第3章 如何にして記者が万人を恐懼せしめる伝説の紀聞者となりしか、及び歴戦のドニャ・キホーテが最良の相棒を伴に八王の古都へと繰り出したその顛末を記す条
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第三章
如何にして記者が万人を恐懼せしめる伝説の紀聞者となりしか、及び
歴戦のドニャ・キホーテが最良の相棒を伴に八王の古都へと繰り出したその顛末を記す条
Capítulo III.
Cómo el prosista se convertió en el notador de la leyenda que reverenciarían todos los demás,
y de lo que fue la veterana doña Quijote a la ciudad antígua de los Ocho Reyes con su mejor compañera.
Alzan los nuestros al momento un grito
吾等が軍勢忽焉と雄叫び上げたり
alegre, y no medroso; y gritan: «¡Arma!»
嬉々として怖じ気を知らず、武器持てと
«¡Arma!» resuena todo aquel distrito;
その声四方に木霊せり。仮令その身が
y, aunque mueran, correr quieren al arma.
朽ちようと、武器を取りけり我先に。
[訳註:特に説明はないが、冒頭の詩一連は寓話的長詩『
白扇の如く空を斬り裂き世界を歪める夏の陽射しに脳天を灼かれながら、世田谷某所の自宅を後にした
あれは慥か、
――ダメ・ヤメテ・ペニンポリ。[訳註:Dame Yamete Penimpoli――イスパニア語のカナへの転写法に依っては《ダーメ・ジャメーテ・ペニンポーリ》とも表記できるが、棒引き部分は厳密には強勢であり長音ではない。西Quijote(/kiˈxote/)を《キホテ》ないし《キホ\テ》等と記す代わりに《キホーテ》と書くのと同じ]
本文は至極簡潔で、暫く振りの連絡についての軽い挨拶もお座成りに、「お前は日本語を話せたと記憶しているので、これを解凍して聴いてみろ」という一文で終わっていた。署名も無い。物の三行である。恰も数分前まで路上で駄弁っていた友人が、何かその時言い忘れた他愛もない要件を改めて送って寄越したかのような呆気なさ。
実際には、辛うじてそのアラービア系の姓名――或いは幼少期に何かで読んだ切りの印象的なモーロ人の名――だけ記憶の隅から手繰り寄せることが出来たが、顔すら思い出せない。何処の繋がりで知遇を得たのかも失念している。いずれ
文面の末尾にひとつだけ、関連付けされた
試しにその片方――«dq2015.mp3»――を再生してみる。すると読み込みに十数秒掛けてから開いた窓の下辺部に384:56と表示されたので、一瞬三八五分つまり約六時間半もあるのかと判読した筆者は思わず「
続行すると貧弱な
もう一方の
翌日が
最初の内は道を歩く足音のような、殆ど環境音のみが流れる様相であったが、二分前後我慢して静聴していると、あの玉のような澄み渡った声が筆者の耳に届いた。
「あいや暫く、暫し待たれよ」
そう、本篇の主人公となる阿僧祗花である。
残念ながら筆者の日本語はほぼ独学であり、周辺に日本人の友達が住んでいるわけでも彼の国への留学経験があるわけでもない。観光で旅行したことがある程度で[訳註:訳者が留学していた時点では未渡航だった筈なので、この記述が事実なら後日遥々訪日した際にも友人たる訳者には連絡を寄越さなかったことになる]、長期滞在の経験すらない。日頃はといえば、精々が映画や
とはいえ繰り返し聴き直せば概ね内容が掴めるし、一字一句書き留めることも出来る。十秒戻しを三度四度、その都度一時停止して日本語のカナ文字で記録していく。しかしそれが通用したのはもう一方の音源、半坐千代の方の三百八十時間だけで、阿僧祇嬢の話す言葉はそれこそ九割方が理解の範疇外であった。
