第16話 レモンと塩 1.短距離とレモン
1.短距離とレモン
運動をすると、すっぱいものが欲しくなるよね。
それって私だけ? 糖分も必要だし、汗をかくから塩も必要。でも、私はやっぱり酸っぱさだ。
私は陸上の千五百と、三千の選手である。
短距離だけれど、この距離は難しいとされる。足の速さと体力、その両方がバランスしないとうまくいかない。逆にいうと、そのどちらも中途半端だから、ここで頂点をめざす。
ちょっとの挫折感と、だけど諦めの悪さと、この距離では輝けるのでは……? という希望をもって、ここを選んだ人たちと競う。
だからこの距離は難しい。
人は全力をだそうとするとき、息を止める。
重いものを持ち上げる、百メートルを走る……、そういうとき、息を止めて筋肉を最大まで緊張させる。
しかし千五百、三千は呼吸をつづけながら走り、酸素を十分にとりこんでいかないといけない。それに失敗すると、最後で必ず失速してしまう。酸欠で、体が動かなくなるのだ。
酸素がない方が全力をだせるのに、酸素がないと全力をだせなくなる。
この理不尽と戦って結果をださないといけないのが、千五百、三千という距離、ということ。
色々な意味で難しい……。
放課後、部活をするけれど、私はいつも一人。
たまに長距離の選手と練習するけれど、ペースがちがうので、私にとって練習にはならない。私から見ると遅すぎて、彼らからみるとラストスパートをずっとするようなものだから。
相手はスピードの練習になるのでいいかもしれないけれど、私にとって得るものはあまりない。
大体、この距離は陸上の花形でもない。注目は百や二百、もしくはフルマラソンであり、一万とかハーフの有望な選手が、そんな力もないのに四十二キロを走らされて失速する光景を、何度もみてきた。
この国では、おバカな先達が「根性で走り切れ」とか、二十も四十も変わらないとか、適当な理屈をつけて、スポンサーを獲得するためだけに、フルマラソンを走らされるのだ。
それはマラソンだけがテレビ中継されるから。それ以外の競技は、陸上の大会が中継されるときにさらっと流されるだけだ。オリンピックでも、中学の総体でもそれは変わりない。
マイナースポーツは、ずっと日陰。それこそ予算もつかない。もっとも私はお金がかからない分、まだマシだ。
円盤投げや砲丸投げ、やり投げなどは広いエリアと、防護柵などが必要なのに注目度が低く、それを練習する場所もなければ、その用具を置いてあるところも少ないのが現状である。
私もグラウンドで走れる機会はほとんどない。学校の周りを、距離を測って走っている。
そこそこ駅近で、人の往来も多いところだけに恥ずかしさもあるのだけれど、そうも言っていられない。だけど、私が学校の周りを走っていると、そのうち見物する人が現れた。
私のルックス? そんな自意識過剰ではないけれど、全力で運動をする人を応援したくなる感覚かもしれない。
しかし、学校の周りはあくまでふつうの道路であって、一ヶ所だけ道路を渡る、横断歩道があった。
もちろん、横断歩道は歩行者優先だし、車は一時停止が原則である。
私はそれを過信していた。ルールを守らない輩なんてたくさんいる。横断歩道があっても、一時停止ラインがあっても、それを無視して侵入する車はある……ということを失念していた。
むしろその日、いいタイムが出そうだと気合が入っていた。
そして横断歩道を走って渡ろうとしたとき、車がすごい勢いでつっこんできたのを見た。
ぶつかるッ‼ 死ぬッ‼
私はそう覚悟した。
でも次の瞬間、私は自分で決めたゴールラインに立っていた。
腕時計に目をやると、平凡なタイムながら、記録はのこっていた。
あれ? 私、車に撥ねられるところだった……よね?
もちろん痛みも、怪我もない。
疲労感も、三千を走り切ったときのそれだ。
でも、横断歩道からゴールとさだめたここまで四百以上はあり、そこを走り切ったのだろうか?
記憶がまったくない……。時間がそれなりに経過しているので、瞬間移動ではないはずだ。
でも意識にのこっていないから、時間がその通りに流れた……とも思えない。瞬間移動した……の?
「考えすぎじゃない? 蘭って、変なところで気にしぃだよね」
志尾飛 蘭――。私の名だ。ルックスはそれなりだと思っているけれど、陸上部であり、日焼けがひどい。試験期間中などで、日に当たらなくなると、すぐに白くなるから、私の本当の色がよく分からない……とよく言われる。会うたびに肌の色が違うのだから。
「私って、そんな神経質に見える?」
「変なところで……だよ。走るときに、手をグーにするとか、水をかくように空気をかいて走った方がいいかしら? とか……」
「それ、陸上部なら普通だよ。私は百とか二百とか、瞬発力を気にする距離じゃないし、長距離で細かいことを気にしなくてもいい距離でもないし、細かな差が勝敗を分けるから、だよ」
私は一所懸命にそう説明するけれど、友人はあまり聞いておらず「そんなに心配なら、彼に聞いてみれば?」と丸投げするように言った。
籟之目 叡智――。
同じ学校だけど、話をしたことはない。でも彼は一目置かれる存在で、一部では教祖的な信奉も集めていた。
ただ、本人がまったくそうしたことに興味なく、女性関係はだらしない……との噂もあって、積極的な交流は避けたい面もある。よろず困りごとの相談には乗る、とのことで話しかけてみた。
「瞬間移動?」
「正確にいうとちがうんだけど……」
私は状況をできるだけ正確に伝えた。車に撥ねられる、と思った瞬間に、もうゴールをしていたこと、などである。
「瞬間移動は、物理的に説明ができる。トンネル効果、と呼ばれるものだ」
「トンネル効果?」
「絶縁された中を流れる電気が、そこから漏れる……。絶縁体を通り抜ける、という現象は昔から知られていた。電子は通れないはずの場所をすり抜けて、逃げることができる。これがトンネル効果だ」
「それって、瞬間移動なの?」
「瞬間移動だよ。元の場所から消えて、絶縁体の外にふっと現れるからね」
「私のそれがそう、ということ?」
「それは分からない。情報が少なすぎるからね。でも、瞬間移動はマクロの世界では意外と色々な制約があって難しいが、ミクロではごく日常的に起きている、ということさ」
彼はニヤッといたずらっ子のように笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます