第19章 本章に記されるは此の物語に関する諸事件であり、何らかの解離性興奮に就いてではない
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第十九章
本章に記されるは此の物語に関する諸事件であり、何らかの解離性興奮に就いてではない
Capítulo XIX.
Que trata de casos tocantes a esta historia, y no a alguna histeria.
「ちょな、なんか異様に広くないですか?……地価が安いのか?」岡崎市は愛知県を代表する都市のひとつだが、勿論世界有数の
「
「ブータよりはウーシを所望しますが、頭に乗せるにせよ腹に入れるにせよ重いもんは後回しってのが買い物の鉄則ですな。まずは買う物を整理しましょうや」千代さんが指折りして必要品を数え上げる。「パロマ女王のアパートを一見したところ、ガステーブルだけじゃなく電子レンジもありましたからね。今晩はもう疲れましたし、弁当なり冷凍食品なりを大量に買ってあったか女子会と洒落込みましょう」
「妙案である」
「朝までコースのオネエ様方には負けますがね、外で食べるよりは安く豪華に飲み食いできましょう……で、」待ち侘びた二本目の指が漸く屈曲された。「――今更ながらのうちらのヘルメット。あっこれも超今更感ありますがイポグリフォンには夜間走行用のライトを取り付けた方が良いですよな」
「はァ……ふむ」名古屋までは余すところ四十粁程度である。昼過ぎに岡崎を発ったとしても暗くなる前に到着する筈だが……従者は東京までの帰路も自転車を使う覚悟を決めたのだろうか?[訳註:数十分前の千佳夫人との電話に於いて「千代は明後日か明々後日には帰る」と伝えているので、これについては無意識の発言だと考えられる]「チヨさんに御任せいたそう」
「いたされましょう。後は……そうだ、そもそもこれ買うために来たんじゃんか」携帯端末の電源接続装置である。「アレ――どこだ?……まァ後でいっか」
「今日び城を攻めるも守るも砲台頼みとは……昔乍らの
「いや、――」ここに来て従者が制止する。「折角荷物置いてきたんだし、まずは手ぶらで歩いた方が品定めし放題ですぞ。人として」
「ではどうするのだ?」
「重い物から見て周っていって、折り返し地点的に軽い物から買っていくって寸法です」
「成程、道理じゃ」千代の説明は至極論理的であった。花は専ら彼女の
「ええっと……階段は何処だ?」左右を見回した後、忙しなく
「あっ、商品取り扱っております店舗はこちら一階のみとなっております」作業の手を止めて慇懃に対応する従業員。「ヘルメットこちらになります」
「えっあっども」
先導された
大型量販店の常として、広い空間は絶え間ない音楽と大音量の案内放送で満ちていた。
「つうかこれまで何百キロも旅してきて一度もポリスとかに注意されなかったのは儲けもんの幸いでしたよ」因みに二〇一五年現在の日本に於いて、自転車運転時の安全帽着用は義務化されていない[訳註:繰り返しとなるがより正確を期すと、十三歳未満の幼児・児童については保護者が着用させる努力義務を負っている]。イスパニアでは二〇一四年の交通安全法改正により十六歳未満は全面的に義務化され、十六歳以上に関しても都市部または都市間を走行する際には自転車用兜を着用せねばならないが、矢張り他の欧州諸国では実は規制の無い国が殆どである。導入賛成派と反対派の双方にそれなりの合理的な理由があるのだがここでは割愛するとしよう。「まァご主人様がハンザ家にいらっしゃった朝みたいなカブト[訳註:全面型防護帽のこと。第一章参照]を被ったまま旅を始めてたら、ラ・サンチャを出る前に世田谷警察にしょっ引かれたてたでしょうけど。つってもやっぱこのままじゃ遠からずノーヘルぶつ――かります賞を受賞してもおかしくなかったところです」
「イポグリフォとカルラマーニャが如何な駿馬といえど――」花は応じた。「ストックヘルムまで出向いた時には晩夏も暮れ葬列は散開しておることじゃろて」[訳註:ノーベル賞授賞式は平和賞を除き毎年ストックホルムで開催される]
「そこまで訪ねて行って
「こちらになりまーす」誘導してくれた労働従事者が手の平を上にして売り場を指示しつつ器用にお辞儀する。「ごゆっくりどうぞー」
「あ、ありがとうございま……」店員の背を見送りながら従者が口元を膠着させた。「何かごっつくないですか?……心なしか剣道着が目に浮かび」
「
「私自転車のって云いませんでしたっけ?」辺りを見回す。どうやら主従が案内されたのは自転車用ではなく、自動二輪乗りが被る安全帽の一角だったようだ。「ジタンシャ[訳註:THE単車?]とでも聞こえたかな?……道理で自転車売り場と区切られてる思ったわ」
「石部金吉鉄兜という訳だ――鉄と謂えど素材は炭素繊維樹脂か」陳列された内のひとつをコンコンと叩いてみる。「柔軟性に優るおぬしのおつむを守る分には悪くないだろうけれど、チヨさんはシーボーズ
「いやママチャリでアレ被るのはちょっと……あ、ゴーグル付いてるかわゆし」千代もひとつ手に取ると、摩擦音をくぐもらせながら頭に被った。
「海の子マナナーンが持ち物でありふたつの宝玉を冠さながらに帯びて北大西洋を隅隅まで照らしたと謂う彼の
「いかにもたこにもステッカーを貼ってくださいとばかりのこの――ううむ……」
「急いで決めることもない」騎士は恐らく隣り合って展開されている自転車売り場の方を見遣ると、首を傾けて従者を促す。「どれ、軽騎兵の装備の方も覗いてみようではないか」
「ほらっ、これならキャリーぶん回すよりずっと殴りやすいし殺傷能力も――」昼間の荒事を思い出した千代は堅固な安全帽の遠心力を使って身体を一回転させると、俄に淑やかな花娘に戻ってそれを棚へと戻した。「コスパ的にこれは第一候補かもですが、そっちの景気の良い方も拝見しましょう。驢馬は兎も角、グリちゃんに跨る騎手こそシーボーズタイプじゃないとそぐわんでしょうしね」
しかし果たして肝心の自転車の方には防護帽子の売り場が見当たらなかった。従業員を捕まえて訊ねてもよかったが、敢えて単車用のそれらよりも離れた位置に並べられているとも考え難い。
「便利には違いないが、」ドニャ・キホーテは冗談交じりに苦言を呈する。「――何でもそろってとはゆかんようじゃな」
「ぬ……もうしわけぬ」殿堂に代わって陳謝するドニャ・サンチョ。「あ、でもライトの品揃えはなかなかのもんですよ」
「成程勢揃えの店構えだ」
「ノーヘルはせいぜい怒られる程度だけど無灯火は普通に道路交通法違反ですしね」気を取り直した従士はひとつひとつ仕様と価格を検討した。「すし屋の後海岸沿いの車道走ったじゃないすか、あん時ゃ横びゅんびゅん車通るしこっちがヒヤヒ……」
「慥かに夜行はチヨさんを
「――や、青々としてるのはお尻くらいのもんで、そんなもんを夜道で晒しちゃいませんけども……これはバッテリア問題が解決してからだな」
「
「いやいや、スマホルダなんですけど電池なきゃ意味ないですし」千代は手にした商品を棚に戻す。「アダプタっつうか――チャージャ?買ってからでも。ってドニャ・キホーテ様のナビがある限り、運転しながら携帯見る必要もないですがね」
「ん?――ああ」
「乾電池付いてるしコレなんかいい感じですな。取り付け簡単か分からんですが」複数の簡易前照灯を見比べる。「やっぱ結局ダイナモが楽ですよねえ。明るさどんくらいんだろ?」
「レビアタンの双眸くらいの光量は欲しいところ」
「スルタンの
「スルターンは清四郎よろしく片目かね?」
「このスルタンは中二病だったんですよ」謎の言葉を残してから両手を空にした猫の従士はパンと手を叩く。「さてこの次が本丸ですが――あ、」
「今や
「戦は当分慎みたいとこだけど、備えあれば嬉しいなと!」次いで千代が打ったのは、そろそろ牛蛙が鳴き始めんとしている広い空洞の外膜[訳註:腹鼓のこと]である。「ちょっと待ってください……さっきたしかこの辺に」
今度は従者自らが水先案内人となり、
「
「さっき通った時に……あっ、ここ。これ!」
「こ、此れなるは……!」
「―――なんだっけ、デリシャス?……あっ、」棒を引っ込める従士、常に傍らにあった
「蝙蝠傘だね」
「バンパイヤン……」吸血騒動はもう懲り懲りである。「違くて、えっとアレ――そう、サラダあぶらチュパカブラ、ビビってバビって……ブー?というアレ」
「ふむふむ、カボチャを馬車に、ハツカネズミを馬車馬に変じるアレ、だな」従者が手にした棒とは果たして魔法の杖なのだろうか?
