海に沈むジグラート30

七海ポルカ

第1話



 ネーリは腕を組んでいた。

 青い小さな紙が、倉庫の側面に何枚も貼られていて微妙に、どの色も少しずつ違う。

 彼はもう小一時間ずっとその青の紙をじっと眺めていたが、やがてその下に作った横長の棚の上に小皿で無数の青い顔料が用意されていたものを、一つを手に取った。

 筆を汲みたての美しいヴェネトの水に浸し、布に余分な水分を吸わせてから、選んだ一つの青い顔料を筆に付け、滑らかになるまで馴染ませる。

 見上げる真っ白なキャンバスに近づいて、スッ、と一番最初の色を落せば「クゥ!」と声がして、真剣な表情をしていたネーリは笑ってしまった。今のでもちゃんと竜が「色が付くこと」を認識していることが分かる、そういうタイミングの鳴き声だった。振り返ると、少し離れたところで先ほどまでとぐろを巻いて寝ていたフェリックスが、いつの間にか目を覚まし、お行儀よく座って、金色の瞳でこちらを見ていた。明らかについに色がついたことを喜んだみたいな声を出した彼が可愛くて、ネーリは筆を持ったまま、歩いて行くと、顔を抱きしめてやる。

「嬉しかった? 僕もだよー」

 それからもう一度絵のもとに戻った。

 何度か筆を動かし、うん、とネーリは頷く。

「まだ何にも描かれてないでしょ? 本当は木炭で下絵を描くんだけど、ここまで大きい絵だと、全体のイメージを捉えることから僕は始めるんだよ」

 座れる脚立を持って来て、上って腰掛けた。

「今全体のイメージまだ決まってないの。真っ白なキャンバス眺めて色々考えたけど、これだっていうものが決まらないから、そういう時は僕は色を作ってみるんだ」

 ネーリが右手に大きな刷毛、左手に筆を持って、しばらく筆で色を付けていたが、あるところから大胆に大きな刷毛を使い色を塗り始める。

 塗られて行く青は、緑がかってもいた。

 記憶に残る、深い森と、美しい湖。

 その二色を思わせるのに、一番近い色だとネーリが判断した色である。

 一定範囲に色を大雑把につけて、ネーリは一度脚立を降り、フェリックスのいるあたりまで下がって、絵についた青をじっと眺めた。

「うん。いい感じだね」

 頷くと、脚立を一度脇にどけ、今度は反対側の端に寄せていた横長の足場を持って来る。 足場は棚も兼ねていて、画材を置くことも出来るようになっている。

 ネーリは肩を負傷してしばらく絵が描けなかったので、その間、絵を描く準備をしていた。

 大きな絵になるので、足場が必要だったし、顔料の消費も激しい。

 作業を効率よくするために、出来得る限りの準備をした。

 長時間作業するには、出来る限り脚立から降りず、全ての道具を手の届く範囲に置く工夫をしなければならないからだ。

 色んな棚や、脚立がある。

 これは神聖ローマ帝国駐屯地の騎士たちが、手の空いた時に全て作ってくれた。

 こんなものが必要かなあとネーリが描き出していたスケッチを見て、彼は街の店に頼むつもりだったのだが、どうせ騎士館建築の資材がたくさんありますから、ここで作りますよとトロイが騎士の中で、こういうものを作るのが得意な者に頼んでくれたのだ。

 彼らは騎士館の中でも何か必要な家具があると、自分たちで作って設置してしまうのだ。

 実家が家具屋の者がいるらしく、彼がリーダーとなって色んな家具を作っている。

 よいしょ、と大型の足場を頑張って引っ張ろうとしたら、ずず……と引っ張る前に動いた。見るとフェリックスが顔を使ってぐいぐいと足場を押している。

「手伝ってくれるの? 助かるよー」

 竜の外皮は固く、丈夫なため、戦闘時は上空から勢いをつけて城壁に突進すれば、石の壁すら破壊するという。竜のパワーを持ってすれば、足場を動かすことなど容易いようだった。

 フェリックスが押してくれるので、ネーリは軽く方向修正をすればいいだけだった。

「ありがとう。僕がしようとしてることを察して手伝ってくれるなんて、本当に君たちは頭がいいんだね。すごいよ」

 ネーリは一番最初の青は時間をかけて選んだが、今度は木の板に手早く、五つほどの小皿の青を乗せて、それと同じ色が入っている瓶を、天井から垂れ下がっている筒の中に五つ、置いた。

 これは足場や脚立に乗ったまま色を足せるので、大部分の作業の時に重宝する為、倉庫にも作ったのである。幸い倉庫の上部に丈夫な梁が通っていたから、そこから吊るせたのだ。

 フェリックスが見上げている。

 そういえば、この仕掛けを作った当初、この倉庫を寝床にしているフェリックスが不思議がるような顔をして、つんつんと鼻先で筒を揺らして遊んでいる光景を見たことがある。

 今は「なるほどー、そうやって使うのかぁ」の顔に見えるから不思議である。

「便利でしょ」

 ネーリは足場に上ると、顔料を置くために作った縦長の棚に五つの小皿を取って、あとはもう、集中して無心に刷毛と筆を使い、キャンバスに濃淡のある青を塗り始める。

「まだ全体はとらえきれなくても、分かっていることが無いわけじゃないんだよ」

 ネーリの呟きは、自分の集中を妨げるようなものではなかった。

 フェリックスに聞かせてやっているが、彼は竜である。

 自分自身に向けての、何気ない呟きのようなものでもある。

「例えば光は空から来るでしょ? だから上の方が明るい青になる。下の方は何となく深い青に。でもあの綺麗な湖も描きたいから、こうやって全体を塗るうちに、湖をどこに描くか、決めていくんだ。湖の水面には、光が反射する。太陽の光なら明るいし、星なら控え目。でも明るい月なら輝くけど、月の光と太陽の光は色が異なって来る。

 だから水には光の陰影が出るんだよ。水のあるところに光は集まるの。

 朝なのか、夜なのか、昼なのか、暁や黄昏時も違うし。

 まずは青で、光の配置を決めようかなって思ってるんだ。この絵は」

 ネーリは小首を傾げた。

「そうかぁ……折角大きな絵で深い森を描くなら、何も一つの時間帯を描くことはないかもね。うろ覚えだけど、おじいちゃんが馬に乗って、僕を膝に乗せて森を歩いてくれたんだよ。神聖ローマ帝国の人が案内してくれて……途中で眠ったりしてた。

 すごく広い森で……

 例えば、こっちからは朝日が差し込んで……こっちはもう夜になる?

 それとも美しい……静かな夜を中央に置いて……暁の時間と、黄昏が両端から射し込むとか……。

 湖畔の館の雰囲気もとても居心地よかったんだよね……。

 中央は、絵の全体の時間帯を決めるから、もう少し考えてみる。

 イメージでもいいんだ。

 もっとあの森のことを思い出したい。

 あの森の、青い緑色の感じとか。

 ……ぼく、子供の頃の記憶、よく覚えてないこと多いんだ。

 あの光の道……夢みたいだったあの記憶も、僕を呼ぶ声も、昨日のことのように覚えてるのに……。

 おじいちゃんの船のみんなの顔、……僕は忘れて来てる」

 青く塗っていた手を止める。

 ネーリは一度刷毛と筆を置いて、足場を降りた。フェリックスの側にしゃがみ込んでもたれかかった。

「……ねえ、【竜道】って聞いたよ。君たちだけが見えて、通れる特別な道なんだってね。

いつもそこにあるわけじゃないけど……時々現れる……。僕も昔似たような道を見て、通ったことがあるって言ったら、信じてくれる?」

「クゥ」

 声が返って、ネーリは瞳を瞬かせた。振り返る。

 今は、形はフェリックスに話しかけたけど、独り言に近かった。

 フェリックスが問いかけに応えることはあるけれど、ネーリも、彼が人語を理解してそうしているとは思っていない。フェリックスがネーリの問いかけに応える時は、いつも目を見合ってる時にそういう反応が返るのだ。フェリックスの顔を見ながらネーリが何か話しかける時に、「何かを自分に話しかけている」と理解して、フェリックスは頷いているのだと思う。

 でも今は、完全に独り言だった。フェリックスは側で聞いてくれているだけで、彼の方を見ていなかったのに、不思議なことに今は声が返った。

 尋ねられた、くらいは分かったのだろうか?

 それにしても、今のは不思議な呼応だった。

「ただ人の言葉を喋らないだけで、本当に人の言葉を理解出来てたらどうしよう?」

 クゥ? とやはりネーリが問いかけると、同じ方向に小首をかしげている。

 かわいいなあ。

 ネーリはフェリックスを抱きしめる。

「いまの、すごい秘密なんだよ。光の道のことは、僕しか知らないの。……あのね、ぼく、まだフレディに話せてないことがあるの。それを話したら、今ある、幸せな関係や距離が全部崩れて……もう今みたいに、仲良く話せなくなるかもしれない……。

 でもフェリックスも、フレディの側に、フレディにとってとても大切なことを、秘密にして、伝えてあげるべきことも黙って……嘘ついてる人が側にいるなんて、嫌だよね?」


 クゥ。


 フェリックスは応えてくれた。ネーリは嬉しかった。

「ありがとう」

 もう一度、彼を抱きしめる。

 竜はフカフカもしてないし、柔らかくもない。抱きしめたってゴツゴツしてるだけだ。

 それでも、フェリックスからは優しい気配が伝わってくる。

「必ず、フレディにぼく話すからね。もしそれで、……許してもらえなくて、離れなくちゃならなくなった時は、君がフレディに伝えてね。それでも僕は、フレディのことがすごく大好きだったし、会えて幸せだったよって。それだけは、絶対に嘘じゃないから……」

 数秒心が沈んだが、ネーリは立ち上がった。

「さぁー! 描くぞー!」

 手を上げて彼が声を出すと、「クゥ!」とフェリックスが応え、バササッと翼を揺するように動かした。


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