こちら、モンスター心療内科

はじまりのゴブリン

1

　ひび割れたコンクリートの床。ひんやりと体が冷えるほどの空気。チカチカと点滅する目障りな蛍光灯。薄暗く先が見えない廊下。

　その廊下を進むのは、一匹の異形の存在。尖った耳と鋭い目、腰を軽く曲げ、威圧するかのような姿勢で牙を剥いた生き物が歩いている。

　その表情には、わずかに苛立ちが見え隠れしていた。

「なんで俺が心療内科なんぞに」と何度思ったか。

　内科の医者も「検査結果を見ても問題なく、睡眠薬も効かなさそうですし……」と面倒そうにこっちに回しやがって。

「なにか問題あるに決まってる！」と言っても、まともに取り合ってもくれない。

　たく、だから最近の若い奴は嫌なのだ。

　苛立ちを足音に込めるようにカツカツと廊下を歩き、ぶらりと今にも落ちそうなほど傾きぶら下がる「モンスター心療内科」の文字の前で足を止めた。

　目の前の扉は、床と同じくコンクリートでひび割れ、薄汚れたそれ。修繕も何もされていないことが一目で分かった。

　見渡す限りの全てが、俺の神経を逆撫でするようだ。

「こんなボロいところで受診しなきゃならんのか」と舌打ち交じりに扉をノックした。

「はーい！　どうぞ入ってー」

　いかにも能天気な、やけに明るいトーンの声が扉の向こうに響く。

「なんだ、また若増か？ もう勘弁してくれ」と不快感を隠せずに扉を開けても、声の主はどこにもいない。あるのは、ただただ殺風景な診察室。

　ふよふよと視線を左右させていると、下の方からまたあの声が聞こえた。

「ここだよー！　ようこそ、内科の先生から話は聞いてるよ。グランさん、だよね？」

　その声の方に顔を向けて、思わず眉をひそめた。俺の膝下くらいまでしかない小さな緑の塊。

　所謂、スライムがそこにはいた。

「こんな如何にも弱そうで頭の悪そうなスライムが医者？」と顔をひきつらせたのが分かったのか、ぷんぷんと怒りながら「僕だって立派なお医者さんだよ！　見て、この聴診器を」と体を見せつけてくる。

「聴診器の『マーク』はついてるけどなぁ……」

　そう、そのスライムの身体には「聴診器のマーク」が描かれ、それを本物の証拠であるかのようにアピールしている。

　これで「お医者さん」のつもりか？くだらない。

「それ、どうせ本物じゃないから使えないだろ？」

「ははっ、バレた？　聴診器はあるけど僕の形状的に身につけれないからね」といたずらがバレたかのようにくすくすと笑っている。

　本当に大丈夫なんだろうか？このスライムは。

　そのままそのスライムに促されるように椅子に座り、机越しにそいつと向き合った。

「それで、眠れないんだって？」

「あぁ。もう3カ月になる。50すぎてから体にガタが来たか？　と思ったが俺らは人間と違って寿命という概念もないからな。内科の医者も原因が分からんと匙を投げた」

　本当にあの内科のヤブ医者は、散々検査もした癖になんの役にも立たなかったな。

「ふーん、それさ、きっかけとかないの？」

「それも分からん。ただ、最近新しいゲームの役目があってそっちに駆り出されてからというのはあるかもしれん」

「え、ゲーム!?」とスライムは目を輝かせ、椅子の上でぴょんぴょん跳ねる。

「その話、聞きたい！　聞きたい！」

「ゲームに興味があるのか？」

「うん！　だって僕、そういう『ゲーム』とか『絵本』とかの物語の世界での役目を与えられたことがないんだよね。だからそういうモンスターの話を聞くのだーい好き」

　そういうやつもいるのかと、ふとその反応が腑に落ちた。今まで「物語の世界」の役目を与えられたことのあるモンスターにしか出会ったことがないからだ。

　あの内科の奴でさえそうなのに、こいつには何か問題があったりするのか……？

　まぁ俺には関係ないことだとその疑問を頭から追い出し、そのゲームの話をした。

「最近発売されたRPGゲーム知ってるか？ あのオープンワールドの」

「あ！ 今年の春発売って新聞で見たやつかな？」

「そう、そこの若いゴブリンたちが人間を倒そうと躍起になっているのが問題なんだ……」

　「モンスターなのだから人間を倒そうとするのは当たり前なのでは？」と首を傾げ、目の前のスライムは目をぱちくりとさせている。

「あのな、俺らは『はじまりの大地』のゴブリンなんだ」と深くため息を吐いて、話を続ける。

「うん？」

「俺らの役目はプレイヤーを倒すことじゃない。プレイヤーを導くことだ。最初から難易度上げてどうする。やられ役を買って、相手を気持ちよくさせないとプレイヤーは嬉しくないだろう」

