第10話

 自転車を飛ばせば、駅前までは十五分と掛からない。駅構内へ続く階段は、ひっきりなしに大人や大学生らしき人たちが出入りしていた。

 バスロータリーを抜けて、その先にあるゲームセンターの前で自転車を停める。

 入り口に立っただけで、賑やかな音の波が押し寄せてきた。怖い。ここは私が来ていい場所じゃない。

 おそるおそる中に入る。


「み、美綴ちゃん……どこですか……?」


 筐体の光が照らす店内は、仄暗くて騒がしい。

 なのにお客さんの姿は余りいなくて、なんというか、綺麗な廃墟のようだ。

耳さえ慣れてしまえば、想像とは違って、むしろどこかうら淋しい場所だった。


「美綴ちゃん……」


 幅の狭い階段を登って二階へ進む。フロアの隅から人の気配がした。

 近づいてみると、はたして美綴ちゃんだった。性急に電子音を鳴らす筐体の前に立ち、光る鍵盤を模したパネルを熟練のピアニストのように叩いている。

 そっと覗いた画面を見て、ようやくこれが何か分かった。音ゲー。アプリで少しだけ触れたことがある。不器用な私と相性が悪くて、すぐアンインストールしてしまったけれど。

 私は少し下がって、画面に向き合う美綴ちゃんを見つめた。

 上手だ。プレイに迷いがない。相当、やり込んでいる。

 きっと、長い時間をかけて。

 この子は、どれだけの時間をこうして過ごしてきたのだろう。私と違って、ひとりが嫌いで寂しがり屋のこの子が。

 やがて曲が終わり、美綴ちゃんが振り返った。


「おねーさん」


「帰りましょう、美綴ちゃん。もう、おうちに帰らないといけない時間です」


「あれ、もうそんな時間?」


「そうですよ。もう八時なんです。だから帰らないと」


「八時って、まだ八時じゃん」


「え?」


「あー。あたし、いつもは十時くらいまで外にいるからさ」


「じゅっ……」


 絶句してしまう。


「どうしてそんな時間まで」


「だって、家にいてもやることないし。ヒマで死んじゃうよ」


「そんな、いっぱいあるじゃないですか」


「例えば?」


「ゲームとか、読書とかあと宿題とか」


「ゲームやらないし、本読まないもん。宿題は玲奈に見せてもらうし」


「だ、駄目ですよ。宿題は自分でやりましょう。本も、面白いですよ。そうです、お勧めの作家がいて」


「とにかく、家にいてもつまんないんだもん。寂しいし」


 理解できない。自分の部屋ほど楽しくて寛げる場所はないのに。

やっぱり私とは住んでいる星が違う。


「だから、こんな時間までお外で遊んでるんですか?」


「うん。あ、でもパパが帰ってくる前には家にいるようにしてたよ」


 私は頭を抱えた。中学生の夜間外出。本当に補導される可能性もあるし、なにより危険だ。何かあったらでは遅い。

 とはいえ、美綴ちゃんはときに窓から逃げ出すことも厭わない行動派だ。門限を決めたところで守ってくれるかどうか──と考えたところで、これでは私はなんだか彼女のお母さんみたいだなと思う。

 私は姉であって母親じゃない。門限を押し付けるのではなく、自主的に帰ってきてほしい。私たちの部屋へ。

 美綴ちゃんが、こてんと首を傾げた。


「おねーさんは、あたしにもっと早く帰ってきてほしいの?」


「当たり前じゃないですか。夜は危ないんです」


「でもおねーさん、一人の方がいいって言ってたじゃん。あたし、お邪魔じゃない?」


 お邪魔。

 昨日、窓から姿を消したときの書き置きが脳裏を過ぎる。


 ──なるべくおじゃまにならないようにするから、なかよくしてね。


 美綴ちゃんは桜色の唇を尖らせ、不安と、他の何かが入り混じった目で私を見ている。

 

「……美綴ちゃんは別ですよ」


「ほんと?」


「はい。義理でも、姉妹ですから」


「じゃあ、おうちにいるときは、おねーさんが遊んでくれる?」


 おうちで遊ぶ。それなら概ね、私の得意分野だ。もはやプロと言っても過言ではない。過言のほうがよかった気もする。

 私は頷いた。


「はい、もちろんです」


「なら帰るっ」


「ちゃんと宿題もするんですよ」


「仕方ない。おねーさんが教えてくれるなら、やってあげてもいいよ」


「なんで上から目線なんですか」


「にへらっ」と笑って、腕に抱きついてくる。背丈は私の顎くらいだけど、二の腕に押し付けられた膨らみはむしろ私より大きい。

 なのに、なんだか大きい子供みたいだ。

 肩に頬擦りしてくる彼女がかわいくて、懐いてくれた野良猫みたいで、思わず口元が緩んでしまう。


「おねーさん」


「はいはい、なんです──っ!」


 頬に、啄むような感触。

 私は石になった。

 美綴ちゃんは、「にへらっ」という感じの笑顔を浮かべて言う。


「えへへ、ちゅーしちゃった」


「ちゅー、って……どうして」


「んー、見つけてくれたお礼? もしかして、ヤだった?」


 呆然としている私に気づいて、美綴ちゃんが不安そうに眉尻を下げる。

 頬へのキス。もしかして、彼女にとっては普通のコミュニケーションなのだろうか。

 わからない。何しろ異星の人だ。

 ただ、嫌だったかといえば──ええと。

 私はどうにか口を開いた。


「その。こういうのは、いきなりは駄目で」


「じゃあ、言ったらしてもいい?」


「それは……」


「だめ?」


「だめかどうかは、その時々というか」


「じゃあ、もう一回したい。だめ?」


「う……」


 甘えるような上目遣いに、つい、ほだされそうになる。

 ……頬へのキスなら、まあ。いいか。

 いいのかな。でも、ある意味で家族らしいかもしれない。ちょっと外国風だけど。


「……あと一回だけですよ」


「うん、わかった」


 頬に細い指が触れた。来るとわかっていると、かえって緊張してしまう。私はぎゅっと目を閉じる。

 唇に吐息が触れた。

 ──唇?

 直後。ほんの一瞬、溶けそうな柔らかさが押し付けられて、すぐ離れる。

 呆然としたまま、瞼を持ち上げる。

 すぐ目の前に、美綴ちゃんの顔があった。


「…………な、な、なんで」


「え? したくなっちゃったから」


 そんなあっさり。野生の獣じゃあるまいし。


「あの、美綴ちゃん。私たちは義理とはいえ姉妹なので、おくちのキスは駄目です……」


「えー」


「えーじゃなくて……と、とにかく、はやく帰りましょう」


「はぁーい」


 私の後を美綴ちゃんがついてくる。

 私は手で口を覆った。熱い。頬も唇も鼻も、手のひらが触れるどこもかしこも溶けてしまいそうなくらい熱かった。


「今日の晩御飯、なにかなぁ。おねーさん、知ってる?」


 平然と美綴ちゃんが尋ねてくる。ああもう、人の気も知らないで。


「ねー、おねーさん。聞いてる?」


「…………。」


 悪いけど、今は返事ができない。ご飯だって、何が出てきても喉を通る気がしない。

 足早に、逃げるように階段を降りていく。

 まとまらない思考が、ぐるぐると渦を巻いていてとりとめない。でも、仕方ないじゃないか。だって。


 だって、一応──はじめてだったんだから!

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