二章

708号室のインターホン

 那海とくららが■■町にやってきてから、丸二日が経った。進捗は順調だが、不穏な出来事が立て続けに発生しているので、精神的に良好とはいえなかった。


 那海が断続的な浅い睡眠から目を覚ますと、閉じきったカーテンの隙間からは橙色の光が差していた。那多部岬の一件で疲労が蓄積していたのだろう。身体のあちこちに鉛のような重みを感じ、なかなか起き上がることができなかった。


 それは隣のマットレスで眠るくららも同様らしく、布団を頭まで被りながらうつ伏せでパソコンを弄っている。


「……おはよ」

「おあよ、もう夕方だよ。今日はサボっちゃう? 資料まとめの日にしちゃおうよー」


 くららの言葉からは『このままダラけたい』という確固たる意思が滲み出ている。こうなってはブルドーザーでも動かないだろう。

 

 正直、那海も動く気はなかったが、あくまでも仕方なくといった雰囲気を醸し出しながら同意する。


「わかったよ。でも今朝の一件だけ確認したいかな。もしあの岬で死体が上がってたら、ニュースくらいにはなってるはずだから」

「あー、全国もローカルも調べたけどなんにもなかったよ。今日もぴかぴかの平和です」


 くららが唇を尖らせながら言う。予想通りではあったが、やはり気味の悪さが拭えない。なにもなかったのなら、早朝からあれだけの人数が集まる理由が説明できない。


 それに、あの場に居た者たちは明らかにこちらを探っていた。海岸を離れてからもまとわり付くような視線が何よりの証拠だ。


 これまでの動画制作でも地元住民から怪しまれることは多々あったが、それらとは根本から違うような気がした。


「……くららが纏めてくれた資料と、私たちが嗅いだ悪臭。そして飛び降り自殺の音に、不審な住民たち。これだけで動画になりそうな濃密さだね」

「たしかにねえ。注意喚起のビラもあるから前後編じゃ纏まりきらないかも。佐伯さんからいっぱいお金もらえるし、いっそのことババーンと一大企画にしちゃう?」

「それは『ドライブインの廃墟』と『山奥の幽霊屋敷』の出来次第かな。まだうまく『シーサイドマンションうみねこ』と繋げられるかもわからないし」


 那海は眉根を揉みながら、今後の進捗を密かに憂う。


 怪異の種が見つからないよりマシだが、見つかりすぎるのも困る。このままではただの捜査になってしまう恐れがあった。


「そういえばさ、このマンションって大浴場があるんだよね? 疲れ吹っ飛ばしにいこうよ!」

「……あー、そっか。説明してなかったか」


 那海は溜息を吐き、くららに『シーサイドマンションうみねこ』が老人ホームと化している現状を説明する。


 くららは最初こそ明るい表情を貼り付けていたが、大浴場のくだりに差し掛かるにつれ、顔のパーツがぐんぐんと中央に凝縮されていく。


「やだやだやだ、ばっちい! あたし、そんなお風呂絶対入りたくない!」

「私だって嫌だよ。だから部屋のシャワーにしときな」


 那海はぴしゃりと言いつつも、部屋にあるシャワーで妙な出来事があったことを思い出す。


 くららに伝えるべきだろうか。


 しかし、くららのことだから「そんな怖いお風呂ムリ!」と大声で喚き、残りの日数をすべて風呂キャンセルしてしまうかもしれない。汗をかかない冬場ならともかく、夏場は地獄である。


