11話

 ベルの音を聞いて敷居を跨いだ瞬間、眩しい光が顔に当たって、寛奈は目を細めた。

 とっさに手を前にかざし、光を遮って歩き出そうとする。だが、その足が止まった。

 三人は一列になって階段を下り、コテージの外に出た。ウロモモが先頭に立ち、ドアを開ける時、硝子越しに見えた景色は確かにまだ暗かったのだ。

 こんなに峻烈な日射しは、一体どこからやって来たのだろう?

「甘粕さん」自分の後ろを歩いていた史岐が、耳元に唇を寄せる。「あとで説明があると思う。今はとにかく、彼について行こう」

 寛奈は、こくこくと頷いて歩き出した。見覚えのない場所に出た事よりも、彼にこんな距離で話しかけられる状況の方がよっぽど火急の危機だ、と思った。

 森の中である事には変わりないが、最初に車を下りた場所とは明らかに違う。足元は砂利ではなく、踏むのが躊躇われるほど柔らかく育った萌黄色の草地だったし、霧はまったく出ていなかった。

 おとぎ話のようなクリィム色の陽射しがいっぱいに満ちている。最初の森がベックリンだとしたら、こちらはブリューゲルだ、と思った。絵を見て抱いた印象を、作者の名前でラベルして覚える寛奈である。

「寛奈」ウロモモが振り返って、大きな声で呼んだ。「こっちへ来て」

 寛奈は走って近づく。

 ウロモモは、少し藪を分け入った所にある木の根元を指さしていた。

「ウタバチが、この木の根っこにつまずいて、八つ当たりをした。放っておいても治るかもしれないけれど、その間、木には負担がかかる。寛奈なら何とか出来るか?」

 寛奈は頷き、木の周りをぐるりと見て回った。

 それほど高い木ではない。照葉樹で、幹には年季の入った隆起が見られる。子どもの頃の寛奈だったら、喜んで飛びつき、少なくとも下から三番目の枝までは上っていただろう。葉は光を吸ってみずみずしく輝き、蕾とも実ともつかない房のようなものが所々で揺れていた。

 二周目は、根元に視線を据えて歩く。

 すると、ウロモモが指さしていた箇所よりも少し後ろに、問題の箇所があった。

 直径は十センチメートルもない。だが、粘液だろうか、ねばついていて赤黒く、十分に禍々しい。

 見た瞬間に、ああ、帰りたいな、と思った。

 これから自分が立ち向かう相手の危険度を、そういったシンプルな衝動として感じ取ったのである。

 しかし、美蕗の大切なオルゴールが懸かっている。引く訳にはいかない。

 しゃがみ込むと、近過ぎて危険だと思った。寛奈は膝に手をつき、上半身を前に傾けて右手の人さし指を伸ばす。

 彼女が力を使う為に、道具も呪文も必要ない。ただ、静電気のように、ある程度近づくと、ぱちっと通うものを感じるのだ。

 その時も、乾いた木材を打ち鳴らすような高い音がした。

 寛奈にしか聞こえなかったかもしれない。

 彼女はわずかに刺激を感じて、手を引っ込める。こういう所も、ほとんど静電気と同じだ。

 顔をしかめながら指先をさすっていると、心配そうにこちらを見つめる史岐の視線に気がついた。

「大丈夫ですよ」寛奈は微笑む。「いつも、こうなるけど、すぐ治るんです」

「本当に消えてる……」ウロモモは木を見上げて呟いた後、ふいに厳しい表情になって寛奈を睨みつけた。「感謝する。だけど、ここでは絶対、おれの許可なしに使うなよ」

 不機嫌そうな顔のまま、彼は寛奈達の後ろを指さす。命令された訳ではないが、寛奈と史岐は揃ってそちらを振り向いた。

 森の小道の途中に、ドアだけがぽつんと立っている。コテージの入り口にあったものと同じデザインだ。硝子が填め込まれて、向こう側を見透かせるようになっている所も同じだが、覗き込むのが恐ろしく、寛奈はその付近には焦点を合わせなかった。

「帰りは、あそこから出れば、元いた場所に戻れる。道を覚えておけよ。おれはいちいち案内しないからな」

 言い捨てると、ウロモモはさっと背を向けて歩き出した。

 歩調に変化はないものの、非常に話しかけづらい雰囲気を背中から感じる。自分より一回りも二回りも小さい背中だから、それがアンバランスで、余計に怖かった。

「なんか、怒らせちゃったかな」ウロモモに聞かれないように、ごく小さい、しかし、史岐には届くボリュームで寛奈は呟く。

「たぶん、さっき見た感じだと……」史岐も抑えた声で答える。「甘粕さんの力は電流みたいなもので、出力を大きくし過ぎると、土地にとって必要な霊力まで焼き切ってしまいかねないと思ったから、気を張っているんじゃないかな。この土地を守っているのは彼だからね」