「そう、そのアレです……」共にディスネイ――この名は一説に《
「今時分御女ろ――上臈方は、青いネズミとピンクの象に――正に
「ももいろぞうさんというヤツですな……きりんだったかな?」
「――で、アブラムシの
「どうしたんだいってドニャ様」意図が伝わらぬもどかしさを堪えつつ、千代が棒を差し出した。「――メール欄を?リンク表示にしたら、」
「メールラン?」
「――ほらハマッシーが魔法に掛かって!」
「ん?」受け取った棒の一端を暫しキョトンと見つめる騎士、ハッと気が付いて「お……おお、マーゴ! 此れは
読者諸賢の為に説明しよう。マゴとは
「さよう!」嘗ては三歩歩けば忘れてしまう鳥頭であったものの、今や記憶力の確かさには定評のある猫の従士、得意になって再び魔法の杖で空を斬る。「これさえ手に入れれば、悪の魔法使いの魔法に掛かってボート化されたハマッシーを、元の首長竜だか首なし芳一だかに戻してあげることだって朝飯前の食前酒ですよ。トンネルの首無しライダーはもう御免こうむりますがね」
「慥かに、
「それどころかビッチウィッチの魔の手でみにく――ふつくしい男の身体に変えられてしまった用心棒のネエさま方に、」失礼な従者は思い出し笑い。「元のほんまもんの女王様のバディーを返してあげるのだって容易ドンですがな」
「矢張りおぬしも見抜いておったか……如何にもあれは悪しきメルリンの仕業」花は憤りつつも、千代の洞察力を褒める。「吾が盟友アルカラウスの秘宝がまだこの手にあったらば、一刀両断にして術を解いて差し上げたのだが」
「御前様がその……マルリンだかモンローだかって悪党の杖を分捕って自分の武器とすることは、その何ですか――大の仲好しのアルカリ性の旦那だってきっと賛成してくれましょうぞ」従者は太鼓判を押す。[訳註:千代が花を呼ぶ際の《ご主人様》《旦那様》及び今回の《御前様》の訳出は、全てla señora mi amaに統一されている]「私の猫の手が塞がってる時だって、これさえありゃ代わりに背中を掻くこともできるし。オプションとして」
「されど好事魔多しと謂うからな……この杖も連中の奸計に依って紛い物に擦り替えられておらぬとも限らぬ」騎士は孫の手の指先から肩の辺りまでを如才なく検品する。「というのもそれがしの老いた双眼には、此れが嫋やかなる仙女の手というよりも毛を剃った猿の其れと映っておるからなのだが」[訳註:孫の手の語源は中国の伝説上の仙女・
「そりゃ毛深かったら仙女も天女もヘアリーテイルになっちまいますからね」千代は尤もながら気色の悪いことを口走った。「メルヘン世界の魔法の杖だって有難みが失せまさあ」
「そう云われるとそんなような気もしてきた」疑念が払拭され、ドニャ・キホーテの言葉にも自信が呼び戻される。「謹んで撤回いたそう。この店は何でも揃うな」
「ブラジリアンワックスからミサ服まで、何でも揃えてる店だぜ?」
「
「私のコスなんて上品なもんですよ!」憤慨する従者。「もしかミコミコーナに見してもらったヤツみたいな、肌色成分多めな衣裳イメージしてやしませんかね?」
「秘術修めし歩き巫女とて裸で旅した訳じゃあるまいに[訳註:《
「仰せの通りで。もしこの杖で呪いが解けなけりゃ、」杖の先を流麗に滑らせて、空中にいい加減な呪文を描いた千代はこれまた輪を掛けて失礼な物云いを発した。「――魔法をかけたトロッコに皆さんを乗っけて、そのままモロッコまで飛ばしてあげるって手もあります。それすら無理となるとお手上げですが――その場合は妥協して六甲くらいで我慢してもらい、おいしい水を飲んで満足してもらいましょう。六甲が何県にあるかは存じませんけど。大阪かな」
「六甲は神戸じゃ」そういえば地理の授業は一切してこなかったことを今にして思い知る遍歴の騎士。「八甲田山が青森ならば日光愚行はもう結構……それはそうとドニャ・サンチョは
「口唱と申されましても低俗なのしか知りませんよ」
「構わぬ」ドニャ・キホーテは背中を掻く代わりに、猿の手と己の孤掌を打ち鳴らして挑発した。「それがしとて呪文のひとつも知らんでは、折角のマーゴの手が子宝孫宝の持ち腐れ。とはいえ曾孫玄孫に
「無茶振りだなあ……」背中の代わりに頭を掻いた千代さん、まるで犬の足で地中深くに埋もれた記憶を掘り起こさんと試みるが如しである。「ほら、あの、ハリポテの……ちゃんと観たことないけど、あるじゃないですか? エクスタシー――近い、エクトプ……エクソシスト・パトロールなう!」
「Crux sacra sit mihi lux![訳註:「聖なる十字よ吾が光となれ!」]」花は市内安全の為に夜道を宛もなく彷徨う殊勝な、そして恐らく心細いであろう何処かの
「そんなん云われても後はあの……アブラカタブラとか、エロイエス&エムとかそういうお子様レベルのしか思いつきませんよ。マデクラは別に怪しげな新興宗教の団体とかじゃあないんですから」《Elohim, Essaim》とはヘブライ語で神を意味する言葉だが、我らが潔癖の従士からすればこれも変態性欲の一種に過ぎないようだ。「チンプイ……いや、チンカラホイってのもありましたけど、これはさすがにラテン語じゃないでしょうな」
「これ以上聴いても悩みが増えるばかりのようだ[訳註:例えば«Me chinchará, ¡jo!»で「それは私を悩ますだろう、やれやれ!」のような意味になる]」そう云いつつも騎士は魔術師の手を現在空席となっていた左腰に差し入れると、一方で千代がそれを
「身に余る光栄」千代は早歩きしながらも恭しく頭を下げた。「あ、ちょっ待っ――まさか開けマ……ゴ?」
「トルデシリャスに帰還したらば条約も結ばねばならぬよって、早く帰って早速魔法の鍛錬をしよう。太陽は分け隔てなく照るのになどと言って、新大陸分配の邪魔立てされても詰まらぬから」
ふたりの巡礼者が岡崎の
夜分にもかかわらずそれぞれの売り場はなかなかに混雑しているようである。
「カンナエにて軍神の計にまんまと嵌まり込んだローマ兵は、伝令が用を為さぬ戦場の恐ろしさを嫌というほど味わったに違いないが――、」花は案内も無いまま縦横無尽に殿堂の中を席巻し、店内の地理を完全に把握しつつあった。「当世に於いて銅鑼も角笛も持たぬ通信兵の心持ちはといえば、概して丸腰の武人の其れと大差ないであろうな」
「メールなんかもすぐ返信しないとそれこそ情弱無人扱いされますからね[訳註:著者はこれまで傍若無人を《como no hay nadie alrededor》と直訳していたが、ここでは直前の《
「ラインもミーニョもこの先越える用はないし――」ヴァレンサからミーニョ川を渡った先がトゥイである。「ラサリーリャが単身で無頼を気取るのも絵になるけれど、さりとてそれで、狼の群れから孤立することはないのかね?」[訳註:ラサリーリョは十六世紀中葉に発表され、
「シートンのロボだってたしか一匹狼だったでしょう。狼女王に俺はなる!」
「おぬしも女王の座を狙っておったか!」
「いや、ドニャ・キホーテはこの先女帝になるんだし、私はそれにあやかって二匹狼でもかまいません」そもそもロボは群れの
「騎士[訳註:獅子?]のたてがみが知らぬ内に送り狼へと
「もうブラジルのは忘れてくださいって!」ラ・サンチャのラーサラが精一杯声量を抑えて反論する。「ミコプリやマリファナクイーンのはスルー検定で済みもしましょうが、この高潔な老騎士様ときたらいきなり不意を突いて下ネタぶっ込んでくるから心臓ドキドキしますよまったく」
「フロレンシア随一の
「マゾ鏡って、私は自虐的な自撮り画像をインスタにアップとかしませんよ」
以上のような、又はそれに類する益体ない会話を交わしている内に主従は携帯関連の一角に到着した。
「おお、さすがに色々あんな!」従士は感嘆する。「ここまで来たらもうモバッテ買っちゃうかなあ……ぶっちゃけラーメン食った後に何軒かショップは素通りしてたんですけどね、こういうとこのが安いだろうしまァ――あれ、ショップでも充電出来たんだっけ?」
「存分に好きな物を選びなさいな。兜ともども本日の大義への返礼じゃ、磯に乗り上げた船に乗っているくらいには安心して良いよ」乗り上げているならばよもやこれ以上波に攫われることもあるまい。
「いやさすがにこれは自分で払いますて……ええっと、」千代は手荷物を開いて中をゴソゴソと漁っていたが、遂にはそれを足元に乗せて整理し始めた。「ん?んん?……ちょい待ってください?」
「どれだけ待ってもペロどん程の
「いえそっちじゃなくて……」
「如何した」
「最近その、携帯見る習慣がなくなってきて……ん?」
「女王の宮室に置いてきたのでは?」騎士が口を開いたままの鞄の中を覗く。
「そうかなあ……いや、パロミさんの部屋入ってから触ってないですよ」通行の邪魔にならぬよう壁際に移動した千代。「――って最後に触ったのいつだ? ドニャ様私が携帯触ってるの最後に見たのいつか憶えてますか?」
