第3章 如何にして記者が万人を恐懼せしめる伝説の紀聞者となりしか、及び歴戦のドニャ・キホーテが最良の相棒を伴に八王の古都へと繰り出したその顛末を記す条

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第三章

如何にして記者が万人を恐懼せしめる伝説の紀聞者となりしか、及び

歴戦のドニャ・キホーテが最良の相棒を伴に八王の古都へと繰り出したその顛末を記す条

Capítulo III.

Cómo el prosista se convertió en el notador de la leyenda que reverenciarían todos los demás,

y de lo que fue la veterana doña Quijote a la ciudad antígua de los Ocho Reyes con su mejor compañera.


Alzan los nuestros al momento un grito

吾等が軍勢忽焉と雄叫び上げたり

 alegre, y no medroso; y gritan: «¡Arma!»

 嬉々として怖じ気を知らず、武器持てと

 «¡Arma!» resuena todo aquel distrito;

 その声四方に木霊せり。仮令その身が

 y, aunque mueran, correr quieren al arma.

 朽ちようと、武器を取りけり我先に。

[訳註:特に説明はないが、冒頭の詩一連は寓話的長詩『パルナッソス山への旅ビアーヘ・デル・パルナーソ』からの引用で、実際に阿僧祇花が半坐家を発つ間際にイスパニア語で諳んじたもの。邦訳訳者]


白扇の如く空を斬り裂き世界を歪める夏の陽射しに脳天を灼かれながら、世田谷某所の自宅を後にした中学校最終学年にあるエン・エル・ウールティモ・アニョ・デ・セクンダーリア半坐千代が自転車を漕ぎ続けてかれこれ二十分と少しばかり、この厄介事を背負い込むことに関しては余人の比肩するを知らぬ我等が愛すべきお調子者チカ・スエルタの、半歩もとい半輪メーディオ・シールクロ先を行く秀麗無双の貴婦人たる女子高生にして女主人の真意を解する努力が実を結ぶまではまだ四半刻を要するであろうから、その間に先述の約束通り筆者、つまりセビーリャ生まれサラゴサ育ちのイスパニア人サルサ・デ・アベンダーニョなる有閑の徒クラーセ・デ・オーシオが、何の謂れカウサがあって更には如何なる伝手コネクシオンを介してこの物語を記す羽目に陥ったか、その経緯を語ることとしたい。尤も、興味のない読者は読み飛ばしてもらっても一向に構わない。


あれは慥か、懐の侘しいコン・ポカ・パスタその年の赤茄子祭りトマティーナの動画を視て伊麺パスタを買いに出掛けた日よりは大分後だし、それでも母に柱の聖母祭フィエースタス・デル・ピラール白い麝香撫子の花束ブケ・デ・クラベーレス・ブランコスを贈った際に同じ窓口で日本へと[訳註:宛先は訳者の実家]記憶装置メモーリアを郵送した記憶を紐解けばその前ということになるから、そう、矢張り九月で間違いない。深夜一時か二時、瓦斯用耐圧容器ボンボーナ・デ・ガス交換が往来で石畳アドキンをカンカンと鳴らしながら行脚するその騒音を両耳に流れる土耳古歌謡カンシオーネス・トゥルカスで散らしつつ、電子競売イーベイで廃盤だか生産終了だかの何かを探していた時のこと。

 電書閲覧クリエンテ・デ・コレーオの受信音が響いたので何気なく小札ペスターニャを開くと、見憶えのあるようなないような差出人名レミテンテが目に飛び込んだ。

 ――ダメ・ヤメテ・ペニンポリ。[訳註:Dame Yamete Penimpoli――イスパニア語のカナへの転写法に依っては《ダーメ・ジャメーテ・ペニンポーリ》とも表記できるが、棒引き部分は厳密には強勢であり長音ではない。西Quijote(/kiˈxote/)を《キテ》ないし《キホ\テ》等と記す代わりに《キホーテ》と書くのと同じ]

 件名アスント:《声たちラス・ボーセス》……思い当たる節はなく意味も解らなかったが、病原菌ビールスの検出もされなかったので一先ず開封してみる。

 本文は至極簡潔で、暫く振りの連絡についての軽い挨拶もお座成りに、「お前は日本語を話せたと記憶しているので、これを解凍して聴いてみろ」という一文で終わっていた。署名も無い。物の三行である。恰も数分前まで路上で駄弁っていた友人が、何かその時言い忘れた他愛もない要件を改めて送って寄越したかのような呆気なさ。

実際には、辛うじてそのアラービア系の姓名――或いは幼少期に何かで読んだ切りの印象的なモーロ人の名――だけ記憶の隅から手繰り寄せることが出来たが、顔すら思い出せない。何処の繋がりで知遇を得たのかも失念している。いずれ友人アミーゴではなくて知人コノシード程度の男(いや、淑女デイム[訳註:英国に於ける女性の栄誉騎士称号で、独Dameならば《ダーム》。西語のdamaに当たる]というからには女人かもしれない)だったのだろう。

 文面の末尾にひとつだけ、関連付けされた文字列イペルビーンクロ暗証番号コントラセーニャが貼られていたので、無用心に押下すると某資料共有用閲覧画面アルグン・スィーティオ・デ・ウソ・コンパルティード・デ・ダートスに飛び、数十億噛GBというどでかい圧縮情報の下流転送デスカルガへと余を誘った。圧縮爆弾ボンバ・シップである危険性を顧みず、落として解凍してみたら音声資料形式フォルマート・デ・アルキーボ・デ・アウディオ図像イコーノスがたったふたつ。中身は高画質動画の類かと拡張子を弄ってはみたが、映像は抽出されなかった。

 試しにその片方――«dq2015.mp3»――を再生してみる。すると読み込みに十数秒掛けてから開いた窓の下辺部に384:56と表示されたので、一瞬三八五分つまり約六時間半もあるのかと判読した筆者は思わず「長過ぎラルギースィモ!」と舌を鳴らしてしまったが、よく見れば56の後にも数字は続いていて、視野を広げるとそれは384:56:27、そう合計三百八十時間超の音声資料だったのである。二週間以上ではないか!

 続行すると貧弱な中央処理装置ウ・セ・ペが動作停止してしまう気がしたものだから、慌てて処理を中断してその小窓ベンタニージャを閉じたものの、一体何が録音してあるかは気になった。気にはなったが。

 もう一方の音源フエンテ・ソノーラも大きさはほぼ同じである。一日十時間聴いても双方合わせてふた月半費やされる計算だ。大層馬鹿げている。馬鹿げてはいるのだけれど。

 翌日が非番リーブレ・デ・セルビーシオだったこともあり、頭の数分だけと自分に言い聞かせながら意を決してもう一度先程の処理を実行させてみる。意外にも固まることはなく、滑らかに何かしらの音声が聴こえ始めた。但し百万秒以上あるのだから、再生箇所指定機能コントロル・デスリサンテは使えそうもない。一日単位で時間が飛んでしまうだろう。

 最初の内は道を歩く足音のような、殆ど環境音のみが流れる様相であったが、二分前後我慢して静聴していると、あの玉のような澄み渡った声が筆者の耳に届いた。

「あいや暫く、暫し待たれよ」

 そう、本篇の主人公となる阿僧祗花である。

 残念ながら筆者の日本語はほぼ独学であり、周辺に日本人の友達が住んでいるわけでも彼の国への留学経験があるわけでもない。観光で旅行したことがある程度で[訳註:訳者が留学していた時点では未渡航だった筈なので、この記述が事実なら後日遥々訪日した際にも友人たる訳者には連絡を寄越さなかったことになる]、長期滞在の経験すらない。日頃はといえば、精々が映画や漫画動画アーニメを吹き替えでなく原語で視聴するよう努めているくらい、それでも字幕なしでは半分も理解できぬという情けない聴解力ニベル・デ・アビリダ・エン・エスクチャールなのであった。

 とはいえ繰り返し聴き直せば概ね内容が掴めるし、一字一句書き留めることも出来る。十秒戻しを三度四度、その都度一時停止して日本語のカナ文字で記録していく。しかしそれが通用したのはもう一方の音源、半坐千代の方の三百八十時間だけで、阿僧祇嬢の話す言葉はそれこそ九割方が理解の範疇外であった。

 尤も実際には二人分の七百時間超、ずっと傾聴に勤しんでいたわけでもなく、ふたりの旅が始まってからはほぼ四六時中同じ内容が録音されていたし、睡眠中と思われる時間帯は適宜飛ばしつつ再生したので、ひと月と少しで(ほぼ)全ての科白を書き起こすことが出来た。そしてそれをイスパニア語に翻訳するのに更に半月メーディオ・メスを要することとなる。[訳註:この合算してひと月半というのは明らかに現実的でない。一年半以上は費やした筈]

 睡眠不足で本業には差し支えたが、一応の達成感と共に作業を終えた。一応、元の音源と翻訳文を記憶装置に落として、嘗てこちらに留学していた際に世話を焼いた日本人の友人の住所を引っ張り出し、「校正求ムテ・ピド・ケ・ロス・コリーハス」の一文を添えて郵便局へ。今思えば、この送り付け方は発端のアラベ人の採った作法にも況して粗雑だったと反省している。[訳註:著者アベンダーニョが電書や電話でなく唐突な書類の郵送という不躾な連絡方法を採用したのは、単純に「お前の住所以外の覚書が見付からなかったから」だそうである]

 約ひと月後、電書にて校正済みの台本リブレートが返送され(彼の錆び付いたカスティーリャ語カステジャーノ・オクスィダードには、憚りながら、こちらも改めて校正を入れ直す必要が少なからずあったものの)、そちらを元に小説化したのが本作である。[訳註:但しこの時点で訳者が受け取っていた原稿は沼津篇の途中まで。何のことはない、ひと月半で反訳および翻訳できたのがそこまでだったのだろう。結果このような大長篇になると知っていれば決して請け負いはしなかった]

