう」岡崎市の方角に愛馬の鼻先を保ちながら、騎士は片方の長靴ちょうかを鐙から外して以下に続ける。「《彼を知り己を知れば――》と申せど、哀しい哉それがしは己の真意すら汲み取れぬ呆け者……せめて敵情にだけでも明るうなれますれば差し詰め五十戦あやうからず。尤もそれだけの豪の者と干戈を交える暇がこの先残っておろうとは思いませぬが」

「可能なら一戦も交えん方が賢明やろな」ベレルマの恋人は自分の携帯を取り出すと、何やら操作しながら付け加えた。「誇り高い騎士様にエゴサしてみいっちゅうのも気ぃ引けるんやけど、この際そういうホコリはゴミといっしょにダイソンで吸ってもらってやな……後で自分のでも探してみるとええわ。ホレ、こんなん出ました」

「拝見」騎乗のまま液晶画面を覗き込むドニャ・キホーテ。「……成程」

「写真とか撮られへんかったんはそれこそ不幸中の幸いやけど、まぁ……分からんな」ドゥランダルテは大きく嘆息した。「本線沿い走っとったちゅうことはもう東海道やろ? 豊川入ってから結構進んだっちゅうことやんな」

「東海道と岡崎駅の丁度中程の辺りに、軒下三寸お借りしております」日本語の慣用表現である《軒下三寸トレス・プルガーダス・バホ・エル・アレーロ》には誰かの庇護下に入るというまでの意味はない筈だ。せいぜい雨宿りか日除けの為に、文字通り短時間だけ庇を借りるということである。[訳註:これは仁義を切る際の決まり文句なので、著者の説明は正確ではない。勿論花の使い方も珍妙ではあるが]

「アンタ岡崎まで行ってわざわざチャリで戻ってきたんか!」呆れる心臓の騎士。

「然る高貴なお生まれの奇特なる御婦人と御縁がありましてな」

「はああ……狂っとるでほんま。何十キロ余計に走っとん?」

「さて、御油の狐に狂わかされたか些かしくじりささんした[訳註:何故かここだけ廓詞くるわことば。ちょいちょい挿んでくる]」あっさりと一夜の宿の所在を明かしてしまった花だが、それまでの虚言を照れ笑いで誤魔化してしまう。「然しもの蜂の騎士も草臥れ儲けの空財布」

「そらそうやわ。グリップ捻れば勝手に進んでくれんのとちゃうねんから」

「此の馬は乗り手以上に老いておりますから。尤も無駄に馬齢を加えただけの主に年寄り扱いされては、古兵の此奴も浮かばれぬでしょうが」

「まあ何や、老婆心からっつうのも変やけど……」そう言い掛けてから、一旦眉を曇らしたドゥランダルテはゆっくりと首を捻って隧道の中を一瞥した。

「――何?」少し離れた位置から届くベレルマの声。老いたといっても二十代前半だろう。

「ロウジシンで言わせてもらうが、――」

老爺心ろうやしんですかな」

「――悪いこた言わんさかい、明日その……軒下で目ぇ覚ましたらそんまま岡崎の駅直行して電車で東京お帰り」ダンちゃんは唐突な忠告を与える 。「自転車乗せ

られるんかどうか知らんけど……無理なら郵送するなり方法はあんねやろ。ほんまは今晩岡崎まで独りで帰らすのも危ない思うねんけど。はよ帰ってあの子安心させたり」

 夢の中の千代さんが安眠を続けている限り、騎士の不在が彼女に不安を抱かせることもないであろう。


ドニャ・キホーテは麓より唐突に吹き上がった風が凪ぐのを待つと、虫の音を背景に己の不安を開陳した。

「其処まで切羽切迫しておりましょうか?」

「さっきはあのアホが気付いとらんさかい、面倒やから言わんかったけどな」ちらっと一瞬だけ振り返ると、直ぐに視線を戻す。「あいつ読解力壊滅的やねん。ふつう同一人物と分かるもんやん、他の連中にもバレん思たらそれは楽観的過ぎや思うわ」

「仰る通りです。いえ、貴辺の従士殿は人が好いのでしょう」花は洞穴内で雑談している残りのふたりをドゥランダルテ越しに見遣った。「……何が書かれておりますので?」

「リツイとか追ってくとな、二手に分かれとるみたいやねん」携帯を操作するドゥランダルテ。「昼間のドブネズミは浜名湖の遊園地から西側張っとると思うわ今も。あと別の奴らがまぁ――わし情報のせいやけど――浜松掛川間で情報取り合っとる。何や変なタグぎょーさん出来とるし」

「――して此奴等の一派は?」液晶画面を注視する騎士。

「これ目撃されたんが東名と被っとるとこやろ? こいつら全員遊び半分なんやろけど、岡崎――以北?に目星付けてタムロっとる。ざーっと読んだ感じ、名古屋入ったら結構ウロウロしとる思うで。今週末いっぱいやろけど。基本ああゆんは暇やろから、飽きるまで犯人探ししとるかもしれへんな。夏休みやし」

「ふむ……」

「遊園地行ったシャコタンバカふたりは、1号の目撃証言は嬢ちゃんらの作戦やと踏んどるらし。自作自演で撹乱させようゆうんやな」少なくとも彼の機転が追手を分散させてくれたことは間違いないようである。「ハッ、カスの勘繰りやな。何でドゥラン――ドラン?なんとかの口から出まかせをそないに信用してくれたんか分からんけど」

「御人徳でしょう」

「嬉しないわ」心臓の騎士は苦笑した。「もともとのネッシーに腐れエッグぶっつけられたマヌケふたりの方は――こっちもふたりやねんな――まだ探しとんのか知らんが、昼間のとこっちに書き込んだ奴らんせいで、だいぶドンキちゃんのメンが割れてしもてん。ええっと……ほい」

「………………これはこれは」箇条書きされた己の身体的特徴を斜め読みする花。「己の伝記本が世に出るのに先駆けて、図らずも斯程まで口端に掛かろうとは果たして雀躍すべきか其れ共寂黙とあるべきか――何れ誰かが著するであろう『ラ・サンチャの女騎士』の原稿は日の目を見るまでもなく、右から左へ篋底きょうていに秘する宿命なのかも知れません」

「競艇のボートも競輪の自転車も目立つ分には見分け付いてええけど、女騎士殿のこのシュッとしたカレシさんも――」ドゥランダルテはイポグリフォの尻[訳註:花が尻を上げて空席となった乗鞍後部のことだろうか]を軽く叩いた。「しっかり有名になってしもたからな。メーカー特定まではされん思うけど、色形だけでも充分やろ。目立つわカッコええもん」

「お褒めいただいたぞ。礼を言わぬか」銀鈴が鳴った。[訳註:花が高校を訪れた日も含め、彼女が自転車の警音器を鳴らしたのはこれが初めてである。これまで取り付けされていなかったところを、先程前照灯と一緒に購入したのかもしれない]

「ご主人様に似て礼儀正しいな」心臓の騎士は社交辞令を言った。「まそうゆわけやから。どうすっかはもちろんお姉ちゃんの判断やけれども」

「チ――それがしの、連れの妹に就いては……何か?」

「ああ妹ちゃんか。彼女の方はどうやろ……ママチャ乗っとるくらいは書いたったかも分からんけど、どうやったかな」暫く画面に指を這わせる従弟殿。「少なくとも色とかそんな特徴までは……書いとるの読んだ記憶ないが。東京のJK二人組とかそんくらいやったかなあ。見た目とか着てるもんとか――妹単体ではほぼノーマークやろ」

「然様でしたか……」薄い胸を撫で下ろすラ・サンチャの騎士。

「ご主人の方が悪目立ちしたのがケガの功名んなったちゅうこっちゃな」この三人組に限って言えば、会話相手としては千代の方がより長い時間接していたのだろうから、従士の顔形や目鼻立ちについてもそれなりに説明することが出来たと思われる。だが、注意を払っていなければどうしても奇抜な騎士の方に目が向いてしまうのが自然だ。「つうたかて、一緒におんねんからいっしょやで。名古屋入ったら何人か待ち伏せとるかも分からん」

「肝に銘じておきましょう」

「そうしとき。じゃ呼び止めて悪かったな」とドゥランダルテが一歩下がる。「ずいぶんと汗かいとるようやけどだいじょぶか? 水かお茶くらいならあっこ入っとるが、冷えてはおらんな」

「お構いなく。水腹では峠の煙客えんかくに笑われますで」[訳註:煙客の煙とは霞のことだと考えられるが、ここでは喫煙するドゥランダルテへの遠慮とも合わせての言及だろう。そしてドニャ・キホーテの駆るイポグリフォは現在ケツァルコアトルと対峙する建前でテスカトリポカと呼ばれていた――これも語義は《煙の鏡》である]

「無茶すなや……まああんま茶々入れんとこう。ほな――や、何度も水さしてすまんけどそれもう開かへんのやろ。置いてったら?」

「御所望か?」そういえば彼とこの剣は同名の誼みでエン・アーラス・デル・ミスモ・ノンブレあった。「ならばお譲りするに吝かではありませぬ」

「いやわしは要らへんけど、危ないやろ」[訳註:傘の柄が折れ曲がった今こそ《天神差し》が必要となろう。とはいうものの夜間走行の妨げになることに変わりはない]

「然すれば、吾が右腕の分身にして常珍とこめずらなる白蝙蝠よ――不浄の鼠害そがいより旅人と精霊を守護する方尖柱オベリスコとなれ……¡Arriba ya!」ドニャ・キホーテは一喝すると、長年連れ添った愛刀を勢い良く直上へと振り投げた。折れ曲がった傘にそれ程の推進力があるようにも思えぬが、ドゥリンダーナ――嘗てはグングニルと呼ばれたこともある――は幾重にも重なった枝葉を物ともせずに突き破ったかと思うと、最も近い牽牛星アルタイールに到達する少し手前で引き返すや何処か固い土の斜面に深々と突き刺さった。[訳註:実際に「直上へとフスト・アリーバ」投げたのであれば落ちるのも土瀝青が敷かれた車道の上であろうから、現実には山側の崖の上が落下点となるように角度を付けて投擲したのだろう。ゴミの不法投棄に当たるので全く褒められたものではないが、存外野生動物の棲家の理想的な建材としてそれなりに役立つのかもしれない。とはいえ良い子も悪い子も真似しないように]

「……まあ、あそこならもうアホの脳天にブッ刺さることもないわな」

神の御加護と善き幽霊をディオス・オス・サルベ・イ・ブエノス・エスペクトロス!」ドニャ・キホーテは愛馬の横腹を蹴った。

「あでぃおーす」「気ぃつけてな~」遠くでグワディアナとベレルマが手を振る。「――よっしゃこっからが本番やで」「眠いわもう帰ろ」

 ここから山道を下り切るまでの間、我々に聞くことが許されたのはイポグリフォの立てる爪車音ソニード・デ・トリンケーテと風切り音のみである。そしてそれから先の約二時間、物思いに耽る我等が世田谷の美剣士は無論のこと言葉は疎か吐息のひとつすら、その金色百合リーリオ・ドラードの蕾のような唇から漏れ出させることはなかった。[訳註:西lilio doradoの学名は羅Lilium auratumで、日本固有種であるヤマユリのこと]


午前四時を回ると東の空は明るみ始めた。

「おや、テスカトリーポカよ振り放け見るがいい。お前の主人の幸薄き肌を、金曜のルシフェルが容赦なく照らし暴かんとしておるぞい……[訳註:《価値薄き肌》であればtez de poca calidadと訳出できる。アステカの神Tezcatlipocaとの言葉遊びか]」阿僧祇花は馬の脚を緩めると、背後で紫掛かった空に一際強く輝く星へと目を見張った。「――あなや、豊穣の女神ソティスよ……太白の隣にかしずくは天狼星ではないか」

 地平線オリソンテ[訳註:岡崎市東部は山地なので厳密には地平線とは呼べない]を見渡せるということは、東西を貫くあの劇場前の道路を走っているということだ。

「はてさて甘露[訳註:ここでは蜂蜜のこと]は概して星が昇る時、取り分け青星あおぼしの光放つ最中すなわち夜明け間際に作られると看破したのは何処ぞの碩学であったか」自然史イストーリア・ナトゥラルの泰斗、コモ生まれのガイウス・プリニウス・セクンドゥスであろう。「畏れ多くもヴォルフ閣下、他ならぬ彼女の予言通りそれがしは《尻薄の騎士》を名乗るよりないようです。就いては狼仲間のよしみと思し召せ、吾等が愛おしき者の後ろ見を前途呉呉も頼みましたぞ」[訳註:天狼星/青星とはおおいぬ座のα星シリウスの秦名ノンブレ・チナ和名ノンブレ・ハポネースである。金星もシリウスも夏場の明け方であれば、ほぼ同じ方角に見えるだろう。尚、古代ローマを代表する博物学者マヨルプリニウスは大のミツバチ贔屓であったことでも知られる]

 間もなくラ・サンチャのお尋ね者はトルデシーリャスの宮殿前庭へと帰着した。

「やあカルラッシュ、……ご苦労だったね。愛娘の閨閤けいこうに別条は無かったかい?」ドニャ・キホーテは自分の《嘗ての自転車》をシャルロットと並べる。「お前さんの仲好しは此れ此の通り、蛇に噛まれず朽縄も怖れずじゃったものの――金曜の黒猫にはお互い肝を冷やしたな。手足はあっても這這ほうほうの体よ」

 狂女フアナの宮室へ向かう階段でよろける騎士。棒のように細い脚は今や痩せ丸太トロンコ・フラーコの如く強張って動かない。

「疲労一番プリメロ……」それでも羽根のない蛇セルピエンテ・デセンプルマーダさながらに何とか這って部屋の前まで辿り着くと、極力音を立てずに合鍵を回した。「困憊二番セグンドじゃな」

 続いてゆっくりと、空き巣紛いの慎重さで扉を開き侵入してから、またひっそりとそれを閉め抜かりなく施錠を済ませる。

 しかし玄関で脱いだ太踵の片方に躓いた花は、迂闊にもカラリという乾いた音色に部屋中を反響させてしまう。

「ハナ先輩」千代が衣擦れの中に微睡んだ声を上げた。「――じゃない、御前様……午前?何時?」

「チヨさん、起こしてしまったかな」観念した花は踵を付いて歩き始める。「すまないね」

「トイレ」

「え?」

「流してませんよ」

「――ああ、これは失礼した」ドニャ・キホーテは玄関近くまで戻ると、手洗いの扉を開けて流水梃子マニーハ・デ・パランカを捻った。無論今の彼女の体内からすれば、垂れ流すことの出来る水分など一エスクループロ[訳註:質量単位1escrúpulo《尖石嵩》は小さじ四分の一程度]と無かった。

 パロミの居室に戻った騎士の目が、四五時間前に蓋を開け畳の上に残されたまま捨て置かれた栄養補給飲料の小瓶を捉えると、無意識に伸びた手がそれを掴み、中の液体は数秒と待たずに全てその喉へと流し込まれた。炭酸も抜け、頗るヌルく甘ったるいだけで、お世辞にも美味いとは云い難い代物だった筈である。だがこの時のドニャ・キホーテには如何なる甘露アムリタ霊酒ソーマにも引けを取らないスジャータの乳粥が如く、心身隅々にまで染み渡っては先刻の無茶な強行軍マルチャ・ムチャ・フォルサーダによる疲弊を癒したことだろう。この無茶という日本語の字義は《茶なしスィン・テ》であり、外出時に茶を持たぬことや来客に茶を出さぬことの不合理インコングルエンシア無軌道インプルデンシアを表した言葉である。水も茶も持たずにサカモンテスィーノスの洞穴までを往復した花は文字通り《無茶》であったという訳だ。[訳註:無茶の語源は一般に仏教用語の無作であるとか擬音のむさむさだなどとされるが、何れにせよ茶の漢字は当て字であろう。西marcha mucha forzadaの直訳は《とてもムチャ強引な行進》]


既に千代は寝息を立てている。窓辺の猿ももうこちらを覗いてはいまい。

理性か感情かラソン・オ・コラソン」《心臓なき騎士カバジェーロ・スィン・コラソーン》の忠告を受けて後、考えても考えても己の行く末を見通すことが出来なくなっていた花――《理性なき騎士カバジェーラ・スィン・ラソーン》の思考が次第に散漫となっていくのは、その弱々しい声音からも容易に感じ取れた。「……それが問題、か」

 力尽きたラ・サンチャの精華は、まるで崩れ落ちるようにして従士の傍らへ横たわると、そのまま泥のように眠った。ここに来てフアナ女王の計らいは、安全なる陸上の泥舟となり、波間にも揺れぬ揺り籠クーナ・スィン・バランシン・コン・ラス・オーラスのように優しく主従を包んだのである。[訳註:底本ではそれぞれ泥ではなく「丸太のようにドルミール・コモ・ウン・トロンコ」「丸太の筏バルサ・デ・トロンコとなり」だが、泥舟という表現は元来パロミ由来のセリフであるのでそちらに沿って意訳した]

 さてつい二時間ばかり前に、本作の主人公のまさにその口からお蔵入りコヒエンド・ポルボを予言されてしまったサルサ・デ・アベンダーニョ畢生の大作――処女作にして遺作ラ・プリメーラ・イ・ウールティマ・オーブラ・ア・ラ・ベスとなるであろう――『無垢なる孤児ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ』も[訳註:『LA INGENUA HUÉRFANA DOÑA QUIXOTE DE LA SANCHA』が当初の書名であった]、終いにはもうひとりの主人公たる従士をして――第九章に於ける読書感想文の件を参照されたい――「名古屋にてエビフライを食しているはず」と予言させしめた第二十章を数えるまでとなったからには、著者も読者も登場人物の覚悟に倣い、めげずにもう少々お付き合い願いたい旨を書き殴ったところで本章を締め括らせていただこう。

 というのも次章にて主従のふたりは揚げた海老を食べないだろうし、少なくともラ・サンチャに帰還する頃には三十章に及んでいるなどという事態は、到底考えられないからである。そんな煉瓦のような厚みの小説は、たとえそれが堪え性のないコン・ポコ・アグアンテ半坐千代でなかったにせよ、最後まで読み通してくれる者など居ないに違いないのだ。

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