第32話

「……………………は?」


 美綴ちゃんが、ぽかんと私を見上げた。


「あと二十分です。場所は、」


「ちょ、ちょっと待っておねーさん。え、話ってそれ?」


「はい、そうです。すみません、言い出す切っ掛けがつかめませんでした。大事な話なのに……」


「それはいいけど──待って、今、お母さんがやってくるって言った?」


「はい」


 にわかに美綴ちゃんの顔色が変わった。はにかむ少女から、孤独に慣れた狼へと。


「なんで? あたし、会わないって言ったよね。なのにどうしてお母さんが学園祭に来るの」


「……それは」


 もちろん政隆さんは、美綴ちゃんの言葉を正しく美紅さんに伝えていたはすだ。だから、美紅さんは美鳳祭に来るつもりはなかっただろう。

 でも今日、彼女はここへ来る。美綴ちゃんから送られたチケットを手に。

 それは。


「もしかして、おねーさんが、呼んだの?」


 私が、そうするように頼んだからだ。


 †


 昨日、政隆さんから美紅さんの住所を聞いた私は、直接彼女と相対した。マンションのエレベーターを上がり、呼び鈴のボタンを押した。

 ドアの隙間から彼女が姿を見せたとき、思わず足がすくんだ。それは、


『──どちらさま?』


 美紅さんが、美しかったからだ。

 重ねた歳月を誤魔化すわけでもなく、なのに目尻の皺さえ彩りの一部にしてしまうような、そういう華やかさのある人だった。

 彼女は整った眉を顰め、試すように私の姿を検分した。大人。怖い。逃げたい。でも。

 声が震えないよう、私は答えた。


『九条美綴の、義姉です』


『美綴の……?』


 聞きたいことは幾らでもあった。

 どうして美綴ちゃんを捨てたのか。政隆さんと別れたのか。なぜ面会交流を断り続けたのか。美綴ちゃんのことをどう思っているのか。

 でも、言いたいことはひとつだけしかない。


『明日、美鳳祭へ来てください』


 美紅さんの目が揺らいだ。澄んだガラス片のような目は、美綴ちゃんによく似ている。ほんの少しだけ、それが気に食わなかった。


『……あの人からは、本人が拒否したと聞いたわ』


『美綴ちゃんは、まだ迷っています。だから最後の最後まで、選択肢を残してあげてほしいんです』


 私は息を吸い、一息に言った。


『明日、十四時に校門前へ来てください。美綴ちゃんが、あなたに会うかはわかりません。でも、彼女が会いたいと思ったときに、会えるようにしてあげてください』


『…………。』


 美紅さんは口を開き、けれど何も言わずに閉じた。

 話はこれで終わりだ。

 一礼して引き下がる私に、美紅さんが言った。


『どうして、そこまであの子の肩を持つの』


『え?』


『義理の妹なんて、唯の他人でしょう』


『それは……』


 何故って、それは。

 それは──

 言葉につかえた私を見て、美紅さんはわずかに目を細め、言った。


『──いいわ。十四時ね』


 と。


 †


 美綴ちゃんが私を睨めつける。目尻には美しい水滴が浮いていた。


「おねーさん、言ってたよね。怖いなら逃げていいんだって。なんで、こんなことするの」


「それは……でも、美綴ちゃんに後悔してほしくないんです」


「後悔なんてしないよ。お母さんには会わない。もう決めたんだから」


「わかっています。でも、美綴ちゃんはそれでいいんですか」


 ガラスペンは、引越しの日から机に出してあった。なのに仕舞われたのは最近だ。

 彼女は何度、母親への手紙を書き直したのだろう。


「いいって言ってるじゃん」


 美綴ちゃんの声色に棘が混じる。


「おねーさんには関係ない……いや、あるか。あたしがお母さんと暮らすようになれば、あの部屋はおねーさん一人で使えるもんね。やっぱり、お邪魔だった?」


「そんなこと、言ってません」


「嘘。そう思ってるから、余計なことしたんでしょ」


「違います。私はただ、」


 ただ、なんだろう。

 私はどうして、美紅さんの元へ行ったのか。

 ここで会わないと、美綴ちゃんはきっと後悔する。未練があるなら会っておくべきだ。そう思ったから、余計な世話を焼いた。

 でも、本当にそれだけだろうか。

 政隆さんにお願いしてまで、私が美紅さんの元へ向かった理由。

 それはつまるところ、私が。

 美綴ちゃんが、ではなく、私が──


「もういい」


「あ、」


 美綴ちゃんがカーテンを引いた。私たちと世界を隔てていた防壁が、今度は私と美綴ちゃんの間を分かつ。

 軽やかに上履きの足音が遠ざかる。

 私はカーテン跳ね除けて、生徒会室を出た。

 左右の廊下を確かめる。

 辺りには賑やかな祭りの喧騒だけが満ちていて、美綴ちゃんの後姿は、どこにも見当たらなかった。


 †


 なんだかこんなのばっかりだ。

 美綴ちゃんが逃げて、私が追いかける。私たちはあの夜からずっと、追いかけっこを繰り返している。

 二階をぐるりと一回りして、私は美綴ちゃんを完全に見失ったことを理解した。

 どうしよう。メッセージに既読はつかない。当然、通話も繋がらなかった。私はまだ美綴ちゃんに、美紅さんとの待ち合わせ場所を伝えていない。


「ひっ」


 スマホのアラートが鳴った。通行人の視線が集まる。私は慌てて音を止めた。

 約束の時間まであと十五分。午後に入って、廊下の人出は増すばかりだ。今が祭りのピークだろう。


「すみません、どいてもらえますか。ごめんなさい……」


 通話アプリの呼び出しを続けながら、人波を掻き分けて歩き回る。駄目だ。到底、居場所もわからないたった一人を探し出せるような状況じゃない。

 美鳳祭の来場者は何人だったか。生徒数が四百人として、来場者が八百人。つまり推定で千人以上がこの校舎に詰め込まれているのだ。そんな中、どうやって逃げる彼女を捕まえる?

 無理だ、と思った。できっこない。


「美綴ちゃん、どこですか……」


 泣き言めいた呟きに、通行人が振り返った。保護者らしき女性は怪訝な顔で私を一瞥し、そのまま立ち去っていく。

 踏み出す足がずしりと重い。何をやっているんだ、私は。自分の不甲斐なさにとうとう視界が滲みだす。

 そのときだった。


「瑪瑙ちゃん?」

 

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