 その友人は最後までこの資料が架空の創作物オーブラ・クレアティーバ・フィクティーシアである可能性を捨て切れぬ様子だったが、筆者は様々な状況証拠を基にエン・バーリアス・プルエーバス・シルクンスタンシアーレス、これが――これとは本稿を指すのだけれど――謂わば実録ドクメンタルと呼ばれるべき記録ドクメントであることに疑う余地なしと考える。しかし総ての実録書レポルターヘ・ドクメンタルおよび記録映画ドクメンターレスとそれに類する伝達手段が総じて、ある事実エチョに随意の演出を加えることで現実レアリダと同化させ、何らかの普遍的な真実ベルダを導き出すよう編集されたものであることを鑑みれば、この拙書『清廉なる女傑インヘヌーア・エロイーナラ・サンチャのドニャ・キホーテ』とてご多分に漏れず著者の主観が大いに幅を利かせていることは如何ともし難く、それについてご容赦願う為ならば読者諸賢の前に膝を突くことも辞さない。


閑話休題。

 ドニャ・キホーテとその従者チヨさんを載せた二台の自転車は、当面何処を目指しているかは判らぬものの、数レグア先からも明らかなようにセ・ベ・ア・レーグアス黙々としかし順調にふたりと目的地までの距離を縮めているようだった。因みに彼女らの住む東京から公演の行われる名古屋という都市までは、(三軒茶屋~渋谷間が徒歩でも一時間と掛からぬのに対し)距離にして六十レグア[訳註:約二百五十キローメトロス。但しこれは直線距離で、道程としてなら八十は下らなかろう。尤も単位としての西legua(羅leuga/leuca)は元来一時間前後の歩行距離を指したものらしく、国や時代に依って二粁強~八粁弱と示す長さの範囲がかなり広い。本稿では尺貫法の一里(≒四粁)より幾分長い程度か]を超えることを前以てア・プリオーリ提示しておく。

 沈黙に耐えかねたか、千代が漸う口を開いたのは彼女らが半坐宅を発ってから半時間ほどもしてからであった。

「か……っこいい自転車ですよね」

 息が上がっている。花の方には呼吸が乱れた様子もないが、心肺能力に優れ馬術にも長けた主人に付いていく為に、従者の方は大分踏ん張って踏板を回していたのだろう。

「吾が無二の妹たるチヨさん、」花が夭々と答える。言葉の綾フィグーラ・レトーリカであるのも承知といえど、彼女には別に実妹ベルダデーラ・エルマーナが居ることを念の為断っておこう。「流石はそれがしが見初めた遍歴の従士に相応しい肥えた目をしておるなと、先ずは褒めて遣わそう」

「ありがとうございます」と千代。

「此れなる吾が愛馬、今は亡き父より譲り受けし逸物であるが、その名をイポグリフォという。そもそも冒険に出る手始めとしてそれがしは己の馬にその主人が騎乗するに足る芳名を授ける所存であった。当初は先人に倣いて《嘗ての自転車ビシカンテ》と名付けるつもりだったところに[訳註:これは西rocín《貧相な老馬ロシン》+ante《以前のアンテ》=Rocinante《嘗ての駄馬ロシナンテ》を範例に取ったものだろう]、一介の郷士ドニャ・キホーテを騎士に任じた件の辺境伯がそれがしに謂いて曰く、《御身のその勇壮にして剛毅な風体、そして神命を帯びし選ばれた武人特有の幽遠なる様は差し詰めオルレアンの聖処女、否、寧ろ自らの名誉と誇りを固守せんが為遥遥極北の大公国より貴族アストルフォを追って推参し、古都バルソビアの外れ險隘なる山間やまあいにて囚われの王子と邂逅せし男装の乙女ロサウラ宛らではないか。然らば劈頭、荒ぶる余り懸崖より滑落せし馬車馬を呼ばわった通り、臆念の意も込めてその御身の愛車、半鷲半馬ヒポグリフと命名されては如何か》――と、図らずも先鞭を付けられてしもうたのだけれども、――これ正に天啓、我が意を得たりとばかりその建議有り難く頂戴したのだ。それがしに敗れ碧落翔ける駿馬を奪われた騎士アストルフォ殿には気の毒じゃが、かのブラダマンテが寵せしフロンティーノ顔負けの足早誇る疾風迅雷の驥足きそくを御する腕なくば、これよりの艱難辛苦も心許ないからな」

 ここまで一気に捲し立てた阿僧祗花は、ひと言も発さず足を動かすことに腐心している千代の返答を待った。[訳註:因みに初章に記された花と謎の騎士との出逢いの場に於いて、彼女の語ったような自転車命名の件は録音されていない。音源に編集が入り該当箇所が削除された可能性も拭えぬものの、多分この挿話自体が花の創作ないし妄想なのであろう]

「あ、そうなんですか。かっこいいですね」

 凡そ生返事レスプエスタ・エバスィーバであったが、その簡明な相槌に気を好くした騎士はこう切り出した。

「時にチヨさん、君の駆るその自転車ビシによもや名などはあるまいな」

「こいつですか」

「遍歴の従者が牽くのは驢馬と相場が決まっておるし、通常驢馬は驢馬であって名前はないもの。尤も早駆けに耐えぬ薄鈍うすのろな馬である故に荷を負い駄馬と呼ばれるよりは、駄獣として生まれその生来の職責を見事果たす驢馬であってこそ幸いなる哉」

「そっちは馬なのに、こっちはロバなんですか?」[訳註:西班牙イスパニアでは口語的に自転車ビシクレータを指して《牝驢ブーラ》と呼ぶことがある。他にも例えばクバやウルグアイでは《牝山羊チーバ》、チレでは《牝豚チャンチャ》等、地域に依って異なる呼び名――但し全てメス――が定着しているという]

「驢馬も捨てたものではないぞチヨさん。古来より《上有龍肉シャン・ヨウ・ロン・ロウ下有驢肉シャア・ヨウ・ロン・ロウ》と謂って、驢馬は亢龍こうりょう則ちドラゴンと肩を並べる神獣なのじゃからな[訳註:この清代の諺を直訳すると《天に龍の肉有り、地には驢馬の肉有り》となり、《天上龙肉ティエンシャン・ロン・ロウ地下驴肉ディーシャ・リュウ・ロウ》とも。これは飽くまで驢馬が食用肉として美味であることを示しているに過ぎず、則ち詭弁である]」花は遥か眼前に連なる山脈アルペスを望んでこう付け加えた。「そもグラン=サン=ベルナールを越える小伍長ル・プティ・カポラルが跨っていたのだって、実際には不整地をものともせぬ驢馬の背なであったと謂うくらいよ」

「へぇ、ヤバイですねロバ。そうですねえ、名前を付けるならなんかかわいいやつで」そう云いながら千代は片手で携帯を操ると、「――あーロバって英語でアスなんだ。アスってケツってことですよね、こりゃダメだ」尚も、液晶画面と進行方向の路上を交互に見遣りながら、「あ、ドンケ……ドンキーか。いいですねドンキー」そう反復して笑うのだった。

「それが男子の名であれば」ドニャ・キホーテはその響きに憮然たる心持ちを禁じ得なかったが、直ぐに気を取り直して家来クリアーダを優しく諌めた。「騎士道史にその名を刻む最後の英雄に通底する誉れを授かったともいえよう……とは云い条、如何せん驢馬の名としては余りパッとせぬ。というのもドンキーとは鈍い馬つまり野呂間のろまのことであるから。《嘗ての芦毛ルシアンテ》若しくは《嘗ての驢馬アスナンテ》、《宣誓フラメント》も悪くはないが矢張りどうせ名付けるなら、ブケファロスとは呼べぬまでもそれなりの嘉名を与えるべきであろうな」[訳註:西rucioは元を辿れば《雫/霧》に由来する単語で一般に動物の灰毛ペラーヘ・グリスを指す。小説『ドン・キホーテ』内でサンチョ・パンサは自身の驢馬をロバと称する代わりに《灰毛のエル・ルーシオ》と呼ぶのを好んだ。西語のasno/burro/jumentoには何れもロバの意味があるが、灰色以外のロバをrucioで表すことも出来る。尚、灰色の馬体に斑模様の付いた芦毛あしげ/葦毛はtordo等と呼ばれる]

「たしかに家名を汚すなとかっていいますからね、あんまりテキトーな名前じゃかわいそうですなあ」千代は何とか適切な名前を捻り出そうと沈思する。「でも亀の甲より年の劫とも謂うし、ロバ改め老婆なんてのも逆にかわいいかもですな」

「年寄りなのかね」

「いやおばあちゃんってほど古くはないですが……おかあさんくらいじゃないですか。つまりこれはただのママチャリ――つって」チャリというのは警音鐘ティンブレ・デ・アラールマを鳴らした際に聴こえる音――charín-charín (tintín)――がそのまま自転車の呼び名へと転化したものだ。若しくは車輪ルエーダを意味するsharinが関係しているとも考えられる。

 適当に答えた千代に対し、思いの外発奮した花はこう云った。

「チャーリーといえばのカロルス・マグヌスに因む堂堂たる雷名ではないか!」

「へ?」

「これはお見逸れした。しかし仮にも母君の号を冠するのであればカルラ、いやシャルルマーニュに肖り……ふむ《フランスの牝狼ロバ・デ・フランシア》がマーガレットならば此方の驢馬はシャルロット若しくはシャーロッテとお呼びしてはどうかな」[訳註:仏Louve de France《仏国の牝狼ルーヴ》と聴いて余人が想起するとしたら、同じ英国に輿入れした王妃でもロレーヌ地方生まれのマルグリット・ダンジューよりは恐らく一世紀前のイザベル・ドゥ・フランスの方だろう]

