11章 兄と妹
通路を抜けた先で、リズは前方にランプをかざした。
円筒状にくりぬかれた縦穴に、螺旋状の石段がついている。耳をすますと、暗闇に沈んだ穴の底から、微かに水音が聞こえてきた。
階段は下にも上にも続いていた。リズはランプを一度床に置き、上に向けて手を叩いた。張りのある反響音。天井が近い。足場を確かめながら、端の欠けた石段を一歩一歩、慎重に登る。突き当たりの鉄枠のドアは長く使われていなかったのか、腕の力だけでは開かなかった。リズは体重をかけて錆をこすり落としながら、少しずつ扉を開けた。
扉の隙間から、新鮮な空気が流れ込む。
採光を兼ねた通風口から、四角く切り取られた夜空が見えた。
通風口から見える星を数えながら、リズは深呼吸をした。くたくたになるまで働いた一日の終わりのように、体の中がすかすかしている。だが、自分が本当に疲れているのかよくわからない。頭がぼんやりして、半分夢の中にいるような感覚だった。
奥行きのある室内を照らすと、壁の隅に襤褸をまとった白骨が見えた。よくよく照らしてみると、手足を鎖で繋がれた遺体だった。汚れた頭蓋骨はヒビが入っている。何年も前に幽閉されて、そのまま息を引き取ったのだろう。
ここに繋がれているということは、コーウェン家にとって都合の悪い人物だったのかもしれない。それにしたって、こんな最期があるだろうか。
リズは膝をついて死者の冥福を祈った。
扉を閉じて来た道を戻る。今度は下へ続く階段を降りた。
濃くなっていく水の匂いを嗅ぎながら、足を踏み外して穴に落ちていく自分を夢想した。無意識に壁から手が離れた。リズは穴の底を見下ろした。何も見えない、真っ暗闇がそこにあった。
不意に、冷や水をかけられたように目が覚めた。頼りない足場にいることが怖くなって、リズは横穴に入った。
分かれ道を右奥に進む。行き止まりかと思いきや、突き当たりの壁の穴から太い鎖が垂れていた。初めてコル・ファーガルに来たとき、ダレルが動かした仕掛けを思い出し、リズはその鎖を両手で掴んで引っ張った。
壁が動いてできた隙間を、通れるだけの大きさに広げて、リズは目の前に現れた木目の壁の、一部、出っ張った部分を押し込んだ。カチャリ、という音のあとに、ゆっくりと視界が開けていく。室内は明かりが乏しく薄暗かったが、闇に慣れた目には、ちょうどいいくらいだった。そっと外に出る。壁だと思っていたものは、どうやら本棚だったようだ。
机と椅子、本棚、必要最低限のものしかない室内を見渡す。二つの扉が目についた。ひとつは入り口だとして、もうひとつは寝室だろうか。
リズは椅子に座った。ほんの少し歩いただけなのに、とても疲れていた。落ち着いて先のことを考えなければならないのに、頭の中はまるでぐちゃぐちゃだった。オズウェルは死んだと聞かされたとき、心に満ちた暗い悲しみが、まだ居座って離れずにいる。
(きっと、コル・ファーガルにオズウェルはいないんだ)
彼女はそう考えることで平静を保とうとした。
なにせ、連れ去られてから十四年が経っているのだ。
もしかしたらオズウェルは、とっくの昔にここを逃げ出して、誰の手も届かない場所へ行ってしまったのかもしれない。北方辺境領の果て、山脈の向こうにある未踏の地へ。
ガントがいつか言っていた。
幼いオズウェルは、北の果てから国を見下ろす絶壁の山を、人の足で越えられると信じていた。
山の向こうには豊かな土地が広がり、大鷲や、眷属の鷹がたくさん暮らしているという、父のおとぎ話を真に受けたのだろう。ガントが何度叱りつけても、兄は山に入ることをやめなかった。自分の鷹が欲しかったらしい。
父と、母と、兄と。リズは自分が生まれる前の、三人がいる光景を想像した。明るく温かな家の中。そのどこにも、自分の居場所はないように思えた。
卑屈になりかけたとき、ふと、廊下に人の気配を感じた。
リズはランプを抱いて、とっさに机の陰に隠れた。