「小さいのに大変ですね」

「いや、見かけどおりの年齢じゃないと思うけど」

 やがて、道が下り坂になった。

 すり鉢状になった地形の底へ下りていく。さほどきつい勾配ではなく、全体的に日が当たっている。

 ここで、初めて人工物を見かけた。

 奥の方に、朽ちかけた祠が建っている。距離が遠く、中の様子はわからない。しかし、人が入れるような大きさではなかった。田舎の道端に建っているような、素朴な造りのものだ。

 坂を下っていくにつれて、それは見えなくなる。

 すり鉢の底には背の高い植物がたくさん植わっていて、その後ろに隠れてしまったのだ。

 寛奈の身長、つまり、一.五メートルほどの高さまで、こんもりと葉が生い茂っている。低木とも、また違う。幹はなく、満遍なく葉が茂って、それが円柱を成しているのだ。

 山に潜伏するレンジャのように、たくさんの葉を縫い付けたネットですっぽりと全身を覆って、棒立ちになったら、ちょうどこんな風になるのではないか、という見た目だった。

「ちょっと、そこで待ってて」

 ウロモモはそう言って、祠の方に走っていく。裏に回って、何かごそごそとやっていたが、やがて野菜を穫るのに使うようなざるをいくつか抱えて戻ってきた。

 ひょっとして祠を物置代わりにしているのか、と思ったが、寛奈は黙っている。

「これが、八尋壺の花豆」ウロモモは葉をかき分けて、奥の方にぶら下がっている莢を二人に見せた。「おれ達はここを、花豆の庭って呼んでいる。皆、ここの花豆を食べて生きているんだ」

「皆?」

 寛奈が訊くと、ウロモモは目顔で、少し離れた所にある株を示した。

 地面の近くで、白くて小さなものがひらっと動き、葉が擦れて音を立てる。一つに気づけば、他にも、似たような動きをする物体がいくつもあった。跳躍力と、そして、一瞬見えたのは、長い耳。

「兎……」史岐が呟く。「貴方の眷属ですか?」

「うん」ウロモモは頷く。「普通の兎も、たまに迷い込んでくるけどね。そいつらは花豆の霊力を取り込めないから、あまり長くは棲みつかない」

 ウロモモは、持っていた笊を無造作に寛奈達の方へ投げてよこした。

「ウタバチは八尋壺の中をふらふら飛び回っているから、こっちが追いかけていても埒が明かない。だけど、豆を穫っていたら、餌のにおいに釣られて姿を見せる事がある」ウロモモは、ぴしりと史岐に指を突きつける。「二人でくっついているなよ。人間が来る事自体が珍しいんだ。固まっていたら、向こうも警戒して、出てこないかもしれない」

「わかりました」史岐は頷き、笊を脇に抱えた。「あの、ウタバチ殿は、どんな見た目をしているんでしょうか? 貴方と似ていますか?」

「全然」ウロモモは素っ気なく言った。「まあ、目と……、口はあるよ。手は、必要だったら出てくる。真っ黒だ」

 笊の数は全部で三つだった。ウロモモもちゃんと、自分の笊を持ってきたのだ。客任せにしない態度には好感が持てる、と寛奈は思った。

 散開する前、ウロモモはポケットからすももの種のような塊を取り出して寛奈と史岐の笊に乗せた。

「おれもウタバチを探すけど、もし、あんた達のどっちかが先に見つけたら、それを高く放り投げてくれ。強い光が出るようになっている。それを見たら、残りの二人は、光が上がった方へ駆けつける事」

 寛奈と史岐の顔を交互に見ながら、ウロモモは真剣な口調で話した。

「ウタバチと遭遇しても、会話をしようと試みるな。驚いて声を上げたり、急な動きをしたりするのも駄目だ」

「とにかく刺激するな、って事ですね」寛奈は頷く。「あの、オルゴールは、わたしが持ったままでも大丈夫ですか? もし、ウタバチさんがオルゴールを嫌がる理由があるなら、一旦、どこかに隠しておいた方が良いんじゃ……」

「それはないから、大丈夫」

 ウロモモは簡潔に答えて、斜め右側の前方と、左側の前方を順番に指差した。

「じゃあ、二人とも散らばって。花豆の株は円状に植わっているから、一番外から中心に向かって、豆を穫りながらまっすぐ進んでくれ。三人ともウタバチに出会わないまま、中心で合流したら、えっと……、そうだな、全員、向かって右側に一歩ずれる。そうやって、ジグザグに中を進んでいけば、取りこぼしも少ないだろう」

 ウロモモは片手を腰に当てて、鼻を鳴らした。

「当然だけど、くすねるのも禁止だ。おれ達の大事な糧なんだから、丁寧に穫ってくれよ」

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