第2話 曖昧なきおく②

 ハンカチが飛んでいます。せっかく取り戻したと思ったのに、また風にさらわれてしまったのでしょうか?


「待って、待ってよ」


 少年は夢中で追いかけましたが、ふいに足を止めました。ここはどこ? という当然の疑問が、不思議と後からわいてきたのです。

 そうしてキョロキョロと辺りを見回した彼の口からは、ありえない言葉がこぼれました。


「景色が、ない?」


 そこは背景が描かれる前のキャンパスみたいに白い世界だったのです。家も木々も人さえも、全てがきれいに洗い流されたように何もありません。

 かろうじて見つけられたのは、自分の足から伸びた灰色の影だけです。いつの間にこんなところへ迷い込んでしまったのでしょう。


 何もない、誰もいない場所にひとりぼっち。寄るないその事実は、最近感じたばかりの孤独感を年端もいかぬ少年に強く思い出させました。


「っ!」


 唐突に、目の前に自分以外の何かが現れます。それはこちらに背を向けた、ひとりの少女でした。白さで目が痛くなる周囲を押しのける程の存在感を、黒々と輝く髪が放っています。


 自分よりも年上に見えました。幾らか背が高くて、二つに分けた髪をそれぞれきっちりと三つ編みに結った女の子です。けれども、服装は背中から下をすっぽりと覆う黒いマントのようなもののせいで分かりません。


「……?」


 眺めているうちに湧き上がってきた感情に、ネオルクは戸惑いました。後ろ姿からは会ったことのない相手だと思ったはずでした。それなのに、何故か。


「懐かしい?」


 向こうがこちらに気付いて振り返ろうとする気配を感じ、少年は目を)らして一歩踏み出しました。


 ◇◇◇


 目を覚ますと、背中がじっとりとれています。見慣れた天井に、自分が自室で寝ていると理解するまでに数秒を要しました。


「あれ、なんで」


 ベッドにいる理由を思い出そうとして、おさな馴染なじみと別れたあとからの記憶が曖昧あいまいであることに気付きます。

 飛んでいくハンカチを追いかけて、確かに掴んだはずの自分。そこへ夢のあの声がしたと思ったら、意識が薄れて――あとはよく分かりません。


「倒れちゃったのかな、僕」


 でも、夢とも現ともつかない場所で誰かに会ったような気がします。

 薄れゆく記憶は、この瞬間にも零れ落ちる砂のようにどんどん逃げて、そのうち「誰だったのか」は「本当に会ったのか」に変わっていってしまいました。


 カーテンに透ける太陽はすでに空高く昇っていて、今は何日の何時だろうと壁にかかったカレンダーを見ながら思います。


「誕生日、終わっちゃったのかな」


 そっと、楽しく過ぎるはずだった日に記された赤い丸を指先でなぞると、突き放すような冷たい感触がしました。一年で一度だけ訪れる特別な日。誕生日だけは遅くまで起きていても怒られません。


 両親はご馳走ちそうとプレゼントを用意してくれ、顔をほころばせる息子をいつまでも愛おしそうに眺めては微笑みあいます。今年もきっとそうなると信じて疑わなかったのに。


 とにかく事情を確かめようと、ネオルクは家族を探して廊下へと出ました。

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