誰かが入ってきた。素早く、静かに扉を開閉する音。足音がしない。不穏なものを感じて、机の陰からおそるおそる顔を出すと、そこにいたのはコーウェン家の老執事だった。
隣室に近づくその手には、鈍色の刃が握られていた。
リズは思わず立ちあがった。
「何のつもりですか!」
執事が振り向いた。動揺に見開かれた双眸が、リズの姿を捉えた途端、すっと細くなる。ナイフを握る手に力がこもった。リズは相手から目を離さぬまま、少しずつ横に移動した。
「どうか……見なかったことにしていただけませんか」
うつむきがちに肩を落として、彼は言った。
「これを逃せば、魔道士を葬る機会は二度と来ないでしょう。あれは魔性です。動けぬうちに始末しなければなりません」
オズワルドの魔法使いが、動けぬ状態で隣の部屋にいる。この執事は、それを秘密裏に葬ろうとしているのだ。
リズは見て見ぬ振りなどできなかった。
「魔法使いだって人間です。魔性と言うけれど、よく知りもせず彼らの心根を邪悪だと決めつけるのは、偏見ではないのですか」
落ちくぼんだ目に、思いがけず微笑が浮かんだ。
「……ディラン様と同じことを仰る」
彼はナイフを懐にしまった。
「人の本質を善きものと信じるご気性は、お父様譲りですな。……このようなことになって、本当に残念です」
執事が大股で足を踏み出した瞬間、リズは逃げ出した。
本棚の裏から通路を駆け戻る。追跡の足音はぴったり後ろをついてきた。
どうにか逃げ切って、魔法使いの身に迫る危機をオズワルドに伝えなければ。
リズはランプの底部を外した。後方に油を撒き、手元に残った火を床に落とす。体を退いた一瞬後、目の前に赤々とした炎が燃え上がった。空気を舐めるように舌を伸ばす炎の向こうに、老執事のシルエットが浮かんだ。
彼女は走った。螺旋階段の上下、どちらへ行こうか迷って、上に向かった。
始めは部屋に戻るつもりでいたが、追いついた老執事がミリアムにまで害をなす可能性に行き当たり、リズは自分が唯一知る道を捨てた。そして階段を登り、先ほどの骸のある部屋に入った。
改めて見上げた通風口は、人が通れる大きさではなかった。ランプを捨てたことを後悔しながら、手探りで辺りを調べる。ここだって仮にも城内なのだから、隠された通路があるかもしれない。リズは壁に手を触れ、押せそうな出っぱりやへこみがないか探した。
途中で触れた骸から、硬い音を立てて何かが転がり落ちた。拾ってみると骨ではなく、指輪を思わせる小さな輪だった。表面に何か模様が刻まれている。遺品ぐらいは外に出してあげようと、彼女はそれを懐にしまった。
出口が見つからないことに心が焦る。
炎の勢いもだいぶ弱くなる頃だ。リズは一度ドアのほうに戻って下の様子を窺った。闇に慣れた目でもまるで見通しは利かないが、音なら聞き分けることができる。耳をすませた。空洞音のほかには自分の鼓動や息づかい、通風口から流れる風の音しか聞こえない。
まだもう少し、猶予がある。
そう気を緩めた直後、リズは息を止めた。
カツン、と。
石の床を蹴る、微かな音を耳が捉えた。一度では終わらず、二度、三度と、歩くような速さで少しずつ近づいてくる。
ここはもうだめだ。
隠された通路の捜索に見切りをつけ、リズは部屋を出てドアを閉めた。蝶番が軋む嫌な音が空洞に響く。足音が速くなった。
階段を下ったのでは鉢合わせになる。
かといって、自分の部屋には戻れない。
あと一分もせずに老執事はここへやって来るだろう。悩んでいる暇はなかった。
リズはしゃがんで階段の細かい埃を払った。その縁に手をかけ、彼女は思いきってぶらさがった。
指先と耳に全神経を傾ける。
足音が階段を登って近づいてきた。
リズは必死で息を殺した。手の平に汗がにじむ。
早く来い――来い。
前髪に砂粒が当たった。いまや足音どころか、老執事の息づかいまではっきり聞こえた。その『時』を、彼女は待った。