「岡崎入城の後は……否、ラー=アメンの午餐の時分から見ていないな」
「ちょっとちょっとちょっと!」狼狽した従者は所構わず荷物の中身を大理石の床にひとつひとつぶち撒け始めた。他の客の迷惑にならぬよう配慮はしているものの、これは相当焦っている。「ないないない……あっ、ポケット! ポケット!」
「
「えっ、キャリーのポッケですか?……そうか、無意識に――いや薄いし、無意識には入れないよ」千代の頭がいつになく高速回転するがそれは
全ての持ち物を並べた後、ゆっくりと力なく元あった場所へ戻していく。
「消えた」従者は膝を落とし、そのまま
「少少我慢いたせ」千代がまるでこれから警官に
「マジです」
「マジッド・マジディ?」
「マジッド……マジでぃす」
今や
家臣の非常事態を受けて阿僧祇花は素早く対応した。
先ずは入店してから携帯商品売り場までの自分たちが辿った動線を極力正確に検分して廻る。その過程でメルリーンの手は元あった場所に戻した。(というのも、少なくとも現時点では
店の中で紛失した可能性は依然低いままではあったが、念の為従業員――混み合っている会計は避け、不遇な悪魔祓師よろしく店内を巡回している店員――に声を掛けて事情を説明し、万が一ここで発見された場合の連絡先・送付先を伝える。殿堂内部に於いて出来ることと云えばこのくらいであろう。
騎士は糧食の徴発について千代に訊ねたが、すっかり気落ちした従者には微塵の食欲も無いとのことだったので、結局何も購わずに店を出ることとなった。
道路脇で主たちの帰りを待っていた一組の馬と驢馬は即座に繋ぎを解かれたものの、従者が手綱を牽いたのは主人から預かっていたイポグリフォではなく自前のシャルロットの方であった。尤も今駿馬に跨ったら足が地に付かずに引っ繰り返るだろうし、乗鞍の上がったままの愛驢にしてもそれは同様である。[訳註:だから乗らずに押して移動しているのである。文脈上少し不自然な描写]
「愚かなり……かなり愚かなり」平生の
「正直に申せば、」騎士は寄り添うように並ぶと、残酷な告白をものする。「――それがしがおぬしの手にする《
「……たしかにあの時手に持ってた気がします」どうせ使えないのだから大人しく仕舞っておけばよかったものを、千代は歯噛みして己の浅はかさを詰った。「なんで――ああ、あの後バイカーの人たちに会って、で、トランシルバニアネズミーか……奴らマジ許すまじ」
「祓い屋は見当たらぬまでも……」花は夜道を前後に見渡す。パロミ女王の集合住宅までは直ぐである。「平の警吏であればその辺を警邏していよう。取り敢えず当たってみるか」
「いやそれは……」唇を噛む従者。「うちらお尋ね者ですしおすし」
「だがあれなくして――」
「それはそうなんだけど、直近の問題はシェーンブルンのアインがあの中だってことなんですよね」千代の入場券は携帯電話から
「なら一際急ぐべきでは?」
「下のでかい道だったら誰かが拾って届けてくれてるかもですけど、あんな山ん中の真っ暗のトンネルですよ? すでに車に轢かれて粉々になってるかも」従士の云う通り、洞穴の中に照明はなかった。真っ昼間であの暗さなのだから、この時間帯ではオディンの息子ホズルでもない限り、一度潜り込んだが最後二度と月影を臨むことは叶わぬだろう。倉皇としている割に存外冷静な分析である。「あ……最悪、あの何だっけ――マルッパともうひとりがあの後拾ってたりしたら」
「チヨさん」
「――私パスロック無効にしてるから、ああ、ヤバイわ。どうしよう」まだ中学生であるが故に
「チヨさん、落ち着きなさい」花は制止する。「宮廷じゃ」
「現実的に考えてこれは」足を止めた千代が主人に同意を求める。「――夢ですね?」
「そうかも知れぬが、夢であったところで同じこと」物理的な停止と引き換えに思考が逃避に走り始めた従者を一度は突き放すドニャ・キホーテ。「いつ覚めるとも知れぬし、目覚めたところでその先未来永劫微睡むことすら罷りならんという訳にはゆかぬからな」
「夢の中でまた同じ夢を見てたら普通夢だと気付きませんかね? だったらデジャブだろうがひでぶだろうが、自分の秘孔を突いてでも目を覚ましますよ私なら」
「明晰夢というやつだね」駐車場の隅に馬を繋ぐ。「そこは気付いたからこそ解決してから覚醒したいところではないか」
「夢でも現でも鬱な方にはゆめゆめ留まりたくないです」しゃがみ込んでしまった。「これが現実だったらそれでもいいからとっとと成仏したい……」
「
「もううんこもしっこも出やしません」芳紀十四五の乙女には到底相応しくない下品で幼稚な悪態ではあったけれど、その隠った声から察するに千代は顔を自分の膝に埋めているようだ。端ない如何様なセリフすらも哀愁を誘う様相。そして漸く顔を上げる。「……いえ、すみません。鼻血も出ないと云いたかったまでで」
「花の血が出るのは端からこの鼻以外にあるまいて。安心しなさいよ」
「え?」
「牛の糞は元より、吾等が清らなる御馬様方とて一切の排出器官を持たぬからね。馬糞が欲しいと思ってもそう易易と手に入らぬさ」
「……はァ、まァ」
「それにオシッコウンコという単語も行く行くはそれぞれ、《起立せよ》《安座せよ》という意味に転化すると、何処かの物の本で読んだ記憶がある」小便は立って、大便は座ってするという概念は理解し難くもないが、それはそうとそんな法外な未来を予知した
「何ですか、人の苗字を排泄物呼ばわりするその本とは?」堪らず千代が顔を上げる。[訳註:イスパニア語ではHの発音が欠落するので安座も半坐も同じだが、日本語としては当然アンザとハンザで異なる読みとなる。千代の聞き間違いかも知れぬ]
「どうじゃ、それがしも
「分かりました分かりました!」膝をパンパンと払う音。「いや分かりませんけど、立ちますよ」
行きはたった二分の道のりだったが、帰りは意気消沈の半坐千代が牛の歩みであったこともあり、万神殿を後にしてより合鍵で女王の宮室を解錠するまで四分と半分も費やされたのである。
ふたりが荷鞍に何も積まずに戻ったのは、勿論千代の腹の牛蛙がすっかり鳴りを潜めてしまった珍事あってのことだが、何よりも先ず投宿先に残してきた
しかしそうはならなかった。
三軒茶屋から持ってきた大小全ての荷物を引っ繰り返して所持品を端から並べてみたが、あれだけ肌身離さず携帯していた携帯は霞のように消えてしまったのである。
これは実際のところ少女にとって我々が想像する以上に由々しき事態だった。半坐家の
尤も治安の良いこの国であれば、近日中に手元に返ってくる望みも無くはない。五分五分といったところだろうか?(筆者の地元であれば、二日後に近所の
しかしながら喫緊の問題は――千代自身が先程指摘したように――、それが今から四十数時間後の、名古屋市内の所定の演奏小屋前で待機している彼女の手元に果たしてあるかどうかだった。
「それがしが付いておりながら、全く申し開きのしようもない」花は居住まいを正すと徐ろに頭を下げる。これは誰よりドニャ・キホーテにとっても予期せぬ誤算であったのだ。
「ちょ、御前様が謝るのは筋違いですよ。普通相方の面倒見なきゃいかんのは家来の方でしょうが」従者は恐縮しながら畳の上に並べられた栄養飲料を一本取ると――あれだけ徴収しておいて更に数本あの楽屋から失敬していたのだ!――、音を立てて開栓してから主人の前に置いた。だがなかなか指に力が入らなかったとみえ、蓋が開くまでには数秒を要したようだ。そんな些事にも彼女の動揺が垣間見えた。「まァこれでも飲んで……落ち着いてください。私は顔洗ってきます」
「探すのをやめた時見つかる事もよくある話じゃ」
「よくありますか……天下のドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャのお言葉ですし、信じて待つこととしましょう」力なく立ち上がった千代はフラフラと覚束ない足取りで洗面所へと向かった。「うふっふ~」
「――夢中にあらば尚更、善道を往くを憚ること勿れ」
騎士は正座を崩さぬまま従士の背を見送ると、嘗てポローニアの王子が山陰の獄舎および王宮の中で得た
Es verdad; pues reprimamos
其は真、然らばこの先堪えてゆこう
esta fiera condición,
此れなる蛮野の本性を、
esta furia, esta ambición
此れなる赫怒、此の野心
por si alguna vez soñamos.
いつしか夢見るその日まで
Y sí haremos, pues estamos
して
en mundo tan singular,
生きること是則ち只只夢見ることと
que el vivir sólo es soñar;
思しき偏奇の世界なり
Y la experiencia me enseña
して見聞が教へるは
Que el hombre que vive sueña
人とは夢を生きるもの
Lo que es hasta despertar.