 シャワーの件をひとまず心の奥底にしまった那海は、不自然な間にならないよう話題を繋げた。


「ま、そういうことだから七階以外にはあまり寄り付かないほうがいいよ。変に感情移入してしまうかもしれないし」

「うん、そだね。てかさ、このマンションが姥捨山みたいになってるなら、あの宗教勧誘のおばさんってのも実在するかわかんないよね」

「たしかに鵜呑みにはしづらいかな。信頼できない語り手みたいなものだから」


 那海がそう呟いた瞬間、インターホンの音が鳴った。


 二人は呼吸を止め、顔を見合わせる。無限にも思える静寂を切り裂くように、もう一度インターホンが鳴らされる。無機質な音が、いつもより長く響いて聞こえる。


「……そ、そんなことってある?」


 くららがいまにも泣きだしそうな表情をしたので、玄関へ向かう役目は自然と那海に決まった。


 那海はできるだけ物音を立てないよう、しずかに歩を進める。


 その間にも、インターホンが二度ほど鳴らされる。まるで二人の在宅を知り得ているかのようだった。


 それでも那海は廊下の電気を点けずに、壁に手を這わせながら暗闇を突き進む。眼前に広がる黒は、いつか見た老人の口の中を彷彿とさせた。


 やっとの思いで扉に辿り着いた那海は、できるだけ音を立てないように深呼吸する。

 そして、加速する鼓動を無視しながら覗き穴から相手を突き止める。


 そこには、眼鏡を掛けた七三分けの平凡な中年の男が立っていた。


 まるで無印良品のカタログに掲載されてそうな出で立ちに、頑張れば那海でも殴り飛ばせそうなほど華奢な体躯。それらの視覚情報と、佐伯から聞いた特徴を結びつけ、この男こそが小手指だと確信できた。


 那海は安堵の息を漏らしながら、扉を開く。


「あ、どうも。小手指です」


 案の定、男の正体は小手指だった。


 那海が「どうも」と挨拶を口にすると、リビングから様子を窺っていたであろうくららもやってくる。しっかりと上段でフライパンを構えているあたり、抜かりなかった。


「二週間という短い期間ですが、お世話になる以上はいちど直接ご挨拶をと思いまして――」


 小手指の形式めいた挨拶が、那海とくららの脳を通過していく。校長の挨拶よろしく、聞いても聞かなくてもいいような言葉ばかりが並べられていく。


「は、はあ……こちらこそ会えて嬉しいです」


 那海が社交辞令を口した瞬間、くららが那海の隣にぴたりとくっつきながら満面の笑みを浮かべる。


「小手指さん。つまんない挨拶はどうでもいいから、注意喚起のビラ以外で変わったことがあれば教えてくださいよ」


 そして容赦ない一言が放たれる。誰に対しても物怖じしない長所と、誰に対しても気を遣えない短所がちょうど半々で出力されてしまったのだ。


 これには小手指も面食らったようだが『ガランド』は佐伯のお客様にあたる。

 小手指はあくまでも丁寧な態度を貫いたまま、記憶を探るようにして言葉を紡ぐ。


「変わったことですか。そうですね、お渡ししたビラ以外ですと、このマンションの住民がなんらかの業者に狙われているみたいで……」

「それって、振り込め詐欺のようなものですか」


 那海の問いかけに、小手指はやや曖昧に頷いた。高齢者が集うこのマンションは、悪徳業者からすれば絶好の獲物だろう。しかし反応から察するに、ただのアポ電ではなさそうだった。


「僕もよくわからないんですよ。ただ実害は無さそうなので、注意喚起するほどでもないかと思いまして……」


 歯切れの悪い回答。小手指は本当によくわかっていないみたいで、乾いた皮膚をぽりぽりと掻いていた。


「小手指さーん、じゃあその番号教えてもらっていいですかー?」


 ようやく話題に興味を示したくららが、スマートフォン片手に問いかける。


「あ、はい。市外局番から申し上げますね。0557-677-847です」

「んー、なるほどなるほど。いま電話番号でググってみたけど、変なクチコミが投稿されてるっぽいね」


 くららは目にも止まらぬ速度で親指を動かし、スマホを操作したのち、にやりと口角を吊り上げる。きっと良いパーツを見つけたのだろう。くららは小手指への挨拶もそこそこに、部屋の奥へと戻ってしまった。


 ヘアオイルの香りだけが残された玄関先で、那海は形式的な挨拶を済ませて扉を閉める。


「ねえ那海。私ちょーっと思いついたかも」


 そして、弾むような声で呼びかけてくるくららの元に向かい、後ろからスマホを覗き込んだ。

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