青い春は、科を学んで、物の理を知る

イカ奇想

第1話 序段 崩壊世界

     序段 崩壊世界


 体育館、その傍らに並ぶ水道――。

 こういう場所は、そも恋のおどり場……階段の途中にあるそれではなく、恋の行方がおどる……という意味でメインステージとなり得る場であり、青春という名の脈動をおどらせるところだ。

 特に少女が一人、運動部の練習の途中、汗みどろでそこにいるタイミングなら尚更だろう。

 肩から剥きだしとなった腕の、肘に水をかけ流して、火照った体のクールダウンとともに、赤く腫れたそこを冷やす。そうして恍惚とした表情を浮かべる姿は、何かがはじまる予感だ。

 そろそろもどろう……。

 接触した患部を冷やすとの口実で、サウナの体育館をとびだしたけれど、サボりと思われるのは少女にとって、本意でない。


 少女が蛇口をひねったそのとき、不意に背後から、両の胸を鷲掴みにしてくる手があった。お尻に硬くなったそれをおしつけ、汗で密着した服を通して敏感に刺激してくる。

 少女は文句をいおうと、ふり返って「ちょ……んッ⁉」

 その口は、生温かく湿ったそれでふさがれ、開いた唇のすきまから、ざらつくそれが滑りこんできた。

 口の中を、まるで勝手知ったところとばかりに蹂躙し、弄ぶようにこちらの舌に絡めてくる。

「ふッ……ん……んぁ……んぅ~……」

 優しく胸を揉みしだかれ、口の中、お尻、敏感なところはすべて制圧された。とろけきった脳を少女は必死で自制し、その手をふり払い、口の中のそれを押しだすよう身体を押した。

「ちょっとッ! 何するのよ⁈」


 そこにいるのは、悪意もなく、好色を見せびらかすでもなく、人畜無害の惚けた顔の少年――。

 少女は胸についたシワを気にするよう、二回ほど手で掃ってから、改めて少年と対した。

「何するの?」

「揉み馴れた胸がそこにあったから、揉んでみた」

 悪びれるでも、悪いとも思っておらず、満面の笑みで少女に応じる。そんな少年に少女はため息をつく。

「私たちが付き合っていたのは一年以上前。別れたカップルは、いきなりこんなことをしない」

「そうなの?」

 わざと惚ける少年のことは小憎らしくあるけれど、一度は惚れた弱みからため息をつくだけだ。

 少女はまだ早鐘のように打つ心音を知られたくなくて、殊更に落ち着きはらってみせた。

「そうなのよ。……で、どうしたの? 休日に学校にくるなんて珍しい」

「そろそろ世界が終わりそうだから、準備にきた」


 少年のデンパな話も、あのころは素直に受け入れられたけど……。

 籟之目 叡智――。

 背は高からず、低からず、特にかっこよくはない。でもその無邪気さに惹かれ……騙され、付き合ったことは少女にとって汚点? こうして別れた後も、身体を求められるのは汚辱?

 しかし汚れより、穢れより「世界が終わる?」

「多世界解釈って知っているかい?」

「パラレルワールドのこと?」

「厳密にはちがう。パラレルワールドは分岐、シュレディンガーの猫を曲解することでうみだされた、単なる思考実験さ。

 多世界解釈とは、量子力学でいう〝重ね合わせ〟の極大版だ。世界は複数の状態を同時にとりうる……という物理に基づいた現実の話だよ」


「えっと……。で、その多世界解釈が……何?」

「複数に存在するこの世界だが、そのうちの一つであるここが収束する」

「収束……どうして?」

「それは不明。でも推測すると、熱的平衡の乱れ……、熱的エネルギーによる波動の収束、と言い換えてもいいけれど、元々、熱的エネルギーが低くないと極大における重ね合わせは成立しない。つまり熱的エネルギーの乱れは、重ね合わせを崩壊させる理由だ。

 もしくは、第三者による観測か……」

 デンパね……。女の子はもっと見たいもの、知りたいことだけをそうするけれど、少年にとっては知りたいことなら空想、妄想の類ですら貪欲だ。学者はだしで、知の欲求に対しては無防備であり、今のそれはその一端だ。


「終わる? 終わったらどうなるの? 魂は? この想いは?」

「この世界に紐づくものは、すべて一瞬で消えるだろう。ただ想いは、それこそ空間を超えるとされるからね。別の世界の自分と干渉する。まれに記憶ちがいが起きたりするようにね」

 少女が訊ねるたび、沼にはまっていくような気がする。それは籟之目の〝妄想〟という沼だ。

「だから胸を揉んでみた。この記憶が、別の世界にいるボクらに、どう影響するかを知りたくて」

「そんな実験のために、私の胸を揉んだの? 呆れた……」

「呆れる必要は……あぁ、切り替わった」

「何の話?」

「胸を揉ませてくれよ」

「な……、何バカなことを言っているの⁉ 私たちが別れたのは一年以上前。今さら触らせるわけ、ないじゃない!」

「さっきも触っただろ?」

「そんなはずないでしょ! べぇ~ッだ‼」


 壱岐 緋色――。彼女はそそくさと体育館へもどっていく。

 でも、ふと自分の頬っぺたに何かがついていると気づき、親指でそっと拭う。少し粘りのあるそれは、自分の唾液……?

 何でこんなところに……? でも「緋色、どうしたの」と体育館の中から声をかけられ、慌てて親指を舐めとると「ごめん、すぐ行く」と、またサウナのそこへ走っていった。

 崩壊世界――。でも、そんなことは日常茶飯事で、ちょっとしたすれ違いが起きるだけ。

 こうして世界は途切れなくつづいていく。この物語も、序段で〝了〟ということもなく、継続する。これは青春と、世界に起きるちょっと不可思議で、コヒーレントな物語――。

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