緊張と疲労で心臓が破裂しそうだ。肩も腕も、もう限界に近い。静かに息を吐いて、目をきつく閉じる。
上で、ドアを押し開く音がした。
中に入った、今。
リズは溜めていた力を振り絞って体を引き上げた。
渾身の力でドアを閉じ、頭から引き抜いた金属製の髪留めを蝶番に突き立てる。耳障りな反響音が鳴り止まぬうちに、踵を返して階段を下った。背後から、ドン、ドンと、激しくドアを揺すぶる音がした。破られるのは時間の問題だった。
足を滑らせて、リズは膝を強く打った。手をつこうとした先に床がなく、彼女は自分がどれだけ危険な場所にいたのか、改めて思い知った。痛む足をさする。立ちあがろうとすると目眩がした。
息が足りない。胸が苦しい。
もっと動けるはずなのに、体に力が入らない。リズは湧きあがる焦燥感を必死に抑えこんだ。
呼吸を整えていた、そのとき。
ドガン、と大きな衝撃が頭上から降ってきた。そのなかに微かに、軽い金属が床に落ちる音が聞こえた。
リズはぞっと全身から血の気が引いた。
鉛のように重たいこの体で、果たして逃げ切れるだろうか。壁に手をつきながら、彼女は懸命に階段を下った。老執事の足音は聞こえない。だが、それが逆に不自然だった。
階段を降りきったとき、リズはもうほとんど動けなかった。
遠くで轟々とうなる水音に、既視感を覚える。
いつ、どこで聞いたのだろう。少し考えて、すぐ答えに行き当たった。初めて都に着いたとき、ダレルと通ったあの場所だ。
リズは己を叱咤して前へ進んだ。
水音がどんどん近くなる。
音の広がりを感じてすぐ、体が鉄製の手すりに触れた。
上も下も暗くて視界が判然としない。だがどうやら、ダレルと通ったあの場所とはまた違う空洞のようだ。おそらく区画ごとに似たような施設があるのだろう。
行き先もはっきりしないまま、手すりを支えに先を急いでいたリズだったが、とうとう体力が尽きるときがきた。
がくんと膝が折れる。
束の間、頭が真っ白になった。リズはちぎれそうな意識を気力で繋ぎ止め、倒れる前に座り込んだ。
一定の距離から様子を窺っていたのだろう。老執事が暗闇の奥から音もなく姿を現した。
「よくやりましたが……ここまでです、姫様」
彼の声は悲しみに満ちていた。
「姫様。あなたは人間の悪意をご存知ない。ですがそれは、とても幸運なことなのかもしれません」
苦しい息の下から、リズは訴えた。
「オズワルドの、魔法使いに……手を出さないで」
「……こんなときまで、他人の心配をなさるとは。その高潔さに敬意を覚えます。……ディラン様は、あなたをとても大切にお育てしたのでしょうな」
首に老執事の手がかかっても、彼女にはそれを振り払う力すら残っていなかった。
「お許し下さい、姫様。あなたの尊厳をお守りするには、こうするしかないのです。本国の貴族共に手折られる前に……今度こそ」
老人の手に、一息に首をへし折るほどの力はなかった。リズは朦朧としながら枯れた手に触れた。手首に包帯が巻いてあった。
彼女の脳裏に、あの日の夜の光景が浮かんだ。暗殺者の手首が風に切り裂かれ、血が吹き出した、一瞬の鮮やかさ。
それが誰で、何のことだったか、もう思い出せない。
「――エリサベス!」
意識を一瞬繋ぎ止めた呼び声も、リズはすぐ聞こえなくなった。
彼女は目の前が真っ暗になった。
+++
地下の迷路を抜けてザハリアーシュが辿り着いたのは、巨大な空洞だった。底に溜め池があるのか、低い水音が絶えずうなっている。
彼は頭の中で魔道士に悪態をついた。これさえあれば迷わない、と妙な魔法をかけておいて、蓋を開ければこの様だ。始めは一定の方向に流れていた風が、途中からでたらめに吹くようになった。
あの男は魔道士であると同時に、詐欺師であったかもしれぬ。
ザハリアーシュは憂うつな気分で下方に明かりを向けた。
そこで、予想もしていなかった光景が彼の目に飛び込んだ。
整った身なりをした痩せの老人が、リズの首を絞めながら、彼女の体を手すりの向こうに落とそうとしていた。
「エリザベス!」
ザハリアーシュの叫びが辺りにこだまする。
老人がザハリアーシュの姿を捉えた。落ちくぼんだ眼下の奥で、目が真円に見開かれる。彼はぐったりしたリズを素早く肩に担いで逃げ出した。
長剣のベルトを手すりに繋ぎ、ザハリアーシュは下の足場に飛び降りた。すぐ老人のあとを追う。
ぐんぐん距離をつめる追っ手を見て、老人は足を緩めた。リズを通路のすみにそっと降ろし、懐から暗器を取り出して、彼は逃げてきた道を素早く引き返した。
ザハリアーシュは長剣を床に放り、短剣を抜いた。暗闇から襲いくる暗器の一撃を弾く。老人の攻撃は速いが狙いが粗く、力も弱かった。彼は突きの攻撃をかわして手首を掴み、老人の腹を短剣で三度刺した。
致命傷を受けた老人は、壁を背に座り込んだ。それでもなお彼は暗器を手放そうとはせず、血反吐を吐きながら低くうなった。
「……姫様には……触れさせぬ」
「彼女の命を奪おうとした貴様が、何を言う」
憤然とするザハリアーシュを、老人は嘲笑した。
「尊いものは……汚れの、ないまま……あらねばならん」彼は力なく項垂れた。「だ、誰にも……触れ、させは……。……姫様……ディラン様が、残された……大切な……」
老人の体から息が抜けていった。
短剣の血を払い、ザハリアーシュはリズのもとへ向かった。
「エリザベス!」
辛うじて息はあったが、彼女の体は真冬の雨に打たれたように冷たかった。ザハリアーシュは冷たい体を外套でくるみ、熱を分けるようにしばらく抱きしめた。
なぜこんなところにいたのか、あの老人は何者だったのか、そんなことは後回しでいい。背後の暗闇から水音が響く。病人を休ませるには、ここは寒すぎた。
長剣を回収し、明かりを腰に提げる。ザハリアーシュはリズを抱えて老人が逃げようとしていた先へ進んだ。
長大な螺旋階段を登り、一番手前にあった横穴に入る。ともかく表へ出なくてはならない。風のまじないも消えてしまったようだし、こうなれば手探りで進むしかなかった。
寒々とした暗闇に長くいると、乾いた風が吹き渡る故郷の平原が恋しくなる。妹の後ろ盾を捜しに来て、こんなところに行き着くというのは、よくよく考えれば奇妙な話だった。
腕の中でリズがわずかに身じろぎした。
「エリザベス。気づいたか?」
「……ザハリアーシュ?」か細い声だった。「……無事だったの。よかった」
少し見ないあいだに、彼女はひどく弱っていた。
大丈夫か、と聞くのをやめて、彼は他の言葉に言い換えた。
「疲れただろう」
「……そうみたい……」
「俺がついているから少し休め」
返事は静かな吐息だった。
ザハリアーシュはリズの額に頬を寄せた。相変わらず冷たかった。
そういえば、ダレルはリズが生きているとは言ったが、無事とは言わなかった。あの時から、彼女がすでにこういう状態であることを察していたのだろう。ラデクが彼を嫌う理由が、ザハリアーシュは少しだけわかった気がした。
ゆるやかな上り坂の突き当たりまで歩いて、彼は壁から垂れ下がった鎖を引けるだけ引いた。歯車が噛み合うような音がした。小さな振動と共に、壁が床に沈んでいく。数歩下がって光に十分目を慣らしてから、彼は表へ出た。
そこは、赤い絨毯が敷かれた長い廊下の中程だった。
ザハリアーシュは左右を見渡して、大きな扉の見える右側へ向かった。鍵がかかっていてビクともしない。力尽くでこじ開けることもできたかもしれないが、両手の塞がった彼にできることはだいぶ限られていた。
これだけ広い棟に誰もいないわけがない。
人を捜そうと振り返り、ザハリアーシュは眉をひそめた。
廊下の先の柱の陰に、仮面をつけた人物が立っていた。一瞬、あのときの魔道士かと身構えたが、体格が違う。
ザハリアーシュは彼に近づいた。
髪の毛や肌の状態を見た限り、若者ようだ。硬質な仮面の下に潜む表情は、窺い知ることができない。ゆったりした衣服から覗く手足の細さからは、立ち枯れた木々のような脆さが感じられた。
「おっ、おっ、おまえ……」仮面の青年は震えていた。「そっ……そいつを、ど、どっ……どうするつもりだ」
「休ませる場所を探している」
彼はおっかなびっくり柱の陰から体を出して、リズの顔を覗き込んだ。明るい場所で見る彼女の顔色は、血の気をすっかり失っていて、ザハリアーシュですら軽く心臓がはねた。
「……病気なのか?」
「温かい場所と……できれば医者を呼んでほしい」
仮面の青年はあたふたと奥の部屋に駆け込んだ。
室内は独特の臭いが漂っていた。
壁ぎわに立てかけられたカンバス、あるいは、棚に収納された画材のものだろう。仮面の青年は絵描きなのだ。イーゼルのカンバスに、冬の日差しのなかでたゆたう青い水面が描かれている。ザハリアーシュに絵のことはわからないが、妙に生々しく感じられた。
青年は熾火の燃える暖炉の前に、クッションやら毛布を乱雑に敷き詰めた。ザハリアーシュは急ごしらえの寝床に彼女を降ろした。
寝室から新しい毛布を抱えて来た絵描きの青年は、おそるおそるリズに触れて、その冷たさに驚いたのだろう。ビクリと手を引っ込めたかと思うと、慌てて彼女に毛布をかけた。
「や、やっぱり病気なんじゃないのか?」
「わからん。人を呼んでくれ」
彼はぶるっと震えた。
「ひ、ひと……」
「俺が行くと余計な騒ぎになる。ここで暮らしているのなら、ひとりは思い当たる人間がいるだろう」
言って聞かせるようなザハリアーシュの物言いが気にくわなかったのか、絵描きの青年は憮然とした。
「あっあ、あとで……おまえの処分を、きっ、決めるからな」
じりじりと扉のほうに後ずさり、彼はよたよたと走っていった。
処分ときたか、とザハリアーシュは意外に思った。絵描きには不似合いな言葉だった。
あの青年は兵士を引き連れて戻ってくるかもしれない。いざとなれば切り抜ける自信はあるが、せめてオズワルドと対面するまでは騒ぎを起こしたくなかった。
ダレルがうまくやっているといいが。
暖炉の前に腰を下ろす。崩れた炭が内側から赤く燃えていた。ザハリアーシュは瞑目した。冷えた頬に再び血が巡り始める。彼は静寂にしばし耳をすませ、ゆっくり瞼を開いた。
座ったまま体ごと振り返る。
リズの手を両手で掬いあげ、しばらく寝顔を見つめたあと、ザハリアーシュは彼女の手のひらに口づけした。
+++
風の守りが消えた。
〈竜〉に喰われたのだ。ダレルは舌打ちした。やはり太陽と月の魔力なく、神代の獣を制御することはできない。大気のように泰然とそこに在るだけの精霊と違い、奴らは我が強すぎる。
だがこれで間違いなく、ザハリアーシュはリズと合流した。
ダレルは杖を一振りして腰のベルトに差した。
「リズ殿はじきに戻るでしょう。若君、行きますよ。こういうのは柄ではないんですがね……お話ししなければならないことが、たくさんあるようだ」
蝋のように青ざめた青年を連れて、ダレルは部屋を出た。広間でラスムスを拾い、オズワルドの執務室に向かう。
「ええい、好き勝手に振る舞いおって!」
いい加減、不当な扱いに痺れを切らしたラスムスが、いささか強引にオズワルドから魔道士を引き離した。彼はダレルの胸ぐらを掴んで凄んだ。
「霧を晴らしてさっさと帰れ!」
「おまえは昔から変わらんな、ラスムス」ダレルは苦笑した。「善良で、誠実で、正直で……」
老将の腕を掴み、彼は抑揚のない声で言い放った。
「どうしようもなく愚かだ」
「なんだと」
「タイソンはむごいことをした。よくも、若君をこのように育てたものだ。まるでディラン様の写しではないか」
言葉に詰まったラスムスを突き放し、ダレルは、依然として青い顔で立ちつくす青年を哀れに見やった。コーウェン家の秘密と、タイソンがついた嘘。彼はその重みを一身に背負わされた、真実の証人だった。
