歩く電光掲示板みたいなやつ

 週に多くて三回あるど変態撮影会が無い日の放課後は至って平和だ。

 突如ドロドロに煮込まれたカレーくらいの濃度のある非日常がやってきた訳だけれど、それさえなければ僕の生活は非常に静かなものなのだ。

 学校で話しかけて来る人物も片手で足りるし、部活にも委員会にも所属していないからたまにあるイレギュラーは日直くらい。僕は元々一人でいる方が気が楽な方だし、一人で食べるご飯にもほとんど抵抗は無い。


 体育やグループ学習の時もぼっちにならない程度の交流はクラスの人達と取っているおかげもあって孤独感に苛まれた事もない。うん、我ながら上出来だと思う。

 家にも帰りたくない、かといってこれといった趣味もない僕が時間を潰す事と言えば勉強と読書と音楽を聴くことくらい。だけどそのどれかに特出するような事もなくて、至って平凡。テストでは平均点より上を取るけど、上の下くらい。

 どこにでもいる普通の人に、きっと僕はなっている。


 今日は雨が降っていない。7月の夕方ともなれば外はまだ全然明るくて、空に掛かるオレンジがとても綺麗に見える。図書館にももう人はいなくて、残っているのは僕みたいに勉強をしている人か図書委員会の人だけだ。

 確かにそこに人がいるのに、図書室という性質上音が混ざっても静かな空間が僕は好きだ。

 ペンが走る音、ページを捲る音、開いた窓から風が入り込んでカーテンを揺らす音。吹奏楽部の楽器の音、外で活動している運動部の声、そこにたまに混ざる演劇部の発声練習の声と、生徒が帰宅している声。

 静かだけど沢山の音が混ざり合う空間が好きだ。

 ガララ、図書室の扉が開いた音がした。時間はもう夕方で、こんな時間に新しく誰かが来るのは珍しい。先生だろうか、それとも誰かの友人だろうか。部活が終わって迎えに来たという可能性が一番高いか。

 そう思考しながら教科書に目を通しているとふと、ページに影が掛かった。


「勉強してんの?」

「!」


 聞き覚えのある声に顔を上げ、僕は目を見開いた。


「そんな驚く? てかスマホに連絡したじゃん、見てないの?」


 桐生が首を傾げた拍子に茶髪がさらりと流れる。癖なんて一つもない綺麗な髪が蛍光灯に照らされていて、そんな仕草一つですらイケメンなそいつに僕の眉間には深い皺が寄る。


「そんなのいちいち見てない。なんの」


 想像すらしていなかった桐生の登場につい普段通りの声量で言葉を発してしまい中途半端なところで口を噤む。一瞬の時間があれば途端に冷静になれるもので、数こそ少ないが確実に図書室にいる全員の注意を引いている事に気がついて無性に頭を掻きむしりたくなった。


「〜〜、出よう、桐生」

「勉強は?」

「良い。今日の分はもう終わってる」


 いかにも真面目そうな生徒達の視線は相変わらずノートや参考書に注がれているが意識は自分達に向いている事が嫌でもよく分かる。こんな好奇の目に晒された状態で歩く電光掲示板みたいな桐生と話す気にはとてもじゃないけどなれない。

 出来るだけ急いで、でも大きな音は立てずに鞄に教科書達をしまい込んでから席を立つ。

 図書室を出る時も興味津々といった感覚を背中に感じるのはきっと僕が人のそういう感情に敏感だから。この感覚は自意識過剰なんかではないと言い切れる。

 自分がゲイだと自覚した日から僕はとにかく人に変に思われないように生きてきた。どんな発言、どんな立居振る舞いをすれば「普通」なのかをきっとこの学校の誰よりも考えている。だからこそわかるのだ、斉藤雪穂というありふれた、むしろ目立たない人間と、桐生空という羨望の眼差しを向けられる人間が一緒にいる事がどれほど異質で、人の興味を引くのか。


「…僕、学校では話しかけないでって言ったよね」


 図書館からある程度離れ、人の気配もしなくなった廊下で立ち止まる。

 溜息混じりに振り返ると桐生は意味わからないとでも言いたそうな顔で僕を見ていた。その危機感のない表情に少し苛立ちを覚えながら少し深く息を吸い込む。


「桐生みたいな派手なやつと僕が一緒にいたら目立つ。僕は目立つのが嫌い。だから近づくなって言ってるの。ここまでは理解できる?」

「理解できるけどそれは斉藤の都合でしょ、俺には関係なくない?」

「お前独裁者か。僕がいやだって言ってるんだから納得しろよ」

「なんで嫌なの?」

「目立ちたくないからだって言ってるじゃん。何、お前の耳は飾りですか」

「でも俺は斉藤と学校でも話したい」


 ぐ、と喉の奥が狭くなるような感覚がした。それと一緒に心臓がどくりと大きな音を立てて少し早くなる。その感覚がとても嫌だ、自分が酷く惨めになるから。


「……桐生は僕じゃなくても話せるやつはいくらでもいるでしょ。僕じゃなくても良い」

「俺は斉藤と話したいって思ってるんだけど」

「僕はそうじゃない。お前の意見だけを押し付けないでよ」

「斉藤だってそうだろ。俺がお前だけの意見を聞くのはフェアじゃない」


 もっともらしい言葉に喉が詰まる。眉間に深く皺が寄って唇がへの字に曲がるのが自分でもわかった。そんな僕の顔を見る桐生はどこか楽しそうで、その余裕が腹立たしい。

 だけど僕はここで大声を上げて喚き立てる訳にはいかなかった。そしてこれ以上食い下がる事が「普通」ではない事もわかっていた。


「……人がいるところでは話しかけないで。用があったらスマホに連絡して、出来るだけ見るようにするから」

「うん、それなら俺も納得出来る。今度からそうするね」


 ありがとう。嬉しそうに笑う桐生から僕は目を逸らして止まっていた足を前に動かした。


「斉藤ってどの教科が得意なの? 俺は得意っていうのなくてさ、なんか満遍なくやる感じ」

「……現国とか」

「眼鏡なのに文系なんだ」

「文系でも眼鏡はいるだろうが偏見やめろ」

「確かに。古典のスガミチ眼鏡だったわ」


 人の気配のしない廊下に夕方のオレンジの光が差し込む。ワックスがかけられたばかりの廊下にはその光と僕たちの姿が反射する。

 早歩きの僕とは対照的に桐生の足取りは優雅だ。それなのに距離は広がるどころか縮まっていて、これがコンパスの差かと悔しさに奥歯を噛み締める。だけど僕の悔しさなんて桐生にわかるはずが無くてあっという間に昇降口に着いてしまった。

 廊下と違ってまだ若干の人の気配がある事にまた溜息を吐いて少し後ろを見る。


「……まさか一緒に帰るとか言わないよね」

「え、ここまで来たら普通一緒に帰るでしょ」

「桐生と僕の普通は違う。人のいるところでは話しかけるな、これは譲れない」

「……えー……」

「もう撮影会しねえぞ」

「わかった善処する」


 それまでの不満顔はどこへやら、即座に返答した桐生に僕はこめかみを指で揉んだ。

 相変わらずの女装への執着に安堵と呆れを同時に感じながらふと思った事があって下足箱に行く前に口を開く。


「なんで僕が図書室にいるってわかったの」

「? 教室にいなかったから」

「……? そうですか」


 いまいち納得出来ない返答だったが掘り下げるのも変だなと思い「ばいばい」と告げて足を進める。


「斉藤」


 上履きを脱いで靴に履き替えているとまた桐生に話しかけられ、ぐっと眉間に皺を寄せたまま睨むように顔を向けるとそこにはやっぱり笑顔のそいつがいて僕は面食らう。


「また明日ね」


 爽やかだとか、綺麗だとか、そんな表現が似合う顔で桐生が笑っている。軽く片手を上げている様はまるでドラマの登場人物かと思うくらい絵になっていて、なるほどやっぱりこいつは住む世界が違う人間だなと思う。

 ど変態撮影会なんて僕の夢だと言われた方が余程納得出来るなと思うが、あれが夢じゃないなんて事はもうとっくの昔に自覚済みだ。


「……明日は休みだよバーカ」


 手を振り返す事もしっかりとした声量で返す事もせず、僕はほとんど無視みたいな形で学校から逃げるように歩き出した。

 歩きながらポケットに入れたスマホが震えたのがわかって、取り出すと桐生からのメッセージが入っていた。通知の欄に収まるくらいの短さで書かれた文章は「また月曜日」それだけの文字なのに、また心が跳ねるのがわかった。

 だけどそれに気付かないふりをして、僕はまたスマホをポケットにしまう。それに返事を返す事は無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る