尤も実際には二人分の七百時間超、ずっと傾聴に勤しんでいたわけでもなく、ふたりの旅が始まってからはほぼ四六時中同じ内容が録音されていたし、睡眠中と思われる時間帯は適宜飛ばしつつ再生したので、ひと月と少しで(ほぼ)全ての科白を書き起こすことが出来た。そしてそれをイスパニア語に翻訳するのに更に
睡眠不足で本業には差し支えたが、一応の達成感と共に作業を終えた。一応、元の音源と翻訳文を記憶装置に落として、嘗てこちらに留学していた際に世話を焼いた日本人の友人の住所を引っ張り出し、「
約ひと月後、電書にて校正済みの
その友人は最後までこの資料が
閑話休題。
ドニャ・キホーテとその従者チヨさんを載せた二台の自転車は、当面何処を目指しているかは判らぬものの、
沈黙に耐えかねたか、千代が漸う口を開いたのは彼女らが半坐宅を発ってから半時間ほどもしてからであった。
「か……っこいい自転車ですよね」
息が上がっている。花の方には呼吸が乱れた様子もないが、心肺能力に優れ馬術にも長けた主人に付いていく為に、従者の方は大分踏ん張って踏板を回していたのだろう。
「吾が無二の妹たるチヨさん、」花が夭々と答える。
「ありがとうございます」と千代。
「此れなる吾が愛馬、今は亡き父より譲り受けし逸物であるが、その名をイポグリフォという。そもそも冒険に出る手始めとしてそれがしは己の馬にその主人が騎乗するに足る芳名を授ける所存であった。当初は先人に倣いて《
ここまで一気に捲し立てた阿僧祗花は、ひと言も発さず足を動かすことに腐心している千代の返答を待った。[訳註:因みに初章に記された花と謎の騎士との出逢いの場に於いて、彼女の語ったような自転車命名の件は録音されていない。音源に編集が入り該当箇所が削除された可能性も拭えぬものの、多分この挿話自体が花の創作ないし妄想なのであろう]
「あ、そうなんですか。かっこいいですね」
凡そ
「時にチヨさん、君の駆るその
「こいつですか」
「遍歴の従者が牽くのは驢馬と相場が決まっておるし、通常驢馬は驢馬であって名前はないもの。尤も早駆けに耐えぬ
「そっちは馬なのに、こっちはロバなんですか?」[訳註:
「驢馬も捨てたものではないぞチヨさん。古来より《
「へぇ、ヤバイですねロバ。そうですねえ、名前を付けるならなんかかわいいやつで」そう云いながら千代は片手で携帯を操ると、「――あーロバって英語でアスなんだ。アスってケツってことですよね、こりゃダメだ」尚も、液晶画面と進行方向の路上を交互に見遣りながら、「あ、ドンケ……ドンキーか。いいですねドンキー」そう反復して笑うのだった。
「それが男子の名であれば」ドニャ・キホーテはその響きに憮然たる心持ちを禁じ得なかったが、直ぐに気を取り直して
「たしかに家名を汚すなとかっていいますからね、あんまりテキトーな名前じゃかわいそうですなあ」千代は何とか適切な名前を捻り出そうと沈思する。「でも亀の甲より年の劫とも謂うし、ロバ改め老婆なんてのも逆にかわいいかもですな」
「年寄りなのかね」
「いやおばあちゃんってほど古くはないですが……おかあさんくらいじゃないですか。つまりこれはただのママチャリ――つって」チャリというのは
適当に答えた千代に対し、思いの外発奮した花はこう云った。
「チャーリーといえば
「へ?」
「これはお見逸れした。しかし仮にも母君の号を冠するのであればカルラ、いやシャルルマーニュに肖り……ふむ《フランスの
千代はチャリをチャーリーと訳した[訳註:羅字綴りのchari>英Charlie]ところまでは何とか理解したものの、その先の人名の変遷にはとても付いていけなかった。それでも終盤の単語は聴き取れたらしく、
「シャルロット……シャル、いいですねそれ」と存外気に入った様子。そのカゴ付き驢馬の、今自分で握っている手綱の中央辺りに向け、「シャルー、シャルルー、今日からお前はシャルロットだよおう」
――
雑談により幾分打ち解けたかと思えた千代はここぞとばかりに、
「先輩のお家はこの近くなんですか?」
と訊ねたが、これはいまだ自分たちが阿僧祗邸を目指しているものと考えていたからである。[訳註:経過した時間を考えれば、恐らくこの時点で彼女たちは既に世田谷区を脱し狛江市内へと進入している。花が本来徒歩通学であったことを安藤先輩か馬場久仁子から聞いてさえいれば、千代がこのような勘違いをすることもなかったであろう]
