義妹と聖域

深水紅茶(リプトン)

異星人みたいな義妹

第1話

 人が口づけを交わす様を、生まれて初めて目の当たりにした。

 朝で、春だった。通学路沿いにある市営公園に、ソメイヨシノが咲いていた。敷地を囲む花壇の土は黒く湿っていて、仄かに雨の匂いがした。

 二人は桜の下で、黒く捩れた幹に隠れるようにキスをしていた。

 目を逸らせなかったのは、片方がスーツを着た女性で、もう一人がセーラー服を着ていたからだ。

 私はそのセーラー服を知っていた。白い生地に浅葱色のカラー。レモンイエローのスカーフ。この辺りでは有名な名門女子中学校の制服だ。

 大人と中学生。


 ──事案だ……。


 そう思った。

 少女は華奢で背が低くて、よく出来た人形のように愛らしかった。肩口で切り揃えたボブカットは嘘くさいほど真っ黒で、朝の光で天使の輪ができていた。

 女性が長財布を取り出して、少女にお札らしきものを手渡した。

 清々しいくらい、事案だった。

 家からおよそ徒歩七分。空気が澄み切った朝の公園で、堂々と事案が起きていた。

 不意に少女が振り返る。

 目が合った。

 事案系少女はぱちぱちと瞬きをして、何故か近づいてきた。

 立ち竦む私に向かって、花壇越しに「にへらっ」と微笑む。

 

「おねーさん。ひょっとして、興味あるの?」


「ひっ」


 興味。興味って何に。まさか、事案的行為に?


「な、なな、ないです。全く、これっぽっちもないです」


「おねーさん線細いし可愛いから、全然いけると思うんだけど」


「いけません。無理です。絶対、無理です」


 いったいどこの誰が、こんな枯れ木みたいな身体の女子高生にお金を出すというのか。そもそも怖すぎて嫌すぎて無理がすぎる。


「えー、でも──……」


 少女の動きが止まった。

 まじまじと私の顔を見つめ、何かに気づいたように首を傾げる。


「おねーさん。もしかして、あたしのこと知ってる?」


「い、いえ。まったくもって初対面かと」


「ほんとに?」


 じー、っと私の顔を見つめる少女。

 はっとした。まさか、これは世に言うナンパというものでは。人生初のナンパが年下、それも女の子からになろうとは。

 とにかく、こういうときは──逃げるしかない!


「ひ、人違いですのでっ」


 私は回れ右で駆け出した。


「あれぇ、おねーさーん?」


 高く澄んだ、小鳥が鳴くような声を無視して走る。

 外には怖いものがたくさんある。早くお家に帰りたい。

 たったいま家を出たばかりなのに、そんなことを考えていた。


 †


 世界で一番好きな場所は? と質問されたら、私の答えは決まっている。

 自分のお部屋だ。

 ふかふかのセミダブルベッドに、イルカのぬいぐるみ。ゲーム機とモニター。推し作家のサイン本。電子書籍が詰まったタブレット。静音除湿器。

 ひとりきりの空間には、波も風もない。ただ、穏やかに凪いだ時間だけがある。

 女子高生が一人で使うにはやや広い、八畳半の子供部屋。ここに留まっている限り、誰かを傷つけることも誰かに傷つけられることもない安地。

 私の部屋は、まさしく聖域だった。

 ──ただし、今日までは。


「……はぁ」


 放課後。

 人もまばらな四月の教室で、私は教科書をスクールバッグに詰めていた。

 より正確には、詰めるフリをしていた。

 さらに言えばこれは時間稼ぎや悪足掻きなどというべき行為であって、とにかく私はどうにか未来を先延ばしにしたかった。

 帰りたくない。

 どうしても、家に帰りたくない。

 なんならこのまま学校で一晩明かしたい。

 自分で言うのもなんだけど、私、佐古瑪瑙は生粋のインドア至上主義者だ。お家大好き人間だ。普段なら誰より先に教室を抜け出して、とっくに家路に着いている。

 でも今日は──今日からは、まるで事情が違うのだ。

 ぴろんとスマホが鳴った。チャットアプリの着信音。

 もちろん、送信者は母だった。


『いよいよだね! 今日は奮発してお寿司です。瑪瑙ちゃんも早く帰って来てね』


「うぁあぁぁ……」


 ずがん、と気持ちが重くなる。

 か、帰りたくない。心の底から帰りたくない。たとえお高いお寿司が待っているとしても帰りたくない。

 だって、いよいよ今日なのだ。


 母の再婚相手とその連れ子が、私の家で暮らし始めるのは。


 見知らぬ相手との同居! 共同生活!

 いったい私がどんな罪を犯したというのだろう。前世か。前世の罪なのか。

 あぁあああぁぁあぁ。


「本当に……今日は、人生で最悪の日です」


 最後の一冊。残った数学の教科書を丁寧に詰め込んで、ゆっくりとジッパーを綴じる。

 藍色のスクールバッグに、窓から迷い込んだ桜の花弁がふわりと落ちた。


 折しも季節は春。まさしく出会いの季節だった。


 まったくもって冗談じゃない。一年中、ずっと冬だったらいいのに。

 それなら年中炬燵に入っていられる。どこへ向かうこともなく、亀のように。蝸牛のように。

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