健康の中身について


 どれくらいの時間、見つめ合っていたのだろう。


 那海の脳内には警鐘が鳴り響いていたが、咄嗟に身動きが取れなかった。


 黄色いシャツに、赤い眼鏡。ボロボロのスニーカーと、水が滴るビニール袋。記載された特徴と寸分違わず一致した人物は、濁った瞳で那海を捉えている。


 年齢は五十歳くらいに映るが、ひび割れた唇や粉が吹いた肌も相まって、見れば見るほど蜂谷と同世代にも感じてしまう。


 ぴたぴたと、水滴が廊下を叩く。


 その音を合図にするように、不審者の身体がゆっくりと右に傾き、左にずれる。それが歩行だと那海が理解した頃には、不審者の顔が目の前に迫っていた。


 生臭い息が、那海の鼻腔に侵入する。


 涙と吐き気。そして身の毛もよだつ嫌悪感により、那海の身体は弾かれたように自由を取り戻す。


 逃げるべきだ。

 那海の理性はそう告げていた。


「……すみません、ちょっとお時間いいですか?」


 しかし那海は不審者に声をかけ、その場に留まることを選んだ。住民に頭を下げて聞いて回るより、直接本人から聞くほうが話は早い。本能が、この機会を逃してなるものかと覚悟を決めたのだ。


 不審者が首を左右に傾げるたびに、縮れた毛髪が音を鳴らす。まるで、枯葉ばかりを身につけた木が風で揺れているようだった。


「なにかご用ですか」


 掠れた声が、那海の耳に届く。声を聞くまでは目の前の人物が生きているのかさえ定かでなかったが、少なくとも実在する人物だと那海は理解し、内心で胸を撫で下ろす。もしもの場合は、頬に右ストレートでも浴びせて逃げればいい。


「さいきん体調が優れないんですけど、何かいい健康法とかあったりしますか?」


 那海が問いかけると、不審者のひび割れた唇が真横に伸び、黄ばんだ歯をちらりと覗かせた。


「夜は眠れますか?」

「えっと、あんまり……」

「お腹はすきますか?」

「食欲もそこまで」

「じゃあ健康はありませんね」


 不審者はそう言って、いまだ水が滴り落ちるビニール袋に手を突っ込み、がさごそと掻き回した。中には何が入っているのだろうかと那海は覗き込むが、黒々とした物体が上下に乱れていることしかわからない。


「健康になりましょう」


 やがて、袋の中から真っ黒の箱が取り出される。その箱は手のひら程の大きさで、ガムテープで何重にも縛られている。そして『白』と書かれた紙が縫い付けられており、見るからに怪しい代物だった。


「……これはなんですか?」

「健康には食です。食は健康です。背筋が曲がらない人は肉を食べています。野菜は違います。肉を食べる人はいつまでも真っ直ぐです」


 突然の早口に、那海は思わず後ずさってしまう。いまいち要領を得ない話し方も、注意喚起のビラに記載があったとおりだ。対話を続けても、情報を引き出すのは難しいかもしれない。そう思わせるには十分すぎるほどのやり取りだった。


 那海はポケットから財布を取り出し、さっさと購入の意思を示すことにした。


「じゃあ、ひとつください。いくらですか?」

「お代は結構です」

「……え?」

「お代は結構です」


 流石に無料とは思っていなかったので、さすがの那海も面食らってしまう。 


「本当にいいんですか」

「お代は結構です」


 これは慈善事業なのだろうか。それとも別の目的があるのだろうか。様々な疑問が那海の頭の中で渦巻くが、答えにはたどり着けない。


 那海は頭を下げ、そそくさと逃げるようにして不審者の横を通り抜ける。ひとまず部屋に戻り、くららと一緒に箱を開けてみるしかなさそうだ。とはいえ、この不審者に住んでいる部屋がバレてしまうのは避けたかったので、反対側にある西階段を利用することにした。



「いや、フツー貰わないでしょ……」


 今治に聞いた話や、さきほどの一部始終をくららに説明するやいなや、排水溝に溜まった髪の毛を見るような視線を向けられてしまった。那海は「手っ取り早いじゃん」と反論しながら、箱をテーブルの上に置く。


「ちょっと、そこでご飯食べるんだからダメだって。床に置いて!」


 もとい、箱を床に置く。


「まずさあ、この『白』って書かれた紙は何?」

「なんだろう。健康に関係する単語なら白寿とかかもしれないね」

「……白寿って、いくつ?」

「九十九歳」

「そか、健康でいいね」


 那海はくららといつものように軽口を叩き合い、箱に巻かれたガムテープを開封していく。切れ端が何度も指にまとわりつき、わずかな不快感を募っていく。


 すぐに使うものなら、ここまで厳重にしなくてもいいのに。


 内心で悪態をつきながらも、ガムテープをすべて剥がし終える。黒い箱には粘着性の高い糊が大量に残されており、どう好意的に捉えても食品を扱う容器には見えなかった。


「えっとさ、那海。最初にハッキリさせておきたいんだけど、あたしは食べないからね?」

「なんで。病み上がりでちょうどいいのに」

「やだやだやだ、絶対に無理! なんか箱そのものが湿ってるし!」


 くららは立ち上がり、身振り手振りを交えて最上級の拒否感を醸し出す。


 そういえば、この箱を入れたビニール袋からは水が滴っていた。冷凍保存したものが常温で溶けだしたのか、もともと水分を多く含んだ食材なのか、まだ判別がつかない。


 那海はゆっくりと箱に手を伸ばし、蓋を持ち上げる。


 中には『白』と書かれた小さな小袋が入っており、袋の口は赤い紐でしっかりと縛られている。袋自体はもともと白色だったのかもしれないが、箱の色素が溶け出しているせいか、全体的に炭を擦り付けたような汚れ方をしていた。


 結び目を引っ張り、袋の封を開く。そして袋をひっくり返し、中身を手のひらに出してみる。咀嚼するような音と共に姿を現したのは、黒くて柔らかい固形物だった。


「なにそれ、なにそれ! キッッモ!」


 那海の背後で、くららはゴキブリを目にしたような反応で騒ぎ立てる。たしかに生理的嫌悪感を催す見た目だが、それよりも正体が気になった。


 那海は手のひらを口元に近づけ、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。


 まず感じたのは、消毒液のような強いアルコールの匂い。通常は肉や魚の臭みを消すために用いられるが、これでは臭みのベクトルが変化しただけだ。


「な、那海。もしかして食べるの?」

「ちょっと迷ってる」

「やめときなって。いきなりお椀に溜まった水を舐めたのも引……びっくりしたけど、それは洒落にならない気がするもん」


 くららの言う通り、固形物はリスクが高い。シンプルに毒が入っている可能性も否めないからだ。

 那海は食事を断念しつつも、固形物の正体をできる限りで確かめてみることにした。


 指先で固形物をつまみ、中心から割いていく。ゆっくりと繊維が解れていく感覚は、どこか鮪の時雨煮を彷彿とさせる。そのイメージに引っ張られているだけかもしれないが、畜肉ではなく魚肉のような印象を受けた。


「たぶん、魚……かな」


 魚肉といえば、定食屋『やまと』の嫌がらせに使われていたのも魚の肉だった。漁師町だけあって、食事だけでなく様々な用途で使いやすいのかもしれない。だとすれば、この健康食品もフードロスの一環である可能性だって否めない。


「駄目だ。調べれば調べるほど、恐怖に繋がらなくなってくる」


 那海は両手で頭皮を掻きむしり、大きく息を吐く。本格的に煮詰まっていた。


 すべての出来事を『シーサイドマンションうみねこ』に関連付けようと躍起になるせいか、解かなくていい部分まで紐解いてしまっている。本来ならば、触らないほうが恐怖の余韻を残せる部分だ。その勘所が尽く鈍っているせいで、空回りが続いているのだろう。


「どうしたの、那海」

「……玉ねぎの薄皮を剥いてるとさ、剥かなくていい部分まで剥いちゃうじゃん。そんな感じ」

「よくわかんないけど、あたしがバカだから頑張って例えてくれたのは伝わった」


 くららは釈然としない様子でありつつも、ゆっくりと頷いた。


「恐怖に繋がんないってことは、怪異とか関係ナシに田舎で流行してるだけの健康法ってこと?」

「ただ、『やまと』の裏にあるビーチと『ドライブインやまざき』の座敷牢には、間違いなく何かがあると思う。その二つに注目して、動画を作っていくしかないかな」


 那海はそう結論を下し、二つに割った固形物を袋の中に戻す。


「くららが探してくれた資料の不気味さとか、健康とか食とか、フックになりそうな要素だし使いたかったけど、蓋を開けてみたら普通なんだよね」

「普通……?」

「魚を食べて健康になるって思想が一般的すぎるな。日本人は昔から、縁起を担ぐのが好きだから。おせち料理なんて典型例だよ。数の子を入れて『子宝に恵まれますように』とか」

「たしかに、おせちってそんなカンジだよね。うれしいたけ! みたいな」

「よろこんぶだと思うけど」


 那海はくららにツッコミを入れつつ、自身が抱いた期待外れ感の正体について分析していく。


 不気味な風貌や、奇妙な問いかけ。迷惑電話の口コミサイトや地域の掲示板。極めつけは座敷牢。しかし、これらを見つけたときが恐怖のピークで、実際はただ様子がおかしいだけの一般人だった。他のホラーチャンネルなら受け入れられるかもしれないが、『ガランド』の視聴者は納得してくれるだろうか。


「あたしは結構、使えると思うけどなあ」


 しかしくららは、那海と反対意見を提示する。


「理由は?」

「んー、雑だもん。今治さんの話もそうだけどさ、なんか雑じゃん。逮捕されるのを恐れてないというか、目的のことばっかり考えて周りが見えてないというか」

「くららはそれが怖いの?」

「うん。根拠のない話を信じて、周りの目なんて気にせずに突っ走るのがさ、なんか――お母さんに似てる」


 だから、長生きするためにはなんでもする人たちだと思う。


 くららはそう呟き、那海の手元にある小袋をじっと見つめていた。







 

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