「若君。よもや、このままでいいと思ってはいないでしょうな。あなたにも心に秘めた願いがあるはずだ」
オズワルドは顔を上げなかった。
ダレルは懐から四つ折りにした紙を出して開いた。
「ラスムス。これが何かわかるか」
「辺境の保護地域に入るための許可証ではないか」
「そう。コーウェン家の印章が押された本物だ。この許可証を出せるのはコル・ファーガルの城主タイソンのみ。そうだな?」
「当たり前だろう。さっきからなにが言いたい。オズワルド様に妙なことを吹き込もうというのなら……」
「ラスムス」
ダレルは旧知の言葉を遮った。普段の彼なら絶対にやらないことだった。
「わたしはこれを、北方の森にある追いはぎの砦から見つけた。北方辺境領開拓事業、最後の難関と呼ばれたあの土地だ」
コル・ファーガルから遠く離れ、街道をそれた森の奥。山脈を越えた先にある果ての土地を調査するため、コーウェン家の先代城主は時間と金をかけて険しい土地を切り拓き、山奥に村を作った。そこは土が痩せて交通の便も悪く、お世辞にも豊かとはいえなかったが、野盗に襲われる心配もなく、地方から集められた開拓民たちが細々と暮らしていた。
「二十余年前、彼の地に移り住んだディラン様は、村長の強い後押しを受けて開拓の指揮を執ることになった。士気を上げるための、お飾りのようなものだったがな。まあ、あの方がどういうお人かはおまえも知っているだろう。周りから慕われて、それなりにうまくやっていたそうだ」
伝え聞いたことのように話したが、ダレルは当時、その様子をそばで見ていた。地図を広げた机を村人たちと囲んで、冒険の熱にうかされたように最果ての地への憧れを語るディランを。
開拓は軌道に乗っていた。そばを離れることに、ひとつも不安などなかった。
「だが、ディラン様が亡くなり……村からはどんどん人がいなくなった。今ではもう、老人がひとりいるだけだ」
聞くこと、見ることを頑なに拒んでいたオズワルドが、ゆるゆると顔をあげた。彼は呆然と、感情の抜け落ちた瞳でダレルを見た。
この事実を彼に告げるのは残酷なことだ。だが、知らないほうが幸せだと、真実を葬り去ること以上に不幸なことはない。
「すべての発端は、〈王の選定〉です」ダレルは言った。「オズウェルを生かすためとはいえ、フィオナ様はさぞ苦しまれたことでしょう。それこそ、病を得るほど……。そしてタイソンは、彼女の協力者ではあったかもしれませんが、味方ではなかった」
ダレルは許可証をオズワルドに渡した。
「正規兵か、傭兵か……。追いはぎを装った彼らは、辺境を自由に動き回る許可をタイソンから与えられていた。去る者は追わず、立ち入ろうとする者は殺し……実際、わたしも村へ向かう途中に不意を突かれて襲われました。そんなことを、彼らは何年も続けてきた。村が廃れたのは必然でした。いつかフィオナ様が娘を連れて山から下りてくるのを、あの男はずっと待っていた」
「……うそだ」
震える手の中で許可証がぐしゃぐしゃに潰れた。オズワルドは悲痛に顔を歪め、膝からくずおれた。
ラスムスが頭を押さえて首を振った。
「わ、わからん……。どういうことだ」
「タイソンは十年かけて村をひとつ潰したんだ。ディラン様が開拓の拠点にした、リズ殿の生まれ故郷を」
「なぜそんなことを……」
「人の本当の心は、魔道士にもわからんよ」
ダレルはそれ以上、多くを語らなかった。あまり人の心を想像で語ることはしたくなかったのだ。
ときおり発作的に起こる癇癪さえなければ、タイソンはむしろ実際的な人間だった。人望はないが仕事はできる。兄ディランと真逆である。性格だけ見れば水と油のような兄弟だったが、不思議と仲は悪くなかった。タイソンの癇癪と自己嫌悪をなだめられるのはディランだけだったし、ディランの公務をフォローするのはいつだってタイソンの役目だった。