 千代はチャリをチャーリーと訳した[訳註:羅字綴りのchari>英Charlie]ところまでは何とか理解したものの、その先の人名の変遷にはとても付いていけなかった。それでも終盤の単語は聴き取れたらしく、

「シャルロット……シャル、いいですねそれ」と存外気に入った様子。そのカゴ付き驢馬の、今自分で握っている手綱の中央辺りに向け、「シャルー、シャルルー、今日からお前はシャルロットだよおう」

――そう猫撫で声でコン・ラ・ボス・デ・ガト・アカリシアード呼び掛けたのであった。


雑談により幾分打ち解けたかと思えた千代はここぞとばかりに、

「先輩のお家はこの近くなんですか?」

 と訊ねたが、これはいまだ自分たちが阿僧祗邸を目指しているものと考えていたからである。[訳註:経過した時間を考えれば、恐らくこの時点で彼女たちは既に世田谷区を脱し狛江市内へと進入している。花が本来徒歩通学であったことを安藤先輩か馬場久仁子から聞いてさえいれば、千代がこのような勘違いをすることもなかったであろう]

「そうだな、――」花が後を継いだ。「ひとたび前人未到の秘境へと足を踏み入れたからには、常勝の騎士が故郷に思いを引き摺ることは殊更褒められたことではない。道中出会した叢林の景色などから郷里が胸中に蘇ることはあろう……しかしそれは飽く迄も偶さかのことであるからな」

「はぁ、そうですねえ。ところで私たちはどこへ向かってるんでしょうか」

「そう急くなチヨさん。日が落ちる頃にはそれがしの存意も詳らかになろうて」

「つまびらかになりますかゾンビ」

屍生人ゾンビじゃ爪弾きじゃないかしら?」

「それもそうかしら、もうちょっと前で右折してれば井の頭公園の方にも行けましたかしら――いや嘘だ、全然ちょっとじゃねえわ三十分くらい前だわ……どっちにしてもサイクリングにしちゃ遠すぎすか」

円形低気圧サイクロンにせよ単眼の巨人サイクロプスにせよ、歴遊の旅を始めたからには遠からずお目に掛かることになるじゃろうて……おぬしがそう望むのならな」朗らかな口振りで不吉なことを宣うドニャ・キホーテ。「そうらチヨさん、イベリアの大動脈が見えてきたぞ。眼前に架かるはポンテ・バスコ・ダ・ガマだ」

「タバスコ味とはミスドも攻めますな……じゃあこれが仙川」千代はシャルロッテの鞍から尻を浮かせると前方を窺った。「――仙川こんなでかいはずねえか。さっき何回か橋渡ったしもう通っちゃってますよね多分」

「タホ川を見るのは初めてかな?」

「ああ、多摩川ですね……ってめちゃめちゃ遠くまで来ちゃってるじゃないですか!」

「まだまだ先は長いぞ。この橋自体、渡り終えるまで三レグアはあるのだから」[訳註:これが登戸駅付近の水道橋であった場合、川幅は十分の一レグアに満たない]

「柵状の物[訳註:欄干のことか]見ると無条件で背ダイしたくなる……ううう、まァ勢い余るとさっきの先輩みたくなるわけですが。アレはビビったぞん、こっちが死ぬか思った」

「セダというと絹――」騎士は禿げて金属質の輝きを放つ愛馬の頭部を撫でながら訊き返した。「いやたてがみのことかしら?」[訳註:西sedaは絹、ceda/cerdaは動物に生える剛毛を指す。特に馬の尻尾は提琴ビオリン弓毛アルコとしても利用される]

「あ、背ダイというのはですね……」

 これに続く二時間、朴訥にして隠れ傾き者エスポンターネア・イ・エスコンディダメンテ・エクセントーリカの半坐千代は、俗に《V系ブイケ》と称される日本の揺謡楽団群エスティーロ・デ・バンダス・デ・ロク・エン・ハポン並びにその信奉者セギドーレスについての《いろはアベセダーリオ》から《てにをはプレポスィシオーネス》に至る迄を、つまりこれからふたりが向かう目的地たる戦場と加わる予定の戦闘とは不可分と思しき或る種の薫陶アルグーナス・インストゥルクシオーネスを、主人のドニャ・キホーテに対して授けることになる。

 彼女の振るう教鞭ペダゴヒーアは実に明快でしかも微に入り細を穿つ出来栄えであったが、何分紙幅の都合もあるので此処では省筆する。ただ筆者は《ドゲバン》と呼ばれる、公演中に求められる聴衆の作法(頭部強振動作カベセアールの異形態)に或る種の神秘主義的宗教性アルグン・ミスティシースモ・レリヒオーソを感得し、一方ならぬ関心を抱いたことを付け加えるに留め、以降も必要があればその都度語録アフォリースモスより索引することにしたい。[訳註:では訳者は演奏中に演者や観客自身が観衆の頭上を転がりながら進むという《コロダイ》なる用語の語感が気に入ったことを付け加えるに留めよう]


兎も角千代にとっては甚だ迂闊なことだが、己の生き甲斐ラソン・デ・セールを披瀝することに足の疲労をも忘れるほど夢中となった挙げ句に、甲州街道を真っ直ぐ愚直に西へと進み、立川駅を越えるや南へと折れ曲がった中央鉄道路線リーネア・フェロビアーリア・デル・セントロ踏切パソ・ア・ニベルを渡るまで[訳註:尚、日本旅客鉄道(JR東日本~東海)の中央本線リーネア・プリンシパル・デ・チューオーは東京駅と名古屋駅を結ぶ幹線だが、長野県中部を経由する関係上大きく迂回する必要があるばかりか区間の多くが山岳地帯である為、線路沿いを自転車で走破するという案は実現性が低いだろう]、自分たちが一体どの辺りを走行しているのかに関して全く気を回さなかったのである。

「あれ、日野って何処でしたっけ? 何線でしたっけ?……そろそろ戻った方がいいですかね」と気持ち良さそうな声を発した直後、手元で時刻を確認したとみえる、今度は奇声とも悲鳴とも付かぬ奇矯な音で空気を揺らしながら派手に道路の舗装を削り取るが如き制動を掛けたのであった。

[訳者補遺:恐らく花は一旦世田谷通りまで出て以降、かなり長い間西進し続けたものと思われる。というのも時折千代が口にする通過点の標示から順を追って解釈するに、一行は多摩川を渡るとそのまま川沿いに進路を取り、一路上流を目指した節があるのだ。本来自動車で向かうのならば環八通りの入り口から東名高速に入るだろうし、本気で自転車を使う気にしても矢張り一路南西に舵を取るべきところを、どうも先導する花は巡礼者よろしく出来る限り水平に西を目指したかったのではないかという推測が辛うじて成り立つ。又、甲州街道――都道256号――は日野駅舎の下を潜っている上に、後に合流する国道20号線は跨線橋パソ・スペリオールとなっているのでそもそもどちらも踏切がない。それ以前に音源に耳を澄ませても踏切警報らしき騒音は聴こえてこないことから、この部分は著者の創作と断じて間違いなかろう。但し千代の口から日野という言葉が出ている以上、豊田以南を通過した線も考え難い。となると最も整合性が取れていると思しき経路は、登戸駅手前の橋で渡河し一度神奈川県多摩区に入った後に南岸の沿線通りを南武線立川行に沿う形で進み稲城市へ、南多摩駅西の交差点を右折し再度北岸へ戻り府中市に抜け、即座に左折し多摩川通りと次いで河川敷の舗道を走り国立市を経て立川市へ、多摩単軌鉄道モノライルに行き当たったところで左折し今一度南岸に渡り日野市に入るなり甲州街道に突き当たるまで直進、右折して日野駅東口と中央線の高架橋下に到る……というもので、これなら千代が成り行きで駅名を目にする展開とも辻褄が合う。憶測の域を出ないという点では五十歩百歩であるものの、著者の言うようにそれよりずっと前から、例えば多摩川の北岸に戻って直ぐ甲州街道を選んでいたら主従はそれなりの交通量の中行軍することになった筈だけれど、実際に録音機が拾っているのは排気音ではなくバタバタという風の音ばかりだったのである……それはそうと、これまでの流れからして訳者はてっきり、花が押上の天空樹を巨人と見誤り、千代の制止を振り払って突進するというようなお定まりの活劇が展開されるものと邪推したのだが、あっさり東京都区部を抜け出てしまったものだから存外拍子抜けしてしまった。無論狼藉を働いた直後に駆け付けた警備員の手で取り押さえられることが自明な蛮行をありのまま耳にせねばならぬ心労を考えれば、それ以上に胸を撫で下ろしたことも否定し難い事実だ]

「如何した、吾が永遠のともがらたるチヨさん?[訳註:¡Caramba! ...¿Qué hay, Chiyo-san amiga para siempre?「吃驚した!……何があった?」]」三ペルティカ前後前方でドニャ・キホーテもイポグリフォの手綱を引き、嘶くその愛機を優しく窘めた。

「イカがもタコがも……[訳註:¿Qué hay qué, Sempai? ...¡Hay que ver un calambre de calamar con diez calambrazos!「如何って何です、先輩?……十本足の電気イカのこむら返りを見ることになりますよ(十回もビリビリとイカせる痙攣は必見)!」西calambre《引き攣り》、calamar《烏賊》、brazo《腕》、calambrazo《感電》。従士の何気ない相槌が、今後の伏線としてか大変くどい返答へと変更されている]」戦慄わななく喉元を抑えつつ、シャルロッテママの背に跨った我等が永遠の輩たる千代さんは、「三時間も経っとる」と呟いてから以下に続ける。「ちょ、今引き返さないと、いや今引き返してもですけど、暗くなっちゃいますよ」[訳註:仏語読みのシャルロットも独語のシャルロッテも英語のシャーロットも同じCharlotteであるが、便宜上地の文でこのように正しく綴られた場合は一律に《シャルロッテ》、Charlottは《シャルロット》、Charlotは《シャーロット》と訳出することとした。単純な誤綴なのか、著者の何らかの意図が介在したものなのかは不明。尚、西語圏に於いてCharlot(チャルロ)は喜劇王チャーリー・チャップリンの愛称として知られている]

「――引き返す?」花が呼応するかのように従士の言葉を遮った。

「いや三時間も漕いでたと思ったら一気に腿パンパンになってきた……日野って立川とかの先でしたっけ? チャリって電車乗れたっけかな……」

「馬のまま乗るならツノザメガレオン船であろう」[訳註:西galeón<古希γαλεόςガレオース

「ガレオン線?」千代は復唱した。「そんな小洒落た路線通ってました?……メトロかな?」

「アマディス殿が《胡越こえつ昆弟こんていたり》と腕に覚えある傭兵を駆り集め、新世界ラス・インディアスへの遠征を企図しておられると――先達てそう申したのは他ならぬおぬしではないか」

「インディアンズ……そんなん申しましたっけか?」[訳註:千代が云った「インディーズのバンド」が、花の中で「新天地インディアス分隊バンド」に自動変換されたということ。初章を参照されたい。因みにIndias (Occidentales)《西洋印度(狭義には西インド諸島)》もNueva España《新西班牙/濃毘数般ノビスパン》もイスパニア領時代の米大陸を指すが、一般的に後者は現在の合衆国以南の北米側のみとカリベ海や比島フィリピーナス周辺を支配した副王領ビレイナートを意味する]

「これは些か説示の要がありそうだ」そう云って馬を反転させ千代の前まで戻り来た花は、無い鬚バルバ・イネクスィステンテを擦り擦り、「今宵は彼の八王の落胤が落ち延びたという邑城ゆうじょうに入り、其処にて草鞋わらじを預けようと思うておるのじゃ……尤も、」西に傾いた日輪に向き直ると一拍置いてから更に続けた。「我等の足を覆うこの継接靴エスカルペは鈑金製ではあるがの」[訳註:花の云う《八王》は中国の故事に基づく引用と思われるが、八王子の地名が牛頭天王の八眷属神に由来することと照らし合わせると恐らく直接の関係はないのだろう]

「われらの足をおおってるのはチャンキーのロリ靴とふつうのラバソです」ハァとひとつ嘆息を漏らしてから千代は以下のように加える。「八王子って高尾山のあるところじゃないですか。帰って来れなくなりますよそんな山ん中入ったらあ」

「山とな!」俄に活気付く花。「欲深タカニョの山とは、《小金の山脈シエラ・モネーダ》に劣らず山篭りに最適の、狷介孤高なる響きではないか」[訳註:《黒き山脈スィエラ・モレーナ》はイベリア南部に連なる山岳地帯]

「山篭りするくらいなら引き篭りになった方がナンボかマシっす」

 そう云って斬り捨てた千代さん、あああと呻きながら阿僧祗先輩ほどの脚線美ピエルナス・プレシオーサスには恵まれておるまいその脹脛の辺りを揉みしだき、次いで周囲を見渡した。


まだ日も大分高い。従士は水を取り出して一口呷り、そのまま主人にも勧めた。

「痛み入る」

「そいや朝シュシュクル食ってからうちらって何か食べましたっけ今日」

「道草くらいかしら?」騎士は今にも小休憩デスカンスィートを切り上げたい口振りである。

「線路沿いに進めばもっとでかい、どっか別の駅にすぐ着くんかいな……というかキャリーをチャリの――」一旦云い淀んでから、「シャルちゃんのカゴにブチ込んできちゃった時点で、私も明らかにどうかしてましたけど」と律儀に花の命名に準ずる辺り、どうしてなかなかいじらしいところを聞かせる。「着替えも無駄になるんで、どうせなら一泊くらいアソーギ先輩のお家でお泊りしたいなーとか!」

「んん?」

「――思うですけど! どうでしょう?」

「アマディスの軍勢に参戦して放恣極まる異教徒どもや奸計に長けた魔法使い、更には無辜の良民や上臈の姫君に仇なすプラミダン・デ・タハユンケ顔負けの蛮族の王を一騎駆けで破り、その首級を忠誠の徴として吾が想い姫ドゥルシネーアに捧げるまでは、その方には済まないがそれがしのお家の敷居を跨ぐことも罷りならぬのだ」

「リポビタン・デ・ユンケル皇帝の一気飲みはいいですけど、先輩のお宅はこの近くなんですか?」

「¡Hidalgo!」騎士は天を仰いだ。[訳註:西hidalgo《郷士イダルゴ》とはドン・キホーテの身分たる下級貴族のことだが、ここでは《酒の一気飲み》を意味する墨西哥メーヒコの慣用句。一八一〇年に反植民地政府・反ナポレオンの武装蜂起を指導した《独立の父》ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ神父および有名な流行語すなわち《一滴でも残したチンゲ・ア・ス・奴はテメエのお袋とヤリやがれマードレ・エル・ケ・デヘ・アルゴ》の、Hidalgoとdeje algo《何かを残す》で韻を踏んだもの。結果として反乱軍は大敗、イダルゴも処刑されてしまった一方で、その功績は称えられ(?)西de Hidalgo《イダルゴ流》は乾杯ブリンディスを指す符牒となった]

「まさかチャリ通じゃないですよね」

「――デ・タハユンケは皇帝ではなくキプロスの王だよ」

「キプロスてアフリカですよね。先輩のご実家はキプロスじゃないでしょ」

「キプロスは地中海に浮かぶ島でビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン朝の南方にあるが、チヨさんおぬしはそれがしの名を憶えておるかな?」

「え……アソウギ、ハナ――さんじゃなかったですか違ったらすみません」

「それは仮初めの、謂わば幼名のようなものじゃ。それがしが問うておるのは真の名だよ」

「いや、戸籍を調べないとそこまでは……」

「若年性物忘れはいずれ克服してもらうとして、今一度切り名乗るがそれがしの名はドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャという」

「ああ三茶店ありますよね……あったか?」これまでいい加減な返答をしてきた従者も、今回ばかりは記憶の糸を手繰り寄せようと努めた。「まァ入ったことはないですが……いや駅前のがそれなら買い物してるか……え、先輩ってハーフなんですか?」

「如何にも、父はカルタゴの軍神ハンニバル、母はアッシリアの女傑セミラミスと云えば伝わるかな?」

「伝わりません。世界史で聞いたことありそうな名前ですが、豚に喰われるヤツでしたっけ」

「今でいえばトゥーニス人トゥネシーノイラーク人イラキー混血ミクスタということになるかしら」

「うわあすご――で、何処に住んでるんですか?」

 走行中は歩行者や自動車の往来との加減でそうそう横並びにはなれなかったし、何より付いていくので精一杯だったので、どちらかが一方的に話すことは容易くとも果たしてそれが相手に通じているものかなかなか判断が難しかった。となれば停車している今こそ好機と執拗に喰い下がる半坐家の長女。

「デ・ラ・サンチャ、サンチャ生まれの騎士という意味じゃ」

「サンチャって三軒茶屋ですか」

「そうともいうな」Sangenjayaという地名はSan-ken-cha-yaという四つの漢字で構成され、前半二文字が《三棟の建物トレス・エディフィーシオス》、後半が《茶の家カサ・デ・テ》則ち喫茶店テテリーアを意味する。

「めちゃめちゃ日本じゃないですか!」

「其れ式の差異は瑣末なことだよチヨさん」

「ていうかめちゃめちゃ近所……いやそれの意味するところは逆にこっからだとクソ遠いということなんじゃ」

 人気のない路地かはたまた川の畔か、どの辺りかは判然としないがいずれ線路沿い若しくは高架橋の下なのだろう、騎士は兎も角千代が随分と声を張って喋っていることに驚く。バンギャたる者公演中に絶叫する習性があるようなので、意外と声帯も丈夫なようだ。

「これホーム上ってことだよな……チャリエレベーター乗せられますかね?」

「チヨさん、市境は直ぐ其処だぞ。八王の末裔には謁見せんのか?」

「だって先輩、高尾山なんて小学校の遠足以来登ってないんですよ」

「なら山は今度にしよう」

「ああ、やっぱり中央線ですねオレンジ色」千代は携帯を一旦小脇に挿むと、荷物から財布を取り出して広げた。「え、あたし今いくら持ってんだ……おおい、札が入ってねーよ。ひでーよ、ひでええよ」ヒデヨというのは千円札に肖像を描かれた日本人医師の名だ。彼は黄熱病の研究等で幾度となくノーベル賞候補になった彼の国を代表する高名な細菌学者だったが、アフリカはガーナの地にて本人も病魔に侵され客死したと謂う(尚、若い時分は大層な浪費家デスピリファラドールで、友人から借金を繰り返しては豪遊と遊郭通いで蕩尽する人格破綻者ペルソーナ・ロタだったとのこと)。そして千円といえば日本で流通する紙幣の中で最も額面が小さく、二〇一五年当時の為替相場だと十エウロ足らず。それすらも無いとすると、有料招待状インビタシオン・デ・パゴの清算を済ませた後の彼女は現在素寒貧ニ・プラータ・ニ・ナダという話で、それでどうやって名古屋まで行くつもりだったのかも定かではない。[訳註:本来まだ一週間の猶予があった筈の彼女は、この時まだ資金調達の最中だった]「――あ、でも七百円ちょっとあるから、吉祥寺で乗り換えるルートならギリで足りますね」

「シャルロッテを伴ってでもかね?」

「あ、いや――」液晶画面に顔を戻す千代さん。「そもそもチャリの持ち込みが出来るのか分からないですけど……出来てもタダってこたないか。ちょ、調べてみます――」

「チヨさん!」花が大音声で呼ばわった。

「ハイ!」

「八王の桑都まで同伴するなら、おぬしの生家へと続く路銀はそれがしが工面しよう」

「え、ロギン――ヌス?」

「そればかりか名古屋までの旅費も、従者への給金の一部として捻出するに吝かでない」

「え、え、名古屋までって本当ですか? いやそれは流石に……」そう口籠りながらも口元が綻ぶのを隠せない正直者の千代さん。「えっと新幹線とかじゃなくていいので、深夜バスとかなら片道三千――五千円もあれば余裕だと思いますけど……」

 思いの外厚かましい娘である。

「どうじゃろうな、桑は桑でも桑名やサン・フランシスコまで駆けるのに比べれば桑の都など三歩歩けば辿り着くのじゃないか?……ほれ、三つ股だけに」

「えっと、八王子の駅までならここ真っ直ぐ進めば……」思い出したかのように文明の利器に頼り始める現金な後輩。「一時間は掛からん思いますけど」

 その肩に無言で手を置いた騎士は先を急がんとばかり率先して愛機の鞍に跨がると、拍車を掛けるそのゴスロリ靴サパートス・デ・ロリータ・ゴーティコも軽やかに街道を突き進むのであった。


徐々に西へと傾き始めた陽射しが少女たちの額に容赦なく照り付ける。

「そいや京王線の終点って八王子でしたよねたしか」従士は風を切って先を駆ける騎士の背中に叫び声を投げ掛けた。「駅の中、自転車引いて乗り換え、すんのはツラミがあると、思うんですけど……下高って井の頭の駅でしたっけ?」田舎道ならまだしも、自動車の行き交う公道を走りつつ携帯を操作するわけにもいかない。「どっちが効率的か分かります?」

 だが先行する先輩の耳には届かなかったとみえ、千代は現地に到着するまでこの問題を棚上げすることに甘んじざるを得なかった。

「時に、――」すると今度は巧みに通行人を避けながら歩道へと分け入ったドニャ・キホーテが、従士と並走しながら最前の問答を蒸し返す形で口火を切った。「それがしはその魂は兎も角、この身は正真正銘生粋のラ・サンチャびと[訳註:西sanchega]であるわけだが、チヨさんの眷属も古来より三軒の茶屋の何れかに居を構えてきた一族なのだろうか」

 騎士の出自は元より、その従者の素性とて当然由緒正しき必要があるのだ。

「う~ん物心付いてからは引っ越ししてないし、混じりっけなしの日本人ではありますね」

「父御もラ・サンチャ地方の出でおられるのかな?」

「うち祖父ちゃんが成城なので父親もそうなんじゃないですかねえ」

「母上は?」

「あの人はド田舎ですよ。奈良の山奥。たまに関西弁喋ります」

「幽谷の民というわけか。いいなあ」

「いいのは空気くらいですよ。先輩の魂みたいにどっかの外人の血でも混じってりゃ、マジもう少し垢抜けてると思いますけどね」

「武州と大和では国が違うのではないか」

「はァ……そういう意味じゃあ私もハーフですかね。東京と奈良の」

「何を隠そうこのイポグリフォも半鷲半獅子グリフォン牝馬ハカの合いの子よ」

「じゃあこのシャルロッテも――何すかね、Nスペシャルとロッテ……ロッテンマイヤーさんの愛の結晶という感じでしょうな」

「成程ゲルマンか」

「んでイポグリコとシャルロッテが結婚したら子供はモリーナ・ガッチョ・コボール」

「ふうむティルソ……願わくば淫佚いんいつ僻者ひがものよりも、風車[訳註:西molino]の巨人ヒガンテに出会したいところじゃな」

「出くわすのはヒガンテでも彼岸花でも構いませんが、個人的にはこの口に何か食い物を食わしたいものですわい」

「はっ、こいつは飛んだ美女くわしめが居たものだわい!」騎士は呆れて手綱から両手を離すと天を仰ぎ、馬が勝手に下り坂を駆け下りるに任せつつ以下に続けた。[訳註:仮に花が馬術に長けていたとしても、自転車専用でもない歩道や車道でそのような危険走行をせねばならぬ謂れはないだろう]「食う食われるといえば先刻のあれは何だね?」

「アレ?」

「ほれ豚がどうとか……エリュマントスの猪ならセミラミスじゃのうてアルテミスだろう」

「ああはいはい、お父さんがご馳走を頬張ると豚に変わって……あれ、母親もか?」街路樹に止まった蝉たちの鳴き声が排気音以上に千代の耳を遠くソルダさせたので、自然彼女の連想もより遠くへと飛躍せざるを得ないようであった。「うちの母親も流石にセミをラミったことは無いと思いますけど、……あっそうだでも歯医者で歯の詰め物インレー作ることってあるじゃないですか」

「インレとは月のことじゃて、矢張りアルテミスかな?」

「いやセラミラス[訳註:Cerámiras]の話で合ってます。そんでうちの母親が申しますには銀歯なら全部出してやるけどセラミラス[訳註:陶製セラミクス?]とかアレ何だっけ……ジルコニア?なら半分は来年以降のお年玉から拠出せよとかそういう難題をですね」

「《Boca sin muelas es como molino sin piedra,…》」[訳註:『ドン・キホーテ』第十八章より、《臼歯のない口は石臼のない風車の如きもの》]

「そうそう……はい?」

「《… y en mucho más se ha de estimar un diente que un diamante.》――ジルコニアで代りが務まるのであれば大層安い買い物ではないか」[訳註:《……そして一本のディエンテの価値は一粒の金剛石ディアマンテより遥かに勝る》。風信子石ジルコニアは代表的な模造金剛石ダイヤとして知られる]

「たしかにお陰で今も美味しくご飯がいただけるわけですが、アビエの一件もあってそれ以降ジル貧と成り果てた私の懐は大層安い買い物しか許してくれなくなったわけでございますよ!」

「¡Sin ventura Chiyó!」(訳註:「不憫なチヨ!」と«¡Sin ventura chilló!»則ち「不運にも彼女は叫んだ!」を掛けたものか。西ventura《幸福、好機》)

 こういった、そしてこれに類する無駄話を徒然なるまま続けている内に主従は市街地ソナ・ウルバーナへと踏み入った。


駅前の環状地帯ロトンダから建物を見上げながら意外と大きいすなマス・グランデ・デ・ロ・プレビストなどと宣った千代さん、「ちょっと駅員の人に訊いてきますね」と意気揚々、改札へと続く階段を上がっていった。スペシャルロッテンマイヤー[訳註:«Specharlottenmeier»]の番をしながら待つ花。

「自転車は申し訳ありません折畳み式か分解の出来る物以外は車内への持ち込みできないですね」

「え、あ、はい」

 駅員に一蹴され、意気消沈して階段を下りてきた。

「馬房付きの輸送車は走っていたかね」花は顔をもたげて委細を訊ねる。

 従士は頭を掻き掻き、「いやあふつうに無理でした」と照れ笑いしつつもソンリーエ・ティーミダメンテ――これは日本人の多くが無意識に見せる表情であって特に警戒するには当たらない――、「自転車だけ郵送するとかすごい金掛かりそうですよねえ……ってもまた三十云キロ漕いで帰るっていうのもゾッとしないし、一応京王線?の駅員にもダメ元で訊いてみますか……」などと無い知恵を絞ってみるが、絞って音を上げたのは腹の虫ビチョ・エストーマゴが先であった。「あ――」[訳註:西bichito del estómagoだともう寄生虫パラースィトである]

「やや……地鳴りか。宵鳴きなコカトリスの叫号が如き鳴動であったな」

「いやいや何ですかその5・1サラウンドみたいな壮大な表現は。そういや朝からケーキ一切れしか食ってねえですよ」半時間前にも聞いた科白だ。「つか別に道に生えてる草を食った憶えもないんだが」

「口が減らぬ割に腹は減るのか……ふむ、もう逢魔が刻も近いな。どれ、良宵りょうしょうに人を喰らう罰当たりな魔物どもと干戈を交える前に、ひとつそこらの旅籠タベルナに入り腹拵えでもしようかの」

「あ、ごちそうさまです!」全く以て懐に心強い主人を持ったものである。「でも腹ごしらえなのに食べるなってどういうことですか?」

「ほれ何であったか……深夜に餌を与えると増殖する妖怪があったじゃろう」

「あ、あの映画の――モグモグ……グレムリンだっけ?」

「然様、グレリンもグレムリンも増えて困るは飼い主じゃからな」騎士の記憶違いを指摘すると、クリス・コロンバスの書いた脚本におけるグレムリン(モグワイ)が増殖するのは水を掛けた場合である。夜十二時過ぎに食べ物を与えて起こるのは凶悪化ブルタリサシオン。[訳註:余り噛み合わない会話に追補すると、映画の構想元となったgremlinは機械や計器に誤作動を起こさせる妖怪で、ghrelinとは食欲を増進させることで知られる生体物質オルモーナの一種]

「そいやクレムリンってロシアかどっかのアイスクリンですよね……アイス食べたい」

「クレムリンで腹を膨らませようが釣鐘型骨組クリノリンで尻を膨らませようがおぬしの好きにするがよい」花は駅前一帯を見渡しつつ以下に続けた。「はて、吾がイポグリフォにも水と干し草をやらねばならぬが……厩は何処かな」

「駐輪場地下にあるみたいですよ。あっでも入り口ここじゃねえか」

「少し見て廻るか」ドニャ・キホーテは素気無く愛車に跨ってしまった。

「ちょ」慌ててシャルロッテを急き立て、イポグリフォを追う千代さん。

 終端駅テルミナルの駅前ならば食事処スィーティオ・パラ・コメールに困ることも無い筈だが、この時騎士の念頭にあったと思しき優先度プリオリダに於いて、先ず目指すべきなのが乗り手自身の疲れたピエスよりも主従をここまで運んでくれた馬のパタス休ませるレスタウラール場所であり、況してや従者の腹を満たす為の飯屋レスタウランテなど二の次だったとしても然程驚くには当たらぬであろう。


間もなくして遍歴の新米従者はいやにのんびりとした黄色い声ボス・チジョーナ[訳註:西chillón《キーキーと軋む或いは劈くように甲高い》]を上げた。

「あ、ペンギン」例の店ティエンダ・エン・クエスティオーンに遭遇したのだ。程なく通行人を避けながらのろのろ徐行させていたママチャリを停める。「先輩先輩、八王子にもありましたよ」

「ほう、これは大した城塞アルカサルよ。その名を大厦高楼たいかこうろうに冠しているからには、先代が食指で征服なされた牙城の一所と見える」

「入ってみましょうか……いや、」千代は暫し唸ってから、「チャリ――じゃない、シャルちゃん達パクられるか」などと如何にも小心者染みた不安アンシエダ・イ・コバルディーアを口にした。[訳註:今日日市街地で盗難よりも恐ろしいのは違法駐輪に対する撤去措置である]

「何、訳はないさ。馬泥棒は問答無用で縛り首、自転車泥棒はお涙頂戴と相場が決まっているが、この荒くれときたらその何れに対しても容赦なく眼孔を抉り舌を引き抜くことで応じてみせるだろう。我等が食事を終えて戻った頃には曲者の臓腑を啄みその血を啜っておるところかも知れぬし、然らば改めて干し草と水をやる手間も省けるというもの」そう云って何やらガチャガチャと音を立てていたのから察するに、ドニャ・ハナは悍馬カバージョ・ビブランテイポグリフォと母后レイナ・マードレシャルロッテの車輪に纏めて金鎖か錠前の類いを掛け、信号柱か防護柵バランディージャにでも括り付けたのだとみえる。用意が宜しいムイ・プレパラーダ

 店の中に入った両人の動向は引っ切り無しの店内放送と、千代のあーこれアイ・エステわーこれエー・エスタ、という叫び声ばかりが耳に付いてどうにも要領を得ないのだけれど、どう足掻いたって千代はほぼ一文無しカスィ・スィン・ウン・ドゥーロなのだから、先輩にタカリゴロネーオでもしない限り大したものは購えまい。僅かに階段を何度か昇り降りした様子は聴いて取れた。

 そんな中ほうほうビエン・ビエンと頻りに感嘆の吐息を漏らすドニャ・キホーテの許に、何故か爆笑しながら駆け寄って「先輩先輩これ良くないですか?」と問い掛ける従者の手にあったものが一風変わった雨具ロパ・デ・ジュービアであった。

「シスターのレインコートで尼ガッパ(原註:尼僧の雨衣チュバスケーロ・デ・モンハ)とか超バカじゃないですか?」

「修道女か。いや、この頭巾グリニョンがあれば雨天の野外ミサなどでは重宝するだろうよ」

「そうなんですよ」千代はもう片方の手に持っていた同社製ミスマ・セーリエの《海女ガッパ(原註:潜水婦ブサの雨衣)》も差し出しつつこう添えた。「こっちもアホくさくていいんですけど、実用性ないっていうか。シスターのヤツなら野外の時使えるんですよ! 雨でもコス濡れないし。しかもアマデのミサで尼さんの雨ガッパ(原註:雨用外衣ポンチョ・デ・ジュービア)とかちょー好くないですか?」

 互いが想像している絵面には異同がありそうだが、表面上意志の疎通は滞りないように聴こえる。

「五百円だし買っちゃおっかな~。先輩もライブで一緒に着ませんコレ?」早速今日の帰りの交通費のことは忘れている。というより矢張り奢ってもらうのが前提なのか……「何気に中高生なら許されるノリですよ!――キ、通俗趣味キッチュとかって」

「よかろう。道中の備えは万全たるべきだし、何よりこれからそれがしが救済するだろう幾多のダナエの純潔を多情な主神が姿を変えし篠突く黄金こがねの雨から護る為にも殊の外ソブレ・トード、とどの詰まりはこの手の雨ガッパソブレトドこそ懐に忍ばせておいて如くはなしだ」

「あざます!」主人のお墨付きガランティーアを得た従者は二組を買い物カゴの中へ――ああ、吸血蛭サンギフエーラのような娘だ!「それはそうとそれなんですか?」

 ここで千代は女騎士の掌中に握られた長物に漸く目を留めた。

魔法の手マノ・マヒカ――だよチヨさん。これは思わぬ掘り出し物だぜ?」

「ああ、マジックハンド。ありましたねえそんなの……」魔法の手マジックハンドとは、持ち手マンゴハサミピンサ菱形格子構造エストゥルクトゥーラ・デ・セロシーア[訳註:玩具用ならばあり得るが、一般に流通しているのはより細身の商品であろう]で繋ぎ、引き金エンプニャドーラを握り絞ることにより先端が開閉して対象物を把持するという簡易版機械腕ベルスィオン・スィンプリフィカーダ・デ・ブラーソ・ロボーティコ――所謂いわゆる掴む器具アガラデーラ》のことである。「おっラスイチ?……いや誰が買うんだこんなの」

「それがしは唯一無二の騎士アマディスが打ち倒した悪しき魔法使いの名に因み、この武器を《アルカラウスのアリカテ》と呼ぶこととしよう」

「そいや駅前のカラス(原註:クエルボ)やばかったですな[訳註:八王子駅北口はどちらかといえばムクドリエストルニーノスの大群で有名だそうだが、音源も鳴き声を拾っているわけではないので実際の品種については不明。尤も異同があればその場で花が訂正したであろう]。おっとありがてえありがてえ……」主人の手から恭しく鋏を受け取った千代は、引き金をガチャガチャと鳴らしながらその途方もない魔力トレメンド・ポデール・マーヒコの程を確かめるなどした。「なんかこれ見るとリカちゃん人形思い出すんですよね……なんでだろ」[訳註:アリカーテは西語でalicateと綴るがリカちゃんはLiccaである]

 他には当座の食料を買い込んだ模様――とはいえ流石に遠慮したものか、従士も余り高額な商品に手を出すことだけは控えたようだった。

 花が「遍歴の騎士たるもの、清貧こそ美徳である。古く固くなった麺麭パン一欠と樹の実数粒、そして薄口の煮込みギソか……それが無ければせせらぎを頼りに谷川の畔で膝を折ればよい」などと嘯くものだから、主従は締め括りにパン売り場セクシオン・デ・パナデリーアへと立ち寄った。

 千代は自分が隠しパンエンパレダード[訳註:通常イスパニアでは薄く切った鋳型パンパン・デ・モルデの間に具材を挿んだ物をsándwich、棒状パンバーラ・デ・パンに切れ目を入れた物をbocadillo《小さな一口大ボカディージョ(一口小?)》と呼ぶことが多い。これに対しemparedadoは主に中南米で使われる単語]と値下げ表示エティケータ・デ・レバーハの貼られた弁当のどちらを選択するかで悩んでいたところ、主人の方が――最も一番質素に見える一品を思案した結果――颯爽と箱型モルデの一斤を引き出してカゴに入れる様を視界に入れものだから些か度肝を抜かれてしまった。果実煮メルメラーダ牛酪マンテキージャも要らぬと云う。おまけに飲料の冷蔵什器ムラル・デ・フリーオから選び出したのが鉱泉水アーグア・ミネラルとなれば然しもの中学生も堪らず、「その組み合わせはないですから」と云って乳飲料ベビーダ・ラークテアの入った可塑性樹脂製瓶ボテージャ・プラースティカと交換させた。


さて会計の列で並ぶに際し、先程は衣食を持て成すと豪語した花に実際のところ支払い能力があるのかを、その軽装振り――身包みを剥がした当人こそが千代であったのだけれど――からも訝しく思い始めた従者であったが、ふと主人の腰に掛けられた腰巾着リニョネーラに目が留まると以下のように問うた。

「あれ、先輩そんなの付けてましたっけ」

「イポグリフォの鞍に結わえておったのさ」

「馬の鞍にそんな上手い使い方があったとは!」成る程、今朝方自宅の真ん前で阿僧祗花に出会した際は彼女の奇天烈な扮装にばかり目を奪われていたものだから、自転車の乗鞍に何が付いていたかなどを気に掛ける余裕はとてもじゃないが持ち合わせていなかったというわけだ。「まァ股座またぐらに大事なもん全部収まるんなら一の倉も金の蔵も要らんし、――」

「国を建ててからならいざ知らず、今はまだ蔵を建てるほどの蓄えもないからの」

「ええ、先輩のように胸座むなぐらが薄くてらっしゃってもその代りは充分務まるってもんす……正直いくら同性つっても初対面の相手の前で脱ぐ時は手ブラくらいしてほしかったとこですけど[訳註:前章前半に語られた今朝の脱衣所での話を持ち出しているのだろうが、千代と花が顔を合わせたのは二回目で、この日が初めてではない]、こんな辺境の地まで遠乗りする時まで手ぶらで来られちゃ同行者としちゃ困りもんですからな」列に並ぶラ・サンチャの主従は順番を待ちながらぼんやり前方へと視線を送る。「あれは何て読むんすかね……マジカ?」