只其は覚醒めるまでのこと
「わかった!」玄関の側の浴室手前にある脱衣所から轟く奇態な叫び声、次いでドタドタと走り来る足音が響いた。「ドニャえも~ん」
「どうしたねちょび太くん」駆け寄るや膝の上に泣き伏せるしどけない従士の髪を優しく撫でてやる花。
「とりよせバッグを……いや、」主人の脚衣の布地で顔を拭く従者。「いっそもしもボックスを」
「遺憾にもドラとドニャでは五百年の隔世があるのじゃ」[訳註:ドラえもんの製造年は西暦二一一二年とされる。対してドン・キホーテの没年は、作中サンチョが故郷の妻へと送った手紙に記された日付を信ずるなら一六一四年]
「あんなゆめもこんなゆめもありゃしない……」千代は顔を上げた。「ごめんなさい濡らしました」
「日頃は濡れぬ先こそ露払いで世話になっておる身。濡れ鼠は御免だが、猫の目の涙など雀のそれと然して変わらぬ」ドニャ・キホーテは従者の両肩に手を置く。「進めねばならぬは馬の脚だが、明朝は更にもうひと仕事――失われた端末をも探し出さねばならぬ。精を付ける意味でも牛の肉など食らいに行こうかの」
「ドニャ・キホーテ様行ってきてくださいましな。今日のサンチョはへとへとくたびれましたでな」そのままその場に寝転がる。「私も寝ずにいろってのは御免ですが、寝込むのだけはのび太並の――つまりは世界レベルの強者なのです……ぐう」
「覚醒めと共に目の雨は晴れ、空を仰げばイリスが弓に矢
「――パトラッシュ、ぼくはもう疲れたよ」千代が寝言のように呟く、「なんだかとっても眠いんだ……」
「寝ろ」
当意即妙なる主人の返答に思わずプッと噴き出すラ・サンチャのサンチョだったが、数秒と待たずしてその吐息は安らかな寝息へと変わっていった。(これは日本の慢動画『フランダースの犬』の最終話を出典とした遣り取り。著者が子供の頃に視たカスティーリャ語版の吹き替えでは主人公の名前がニコラスだったと記憶しているので初めの内は気が付かなかったのだが、英国の原作小説ではNelloであり、アーニメが制作された際には日本語の発音に則してNero――ローマ帝国の暴君と同じ綴り――と表記されている。そしてネロとは
寝返りを打つこともなく
「
「はて、
それから四十秒で支度を整えた騎士は、忍び足で玄関の上枠を潜り合鍵が固く再施錠するまでの間、
戸口から千代の表情を伺えるような間取りであったか否かは読者諸兄の想像にお任せするとしよう。何せ筆者自身も知らないのだから。
「いざやイポグリフィート、いやパトラニージャよ[訳註:西patrañaで《御伽噺》。ところで『フランダースの犬』の舞台はアントウェルペンに隣接するベルヒエの村であるが、NelloやPatrascheという名前は蘭語にはない。原作ではパトラッシュとは元々ネロが死別した母親の中間名だったとされるものの語源は不明。《高貴/貴人》を意味するパトリーシアの転化か。一説には
だが単騎馳せ何処へ向かうのかと思えば、鞭と鐙を合わせてからたった三十秒で手綱を絞ったドニャ・キホーテ。「
「吾が
三度目にパロマ宮の門前へと至った時にその門戸を叩くことは勿論なかったが、それでも只素通りするような無礼を犯すドニャ・キホーテではなかった。急制動でイポグリフォ――或いはテスカポリトカを竿立ちにした騎士が、往来の騒音に負けぬ大音声で以下のように呼ばわる。
「あいやカロリンヒアの女王カルラマーニャよ、」距離的には花と千代の丁度中程に位置した駐車場の隅にて休息を取っていたシャルロットは、
これが宵鳴きの鶏であればキキリキーと鳴いて己の役目を復唱したことであろうが、幸いにして迦楼羅天はそのような
「猛猛しきイポグリフォ、仲好しのパトラッシュことあのロバ君とも暫しの別れじゃ……はて、腹を鳴らせて目を覚ますだろう彼女の御主人には、
日本の
「
このまま真っ直ぐ南下すればいずれはガマの都に到達するトルデスィージャスの大道の、恐らく一つ目か二つ目を東に折れた
「Contamos contigo, hipo.」[訳註:「頼りにしておるぞ」主語は一人称複数]
《
これから千代の傍らに立って我々が耳にすることが出来る物音といえばせいぜい時折集合住宅物件の前を通過する自動二輪たちの排気音程度だろうから――無論筆者は根気に任せて何も起こらぬ敷地内の音源を最後まで聴き通した上でこう記しているのだけれど――、今はこの物語のもうひとりの主人公にして表題役たる稀代の騎士阿僧祇花の深夜の強行軍に身を寄せて行きたいものと考える。
さてここでこの偉大なる物語の著者が改めて感じ入るのは、自由意志と偶然が綯い交ぜとなって紡ぎ出す《
思えば七月最後の日――日付が変わればそれはもう一週間も前のことになるのだが――、太陽に灼かれラ・サンチャを発つ旅人の落とした
というのも、それが幾ら
つまり宮殿を――そして万神殿ともう一度宮殿前を――後にしてから二時間と少しの間、多弁で知られる我等が《
早い。圧倒的に早い。しかし鐙は昼間とは比べられぬ程に重く、騎士の困憊具合が垣間見える荒い息遣いは、時折夜空に響くイポグリフォの嘶きに引けを取らぬ程の悲壮感に満ちていた。[訳註:風切り音が徐々に衰えていくのが聴いて取れたので、実際に花の走行速度は徐々に落ちていったと思われる。平素の彼女――否、ここは平素の《ドニャ・キホーテ》と慎重に言葉を選ぶべきであろう――であれば、たとえ信号待ちの途中停車が数十回あったにせよ、四十粁足らずの距離なら一時間半と掛からなかったのではないか]
沈黙が破られたのは、天空のユピテルがウェヌスの色香に七曜の座を譲り、《ネズミの時間》から《
「¡Gato!」思わず息を飲んだ花が咄嗟に手綱を引き絞るや、後輪を強引に引き摺る摩擦音は三秒間余りも夜陰を劈いた!「……
どうやら路上に飛び出した小動物を避けて急停止した模様。
「¡Feliz viernes 13 y los gatos a todo color![訳註:「十三日の金曜日と凡ての色の猫たちに幸あれ!」因みにこの日も翌週の金曜日も十三日ではない]そら、見ておらんでとっととお帰り」ドニャ・キホーテは一旦馬を落ち着かせてから
山道ということは――我々の知らぬ間に御油を越え、
「結句で相応しい最期であったかと思わぬでもないけれど……いててて」衝突事故は未然に防がれたものの何処か捻ったのか或いは擦り剥きでもしたか、珍しく痛みを声に出すドニャ・キホーテ。不浄のドブネズミに齧られても弱音ひとつ吐かなかったあの烈女が、である。「――今宵ばかりは無事生きて還らねばならぬ。何せ大事な御役目があるでな」
「
左に山肌、右に断崖。その双方から鬱蒼と頭上を覆う山林が、騎士の身に降る星影すらも奪い取る。
「昏昏として、目に映らねどこの先に……暗い顎門をパクリと開き、間抜けな
そして右手に折れてから三分と少し。ラ・サンチャの精華はどうにか餓えた
あれからもう既に十数時間が経過していた。自動二輪に蹴飛ばされたか、或いは乗用車に踏み潰されたか――どちらにせよ、無傷で戻ってくるという期待は虫が良すぎるだろう。
「はてさて――掛川のようには行くまいか」愛馬の頭から猫の目を外すと、朝焼けを以て世界の隅々までを侵食する
闇の奥に気配。
……花は楕円状に切り取られた
王たちの玄室へと連なる隧道の内奥は黒よりも暗く、
「ラーの左目
左手で手綱を捉まえたドニャ・キホーテ、もう片方の手がジリジリと左腰へと引き寄せられていく。白き
だが此度も騎士は、
……否、それは
「Hominēs revilio!」[訳註:「汝等姿を見せよ!」]
隧道内を朗々と響き渡る
一歩、又一歩と踏み進めた
「その声はやっぱし、」聴き覚えのある抑揚が闇の奥から投げ掛けられる。「――東京の、ドンキのネエさんとちゃうか?」
すると次いで一アルペンデ[訳註:仏語のarpent《
「ほんまやん」
「え、なんで戻ってきてしもたん?」
揃って支え台を蹴り上げるや、ズルズルと車体を引き摺って近寄り来る男女の影。
「貴殿らは――」掲げた手を一旦下ろしたドニャ・キホーテ、こちらも馬を牽いて隧道の中を進み入った。「モンテシーノス翁の従弟殿、そしてその想い姫たる
「そうだうちベレルマ姫やった」女が思い出したように呟く。「あのおもろい妹ちゃんは?」
「チ――吾が不肖の従士など今頃は
「となると、岡崎まではよう行かんかったちゅうこっちゃな」心優しく心なき騎士ドゥランダルテがそう言って一息吐いた。
「……
突然爆音が鳴り響いたかと思うと、浜松の方角から出現した光の玉が見る見る内に膨れ上がっていく。三人の前で派手な音を立て急停車する自動二輪。
「あかんわこっち……何やサボって誰と呑気にくっちゃべっとんか思たら昼間のポッピンデルモのチャンネーやんけ」