もしかしたら、タイソンは、兄への義理を果たそうとしたのかもしれない。御者に物資を運ばせてその生活を支えながら。夫に先立たれたフィオナを、いつかハーマン家へ帰そうと。
項垂れたオズワルドの膝の上に、ポタリと涙が一粒零れた。ダレルは彼のそばに膝をついて、震える肩に手を置いた。
「……なんて薄情で、贅沢なやつだろうと思った」それは本当に微かな声だった。「人に恵まれておいて……何も持っていないほうが、いいだなんて。……だけど」
彼は手の甲で頬を拭った。
「そうじゃなかった。人が次々と立ち去っていく村で、父上にも、母上にも先立たれて……あいつは、持っていることが怖くなったんだ。また、なくすことが……」
ダレルは彼の肩を二度叩き、腕を引いて立ちあがるのを助けた。母親譲りの青い瞳は、もう涙に濡れてはいなかった。
「ダレル=リーヴ。俺はこれから、なにをすればいい?」
「あなたの人生だ。わたしからあれをしろ、何者になれ、と指図することはしません。ですが、ひとつだけ。オズウェルは死んだと言ったことだけは、撤回して下さい。リズ殿の前で」
彼は胸に手を当てて誓った。
「約束する」
+++
泥をかぶったように重たかった体が、急にふっと軽くなって、リズは自分がいよいよ死んでしまうのだと思った。
冷たくなって、力が入らないようになって。最後は胸から息が抜けていくのだ。父や母がそうして息を引き取ったように。
何かが頬をくすぐった。
ダレルの魔法の気配だ。しばらくなかったのに、死に際に出てきてくれたのだろうか。
今なら、その姿かたちが見えるかもしれない。
リズは目を開いた。
目を開いた先に、夢があった。
「やあ。ご無沙汰しておりました、リズ殿」懐かしい顔に、柔和な笑み。「ダレル=リーヴ、ただいま参上いたしました」
「ダレルさん……どこに行っていたの?」
「ご両親の墓前に、挨拶をして参りました」
リズの背中を支える手は、夢とは思えないほど頼もしかった。
「ありがとう……。ガントには会いました?」
「ええ。あの偏屈は変わりませんな。日がな一日山にこもって、なにか掘っていましたよ」
リズは笑った。
「ガントはね、穴を掘っているの」
「穴?」
「オズウェルとの約束で、山の向こうに通り抜ける穴を掘っているの。ずっと、本当にずっとよ」
ガントが鎚を振るう音を、毎日聞いた。年老いて、だんだん小さくなっていく背中に、不安を覚えなかったわけではない。だがそれでも山へ向かう後ろ姿を見るたびに勇気づけられた。
待っているのは自分だけではない。オズウェルは今もどこかで生きているのだ、と。
「そうでしたか……」
ダレルの向こうに暗い窓が浮かんでいた。リズは遠くを見た。薪がはぜた。胸の奥で何かが音を立ててずり落ちた。
「……ダレルさん?」
リズは年老いた魔法使いの、目尻の皺に触れた。くすぐったそうに目を細めるダレルと、目と目が合う。
「……私、生きているの?」
「もちろんです」
それが夢の終わりだった。
これまでの出来事を一気に思い出して、リズは勢い、ダレルの胸にすがりついた。
「ダレルさん! オズワルドの魔法使いが危ないの。動けないうちに始末するって執事が」
「大丈夫。ザハリアーシュが止めました」
「ザハリアーシュ……」
彼女は辺りを見回した。ドアのわきにオズワルドがいる。捜しているザハリアーシュの姿は、どこにも見当たらない。
「あなたが目を覚ますのを見届けて、出て行きました」
「……どこかへ行ってしまったの?」
「そんな顔をいたしますな。部屋を出てすぐそこにいますよ。わきまえた男です」
ダレルの声は優しかった。
彼はこうも言った。
「リズ殿。《鳩の翼》亭に帰りませんか」
「……帰りません」
「二人の子どもがじきに生まれます。奥方は、生まれる赤ん坊の顔をあなたに見せたがっていました」
リズは頑なに首を振った。
もう取り返しがつかない。何もかも失った。《鳩の翼》亭のことを思い出しても、胸が締めつけられるだけだった。