「そうだな、――」花が後を継いだ。「ひとたび前人未到の秘境へと足を踏み入れたからには、常勝の騎士が故郷に思いを引き摺ることは殊更褒められたことではない。道中出会した叢林の景色などから郷里が胸中に蘇ることはあろう……しかしそれは飽く迄も偶さかのことであるからな」
「はぁ、そうですねえ。ところで私たちはどこへ向かってるんでしょうか」
「そう急くなチヨさん。日が落ちる頃にはそれがしの存意も詳らかになろうて」
「つまびらかになりますかゾンビ」
「
「それもそうかしら、もうちょっと前で右折してれば井の頭公園の方にも行けましたかしら――いや嘘だ、全然ちょっとじゃねえわ三十分くらい前だわ……どっちにしてもサイクリングにしちゃ遠すぎすか」
「
「タバスコ味とはミスドも攻めますな……じゃあこれが仙川」千代はシャルロッテの鞍から尻を浮かせると前方を窺った。「――仙川こんなでかいはずねえか。さっき何回か橋渡ったしもう通っちゃってますよね多分」
「タホ川を見るのは初めてかな?」
「ああ、多摩川ですね……ってめちゃめちゃ遠くまで来ちゃってるじゃないですか!」
「まだまだ先は長いぞ。この橋自体、渡り終えるまで三レグアはあるのだから」[訳註:これが登戸駅付近の水道橋であった場合、川幅は十分の一レグアに満たない]
「柵状の物[訳註:欄干のことか]見ると無条件で背ダイしたくなる……ううう、まァ勢い余るとさっきの先輩みたくなるわけですが。アレはビビったぞん、こっちが死ぬか思った」
「セダというと絹――」騎士は禿げて金属質の輝きを放つ愛馬の頭部を撫でながら訊き返した。「いや
「あ、背ダイというのはですね……」
これに続く二時間、
彼女の振るう
兎も角千代にとっては甚だ迂闊なことだが、己の
「あれ、日野って何処でしたっけ? 何線でしたっけ?……そろそろ戻った方がいいですかね」と気持ち良さそうな声を発した直後、手元で時刻を確認したとみえる、今度は奇声とも悲鳴とも付かぬ奇矯な音で空気を揺らしながら派手に道路の舗装を削り取るが如き制動を掛けたのであった。
[訳者補遺:恐らく花は一旦世田谷通りまで出て以降、かなり長い間西進し続けたものと思われる。というのも時折千代が口にする通過点の標示から順を追って解釈するに、一行は多摩川を渡るとそのまま川沿いに進路を取り、一路上流を目指した節があるのだ。本来自動車で向かうのならば環八通りの入り口から東名高速に入るだろうし、本気で自転車を使う気にしても矢張り一路南西に舵を取るべきところを、どうも先導する花は巡礼者よろしく出来る限り水平に西を目指したかったのではないかという推測が辛うじて成り立つ。又、甲州街道――都道256号――は日野駅舎の下を潜っている上に、後に合流する国道20号線は
「如何した、吾が永遠の
「イカがもタコがも……[訳註:¿Qué hay qué, Sempai? ...¡Hay que ver un calambre de calamar con diez calambrazos!「如何って何です、先輩?……十本足の電気イカのこむら返りを見ることになりますよ(十回もビリビリとイカせる痙攣は必見)!」西calambre《引き攣り》、calamar《烏賊》、brazo《腕》、calambrazo《感電》。従士の何気ない相槌が、今後の伏線としてか大変くどい返答へと変更されている]」
「――引き返す?」花が呼応するかのように従士の言葉を遮った。
「いや三時間も漕いでたと思ったら一気に腿パンパンになってきた……日野って立川とかの先でしたっけ? チャリって電車乗れたっけかな……」
「馬のまま乗るなら
「ガレオン線?」千代は復唱した。「そんな小洒落た路線通ってました?……メトロかな?」
「アマディス殿が《
「インディアンズ……そんなん申しましたっけか?」[訳註:千代が云った「インディーズのバンド」が、花の中で「
「これは些か説示の要がありそうだ」そう云って馬を反転させ千代の前まで戻り来た花は、
「われらの足をおおってるのはチャンキーのロリ靴とふつうのラバソです」ハァとひとつ嘆息を漏らしてから千代は以下のように加える。「八王子って高尾山のあるところじゃないですか。帰って来れなくなりますよそんな山ん中入ったらあ」
「山とな!」俄に活気付く花。「
「山篭りするくらいなら引き篭りになった方がナンボかマシっす」
そう云って斬り捨てた千代さん、あああと呻きながら阿僧祗先輩ほどの
まだ日も大分高い。従士は水を取り出して一口呷り、そのまま主人にも勧めた。
「痛み入る」
「そいや朝シュシュクル食ってからうちらって何か食べましたっけ今日」
「道草くらいかしら?」騎士は今にも
「線路沿いに進めばもっとでかい、どっか別の駅にすぐ着くんかいな……というかキャリーをチャリの――」一旦云い淀んでから、「シャルちゃんのカゴにブチ込んできちゃった時点で、私も明らかにどうかしてましたけど」と律儀に花の命名に準ずる辺り、どうしてなかなかいじらしいところを聞かせる。「着替えも無駄になるんで、どうせなら一泊くらいアソーギ先輩のお家でお泊りしたいなーとか!」
「んん?」
「――思うですけど! どうでしょう?」
「アマディスの軍勢に参戦して放恣極まる異教徒どもや奸計に長けた魔法使い、更には無辜の良民や上臈の姫君に仇なすプラミダン・デ・タハユンケ顔負けの蛮族の王を一騎駆けで破り、その首級を忠誠の徴として吾が想い姫ドゥルシネーアに捧げるまでは、その方には済まないがそれがしのお家の敷居を跨ぐことも罷りならぬのだ」
「リポビタン・デ・ユンケル皇帝の一気飲みはいいですけど、先輩のお宅はこの近くなんですか?」
「¡Hidalgo!」騎士は天を仰いだ。[訳註:西hidalgo《
「まさかチャリ通じゃないですよね」
「――デ・タハユンケは皇帝ではなくキプロスの王だよ」
「キプロスてアフリカですよね。先輩のご実家はキプロスじゃないでしょ」
「キプロスは地中海に浮かぶ島でビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン朝の南方にあるが、チヨさんおぬしはそれがしの名を憶えておるかな?」
「え……アソウギ、ハナ――さんじゃなかったですか違ったらすみません」
「それは仮初めの、謂わば幼名のようなものじゃ。それがしが問うておるのは真の名だよ」
「いや、戸籍を調べないとそこまでは……」
「若年性物忘れはいずれ克服してもらうとして、今一度切り名乗るがそれがしの名はドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャという」
「ああ三茶店ありますよね……あったか?」これまでいい加減な返答をしてきた従者も、今回ばかりは記憶の糸を手繰り寄せようと努めた。「まァ入ったことはないですが……いや駅前のがそれなら買い物してるか……え、先輩ってハーフなんですか?」
「如何にも、父はカルタゴの軍神ハンニバル、母はアッシリアの女傑セミラミスと云えば伝わるかな?」
「伝わりません。世界史で聞いたことありそうな名前ですが、豚に喰われるヤツでしたっけ」
「今でいえば
「うわあすご――で、何処に住んでるんですか?」
走行中は歩行者や自動車の往来との加減でそうそう横並びにはなれなかったし、何より付いていくので精一杯だったので、どちらかが一方的に話すことは容易くとも果たしてそれが相手に通じているものかなかなか判断が難しかった。となれば停車している今こそ好機と執拗に喰い下がる半坐家の長女。
「デ・ラ・サンチャ、サンチャ生まれの騎士という意味じゃ」
「サンチャって三軒茶屋ですか」
「そうともいうな」Sangenjayaという地名はSan-ken-cha-yaという四つの漢字で構成され、前半二文字が《
「めちゃめちゃ日本じゃないですか!」
「其れ式の差異は瑣末なことだよチヨさん」
「ていうかめちゃめちゃ近所……いやそれの意味するところは逆にこっからだとクソ遠いということなんじゃ」
人気のない路地かはたまた川の畔か、どの辺りかは判然としないがいずれ線路沿い若しくは高架橋の下なのだろう、騎士は兎も角千代が随分と声を張って喋っていることに驚く。バンギャたる者公演中に絶叫する習性があるようなので、意外と声帯も丈夫なようだ。
「これホーム上ってことだよな……チャリエレベーター乗せられますかね?」
「チヨさん、市境は直ぐ其処だぞ。八王の末裔には謁見せんのか?」
「だって先輩、高尾山なんて小学校の遠足以来登ってないんですよ」
「なら山は今度にしよう」
「ああ、やっぱり中央線ですねオレンジ色」千代は携帯を一旦小脇に挿むと、荷物から財布を取り出して広げた。「え、あたし今いくら持ってんだ……おおい、札が入ってねーよ。ひでーよ、ひでええよ」ヒデヨというのは千円札に肖像を描かれた日本人医師の名だ。彼は黄熱病の研究等で幾度となくノーベル賞候補になった彼の国を代表する高名な細菌学者だったが、アフリカはガーナの地にて本人も病魔に侵され客死したと謂う(尚、若い時分は大層な
「シャルロッテを伴ってでもかね?」
「あ、いや――」液晶画面に顔を戻す千代さん。「そもそもチャリの持ち込みが出来るのか分からないですけど……出来てもタダってこたないか。ちょ、調べてみます――」
「チヨさん!」花が大音声で呼ばわった。
「ハイ!」
「八王の桑都まで同伴するなら、おぬしの生家へと続く路銀はそれがしが工面しよう」
「え、ロギン――ヌス?」
「そればかりか名古屋までの旅費も、従者への給金の一部として捻出するに吝かでない」
「え、え、名古屋までって本当ですか? いやそれは流石に……」そう口籠りながらも口元が綻ぶのを隠せない正直者の千代さん。「えっと新幹線とかじゃなくていいので、深夜バスとかなら片道三千――五千円もあれば余裕だと思いますけど……」
思いの外厚かましい娘である。
「どうじゃろうな、桑は桑でも桑名やサン・フランシスコまで駆けるのに比べれば桑の都など三歩歩けば辿り着くのじゃないか?……ほれ、三つ股だけに」
「えっと、八王子の駅までならここ真っ直ぐ進めば……」思い出したかのように文明の利器に頼り始める現金な後輩。「一時間は掛からん思いますけど」
その肩に無言で手を置いた騎士は先を急がんとばかり率先して愛機の鞍に跨がると、拍車を掛けるその
徐々に西へと傾き始めた陽射しが少女たちの額に容赦なく照り付ける。
「そいや京王線の終点って八王子でしたよねたしか」従士は風を切って先を駆ける騎士の背中に叫び声を投げ掛けた。「駅の中、自転車引いて乗り換え、すんのはツラミがあると、思うんですけど……下高って井の頭の駅でしたっけ?」田舎道ならまだしも、自動車の行き交う公道を走りつつ携帯を操作するわけにもいかない。「どっちが効率的か分かります?」
だが先行する先輩の耳には届かなかったとみえ、千代は現地に到着するまでこの問題を棚上げすることに甘んじざるを得なかった。
「時に、――」すると今度は巧みに通行人を避けながら歩道へと分け入ったドニャ・キホーテが、従士と並走しながら最前の問答を蒸し返す形で口火を切った。「それがしはその魂は兎も角、この身は正真正銘生粋のラ・サンチャ
騎士の出自は元より、その従者の素性とて当然由緒正しき必要があるのだ。
「う~ん物心付いてからは引っ越ししてないし、混じりっけなしの日本人ではありますね」
「父御もラ・サンチャ地方の出でおられるのかな?」
「うち祖父ちゃんが成城なので父親もそうなんじゃないですかねえ」
「母上は?」
「あの人はド田舎ですよ。奈良の山奥。たまに関西弁喋ります」
「幽谷の民というわけか。いいなあ」
「いいのは空気くらいですよ。先輩の魂みたいにどっかの外人の血でも混じってりゃ、マジもう少し垢抜けてると思いますけどね」
「武州と大和では国が違うのではないか」
「はァ……そういう意味じゃあ私もハーフですかね。東京と奈良の」
「何を隠そうこのイポグリフォも
「じゃあこのシャルロッテも――何すかね、Nスペシャルとロッテ……ロッテンマイヤーさんの愛の結晶という感じでしょうな」
「成程ゲルマンか」
「んでイポグリコとシャルロッテが結婚したら子供はモリーナ・ガッチョ・コボール」
「ふうむティルソ……願わくば
「出くわすのはヒガンテでも彼岸花でも構いませんが、個人的にはこの口に何か食い物を食わしたいものですわい」
「はっ、こいつは飛んだ
「アレ?」
「ほれ豚がどうとか……エリュマントスの猪ならセミラミスじゃのうてアルテミスだろう」
「ああはいはい、お父さんがご馳走を頬張ると豚に変わって……あれ、母親もか?」街路樹に止まった蝉たちの鳴き声が排気音以上に千代の
「インレとは月のことじゃて、矢張りアルテミスかな?」
「いやセラミラス[訳註:Cerámiras]の話で合ってます。そんでうちの母親が申しますには銀歯なら全部出してやるけどセラミラス[訳註:
「《Boca sin muelas es como molino sin piedra,…》」[訳註:『ドン・キホーテ』第十八章より、《臼歯のない口は石臼のない風車の如きもの》]
「そうそう……はい?」
「《… y en mucho más se ha de estimar un diente que un diamante.》――ジルコニアで代りが務まるのであれば大層安い買い物ではないか」[訳註:《……そして一本の
「たしかにお陰で今も美味しくご飯がいただけるわけですが、アビエの一件もあってそれ以降ジル貧と成り果てた私の懐は大層安い買い物しか許してくれなくなったわけでございますよ!」
「¡Sin ventura Chiyó!」(訳註:「不憫なチヨ!」と«¡Sin ventura chilló!»則ち「不運にも彼女は叫んだ!」を掛けたものか。西ventura《幸福、好機》)
こういった、そしてこれに類する無駄話を徒然なるまま続けている内に主従は
駅前の
「自転車は申し訳ありません折畳み式か分解の出来る物以外は車内への持ち込みできないですね」
「え、あ、はい」
駅員に一蹴され、意気消沈して階段を下りてきた。
「馬房付きの輸送車は走っていたかね」花は顔をもたげて委細を訊ねる。
従士は頭を掻き掻き、「いやあふつうに無理でした」と
「やや……地鳴りか。宵鳴きなコカトリスの叫号が如き鳴動であったな」
「いやいや何ですかその5・1サラウンドみたいな壮大な表現は。そういや朝からケーキ一切れしか食ってねえですよ」半時間前にも聞いた科白だ。「つか別に道に生えてる草を食った憶えもないんだが」
「口が減らぬ割に腹は減るのか……ふむ、もう逢魔が刻も近いな。どれ、
「あ、ごちそうさまです!」全く以て懐に心強い主人を持ったものである。「でも腹ごしらえなのに食べるなってどういうことですか?」
「ほれ何であったか……深夜に餌を与えると増殖する妖怪があったじゃろう」
「あ、あの映画の――モグモグ……グレムリンだっけ?」
「然様、グレリンもグレムリンも増えて困るは飼い主じゃからな」騎士の記憶違いを指摘すると、クリス・コロンバスの書いた脚本におけるグレムリン(モグワイ)が増殖するのは水を掛けた場合である。夜十二時過ぎに食べ物を与えて起こるのは
「そいやクレムリンってロシアかどっかのアイスクリンですよね……アイス食べたい」
「クレムリンで腹を膨らませようが
「駐輪場地下にあるみたいですよ。あっでも入り口ここじゃねえか」
「少し見て廻るか」ドニャ・キホーテは素気無く愛車に跨ってしまった。
「ちょ」慌ててシャルロッテを急き立て、イポグリフォを追う千代さん。
間もなくして遍歴の新米従者はいやにのんびりとした
「あ、ペンギン」
「ほう、これは大した
「入ってみましょうか……いや、」千代は暫し唸ってから、「チャリ――じゃない、シャルちゃん達パクられるか」などと如何にも
「何、訳はないさ。馬泥棒は問答無用で縛り首、自転車泥棒はお涙頂戴と相場が決まっているが、この荒くれときたらその何れに対しても容赦なく眼孔を抉り舌を引き抜くことで応じてみせるだろう。我等が食事を終えて戻った頃には曲者の臓腑を啄みその血を啜っておるところかも知れぬし、然らば改めて干し草と水をやる手間も省けるというもの」そう云って何やらガチャガチャと音を立てていたのから察するに、ドニャ・ハナは
店の中に入った両人の動向は引っ切り無しの店内放送と、千代の
そんな中
「シスターのレインコートで尼ガッパ(原註:
「修道女か。いや、この
「そうなんですよ」千代はもう片方の手に持っていた
互いが想像している絵面には異同がありそうだが、表面上意志の疎通は滞りないように聴こえる。
「五百円だし買っちゃおっかな~。先輩もライブで一緒に着ませんコレ?」早速今日の帰りの交通費のことは忘れている。というより矢張り奢ってもらうのが前提なのか……「何気に中高生なら許されるノリですよ!――キ、
「よかろう。道中の備えは万全たるべきだし、何よりこれからそれがしが救済するだろう幾多のダナエの純潔を多情な主神が姿を変えし篠突く
「あざます!」主人の
ここで千代は女騎士の掌中に握られた長物に漸く目を留めた。
「
「ああ、マジックハンド。ありましたねえそんなの……」
「それがしは唯一無二の騎士アマディスが打ち倒した悪しき魔法使いの名に因み、この武器を《アルカラウスの
「そいや駅前のカラス(原註:
他には当座の食料を買い込んだ模様――とはいえ流石に遠慮したものか、従士も余り高額な商品に手を出すことだけは控えたようだった。
花が「遍歴の騎士たるもの、清貧こそ美徳である。古く固くなった
千代は自分が
さて会計の列で並ぶに際し、先程は衣食を持て成すと豪語した花に実際のところ支払い能力があるのかを、その軽装振り――身包みを剥がした当人こそが千代であったのだけれど――からも訝しく思い始めた従者であったが、ふと主人の腰に掛けられた
「あれ、先輩そんなの付けてましたっけ」
「イポグリフォの鞍に結わえておったのさ」
「馬の鞍にそんな上手い使い方があったとは!」成る程、今朝方自宅の真ん前で阿僧祗花に出会した際は彼女の奇天烈な扮装にばかり目を奪われていたものだから、自転車の乗鞍に何が付いていたかなどを気に掛ける余裕はとてもじゃないが持ち合わせていなかったというわけだ。「まァ
「国を建ててからならいざ知らず、今はまだ蔵を建てるほどの蓄えもないからの」
「ええ、先輩のように
「恐らくはマヒカであろう」
「安さに驚き心臓麻痺か?」鼻で笑う従者。「――安倍晋三内閣が」[訳註:
「
千代は小さな鞄に続き、その中から取り出された
「え、高校生ってクレジットカードとか使えるんですか?」[訳註:
「チヨさんこれぞ《
「マヒカ?」
「
「マジか」
「尤も《
「……マ、ヒか」
屋外に出ると、既に日は傾きかけていた。
「ふむ、見事な
「たしかに。安物買いの銭失いっつっても高いもん買ったらもっと失うわけですし、つまり損か得かでいえばお得の側なんでしょうけども――何代将軍でしたっけムデハルって……ん?どう書くんだムデハル」
「ムネハルならば尾張徳川家の七代目藩主かな、宗教裁判の宗に春夏秋冬の春と書く。おぬしは定めし十代将軍イエハルのことを申しておるのだろう」徳川将軍家の中でも極めて著名な家康や吉宗、そして
「買い出しも終わりましたしお次は……あれ、もう駅前戻るんです?」
「何、試し斬り――否、試し
「カラスは生き物なんだから《在る》じゃなくて《居る》じゃないですか?[訳註:「いっぱい居たんだから《
「何を申すか悠長な……《アルカラウスがアルカボーナやリンドラケ、デマゴーレスにディナルダン等等押し並べて邪悪な雁首揃え、各々鵺や
「あっちょ、すみません……先輩端っこ行こ端っこ」
「《――斬り落としたドニャ・キホーテともあろう者がこの期に及んで労を惜しみ、見す見す民草が鳥の餌になるのを見物するとは何事か?――今宵こそ奴等を地べたへと引き摺り下ろし、焼き鳥なり手羽先なりにして我等の腹で飼い馴らしてみせませい》と、そう申したのはおぬしではなかったか?」
「申してない申してない!」騎士が約した晩餐の
「ツナヨシかね?」
「まァそんなようなのですけど当たらずとも遠からす」イポグリフォに跨がろうとするドニャ・キホーテの袖を掴んで引き留めるラ・サンチャの従士。「その将軍が発した鳥類憐れみの令によって江戸中のカラスが天狗になったとか、そんなん日本史で勉強した記憶がありますよ」
「いや、犬公方は大のカラス嫌いだった筈じゃ。何でも紅葉山を散策中に糞を脳天に落とされ憤慨したとかで」慥かに犬の糞なら運が悪くても踏むだけだし気を付けて歩けば避けることも可能だが、空からの奇襲では防ぎようがない。それに地雷なら運が良ければ脚を失うだけで済むけれど、空爆が頭に直撃して生き永らえるのは難しかろう。「尤も何とか手討ちは思い留まり、罪一等減じて島流しに処したらしい――とはいうものの」
「だったら我々もカラスの罪はトイレに流しましょう。《情け容赦ない奴は情けない奴だ》って倫理の先生が言ってた気がしますし、ここはアソーギ先輩の懐の深さを……」半坐千代がこのような
「『七つの子』は野口雨情だろうに!」