「だほっ!……危ないやろがほんま殺すぞ自分」こちらはベレルマ姫のお言葉である。
「ヤンキーからジャンキーに格下げなったんちゃうの? 脳みそ溶け落ちてんきっと」
「しばっ、バッキバッキに倒すぞコラ」金髪の
「ホテルかどっかに置いてきてんて」サカモンテスィーノス翁の
「ふむ、そんなところですじゃ」一先ず己の疑問を飲み込んだドニャ・キホーテ。
「ほなちょうどよかったわ。俺の名前何やっけ? グア――ム?……グアバ何とか?」
「ドン・グワディアナでしたろうか」
「グワディアナグワディアナ! グアム人名でググっても全然見つからへんねんもん」
「あっ、せやダンちゃん」
「ああ、うん」ドゥランダルテは振り返ると、己の従者に向かって訊ねた。「お前さっきのちゃんと消しよったやんな?」
「うんもちろん」ジャンキが応じる。「――何が?」
「もしかすっと嬢ちゃんこれ探しに来よったんとちゃうの?」
「――其れは!」男が差し出した
「あん、それ
「お姉ちゃんが代わりに取りに来たってんやろ夜遅いし」
「遅すぎやろ」グワディアノは月の隠れた穴の中で小さく吠えた。[訳註:擬音語gua単体では犬などの吠え声を意味する。およそ
「だからだっとれジャンキー・チェンは」従者の非礼を詫びる代わりにその頭を気前良く叩くドゥランダルテ。「まあせやかて若い娘が不用心やんけ、なあ?――ん?」
「
「ああ……ああそれ、誤解せんといてなそれ」男は多少慌てた様子で弁解に徹する。「別に何やイタズラしようとかそんなんとはちゃうかってん」
「ホラ、拾った時点で電池切れとってんやんか。何分くらい経っとるもう?」
「一時間は経っとらへん思うで。わしら来て割とすぐやろ?」
「見つけたん俺やねんけど!」従士グワディアナが口を挿む。淋しがり屋なのだろう。
「初めん内はそんまま警察届けよう思っとってん、なあ?」
「うん」
「……俺やねんけど?」
「わかったちゅうねん」鬱陶しく近付いてくる従者の顔を押し退ける主人。「でもほら、すぐ必要かも分からんし、いっちゃん交番持ってったら手元戻ってくんまでに何日か掛かってまうかもしれへんやん」
「仰る通りですな」花は同調の相槌を打った。
「それにさあ、警察は嬢ちゃんら――」
「それはええねん」姫の論及を制する心臓なき騎士。少なくともこの恋人たちにはラ・サンチャの主従が置かれた状況に対する――その正確性の多寡は別にしても――それなりの配慮があるようだった。「あとまぁ……壊れてへんかどうかとか、一応調べておかんと後でうちらが壊したことになったら困るやろ」
「御尤もです」
「――で、発見者の俺が偶然ポータブルのアレ……充電するの、持っててん」グワディアナが胸を張る。「これ、三台分フルチャージ出来んねんで」
「えらいえらい」主人が恋い焦がれる姫君にお褒めの言葉をいただく従士。適当にあしらった姫が以下に続けた。「ロック掛かっとってもチャージが出来れば壊れてはおらんちゅこっちゃろ」
「おらんちゅことに異議異論は御座いませぬ」ラ・サンチャの騎士は深々と頭を垂れた。
「ええねんええねん、第一発見者のわいがええちゅうとんねんから」
「今や
「オレオレ。お礼はオ――」
「ゆうたって勝手にアドレスとか見るわけにゃいけへんやろ?――あぁ、セキュリティちゃんとかけとらなあかん云うといてな……パスコード?」
「承りました」
「結局電話掛かってきよったら出るくらいんことしか出来ることなかってんけど」ベレルマがそう言って笑った。「そんで掛かってけえへんだらしゃーないから帰りにどっか――」
「
ドニャ・キホーテが背後への意識を呼び掛けたので、三人は反射的に振り向き様後方を確認しようとした――と同時に洞内をけたたましい警笛音が駆け抜ける。
ピピィィィィィィィィッ!
「「「グワッ!」」」不意を突かれた三人の西の民は堪らず両耳を抑えた。「――ディアナ」
「
浜松市に開いた穴――勿論この時間では何処からが穴で何処までが洞壁なのか区別することは、今この時までは到底不可能だったのだが――から一頭の鉄牛の光るふたつの目、それがのそのそと接近してくるのが、豊橋側の穴からでも容易に見て取れたのである。
察しの良い読者諸賢が共感してくださったように、
「ふわぁ……」彼は堪え難い恐怖心からか、無意識に気の抜けた
「おいテッシはよどけろや。道塞いどんぞ」一足先に恋人と鉄馬を壁沿いに寄せていたドゥランダルテは、トゥネルを東側より徐行してきた一台の車に対しいまだ通行妨害をしている頼りない友人を諌めた。「えろすんません」
我に返ったサカモンテッシーノスが反対側の壁に愛車を引き摺っていくのを待っていた乗用車は、特に返事をすることもなくそのまま洞穴の外に退出すると俄に大きな排気音を立てて愛知県の東端に当たる山道を下っていった。
「びびった」それを見送りながらグワディアナがボソリ呟く。
「まあまあビビったな、今のは」ドン・ダンも同意した。「アレもっとブワーッてな音やったもんなたしか」
「ブワーディアナン股の下漏れとんで、だいじょぶ?」
「ブワーッちびってもうたやんかなんわーってアホか」
「風邪引かんといてな。置いてくで」
「漏れとらんちゅうてん」従士ブワディアナが単車を牽いて戻ってくる。「さっきから気になっててんけど、お姉ちゃんそれ何持ってんの?」
「其れ?――此れで御座るか?」急迫の敵に備え、知らぬ間に攻撃呪文の杖を構えていた己に漸く気付くドニャ・キホーテ、照れ臭そうに一旦下ろした腕をもう一度差し上げて三人の眼前へと突き出す。
「何って……孫?の手やろ」
「此れなるは彼の大魔術師メルリンからもぎ取った、彼奴のマーゴの手ですじゃ」
「マーゴ? タマゴ?」
「然様。此の一振りでおんじ亭の愛らしい孫娘も、二振りで腐れ玉子が齎した諸諸のいざこざも――勿論メルリン其の人により掛けられた貴殿らの呪いすらも、三四五振りで目出度く解き放つことが出来るのです……それっ」
「そりゃありがたいわ。おおきにおおきに」手を合わせるグワディアナ。「誰がのろいっちゅうねん」
「なるほど、孫の手に持ち替えたってことはやぱそうか。見た感じ丸腰やもんな」
「
「ちょい待っとき」ドゥランダルテはそう言うと、仲間ふたりとドニャ・キホーテを残し豊橋側の出口に歩み出て、少しの間彼らの視界から消えた。
「何?」
「ここら辺やな……せぇのっ、うりゃ!」トゥネル外から何やらタンタンと、石壁を蹴け上るような音。「あっおっ、あっぶな!」
「……何やっとん」
「もいっちょ!……どりゃっ、おっ、や、取れた!――グワッ」転落音。「いったケツ打った」
「ちょっほんま何しとんアンタ?」ベレルマが追っていくその後ろ姿をグワディアナの愛機が照らす。「立てる?」
「下、落ち葉……いって、滑った。忘れとったわ」姫君の肩を借りながら心臓を欠く騎士が――否、このような運動に耐える身体ということは、先程ドニャ・キホーテが物した解呪の魔法により、嘗て奪われた心臓も見事回復されたのに違いない――何か白い物を手にして戻ってきた。「こんなこったらさっき戻さなよかったわ……ほれ、嬢さんねやんな?」
「バ……バルガス・イ・マチューカ!」ベレルマの恋人が差し出したのは、フランク王カルロマーニョのパラディンことロルダンが愛剣ドゥリンダーナ――
「一応説明したっといた方がええかな」
永きに及んだ
「うちらと会うた後、何や揉めとったやんかヤバイおっさんらと、ちょうどここらで」
「ははあ、
「バンビっちゅうよかピラニアやなあの感じは」宮騎士は鼻で笑った。「で途中からめっちゃがなり出したやろ。何にキレたんか知らんが」
「巻き込まれんのもアホくさいからな、とっとと逃げたってもよかってんけど」
「かわいいJKを置き去りにはでけへんやろ人として」グワディアナが柄に似合わず徳の高い発言をした。
「人として?」鸚鵡返しするドニャ・キホーテ。
「お前がいっちゃんはよ行こはよ行こ言っとってんやんか」
「ちゃうねんそれは、はよ助け行こって意味やってん」
「うっわくるし!」ベレルマが笑った。
「――でまあ、結局ぐだぐだしとったら、いよいよ何かヤバイ感じになってんやんか。アレは何があったん? 何か後ろからも車来ててんやんな」
「はあ。カマを掘るだの
「オカマやったん?」グワが見当外れな口を挿む。「そんな感じにも見えひんかったが」
「まあオシリス神をホルス神だとか――他愛もない戯言ですじゃ」
「ほんまもんのヤンキーやってんな。キチっとるわ胸糞ワル」代理で
「――でそうこうしとったら何か乱闘臭くなったやん? ヤバイこら流石に警察か思て一一〇番押そうとしたら即行静かになってん」
「そいつらの車がドーン停まってたからそん向こうで何起こっとるかよう分からへんかったんようちら」
「すぐ行かんですまんかったな」
「いえ――あ、失敬」ドニャ・キホーテは思わず突き出した《マーゴの手》を腰に戻すと、ドゥランダルテの謝罪を制した。「貴殿は第一に御護りすべき御婦人がおる身。それがしどもに加勢せんが為に姫の御身体を危険に晒したとあっては、此のドニャ・キホーテにも立つ瀬がありませぬ故」
「まあわしよかこいつのが戦闘力高いねんけどな実際――いた」謙遜するドゥランダルテ。
「で静かんなったんはええねんけど、今度は警察かそれとも救急車かって話やんか」ベレルマが割って入った。人情の厚い人たちだ。「で結局状況分かるまでそこでちんたらしとってん。したら――」
「物騒な二人組がバタバタと車乗り込んでこっち突っ込んでくるやん」緊迫感溢れる場面である。「こいつなんかマジでちびる寸前やってん。失禁城やで」
「呼吸吐くのとぶつかんのとどちらが先かという土壇場ですから、それも已むを得ませなんだろう」
「どういう意味?」とグワディアナ。
「まあやむをえませなんですわ。でもそんまま通り過ぎっかなー過ぎてくれへんかなー祈っとったらギリギリんとこで停まりやがって、で中からふたりとも出てきおってん」
「ごっつ柄悪いんがな」忌々しそうに吐き捨てる姫君。高貴な生れのご婦人の目には、如何にも耐え難い醜悪なる風貌であったのだと拝察する。
「んでメスガキ二匹どっち行ったか見とったかワレェ――とこうくるわけや」(mesgaquíとは女の子供を表す
「……成程」悪漢はふたりとも比較的すぐに立ち上がり動き出したようだから、少なくとも入院沙汰が如き怪我までは負わせていなかったらしい。安堵と共に湧き上がる新たな不安――花は唇に指を当てて小さく唸ると、ベレルマの恋人が先を続けるのを待った。
「そしたら丸っこい方が、岡崎だか岡山だかまで行きたい言うとるの聞いたでえ言うてん」
「ふむ、得心いたしました」情報の出処はここである。延いては花の自業自得だ。
「――ででかい方がお前らもあっち行ったん見とったんやな、と」
「でな、ダンちゃん賢いねん」恰も自分の手柄のように恋人を持ち上げるベレルマ。「ほれ言うたり言うたり」
「普通やろ。いや余計なことやったらすまんかったけど――」そう断ってから先を続けるドゥランダルテ。「まあ何となく状況が分かった気ぃがしたさかい、こっち戻ってきぃひんかったから出てくんはそっちから行ったん思うねんけど――」
「思いますねんけど、やろ」
「うっさい、――思うねんけど何やここで喋った時には夕方には浜松戻って観覧者乗る言うとったでえ……って言うといたん」
「――ほう、それは」
「何でわざわざ静岡戻んねんて、でかいんが吠えおったから、――いや昨日浜名湖の向こう側にあるっちゅう……遊園地?で遊んどったらしんやけど何や夕方にトラブルあって逃げてきてんてえ、で観覧車乗れへんかったから仕切り直しで今晩再チャレンジする言うとりましてん、とか何とかテキトーに」
「嘘八百科事典やろこの人、天才やわ」
「弁舌の女神カリーオペすらも舌を巻く三枚舌、いや御見逸れいたした」
「ついでにうなぎ食ったら明日ん朝には東京帰って花火行く言うとったて言うたったわ」
「週末花火やっとるん?」
「いや知らんけど。毎週どこかしらでやっとるやろ今ん時季」
「まあやっとるやろな」
「それがしの尻にも火が付いておりますわい」
「え、何て?」
「いえ、」花の緊張の糸も解れてきたようだった。「――してそのドブネズミ共はどちらへ?」
「ああ、んででかいんがその遊園地ちゅうのはボート置いてるとこか?観覧車って何やでかいんか?とぐだぐだ質問してきおっていや自分らは知らんねんけどぉ言うとったらこんアホがわざわざ――」
「助け舟やろうが何やねんアホて」
「タスケもバスケもあるかい。こいつしゃしゃり出てきおってん、で」
「黙っとりゃええんに……」
「そしたらじゃあお前キンパツ案内せいやって腕つかまれてん」
「もう言わんといてえ思い出しただけでサブイボ立つわ」
「それは災難な……」ドニャ・キホーテは良心の呵責を覚えたが、現実に今グワディアナが目の前で立っている以上大した災難は起こらなかった筈である。
「案内せえ言われても自分その子らの顔も憶えてません赤の他人やしーて」
「そんだらそいつにバカの他人やろがツッコまれてん」
「バカにバカ言われたらいよいよほんもんやな」
「バカ言うなや。アホはええけどバカは言わせへんで。しばくぞ」
「……彩り豊かな御他人をお持ちで……」花は真面目な顔を崩さぬよう努めた。
「しゃあないからいやこいつの単車遅いから先導させても邪魔なだけですわぁ、それよりうちら念の為こっち側の坂下りてって、もしメスガキ共発見したらコワイお兄ちゃん岡崎の方にアンタら追ってったっから安心して浜松戻り言うたりますよってに、急げばまだ下の一本道で湖着く前にうまいとこ捕まえられるかもしれまへんでーって」
「閻魔さんに舌抜かれるわ」ベレルマが呆れて笑う。
「何枚もあれど食事の邪魔でしょうからな、一枚くらい間引いてもらっても貴殿にとっては舌三寸ほどの不便もありますまい」釣られて口角を上げるドニャ・キホーテ。「いや、騎士殿の御裁量の御陰様で後顧の憂いが売り切れました。貴殿らには厚謝に厚謝を重ねても充分な厚みには到りますまい」
「――で、見つけおったら電話せえ言うて番号無理やり教えてきよったんやけど」
「あ、ダンちゃんアレ教えた番号だいじょぶやったん?」
「だいじょぶだいじょぶ、バイト先のクソ店長の教えたったから。もしもん時んために名前登録テキトーなんに変えとってん」
「ほんまダッシュでカッ飛ばしてったな」
「カッ飛ばしてったなやないがな」グワディアナが恨めしそうに口を出した。「そん前にあのクソデブ、いきなり俺のスマホふんだくりよって、車乗ってガーッとバックさした思たら窓からポーンて放り投げくさりおったん」
「デブの方やっけ、助手席からやんな」
「どっちかてええわ。でまた戻ってきてホラお前らもちんたらしとったらんとはよ追えややと! ほんましばき倒そ思たわあんときゃ」
「思たんなら本能おもむくままにしばき倒せやほんま」赴くままに行動に移していたら彼等とて今ここにはおるまい。「で何やっけ、何の話やっけ」
「傘やろ」
「あ、せや」ドゥランダルテは話を継いだ。「でっと――そうそう、しゃあないからテッシーの携帯拾いに行ってん。バカネズミとブタネズミが消えよってすぐ」
鬱蒼と茂るルソーの
「綺羅星を一重に浴びる万緑は宛ら
「この状況でも貫くちゅうことは」
「ベガとアルタイルがロミジュリでしょ」ひと月前に終わった日本の伝統行事を思い出したベレルマ姫が、聞き覚えのある星の名前を記憶の隅からほじくり返さんと試みる。「デネブってなんだっけ……彦星の牛、とか?」
出番を誤ったヒグラシが数秒だけカナカナと鳴いたかと思えば――というのは日本に棲むこの蝉の名は《
「そんであのデネブが――デブが投げ捨てくさったんがこの辺やってん。ざっけんなしばくぞ割れとったらワレー思いながら地面探してもないねん。でくっそどこやねんなー言うてこうやって、」すると従士グワディアナは、トゥネル出口付近の道路の山側を固める石垣に向かって不格好な飛び蹴りを繰り出す。「――したらスコーンて。ここにコイケヤスコーンて」
ベレルマ姫とその恋人が噴き出した。その瞬間の情景を思い出したのだろう。
「笑かすなや」
「笑うなや」不貞腐れるテッシー。「そのお姉ちゃんの持っとるお上品な傘の……その先っぽんとこが俺のつむじんとこに突き刺さってん」
ドゥランダルテは遂に堪え切れず声に出して大笑した。
「姉ちゃんその傘もっかい貸して」グワディアナは了解を得ずに花からロルダンの剣を奪い取ると、その長槍と同じ名を持つ己の主人の頭へと大仰な身振りで振り上げた。
「ダホ、それは騎士様の持ち物やぞ。お前みたいな卑しい身分のもんが使ってええもんとちゃうんや」敢え無く奪い返されたドゥリンダーナは、たった五秒で元の持ち主の手へと戻される。「でこいつが死ぬ死ぬ言いながら頭抑えてうずくまっとる間にな、一体どっから落ちてきてん思て上見上げたらホレ、枝がヴァーッて張り出しとんやろ。ああアレに引っ掛かっとったんかー言うてよう見たらな、グワなんとかのスマホも……つかその影がもちっと上のとこにこれまた引っ掛かっててん」
「奇遇ですな」
「奇遇やろ。ぐうの音も出えへんわ」
「ぐう」グワディアナが呻く。「いやそこはグワの音も言うべきとこやぞ」
「で、この傘も――申し訳ないけどもう柄のとこ折れとったしええか思て、スポーン投げたら巧いこと当たって携帯落ちてきてん」
「ナイスキャッチ」と姫。
「でホレこれも引っ掛かっとったでえ言うて返したってん。不幸中の幸いっちゅうやっちゃ、お陰でキズひとつ付いとらんかったん、なあ? そんだら――」
「ああああ、不幸中の災害やっ!」
「泣きっ面に蜂――」と蜂の騎士が云い掛ける。「もとい八月の槍に何が起こりました?」
「よっしゃこれもわいの日頃の行いがーとか言うて受け取った瞬間に」従士の主人が代弁した。「――このアホ落ち葉に滑ってスッ転びおったん」
「しばるぞコラ、お前かて今さっき滑って転びくさったやんけ」
「――でその拍子にスマホ手からスッコ抜けて、プッ――」騎士は何度か咳をして呼吸を整えた。「何やよう分からんけどトンネルの中の方にポーンて、投げおってんな?」
「投げとらんわ。勝手に飛んでってん」
「いや勝手に五メートルも飛んでかへんやろ」ベレルマが従士の背を叩く。「バースやないねんから」
「そこは江夏ちゃうんかい」
「江夏はええねん」ドゥランダルテが仕切り直した。「ほんでな、アホや言いながらトンネルん中戻ってん」
「ふむ」ドニャ・キホーテは三人に続いて再度洞穴の中に侵入する。今や外も中も照度の点では然程変わらない。
「昼間は多分こんくらいまで陽ぃ射しててんやんか。でちょうど陰になっとるとこまでスッ飛んどったんな」トゥネル内出口付近の地面を指で示す心臓の騎士。「でこいつ、携帯見つけて拾い上げて……でこっち明るいとこまで持ってきてん、で――」
「やったー画面割れとらんんん!」ベレルマがグワディアナの口真似をして叫んだ。「これも俺の日頃の行いが……」
「似とらんなー。八十点」
「――って誰のじゃーい!」恋人たちが口吻を
「それな」花の手元――傘を握っているのとは別の手――を指してベレルマ。「無傷やろ」
「はい。波紋ひとつない、水仙の水泉面が如しです」ラ・サンチャの騎士は深々とお辞儀した。「……してグワ殿の方は」
「水洗便所に流したが如しですわ」液晶の
「最悪動くだけ便所よかマシやんけ」家来思いのドゥランダルテが優しく慰める。「で、昼間の時は妹ちゃん手に持っとんの見えとったし、すぐ取りに戻ってくるかもしらん思たから、一応――」
「車とか、バイクに轢かれんよう思てな」
「――んああ、壁の下んとこに立て掛けといてん」
「
「いやまあ一応最後まで話すとな」とモンテスィーノスの従弟。「その後はうちら、あのバカどもの車とかち合わんよう気いつけながら浜名湖のこっち側中心に遊んで回とってん。んで妹ちゃんも美味い言うとったさかい――って同じ店ちゃうやろけど、うなぎ食いに行ってんやんか」
「松茸は入っとらへんかったけどな」
「アホ、松竹梅の松竹のレベルいう意味やんか」ベレルマが半日遅れのツッコミを入れる。
「ち、ちくしょう」理解の遅い従士も漸く得心した様子。「まぁでもうまかったで」
「うなぎは今引っ張らんでもええねん別に」賢明なドゥランダルテは従士を制して以下に続けた。「まあ美味かったけどな。天然モンだったかは分からん――で、夜になったからこっちはほんまもんの再チャレンジや」
「再ちゃれんじ?」
「お化けお化け」さも楽しそうに姫君が笑って言った。「昼間不発やったし、夜暗うなってからやったら地縛霊はんも恥ずかしがらんと出てきてくれるやん」
「で、宿に荷物だけ置いてまたダーッ走ってこっち戻ってきてん。ついさっきな。そしたらまだ――」今から一時間余り前に時計が戻る。日付が変わってから間もない時間帯であろう。「携帯元あったとこにそんままやったけアッレー思て」
「御身の聡明なる従士殿が霊気を蓄えてくだすったと、」礼儀正しいドニャ・キホーテはここでも恩人の家来を立てた。「――こういう次第で御座いますな」
「そういう次第でございますですよ」胸を張るグワディアナ。彼の《魔法の蝋版》が、東京の花娘の掛け替えのない
「その点遺漏ありますまい」トルデスィージャスの宮室から徒歩二三分のところで販売されていることは確認済みだ。「ともあれ数奇なる巡り合わせとはいえ御三方の御機転なくば、吾が無二の妹に送られた
「まぁあいつらが戻ってきたかは分からへんけど、他の車やらに轢かれてブッ壊れとった可能性は低うなかったやろな」と心臓の騎士。「つって偶然やし別に気にせんでええよ」
「何か御返しをとは思えど、報恩の一念が忘恩に一転しては有難迷惑この上なし……と申しますのも、今この瞬間とてそれがしの出しゃばりが貴殿らの宿願たる峠のお化け諸氏を遠ざけておる故」ドニャ・キホーテは恭しく頭を垂れた。「彼等は恥ずかしがり屋と聞いておりますれば、ラ・サンチャの目立ちたがり屋は此処らで拝辞といたしましょう」
そう云った阿僧祇花は、一礼の後に愛馬の尻をひょいと持ち上げると、その鼻先を西へと向けた。
「そんなあ、妹ちゃん寝てるんやったらもうちょいおってもええやん」紅一点のベレルマは
「俺サンガリア」グワディアナは喉の渇きを訴えた。「せや、サングリア飲み行こか」
「御気持ちだけ……それがしは寸暇を惜しんで宿場に立ち帰り」花の決意は覆らなかった。千代が目を覚ます前にパロミの部屋に戻り、何事もなかったかのように横になっていなければならない。「――従士のものしたガリア戦記を紐解くことにしますわい」
「こないな時間に未成年引き止めんなや、捕まんぞ」ドゥランダルテはふたりを制して年長者の思慮深さを見せた。「んじゃあホテルまで送ってこか」
「ダンちゃん送り狼や!」恋人が囃し立てる。まさか妬いた訳ではあるまい。
「ふふふ、そちらも御気持ちだけ戴きまする」ドニャ・キホーテは掌を見せた。[訳註:昼間従士に貼ってもらったヴォルフ閣下の絆創膏が剥がれずに残っていれば、より文脈も通じるというものだ]「それがしも憚りながら《
「ロバ?」
「老婆ならこっちに――イッタ!本気で叩くことないやろ!」
「女子高生と比べちゃアカンて。わしかてジジイつか、それこそ天寿まっとうしてお化けなっとるで」恋人の名誉を固守する病み上がりの騎士。「ほな気ぃつけて。従士んとこ帰り着く前にくたばらんようにあんじょう頼むで」
「承った」騎士はイポグリフォの鞍にその軽い尻を預けると、振り返って西の三人に会釈する。「暁のヴェヌスを拝むまでは一兵士として斃死することも許されぬ身、吾が自慢の悍馬には精精安全運転で頼むことといたしましょう。では此れにて御免、左様然らば御機嫌よう」
「おやすみ~またな」
「おやすみじんこ」
「……あっ、そや」華奢な背中を傾けて幽かな星明かりの下に漕ぎ出すラ・サンチャの精華を呼び止めたサカモンテスィーノスの親友は、仲間ふたりを洞穴に残すと手綱を絞って振り向く騎士の傍らまで歩み寄った。「ドンキの姉さんよ」
イポグリフォの蹄が打ち鳴らす大地の大皷が俄に演奏の手を休める。「どうなされました、ドン・ドゥランダルテ?」
「時に何処まで行くつもりなん? 名古屋か、それか京都とかもっと向こうかいな?」
「何用あってそれを訊ねなさるか」ドニャ・キホーテは背筋を伸ばすと、もう一度背後を顧みた。腰帯が新顔に占拠されていた為、かの古株たる神槍はいまだ彼女の右手にあった。
「つまりその何や、敵はあのアホ共だけやないちゅうこっちゃろ?」手慰みに灯されていた点火器の火が、その時初めて本来の役割を果たす。
「……伺いましょう」岡崎市の方角に愛馬の鼻先を保ちながら、騎士は片方の
「可能なら一戦も交えん方が賢明やろな」ベレルマの恋人は自分の携帯を取り出すと、何やら操作しながら付け加えた。「誇り高い騎士様にエゴサしてみいっちゅうのも気ぃ引けるんやけど、この際そういうホコリはゴミといっしょにダイソンで吸ってもらってやな……後で自分のでも探してみるとええわ。ホレ、こんなん出ました」
「拝見」騎乗のまま液晶画面を覗き込むドニャ・キホーテ。「……成程」
「写真とか撮られへんかったんはそれこそ不幸中の幸いやけど、まぁ……分からんな」ドゥランダルテは大きく嘆息した。「本線沿い走っとったちゅうことはもう東海道やろ? 豊川入ってから結構進んだっちゅうことやんな」
「東海道と岡崎駅の丁度中程の辺りに、軒下三寸お借りしております」日本語の慣用表現である《
「アンタ岡崎まで行ってわざわざチャリで戻ってきたんか!」呆れる心臓の騎士。
「然る高貴なお生まれの奇特なる御婦人と御縁がありましてな」
「はああ……狂っとるでほんま。何十キロ余計に走っとん?」
「さて、御油の狐に狂わかされたか些かしくじりささんした[訳註:何故かここだけ
「そらそうやわ。グリップ捻れば勝手に進んでくれんのとちゃうねんから」
「此の馬は乗り手以上に老いておりますから。尤も無駄に馬齢を加えただけの主に年寄り扱いされては、古兵の此奴も浮かばれぬでしょうが」
「まあ何や、老婆心からっつうのも変やけど……」そう言い掛けてから、一旦眉を曇らしたドゥランダルテはゆっくりと首を捻って隧道の中を一瞥した。
「――何?」少し離れた位置から届くベレルマの声。老いたといっても二十代前半だろう。
「ロウジシンで言わせてもらうが、――」
「
「――悪いこた言わんさかい、明日その……軒下で目ぇ覚ましたらそんまま岡崎の駅直行して電車で東京お帰り」ダンちゃんは唐突な忠告を与える 。「自転車乗せ
られるんかどうか知らんけど……無理なら郵送するなり方法はあんねやろ。ほんまは今晩岡崎まで独りで帰らすのも危ない思うねんけど。はよ帰ってあの子安心させたり」
夢の中の千代さんが安眠を続けている限り、騎士の不在が彼女に不安を抱かせることもないであろう。
ドニャ・キホーテは麓より唐突に吹き上がった風が凪ぐのを待つと、虫の音を背景に己の不安を開陳した。
「其処まで切羽切迫しておりましょうか?」
「さっきはあのアホが気付いとらんさかい、面倒やから言わんかったけどな」ちらっと一瞬だけ振り返ると、直ぐに視線を戻す。「あいつ読解力壊滅的やねん。ふつう同一人物と分かるもんやん、他の連中にもバレん思たらそれは楽観的過ぎや思うわ」
「仰る通りです。いえ、貴辺の従士殿は人が好いのでしょう」花は洞穴内で雑談している残りのふたりをドゥランダルテ越しに見遣った。「……何が書かれておりますので?」
「リツイとか追ってくとな、二手に分かれとるみたいやねん」携帯を操作するドゥランダルテ。「昼間のドブネズミは浜名湖の遊園地から西側張っとると思うわ今も。あと別の奴らがまぁ――わし情報のせいやけど――浜松掛川間で情報取り合っとる。何や変なタグぎょーさん出来とるし」
「――して此奴等の一派は?」液晶画面を注視する騎士。
「これ目撃されたんが東名と被っとるとこやろ? こいつら全員遊び半分なんやろけど、岡崎――以北?に目星付けてタムロっとる。ざーっと読んだ感じ、名古屋入ったら結構ウロウロしとる思うで。今週末いっぱいやろけど。基本ああゆんは暇やろから、飽きるまで犯人探ししとるかもしれへんな。夏休みやし」
「ふむ……」
「遊園地行ったシャコタンバカふたりは、1号の目撃証言は嬢ちゃんらの作戦やと踏んどるらし。自作自演で撹乱させようゆうんやな」少なくとも彼の機転が追手を分散させてくれたことは間違いないようである。「ハッ、カスの勘繰りやな。何でドゥラン――ドラン?なんとかの口から出まかせをそないに信用してくれたんか分からんけど」
「御人徳でしょう」
「嬉しないわ」心臓の騎士は苦笑した。「もともとのネッシーに腐れエッグぶっつけられたマヌケふたりの方は――こっちもふたりやねんな――まだ探しとんのか知らんが、昼間のとこっちに書き込んだ奴らんせいで、だいぶドンキちゃんのメンが割れてしもてん。ええっと……ほい」
「………………これはこれは」箇条書きされた己の身体的特徴を斜め読みする花。「己の伝記本が世に出るのに先駆けて、図らずも斯程まで口端に掛かろうとは果たして雀躍すべきか其れ共寂黙とあるべきか――何れ誰かが著するであろう『ラ・サンチャの女騎士』の原稿は日の目を見るまでもなく、右から左へ
「競艇のボートも競輪の自転車も目立つ分には見分け付いてええけど、女騎士殿のこのシュッとしたカレシさんも――」ドゥランダルテはイポグリフォの尻[訳註:花が尻を上げて空席となった乗鞍後部のことだろうか]を軽く叩いた。「しっかり有名になってしもたからな。メーカー特定まではされん思うけど、色形だけでも充分やろ。目立つわカッコええもん」
「お褒めいただいたぞ。礼を言わぬか」銀鈴が鳴った。[訳註:花が高校を訪れた日も含め、彼女が自転車の警音器を鳴らしたのはこれが初めてである。これまで取り付けされていなかったところを、先程前照灯と一緒に購入したのかもしれない]
「ご主人様に似て礼儀正しいな」心臓の騎士は社交辞令を言った。「まそうゆわけやから。どうすっかはもちろんお姉ちゃんの判断やけれども」
「チ――それがしの、連れの妹に就いては……何か?」
「ああ妹ちゃんか。彼女の方はどうやろ……ママチャ乗っとるくらいは書いたったかも分からんけど、どうやったかな」暫く画面に指を這わせる従弟殿。「少なくとも色とかそんな特徴までは……書いとるの読んだ記憶ないが。東京のJK二人組とかそんくらいやったかなあ。見た目とか着てるもんとか――妹単体ではほぼノーマークやろ」
「然様でしたか……」薄い胸を撫で下ろすラ・サンチャの騎士。
「ご主人の方が悪目立ちしたのがケガの功名んなったちゅうこっちゃな」この三人組に限って言えば、会話相手としては千代の方がより長い時間接していたのだろうから、従士の顔形や目鼻立ちについてもそれなりに説明することが出来たと思われる。だが、注意を払っていなければどうしても奇抜な騎士の方に目が向いてしまうのが自然だ。「つうたかて、一緒におんねんからいっしょやで。名古屋入ったら何人か待ち伏せとるかも分からん」
「肝に銘じておきましょう」
「そうしとき。じゃ呼び止めて悪かったな」とドゥランダルテが一歩下がる。「ずいぶんと汗かいとるようやけどだいじょぶか? 水かお茶くらいならあっこ入っとるが、冷えてはおらんな」
「お構いなく。水腹では峠の
「無茶すなや……まああんま茶々入れんとこう。ほな――や、何度も水さしてすまんけどそれもう開かへんのやろ。置いてったら?」
「御所望か?」そういえば彼とこの剣は
「いやわしは要らへんけど、危ないやろ」[訳註:傘の柄が折れ曲がった今こそ《天神差し》が必要となろう。とはいうものの夜間走行の妨げになることに変わりはない]
「然すれば、吾が右腕の分身にして
「……まあ、あそこならもうアホの脳天にブッ刺さることもないわな」
「
「あでぃおーす」「気ぃつけてな~」遠くでグワディアナとベレルマが手を振る。「――よっしゃこっからが本番やで」「眠いわもう帰ろ」
ここから山道を下り切るまでの間、我々に聞くことが許されたのはイポグリフォの立てる
午前四時を回ると東の空は明るみ始めた。
「おや、テスカトリーポカよ振り放け見るがいい。お前の主人の幸薄き肌を、金曜のルシフェルが容赦なく照らし暴かんとしておるぞい……[訳註:《価値薄き肌》であればtez de poca calidadと訳出できる。アステカの神Tezcatlipocaとの言葉遊びか]」阿僧祇花は馬の脚を緩めると、背後で紫掛かった空に一際強く輝く星へと目を見張った。「――あなや、豊穣の女神ソティスよ……太白の隣に
「はてさて甘露[訳註:ここでは蜂蜜のこと]は概して星が昇る時、取り分け
間もなくラ・サンチャのお尋ね者はトルデシーリャスの宮殿前庭へと帰着した。
「やあカルラッシュ、……ご苦労だったね。愛娘の
狂女フアナの宮室へ向かう階段でよろける騎士。棒のように細い脚は今や
「疲労
続いてゆっくりと、空き巣紛いの慎重さで扉を開き侵入してから、またひっそりとそれを閉め抜かりなく施錠を済ませる。
しかし玄関で脱いだ太踵の片方に躓いた花は、迂闊にもカラリという乾いた音色に部屋中を反響させてしまう。
「ハナ先輩」千代が衣擦れの中に微睡んだ声を上げた。「――じゃない、御前様……午前?何時?」
「チヨさん、起こしてしまったかな」観念した花は踵を付いて歩き始める。「すまないね」
「トイレ」
「え?」
「流してませんよ」
「――ああ、これは失礼した」ドニャ・キホーテは玄関近くまで戻ると、手洗いの扉を開けて
パロミの居室に戻った騎士の目が、四五時間前に蓋を開け畳の上に残されたまま捨て置かれた栄養補給飲料の小瓶を捉えると、無意識に伸びた手がそれを掴み、中の液体は数秒と待たずに全てその喉へと流し込まれた。炭酸も抜け、頗るヌルく甘ったるいだけで、お世辞にも美味いとは云い難い代物だった筈である。だがこの時のドニャ・キホーテには如何なる
既に千代は寝息を立てている。窓辺の猿ももうこちらを覗いてはいまい。
「
力尽きたラ・サンチャの精華は、まるで崩れ落ちるようにして従士の傍らへ横たわると、そのまま泥のように眠った。ここに来てフアナ女王の計らいは、安全なる陸上の泥舟となり、
さてつい二時間ばかり前に、本作の主人公のまさにその口から
というのも次章にて主従のふたりは揚げた海老を食べないだろうし、少なくともラ・サンチャに帰還する頃には三十章に及んでいるなどという事態は、到底考えられないからである。そんな煉瓦のような厚みの小説は、たとえそれが
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