「そういうものなんだ……。僕、そっちの世界のことは何も知らないからなぁ」とスライムは納得しつつも、ふにょりと体を曲げた。

　本当に大丈夫なんだろうな、このスライムは。見るからに頼りなさげにぽよぽよと体を動かして。

「じゃあ、その若い子はその役目？をなんで無視するの??」

「死ぬのが怖いんだと」

「え、グランさんは怖くないの？」

「なにいってるんだ、俺はこの道40年だぞ？　それにゲームのモンスターがそれを怖がってどうする。プレイヤーに倒されて、死ぬことに意味があるんだ」

　スライムは「へー」と目をきらきらさせて言った。

「グランさん、すごい。さすがベテランゴブリン！」

　そう、俺らはゲームの中で倒されば「死ぬ」

　けれどもそれは、まったくの全てが消えて無くなることを意味するわけではない。時間が経てば復活するし、傷もなく生き返る。

　もちろん倒されたときの痛みが、全くないということではないが……。

「つまりグランさんのいう『プレイヤーを導く役目』と最近入った若い子の『生きたい！』っていう気持ちが衝突してるってこと？　それがグランさんの睡眠不足の原因なの？」と、不思議そうにスライムはじっとこちらを見つめていった。

「違うだろ。こっちはもう長年、他のゲームの世界も含めてやってきてるんだぞ？　若い奴との衝突何てしょっちゅうだ」

「そうだよねぇ。グランさん、ベテランさんだもんねぇ」

　ふむふむと頷き、すぐにパッと閃いた様子で医者は口を開いた。

「あのさ、その若い子に聞いてみてよ。『なんで死ぬのが怖いのか？』って。だってグランさんと同じゲームのゴブリンなら、グランさんとちゃんと話してみれば分かってくれるかもよ」

「あのなぁ、別に衝突が原因でないと——」

「まぁまぁ、若い子の悩みを聞くと思って。グランさん、ゲームの世界の大先輩なんだから後輩の面倒くらいちゃんと見ないと」

　文句を言おうと口を開いたのを打ち消すように、目の前のスライムはニコニコ笑う。

　なんだか調子の狂う奴だ。本当にそんなことに意味があるのか？

「聞くだけだぞ」

「うんうん、実は僕、前から『ゲームの世界』のゴブリンの死生観にとっても興味があるんだよねぇ」

　そういって、でろーんと机の上に広がった。

　まさかこいつ、これが本音じゃないだろうなとムッとした表情になるも、それを気に留めることなく、スライムはカルテに何かを書き込み始める。

　ちらと覗くと、なにか黒いごちゃごちゃとした絵が目に入った。

　なんだこれ？　まさか俺の似顔絵のつもりか？

「じゃ、一応前のより少し強い睡眠薬を出しとくね」

「あぁ、頼む」

「よくなるといいねー。じゃ、また様子見て顔出してよ」

　スライムは右側を少し伸ばして、ふよふよと手なのか何なのかもはやわからない、緑のそれを振っていた。

　俺はそれに軽く挨拶して心療内科の扉を抜ける。

　はぁ、こんないかにも頼りない奴が医者で、本当に治るんだろうか。

+++

「おい、ガンロ。お前爆弾なんて使ってどうする！ それ今の段階のプレイヤーに当たったら即死だろうがっ！」

「グランさん、こっちだって必死っすよ。相手、躊躇なく攻撃してくるんすよ？　そんなの反撃して当たり前でしょ！」

　目の前の若いゴブリンの必死な声に、思わず頭を抱えた。

　件の問題児、ガンロには本当に困らされる。

　ゲームの世界で役割をもらうのがこれが初めてで、プレイヤーに対しての殺意が人一倍強い。

「あのなぁ、最初に登場するゴブリンがそんなに殺気立ってどうするんだ……。こっちにも役目があるんだぞ。少しは考えてみたか？」

「オレは……グランさんみたいに死にたくないっすよ。そんな『やられるのが当たり前だ』って」

　俯きがちになったガンロが、バッと顔を上げて真剣にグランを見つめてくる。

「オレはやっぱり死にたくな——」

　剣がガンロの頭に突き刺さった。

　言葉を最後まで言い切ることも、悲鳴を上げることもできなかった。血が流れることなく、ただ倒れ、消滅する。

　ガンロだけでない。周りにいるゴブリンもみな、腹を刺され、心臓を一突きされ、首をはねられ、次々と倒れていった。

「役目」通りに。

　倒れるゴブリンに目を向けることなく、プレイヤーは俺に近づいてくる。

　——分かっている、これが役目だ。

　そうやってぶらりと力を抜き、無抵抗に目を瞑る。

　何の躊躇もなく振り下ろされたそれに、体が地面へと叩きつけられた。

　消える直前に見えたのは、倒されたゴブリンも、血も、何も残っていない。ただただ美しい、乾いたフィールドだけだった。