人の波を物ともせず声を荒げた先輩を前にして思わず千代は目を瞑り肩を竦めたが、恐る恐る瞼を開けてみれば存外騎士も納得した風であった。
「然こそ云え、同じカラス――アルカラウスなら」ドニャ・キホーテは無い髭を擦りながら暫く思案すると、徐ろに口を開き以下に続けた。「……よかろう、この場は
太陽が沈み始めても気温は一向に下がらず、況してや雨の降る気配など毛ほども無かったとはいえ、アマディスの
数ある戦利品の内で千代の見繕った「
「公園とかありますかねえ。そこらのベンチとかでもいいですが」
千代さんがパンと菓子類、そして飲み物の入った買い物袋の中を覗きながら花の返答を待つと、騎士はどういうわけか顎をツンと上げて目を閉じ、
「チヨさん、幸先が好いぞ。
「おっと何か匂いますか?」
騎士はその千代の問い掛けに対し「こちらじゃ」と、ラ・サンチャの悍馬イポグリフォに付いた
焦らされるまま仕方なく後に付いて歩く我等が
「……八王の乱なかりせば、八王子の乱とてあらざらましを」[訳註:西訳では«Si no hubiera ocurrido la rebelión de los ocho reyes, tampoco habría ocurrido la de los ocho príncipes.»――一見すると嘆いているように聴こえるが、畢竟するに中国に於ける八王の乱が史実である以上、今ここでも一騒動起きて然るべきだと手前勝手な期待を掛けているのである]
四角い建築物と建築物の隙間、狭い小径に落ちた深い陰がその存在をも隠蔽するかのような一角に差し掛かった花は、その中へと進入するでも、況してや通り過ぎるのでもなくただ立ち止まると、耳を
「ん? 誰か居ます?」
「
無神経に話しかけてきた従士を片手で制するや、騎士が暗い通路の中を覗き見ながら、押し出すように差し出したその手をクルリと翻し何かを要求したように感じられたので、無神経なりに神経を使った千代さんは袋の中から(流石に箱パンを齧る場面ではないと思ったのだろう)自分用の
「なんか張り込みしてる刑事みたいですね」
訳出に協力してくれた日本人に後で確認したところに拠れば――といっても実際に現場で食されているのは
千代も好奇心が恐怖心を打ち負かしたとみえて、建物の角から身を乗り出し、花の美貌の下にその
「うわっ、エゲツな……子供相手に。てか女の子じゃないですか」
「不埒にして破廉恥なむくつけき卑劣漢どもの毒手が、芳容を纏う童女の清らなるその身へと今
「ちょ、声でか……っと待っててください、今通報をば」
そうやって声を押し殺しつつ携帯を突付く千代さんを意に介することもなく、――
「あいや其処な
「な!」これは千代の
「
「おい!」
ここで漸くその《
「……長ぇよ」
「あの」これは《
「何なの?」《破落戸ども》の他方が冷めた口調で相方の反応を見た。
「いや、どっかの劇団員じゃね。あ、かわいい」と下から花を覗き込む最初のひとり。それから「何ですか? 逆ナンですか?」と軽口を挿んだ。
「
「おい、これカメラとか回ってねえよな」
「いやそういうのはヤラセだろ、ガチでタレント特攻させたりしねえから。最近はコンプライアンスとかが……あ、マジかわいい」
「何より、惜しむらくは騎士が決闘として指名できるのは等しく叙任された正統な騎士のみであることで、残念至極ながらこの人倫に悖る非道の徒輩を蹴散らし血祭りに上げる栄誉は、不幸中の幸いにして騎士ではなく、ラ・サンチャのドニャ・キホーテほどではないにせよ果毅にして豪胆なその忠僕たるチヨさんが双腕へと委ねるとしよう」
「はえっ!」これは当然千代の声である。物陰に隠れてこそこそと、警察に電話すべきか駅前の交番に駆け込むべきか逡巡していた彼女にとっては正に青天の霹靂だ。[訳註:著者は本来rayo《
「おい、お前!」
「はっ、はび!」不用意な
「てめ今の撮ってねえだろうな?」
「え、とって?」
「落ち着けってお前、カメラもガキってそれどんな企画モノだよ」
「山があるってんだから、ついでに落ちも意味もあるんだろうよ!」
「え何言ってんのお前」
「おいてめえそれ寄越せよ!」
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