「恐らくはマヒカであろう」

「安さに驚き心臓麻痺か?」鼻で笑う従者。「――安倍晋三内閣が」[訳註:安倍式経済論アベノミクスの実体が脱物価下落政策ポリーティカ・アンティデフラシオナーリアだったのも確かとはいえ、年相応に無政治的な千代の口から出るには幾分不相応な駄洒落]

真平まひらにして真平ならざる二対の内角ならばそれ、それがしも一枚持っておるぞ」

 千代は小さな鞄に続き、その中から取り出された薄片ラーミナにも目を瞠らざるを得なかった。

「え、高校生ってクレジットカードとか使えるんですか?」[訳註:即時決済板タルヘータ・デ・デービトならば高校生であっても発行可能だが、海外留学していたわけでもない花が信用支払板タルヘータ・デ・クレーディトを所持しているとしたら、それは本人名義ではなく別の家族の物だったという可能性も僅かに残る]

「チヨさんこれぞ《魔法の板タルヘタ・マヒカ》だよ」[訳註:但し綴りはmajicaではなく西mágica]

「マヒカ?」

女王イサベリーノの(原註:これでは西班牙イスパニアのイサベルか英蘭土イングランドのエリザベスか判断できないので)――もといそなたの言葉を借りるなら、差し詰めマジックカードじゃな」[訳註:つまり「英語に訳すと」ということ]

「マジか」

「尤も《魔法の板切れカルタ・マヒカ》と呼ぶよりは《歌留多手品カルトマヒア》が相応しいがね」[訳註:現金を支払わぬままに商品を購入できてしまう様子を、舞台上の奇術師が無から有を創造するかの如く、或いは見世物の観客同様に店員が騙されてしまったかの如く捉えた表現だろう]

「……マ、ヒか」

末恐ろしい幻想イルスィオン・コン・ウン・フトゥーロ・エストレメセドールである。


屋外に出ると、既に日は傾きかけていた。

「ふむ、見事な残留回教徒様式アルテ・ムデーハルじゃった」

「たしかに。安物買いの銭失いっつっても高いもん買ったらもっと失うわけですし、つまり損か得かでいえばお得の側なんでしょうけども――何代将軍でしたっけムデハルって……ん?どう書くんだムデハル」

「ムネハルならば尾張徳川家の七代目藩主かな、宗教裁判の宗に春夏秋冬の春と書く。おぬしは定めし十代将軍イエハルのことを申しておるのだろう」徳川将軍家の中でも極めて著名な家康や吉宗、そして最後ウールティモの慶喜らであれば日本の中学生なら知っていて当然とはいえ、これが指導者として(良くも悪くもニ・ビエン・ニ・マル)さしたる功績を残しておらぬ家治の名となると記憶していただけでも大したものだ。「――尾張、か」

「買い出しも終わりましたしお次は……あれ、もう駅前戻るんです?」

「何、試し斬り――否、試しばさみをしようと思うてな。そら、折角ラ・サンチャの従士が鵜の目鷹の目駆使して斥候役を務め、――」斥候エクスプロラドーラも何も、騎士と従者は始終行動を共にしていた筈である。「《アルカラウス竟に来れりヤ・バ》と注進してまいったのに敢えてむざむざ見逃す手はなかろうに?」

「カラスは生き物なんだから《在る》じゃなくて《居る》じゃないですか?[訳註:「いっぱい居たんだから《単数形アル・カーラス》じゃなくて《複数形ア・ロス・カーラス》じゃ~」]」千代は畏れ多くも主人の日本語を訂正してから以下に続けた。「それに高枝切りバサミならともかくそれじゃ木の枝まで届かんでしょうよ。いくらマジックつっても如意棒とか金の伸び棒みたく何メートルも伸びやしないと思いますよ?」[訳註:「魔法の杖バストン・マーヒコ溶解した金の延べ棒リンゴーテ・デ・オロ・ディスエルトのように」]

「何を申すか悠長な……《アルカラウスがアルカボーナやリンドラケ、デマゴーレスにディナルダン等等押し並べて邪悪な雁首揃え、各々鵺や絜鉤けっこう屍呑鷲フレスヴェルグ掠め鳥ハルピュイア金翅鳥ガルダといった禍禍しき化け物に姿を変え、地獄の精霊どもを操って八王の臣民を丸ごと籠の虜としている今、八咫烏の加護受けて多頭竜エンドリアーゴの首を一本残らず――》」

「あっちょ、すみません……先輩端っこ行こ端っこ」

「《――斬り落としたドニャ・キホーテともあろう者がこの期に及んで労を惜しみ、見す見す民草が鳥の餌になるのを見物するとは何事か?――今宵こそ奴等を地べたへと引き摺り下ろし、焼き鳥なり手羽先なりにして我等の腹で飼い馴らしてみせませい》と、そう申したのはおぬしではなかったか?」

「申してない申してない!」騎士が約した晩餐の主菜プラート・フエルテが選りに選ってカラス料理――しかも野良烏クエルボス・カジェヘーロス――だったと知った千代さんは、次いで主人の目に一切の冗談を見て取れないのを認めると慌てふためき必死に抗った。「手羽先なんか来週名古屋で食べりゃいいのにわざわざここで毎朝生ゴミ漁ってる連中を食いたかないですって!――それにそうだ、徳川のアレ何だっけ……徳川ツナ缶だかシーチキンだかいうのが――」

「ツナヨシかね?」

「まァそんなようなのですけど当たらずとも遠からす」イポグリフォに跨がろうとするドニャ・キホーテの袖を掴んで引き留めるラ・サンチャの従士。「その将軍が発した鳥類憐れみの令によって江戸中のカラスが天狗になったとか、そんなん日本史で勉強した記憶がありますよ」

「いや、犬公方は大のカラス嫌いだった筈じゃ。何でも紅葉山を散策中に糞を脳天に落とされ憤慨したとかで」慥かに犬の糞なら運が悪くても踏むだけだし気を付けて歩けば避けることも可能だが、空からの奇襲では防ぎようがない。それに地雷なら運が良ければ脚を失うだけで済むけれど、空爆が頭に直撃して生き永らえるのは難しかろう。「尤も何とか手討ちは思い留まり、罪一等減じて島流しに処したらしい――とはいうものの」

「だったら我々もカラスの罪はトイレに流しましょう。《情け容赦ない奴は情けない奴だ》って倫理の先生が言ってた気がしますし、ここはアソーギ先輩の懐の深さを……」半坐千代がこのような茶番ファルサに長々と付き合うのも彼女がそれなりに洒落を解する性格だったカパス・デ・エンテンデール・ブローマスからには違いないものの、そうでもしなければ眼の前の女子高生が今にも本当にカラス狩りカサ・デ・クエルボをおっ始め、終いには夕焼けに染まった西の空よりも尚赤く駅前の歩道を染め上げかねないと、そう妄想させずにはおかぬほどの迫真力ベロスィミリトゥを花が有していたからであることも又、否定し難い事実であった。「あとアレ、《カ~ラ~ス~が群れるのはカラスの勝手でしょ》って滝廉太郎も歌ってるし、その点も含め滝に流して――」

「『七つの子』は野口雨情だろうに!」

 人の波を物ともせず声を荒げた先輩を前にして思わず千代は目を瞑り肩を竦めたが、恐る恐る瞼を開けてみれば存外騎士も納得した風であった。

「然こそ云え、同じカラス――アルカラウスなら」ドニャ・キホーテは無い髭を擦りながら暫く思案すると、徐ろに口を開き以下に続けた。「……よかろう、この場は一切有情いっさいうじょうの教えに免じて奴等の罪も雨に流すとしようじゃないか」

 太陽が沈み始めても気温は一向に下がらず、況してや雨の降る気配など毛ほども無かったとはいえ、アマディスの生まれ変わりレエンカルナシオンが腰に提げた日傘や、一刻も早くその切れ味を確かめたく望んでいるところの悪しき魔術師の宝具が一度振るわれたが最後、ここ八王子の駅前をしとどに濡らすであろう血の雨や、殺戮された親を巣で待つ無数の雛鳥たちが訃報に触れて流す筈の血の涙を目にせずに済んだことは、アマデウスの信者が胸を撫で下ろした理由として充分納得できるものであったし、縦しんば己が惨劇を回避する立役者デランテーラとなった件について彼女が大層誇らしく感じていたとしても、その自己評価は思い上がりだなどと冷笑する口を我々は持たぬであろう。


数ある戦利品の内で千代の見繕った「いつか使うだろうケ・ウサレーモス・エン・アルグン・モメント」ミサ用の衣裳に関しては一先ず彼女の車輪付き鞄マレティン・コン・ルエーダスの中に詰め込まれたし、《アルカラウスの鋏》に至っては相変わらず騎士の手の中でカチャカチャと弄ばれていたので、これ以上馬を休ませていては夜も更けると踏んだふたりはイポグリフォとシャルロッテの手綱を引きつつ、取り敢えずは軽食テンテンピエを取れる場所を探して周辺を彷徨った。

「公園とかありますかねえ。そこらのベンチとかでもいいですが」

 千代さんがパンと菓子類、そして飲み物の入った買い物袋の中を覗きながら花の返答を待つと、騎士はどういうわけか顎をツンと上げて目を閉じ、

「チヨさん、幸先が好いぞ。運命の女神フォルトゥーナはその手に司りしルエダのみならず、われらの車輪すらも幸運の清泉へと誘ってくださるようだ」といつも通り、それらしいようでいて余り内容のない科白を吐いてから、これ見よがしにクンクンと鼻を鳴らしてみせた。

「おっと何か匂いますか?」

 騎士はその千代の問い掛けに対し「こちらじゃ」と、ラ・サンチャの悍馬イポグリフォに付いた一揃いの運命の輪ウン・パル・デ・ルエーダス・デ・フォルトゥーナを嗅覚の赴くまま、女神の力を借りるまでもなく自ら進んで押し進めたのである。


焦らされるまま仕方なく後に付いて歩く我等が田舎従士エスクデーラ・カンペーラの千代さんは、夏休みの黄昏刻にしては人気の少ない路地裏の、駅前の環状地帯や商店街のある通りからは少し外れた、飲み屋や風俗店の林立する区域へと足を踏み入れつつあることに少なからず肝を冷やしながら、もう少し早く引き返してさえいれば、今時分は母親の作る夕餉の湯気を嗅いで唾液を分泌させたり、畳の上に転がって呑気に卑俗な娯楽番組等を視ながら――それこそ早朝の烏のように――ゴミ食コミーダ・バスーラなんぞを頬張ったりしておったものをと己の機転の利かなさを密かに呪っていたが、ギリシャ人エレーノス[訳註:語頭は小文字だが冠詞も無く動詞も単数の活用であることから西helenosではなくHelios《太陽神エーリオス》の書き間違いだろう]がその身を隠し切る前にせめてひとつくらいは空前絶後の冒険に行き当たり、何か武功を上げてから朝焼けを待ちたいと望んでいたドニャ・キホーテからすれば、折しも天賦の才覚で嗅ぎ分けた匂い立つ争いの林檎の種マンサーナ・デ・ラ・ディスコルディアの薫りを、二度に渡って見逃す手などあろう筈がなかった。

「……八王の乱なかりせば、八王子の乱とてあらざらましを」[訳註:西訳では«Si no hubiera ocurrido la rebelión de los ocho reyes, tampoco habría ocurrido la de los ocho príncipes.»――一見すると嘆いているように聴こえるが、畢竟するに中国に於ける八王の乱が史実である以上、今ここでも一騒動起きて然るべきだと手前勝手な期待を掛けているのである]

 四角い建築物と建築物の隙間、狭い小径に落ちた深い陰がその存在をも隠蔽するかのような一角に差し掛かった花は、その中へと進入するでも、況してや通り過ぎるのでもなくただ立ち止まると、耳をそばだてて闇の奥を窺った。

「ん? 誰か居ます?」

シッチス!」

 無神経に話しかけてきた従士を片手で制するや、騎士が暗い通路の中を覗き見ながら、押し出すように差し出したその手をクルリと翻し何かを要求したように感じられたので、無神経なりに神経を使った千代さんは袋の中から(流石に箱パンを齧る場面ではないと思ったのだろう)自分用の惣菜パンオハルドレと飲み物を、ご丁寧にも包装を開け蓋まで外して順番に手渡した。眼光鋭く視線も顔もピクリとも動かさずにそれらを受け取った花は、ムシャムシャニャム・ニャムモグモグノム・ノムゴクゴクゴクリグル・グル・グルプとやりながら、十数歩先で蠢く幾つかの人影を注視し且つ彼等が交わす遣り取りに傾聴する為の集中力を途切れさせることがなかった。

「なんか張り込みしてる刑事みたいですね」

 訳出に協力してくれた日本人に後で確認したところに拠れば――といっても実際に現場で食されているのは印度棗椰子のような豆類を甘く煮た練り物パスタ・デ・フディーア・アスカラーダ・コモ・タマリンドが詰められた丸パンパネシージョと相場が決まっているようなのだが――、犯人を見張っている最中の日本警察の捜査官インベスティガドーレス・デ・ラ・ポリシーア・ハポネーサが食事を摂る場合に見られる伝統的な作法とのことである。[訳註:断定はしていないし、飽くまでも劇作品内に於ける古典的且つ戯画的な演出ディレクシオン・クラースィカ・イ・カリカトゥレースカである旨も併せて説明している]

 千代も好奇心が恐怖心を打ち負かしたとみえて、建物の角から身を乗り出し、花の美貌の下にその剽軽な顔カラ・コーミカをひょっこり並べると、話題の人物たちの様子を覗き見る序でにその会話を盗み聴くことにも成功したようだったが、残念ながら彼女たちの首元に下げられた録音機はその音を拾っていない。従者の囁き声からその光景を想像されたい。

「うわっ、エゲツな……子供相手に。てか女の子じゃないですか」

「不埒にして破廉恥なむくつけき卑劣漢どもの毒手が、芳容を纏う童女の清らなるその身へと今まさに降りかからんとしている!」

「ちょ、声でか……っと待っててください、今通報をば」

そうやって声を押し殺しつつ携帯を突付く千代さんを意に介することもなく、――


「あいや其処な破落戸ごろつきども、」

「な!」これは千代の合いの手インテルヘクシオンである。

幼気いたいけな児女を相手に斯様なる乱暴狼藉、このラ・サンチャの第五元素キンタエセンシア・デ・ラ・サンチャにして剛力無双のドニャ・キホーテが目に止まったことを己が悪運尽きたりと観念するがよい。というのも弱きを助け有漏路うろじに雲霞の如く蔓延る蛆どもに天罰を下すことこそが騎士の正道なれば、これなる非道が罷り通る様を吾が双眸が拱手傍観見過ごそうなどとは微塵も期待できぬ故に、義を見てせざるはゆ――」[訳註:西quintaesenciaとは地上の四元素(水・土・火・空)に含まれない天界を構成する五つ目の要素たる《天素エーテル》のことで、多く《精華、真髄》等と訳出される]

「おい!」

 ここで漸くその《破落戸どもガンベーロス》の一方が遮った。

「……長ぇよ」

 尤もであるティエネ・ラソン。寧ろよくぞここまで騎士の喋るに任せたとその度量にこそ一献ウナ・タシージャ捧げたいところではあるものの、実際は突如顕現した馬上のもとい車上の矢鱈と姿勢と風貌の好い美剣士ベジッシマ・エスパダチーナを前にして呆気に取られたか、又は矢継ぎ早に繰り出される戯言の間隙を突いて小気味よく制止することが出来なかった彼奴ら自身の不覚ブラーダやその才覚の不在ファルタ・デ・タレントこそが問題であったのだから、逐一感じ入る必要もないのだろう。

「あの」これは《幼気な児女アドラーブレ・ニニャ》の声だ。怯えている。

「何なの?」《破落戸ども》の他方が冷めた口調で相方の反応を見た。

「いや、どっかの劇団員じゃね。あ、かわいい」と下から花を覗き込む最初のひとり。それから「何ですか? 逆ナンですか?」と軽口を挿んだ。

誰何すいかされるべきは汝等である。だがその微賤の名は口にするのも烏滸がましいと見えるな。下郎どもの首を斬って載せるにはそれがしの長槍ランサは些か細身であるが、何より――」

「おい、これカメラとか回ってねえよな」

「いやそういうのはヤラセだろ、ガチでタレント特攻させたりしねえから。最近はコンプライアンスとかが……あ、マジかわいい」

「何より、惜しむらくは騎士が決闘として指名できるのは等しく叙任された正統な騎士のみであることで、残念至極ながらこの人倫に悖る非道の徒輩を蹴散らし血祭りに上げる栄誉は、不幸中の幸いにして騎士ではなく、ラ・サンチャのドニャ・キホーテほどではないにせよ果毅にして豪胆なその忠僕たるチヨさんが双腕へと委ねるとしよう」

「はえっ!」これは当然千代の声である。物陰に隠れてこそこそと、警察に電話すべきか駅前の交番に駆け込むべきか逡巡していた彼女にとっては正に青天の霹靂だ。[訳註:著者は本来rayo《稲妻ラジョ》と書くところをrallónとしている。これは西rallo《卸し金ラジョン》に拡大辞の-ónが付いた形で、狩りで使う洋弓銃バジェスタの矢の中でも取り分け大物を狙う際に用いられる発射物を指すとのことだが、それとは別にアンデス地方の方言としては《厄介なラジョン》という形容詞の語義を併記した辞書もある。となると、これが作為でなければ《青天の辟易ラジョン・デル・シエーロ》若しくは《寝耳にミミズ》とでも訳出すべきかもしれない]

「おい、お前!」

「はっ、はび!」不用意な音吐ボサロンが仇となった。主人の蛮勇による火の粉から逃れんと、用心して建物の角に潜んでいたのが水の泡であるエクスプロト・コモ・ブルブーハス

「てめ今の撮ってねえだろうな?」

「え、とって?」

「落ち着けってお前、カメラもガキってそれどんな企画モノだよ」

「山があるってんだから、ついでに落ちも意味もあるんだろうよ!」

「え何言ってんのお前」

「おいてめえそれ寄越せよ!」それとは千代さんが手にしていた携帯のことだ。

 破落戸その一ガンベーロ・ヌーメロ・ウノ魔手マラ・マノが、震えながら無言でことの行方を見詰めている《イタイケな児女ニニャ・プラ》ほどではないにせよ、《イケイケな痴女チカ・プタ》というほどに擦れてはいまい我等が朴直な花娘千代さんの柔肌に迫らんとしたその刹那、電光一閃コモ・ウン・レランパゴ、その魔の手の甲を打擲するは世直しの革命児レボルシナーリア、稀代の女丈夫ドニャ・キホーテその人の、他ならぬ《魔法の手》であった。

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