「……帰れないの」
リズは堪えきれずダレルの肩に顔を埋めた。
「私がいたら、また、テナールが来るわ。今度はきっと、バートさんとステラまでひどい目に遭わされる。リッツォーリさんだって言ってたもの。ただではすまないって」
目に溜めていた涙が、零れた。
「母上の言ったとおりだった。私、本当に、見つかってはいけなかったんだわ。ひとりになっても、死ぬまで山にいればよかった」
「悲しいことを仰いますな」
ダレルはリズの肩を包んで言った。
「お忘れですか。あなたが下りてきてくれなければ、わたしは今ここにいなかった。ごらんなさい。これが、あなたが救った命だ」
明るい光が満ちた。
風が吹き、花びらが舞い散る。花びらの触れた床から新たに花が咲いた。壁がなくなり、天井の蓋が取れて、いつしか辺りは見渡す限りの花畑になっていた。
リズは花のひとつに触れた。幻ではない、なめらかな花びらの感触があった。立ちあがり、彼女は風になびく髪を押さえた。
そこは、色とりどりの花々が咲き乱れる丘だった。これほど豊かな色彩に溢れた風景を、リズはいまだかつて見たことがなかった。
湖で鹿の親子が水を飲んでいる。近くに川のせせらぎが聞こえた。渡り鳥の群れが、風に乗って南に飛んでいく。
「綺麗でしょう」
声の違和感の正体はすぐにわかった。この幻の世界で、ダレルはまだ肌に張りのある中年の男だった。
歳がいくつでも彼の笑顔は変わらなかった。
ダレルは呆然とするリズの手をとった。
「辛い思いをしましたね。でも、もう大丈夫。あなたには世界一の魔法使いがついています。ほら、安心だ」
触れた手の先から、全身の強ばりがほどけていく。
ダレルの言葉は魔法のようだった。
一面の花畑が消えて、元の薄暗い部屋に戻ったとき、リズの心はもう悲しみに沈んではいなかった。ただ、真っ白に洗われた心の奥に、染みのように小さな傷が残っていた。
「ありがとう。ダレルさん」リズは微笑んで、目を伏せた。「……でも、オズウェルはもう……」
「そこにいますよ」
リズは我が耳を疑った。
ずっと壁ぎわで黙っていたオズワルドが、壁から背中を離した。
暖炉の前で彼と対面したリズは、その顔立ちを改めてよく見た。おぼろげな記憶に残る、父親の面影が呼び覚まされた。
「この十四年間……」
彼は言った。
「オズウェルは、誰にも見つからないように隠されてきた。おまえが村でひそかに育てられてきたように」
リズは彼の、憂いのこもった瞳を見つめた。
「ここに隠される前、俺はまだ六歳で……母上は赤ん坊を身ごもっていた。俺は、弟か妹が生まれてくるのを楽しみにしていたんだ。母上のそばに、ずっとくっついて。騎士みたいねってメニエに言われて、とても誇らしい気持ちになった」
懐かしい名前に胸が詰まる。それと同時に、リズは自分のなかで張りつめていたものが、急速に緩んでいくのを感じた。
この人なのだ。
「……初めてあなたを見たとき、父上を思い出したわ。でも、目だけは違ったの」
「そうだな。俺たちの目は、母親譲りだ」
この人が。
「おまえが突然ここを訪ねてきていたとしても、俺は信じたよ。リズ。……あんなことを言って悪かった。オズウェルは、俺だ」
息が震えた。リズは首から提げていた紐を噛み切り、彼の手に両親の指輪を握らせた。
会ったら、言おうと思っていたことがたくさんある。
「オズウェル……」
両親がどんなにあなたを愛していたか。
自分がどれだけ寂しい思いをしてきたか。
「どうした?」
オズウェルが困り顔で小さく首を傾げた。
呼びかければ、返事がある。指輪を受け取った彼の手は、温かな血が通い、確かに生きていた。
「私は、」
それ以上は、言葉にならなかった。
兄の手に自分の手を重ねて、リズは声をあげて泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます