貴族教師マリア
Singo
学園奮闘編
<episode1> 公国の叡智 マリア・エスコバル参上!!!
「君には今まで臨時に5年C組を受け持って貰いましたが、今日から此の方にクラスの担任になって頂きます…」
朝の朝礼を終えて校長室に呼ばれた僕は、そこに入った瞬間に余りにも現実と掛け離れた、彼女の異様な姿に愕然としていた。
大学を卒業したまま教師になって3年になるが、彼女は明らかに25歳の僕より年下で、あどけなさの残る17、8の少女にしか見えなかった。
しかもクラスの担任を受け持つというのに、その出で立ちは余りにも突拍子も無く、教育の場には不釣合いで、ふざけているとしか思えない。
「ご苦労様でしたね…美濃又先生はこれから副担任として此の方のサポートをお願い致します…」
しかし校長は、これでもう大丈夫とでも言いたげに誇らしげな顔をしながら話を続け、僕は摩訶不思議なその雰囲気に混乱して、どうしたら良いのか分からなくなっていた。
「こ…此の方がC組の担任をされるのですか?……随分、変わった格好をしていますし、まだ若く見えますが…大丈夫ですか?」
教育者として見た目の事を口にするのはタブーだと分かっているのに、僕は彼女の不釣合いな姿から目を離せずに思わずそう口にしていた。
「人を見た目で判断しちゃイケませんよ…江洲小原先生は凄い人なんです…」
しかしそう言いながら何故だかウットリとしている校長は、普段とは全く違って目下の者を見下す態度など微塵も見られなかった。
贅肉タップリのパンパンに膨らんだその顔には満面の笑みを浮かべ、彼女にチラチラと目を向けながら諂う様子は媚びているとしか思えない。
そんな校長とは対照的に冷ややかな目でそれをジッと見据える彼女は、幼さの残る見た目など感じさせないくらい堂々としていて、その佇まいには安易に近付いてはイケないと思わせる程の風格まで漂っていた。
「公国の叡智、マリア・エスコバルと申します…宜しくお願い致しますわ…」
中二病を患っているかの様な恥ずかしい事を言ってるのに、きりっとした顔でそう口にする彼女は堂々としていて少しも臆している様子はない。
ドリルの様なツインに束ねたブロンドの巻き髪をユラユラと揺らし、軽くお辞儀をする色白で整ったその顔立ちはどう見ても日本人とは思えなかった。
しかも煌びやかな赤のドレスに装飾品まで身に着けた彼女の格好は、まるで王国のパーティーに出席する中世のお姫様の様で学校に来る先生の姿ではない。
混乱する僕は何を言って良いのか分からずに、ポカンと口を開けたまま汗をダラダラと流し続けていた。
「よ…宜しくお願いします…美濃又です…」
状況が把握できずにオロオロする僕は、引き攣った顔をしながらもそう言いって、はにかむのが精一杯だった。
こんな素っ頓狂な格好をした人を「今日から担任になる先生だよ」とクラスの皆に紹介しても、僕の頭が可笑しいと生徒たちに疑われてしまうだろう。
しかも<公国の叡智>などという恥ずかしい文言を付けて、自らの事を紹介する人など痛い人としか思えない。
しかし校長はそんな苦悩も分からずに「それでは美濃又君、江洲小原先生を受け持ちのクラスに案内して差し上げて下さい」と、満面の笑みを浮かべながら僕たちを校長室から送り出していった。
クラスに向かって静まり返る廊下を進む中、未だに混乱する僕は頭の中で色々な事を考え続けていた。
こんな幼さの残る痛い女の子が、あの問題児だらけの子供たちが居るクラスで、やっていけるとは到底思えなかった。
教員免許すら持っていないのではと本当は疑ってるのに、彼女の落ち着いた貴賓の漂う雰囲気に飲まれて、何も言えずに教室まで辿り着いてしまっている。
扉を開けると騒がしかった教室の中は一気に静まり返り、初めて彼女を見た生徒たちは未知のモノでも見たかのように、目を点にして次から次へと固まっていった。
居た堪れない程の緊張した空気が張り詰める中、意を決して教壇に向かおうとすると、僕を差し置いて前に出る彼女は颯爽と教壇に立ち、優雅な振る舞いを見せながら生徒たちを一周する様に見渡していった。
瑠璃色の瞳で周りを見渡す彼女の顔は、今までの人形の様な無表情さが嘘であるかの様に、ニコニコと微笑んでいて僕は少しだけホッとしていた。
クラスの子供たちもそんな彼女の和やか表情に、一気に緊張の糸が途切れて、またザワザワと騒ぎ始めていく。
「なに…あの格好……姫?……姫なの?」
「が…外国人じゃん…」
「どこかの国の偉い人が視察に来たの…?」
生徒たちは思いつくままの失礼な事を、遠慮なく口にしているというのに、彼女は少しも動じる気配も無く、ニコニコと微笑みながらゆっくりと口を開いていく。
「みなさ~ん、ごきげんよう~」
まるで西洋人形の様な美しい佇まいを見せながら発せられるその言葉に、度肝を突かれた生徒たちはまた一様に口を閉ざし始めていった。
映画の中から飛び出して来たような異国の女性が、吹替も無いのに流暢な日本語で会話をしているのが、不思議に思えて混乱でもしているのだろうか。
誰もがポカーンと口を開けたまま、ニコニコと笑う彼女の顔を見て、時が止まった様に固まっている。
僕は一見和やかに見えるこの場の雰囲気に、何故だか嫌な予感を感じながらも、彼女の何とも言えない存在感に圧倒されて微動だにすることが出来なかった。
「あなた方はワタクシとは違って只の庶民です…」
案の定ニコやかに笑う彼女の口から語られる言葉は、何故だか上から目線で怪しげな方向に向かいつつある。
しかし穏やかな表情とは全く真逆の彼女の毒づいた言葉に、教室中の誰もがオロオロするばかりで口を挟める者など居るはずも無かった。
「高貴なワタクシとは全く真逆の虫けらです………ですから…………分かりますよね…」
教育者にあるまじき事を平然と言っている、彼女の顔が少しずつ険しくなり、教室の中はピリピリと張り詰めた空気に包まれていく。
いつの間にか笑顔の消えたその顔は氷の様に冷たくなって、教室の誰もがそんな表情に目を見開きながらゴクリと息を飲み込んでいった。
「まずはワタクシに敬意を表し平伏しなさい!!」
教室に消魂しく響き渡るその声と共に、雷に打たれた様な衝撃が一気に走り、誰もが唖然としてポカーンと口を開き始めていく。
漫画の効果音の様に「どーーーーーん!」という文字が背後に見える程の、堂々としたそのビジュアルは途轍もなく華麗で、何故だか清々しい雰囲気まで漂っている。
しかし余りにも唐突なその言葉に、僕は正直言って『何言っちゃってんの?この人…』と戸惑う事しか出来なかった。
周りを見渡せば生徒たちは「わぁ~パワハラだぁ~」と言いたげに、口をパクパクさせながら青ざめている。
しかし誰もが呆然と固まる中で、クラスの中心人物ともいえる伊藤晴文という生徒が席を立ち、彼女に抵抗する様に異論を唱えていった。
「教師の癖に何言ってんの?…誰もそんな事する訳無いじゃん!…それパワハラだよ…」
伊藤君の言ったその言葉を聞いた時、彼女の顔が一瞬クスッと微笑んで見えたのは気のせいだろうか。
「それ………本気で言ってますの?」
そう言いながら少し悲しげに伊藤君を見る彼女の眼差しは、失望した我が子を叱る母親の様な哀愁が漂っていて、とても優しく見えた。
そんな彼女の慈愛に満ちた様子に怯む伊藤君は、いつもの強気な姿勢が嘘の様に、思わず目を逸らして顔まで背けていく。
「他の皆さんも同じ考えという事で宜しいかしら…?」
クラスのリーダーとも言える伊藤君が敗北したかの様な、この状況で何かを口にできる様な人物がここに居るはずも無い。
「……………」
シーンと静まり返った教室の中で、ゆっくりと周りを見渡して反応を伺っているのに、誰も彼女の顔を真面に見ることが出来ずにうな垂れている。
「なんと嘆かわしい事でしょう…ワタクシまともな教育すら受けてこれなかった、あなた達が不憫でなりませんわ…」
そう言って教室を見渡す彼女の顔は本当に寂しげで、教壇に立った時の意気揚々とした感じは完全に失われていた。
「きっとアナタ達は世の中の仕組みなど全く教えられずに、これまで生きてきたのでしょうね…」
更に涙まで流して生徒たちを哀れむその姿には、偽りなどは感じられなくて教室の誰もが、また彼女の顔に一気に目を向けて行く。
しかし続けざまに「いい歳をして…」と言った後、少し間を取る彼女の顔が徐々に険しくなり、その何とも言えない緊迫した空気に生徒たちが次から次へとまた息を飲んでいく。
「恥を知りなさい!!!」
カッと目を見開きキメ台詞の様に言い放った彼女の言葉と共に、教室の中を激しい衝撃が走り抜けて、生徒たちは石の様に固まっていった。
さっきと同様に「どーーーーーん!」という漫画の効果音まで背後に見える彼女の迫力に、ひきつけを起こす生徒まで現れ、教室の中は混乱する一方で治まりが付かなくなっている。
『このままだと僕まで巻き込まれてしまう…』そう思った僕は慌てて間に割って入り、オロオロしながらもこの場を治めようと彼女に声を掛けていく。
「ち、ちょっと先生…いったい何を言っているのですか?」
「なぁに?美濃又…下賤な者の分際でワタクシに意見を述べようと言うの!?」
僕の方が年上なのにいきなり呼び捨てにされてショックを受けながらも、更に見下されている様な粗末な扱いに心の中は混乱するばかりだった。
しかも取り返しの付かない事を言ってしまったというのに、彼女は悪びれるどころか落ち着き払って教室の誰もを見下している。
自分が凄いと勘違いしている様なこんな横暴な人間に、僕の話が真面に通じるとはまるで思えない。
しかし教師生活が終わってしまうかも知れないこんな状況で、僕に躊躇っている余裕などある筈も無かった。
「せ、先生…教師がそんな発言をしたら色々と問題になりますよ…」
「そうだぞぉー明らかなパワーハラスメントじゃん!」
僕の言葉で一度心が折れてしまった筈の伊藤君が、ここぞとばかりに声を上げる。
それを発端に静まり返っていた教室がざわめき出し、生徒たちが次々と不満を口にしていった。
「何で私たちが土下座しなくちゃならないの!?」
「先生は横暴だ!僕たちは虫けらじゃ無いぞぉ!」
「大体そんな格好して恥ずかしくないの!?」
生徒たちが一斉に声を上げる教室の中は、パニックにでもなったかの様に怒号が飛び合い、もはや僕にはどうすることも出来なかった。
しかしそんな様子を涼しげな顔で見下す彼女は、何処かから出した羽根の付いた煌びやかな扇子をパッと開き、パタパタと自分を扇いでいく。
「お黙りなさい!」
たったその一言で一気に混乱を治める彼女の姿は、まるで民衆の暴動にも動じない頂点に君臨する王の様で、怯む生徒たちは今までが嘘の様にオロオロと周りの様子を伺っていく。
ラノベに出てくる悪徳令嬢の様な冷たいその態度は、余りにも冷酷に見えて誰もが逆らう事など出来なかった。
「お門違いも甚だしいですわね…………………ワタクシがあんな態度を取ったのは、あなた方にモノを教えて貰うという姿勢が微塵も感じられ無かったからですわ…」
そう言って教壇に立つ彼女の姿は見惚れてしまうほど美しく、誰もがその言動に引き込まれ目を離せなくなっていた。
その姿には良くも悪くも教師としての才覚が溢れ出ていて、教師になって3年目の僕はその独壇場の光景にモヤモヤとした憤りを感じていた。
「あなた方は…何か勘違いしてはいませんか?…学校に通って知識が学べる事が当たり前の事だと…」
少し開いた扇子を口に当てながら、そう言って周りを見渡す彼女の姿には一切の隙が無い。
冷ややかな目つきで見下ろされる生徒たちは、蛇に睨まれた蛙の様に怖気づいているが、そんな中で山下太郎という一人の生徒が席を立ち声を上げていった。
「学校に通うのは義務なんだから教えて貰うのは当たり前じゃん!」
それを聞いた彼女は少し遠い目をしながら、パタッと扇子を閉じて山下君にゆっくりと目を向けていった。
「そうですね…この国ではそれが当たり前の様ですわね…」
そう言って見つめてくる彼女の悲しげな表情に、山下君は面を食らった様に怯み出し、どうして良いのか分からずにキョドり始めていく。
「しかしそれが当然だと思える環境に浸っているから、あなた方は過ちを犯していても分からないのしょうね…」
クラスの生徒たちをゆっくりと見回していく、落ち着き払った彼女の顔には一切の迷いが無い。
堂々としたその風格に周りの誰もが口を紡ぎ、彼女の話に黙って耳を傾けていく。
「知識を学べる機会は人にとっての大きな財産です…学んだことが糧になり私たちを大きく成長させてくれます…」
大したことを言ってる訳でも無いのに、彼女の語る話には妙な説得力があった。
持って生まれたカリスマ性というだけでは計り知れない、気品に満ち溢れた優雅な立ち振る舞いは、言ってる事を2倍も3倍も貴重なものの様に感じさせている。
「ワタクシの国では限られた少数の者しか学校に通う事が出来ません………それが出来る様になった子たちは、そんな希少なチャンスを逃すまいと必死になって学ぶ努力を見せています…」
そんな彼女の身の上話を聞いた生徒たちは「やっぱり外国人だったんだ…」と、独り言のように呟きながらポカンと口を開けていく。
何処かの国の皇后の様な派手な身なりと日本人離れしたその顔立ちは、言ってる事と辻褄が合っているのに、それにそぐわない流暢な言葉遣いが生徒たちを混乱させているのだろうか。
「あなた達はどうでしょうか?………これから成長のチャンスが訪れるというのに、勉学の準備もせずにガヤガヤと騒ぎ、あまつさえ教えを乞う者に対して軽口まで叩く…そんな愚かな人間にワタクシはいったい何を教えたら良いのでしょう?」
ぐうの音も出ない事を言われて生徒たちは明らかに動揺していた。
少し悲しそうな彼女の表情には、期待していた生徒たちを少し残念に思う、心情がまざまざと溢れ出している。
「自分の成長の期会すら無駄にしてしまう愚か者など赤ん坊以下です…しっかりとした躾から教えなくてはなりませんよね………ワタクシの言ってる事が間違っていると思いますか?」
そう問い掛ける彼女の言葉に、もう異議を唱える者など居るはずも無かった。
道理の通ったその言い分に生徒どころか、何故か僕まで己の愚かさが恥ずかしいと思い始め、全員が彼女に顔向けできずに俯いていく。
「ワタクシの言ってる事を理解した様ですわね…では…あなた方の誠意を見せて貰いましょうか…」
そう言ってまた扇子をパッと開き、パタパタと自分を扇いでいく彼女の姿には、王者の風格が溢れ出している。
氷の様に冷たい目で教室の中を見回していくその姿に、生徒たちは緊迫した表情でゴクリと唾を飲み込んでいった。
「さぁ…高貴なワタクシに平伏しなさい!!」
教室の中に衝撃が走り抜ける様なその声と同時に、生徒たちは前回と違って何かに憑りつかれた様に席を離れ、彼女に対して全員が平伏し始めていった。
現実とは思えない信じられないその光景に、僕は夢でも見ている様な複雑な気分に陥っていった。
僕が担任になってから崩壊寸前にまでなっていたクラスが、一丸となって彼女に敬意を表しているのだ。
僕が呆気に取られてその光景を見ていると、彼女は落ち着いた様子で窓の外に目を向けて、何故だか険しい顔付きで校門の方を眺めていく。
「美濃又…あれは何かしら?」
彼女がそう言ったと同時に校内に非常ベルの消魂しい音が鳴り響き、教室のスピーカーから一斉に緊急放送が流れ出していった。
『緊急放送!緊急放送!校内に不審者が侵入しました!教師の皆さんは生徒たちを誘導し、速やかに避難を開始して下さい!』
学校中がパニックになり、至るところで怒号が飛び交っているというのに、彼女は冷めた目をしながら窓の外をジッと眺め続けている。
クラスの生徒たちも慌てふためき出し、避難を開始しようと僕が誘導を始めると、教壇に立っていた筈の彼女が忽然と姿を消していった。
それは教室から勢いよく飛び出していったとか、3階にあるここの教室の窓から飛び降りていったとか、そういう事では無い。
今までの出来事が幻であったかの様に、何の痕跡も残さずに一瞬で消えて、それはまるで異次元に吸い込まれた様にしか見えなかったのだ。
消えた彼女の姿を見たのは僕だけで、我先にと教室を出ようとする生徒たちは、それに全く気付いていない。
混乱する僕は何が起こったのかと、夢遊病者の様にフラ付きながら、彼女の消えた教壇に向かって近付いていった。
「何だぁー!お前はー!?」
「あなたこそ何者なのかしら…そんな物騒なものまで持ち出して…」
そんな時、聞き覚えのある声が校舎の外から聴こえてきて、避難をしようとしていた皆が一斉に窓に向かって駆け寄っていった。
落ち着き払った気品に溢れるその声は、さっきまで自分たちを嗜めていた声で、僕を含めたクラス中の誰もが真相を確かめずにはいられなかった。
思った通り外の校庭ではナイフを手にした男を前にして、江洲小原先生が威風堂々と立ち塞がっている。
ギラギラと輝く鋭利な凶器を手にした、イカれた男と対峙してるというのに、全く動じていないその姿は凛としていて、とても美しく感じられた。
「あの人…いつの間に校庭に行ったの…?」
生徒の1人がポツリとそう口にした途端に教室中がザワザワと騒ぎ出し、生徒たちが「窓から飛び降りた?」と顔を見合わせていくが、そう思うのも無理はない。
この目で忽然と消える所を見ていた僕でさえ、どうしてあの場に立っているのか全く分からないのだ。
しかし校庭のど真ん中で涼し気に佇む彼女は、ドリルの様なブロンドの巻き髪をヒラヒラと風に靡かせて、閉じた扇子をピタリと口に当てている。
「だいたい何処から現れやがったんだ?…変な格好で突然目の前に出てきやがって!」
男はこの学校に侵入した時から既に逆上していたのか、目の前で起きた不思議な出来事も気にせずに、怒りの全てを彼女に向けている。
「アナタにそんな事を話す義務がありまして?…まして物事の分別すら付かないイカれたすっとこどっこいに…」
鼻で笑って相手を小馬鹿にした彼女の言葉に、男は癇癪を起したかのように顔を真っ赤にして怒りを露わにしていく。
年の頃は30~40くらいのくたびれた男は、冴えない身なりをしていて、真面な社会人にはとても見えなかった。
こんな事件を起こそうとするのは、現在の自分の置かれた状況に不満でも持っているか、誰かに恨みがあるとしか思えない。
「何だとー!皆で俺を馬鹿にしやがって!!」
「ところで…アナタはその手にしたモノで何をするつもりなのかしら…?」
江洲小原先生は相手を全く怖いと思っていないのか、何故か上から目線で男の事を完全に見くだしている。
自分が刺される危険すらあるのに、相手を挑発するその態度は無謀としか思えなかった。
「これか!?…これで高慢ちきなガキどもを刺して回るんだよ!」
ギラギラと輝くナイフを手に掲げ、そう言ってニタリと笑う男の姿は狂気に満ちていて、可笑しくなっているとしか思えない。
「それは聞き捨てなりませんわね…何故そんな事をするのかしら?」
しかしそんな男を前にして、冷たい目をしながら冷静に対応する江洲小原先生も、何処か狂気じみていて真面には見えなかった。
「ここのガキどもが俺を馬鹿にしやがったんだよ!…裕福な家庭に生まれただけで何の苦労も知らずにのうのうと生きてる癖によ!」
恨みつらみに満ちた男の顔には、今までの恵まれなかった人生の憤りが溢れ出ている。
落ちぶれてしまった今の自分を世の中のせいにでもして、鬱憤を晴らそうとでも思っているのだろうか。
「馬鹿にされてると卑屈になるのなら…アナタ自信にその心当たりがあるのではないですか?…引け目を感じて生きてるくらいなら、己の力でそれを打開しなくてはなりませんよね?」
「う、うるせぇー!俺だって子供の頃はずっと頑張って努力をしてきたさ!でもいくら頑張ったって報われるのは恵まれた環境で育った奴らばかりで、俺なんかにはチャンスも巡ってこなかったよ!」
「浅ましい考えですわね………それって努力が足りないだけなのに、何かのせいにして逃げてるだけではありませんか…例え結果が出なくとも努力を続ければ、人は知らず知らずのうちに成長し続けるのですよ…」
ドスの効いた声でそう言って、男を睨み付ける江洲小原先生の冷めた目には、禍々しい程の得体の知れない怖さが滲み出ていた。
男は迫ってくる江洲小原先生に冷や汗を垂らして、それに怯みながらも震える手でナイフを必死に握り締めていく。
「自分自身で成長する事を諦めておきながら、自分の不甲斐なさを誰かのせいにして癇癪を起すなど駄々っ子も同然!…ここの子供たちですら、そんな愚かな真似はしませんよ!」
彼女の言葉には何故だか反論できない程の妙な説得力があった。
しかし罪を犯してまで鬱憤を晴らそうとする狂った人間に、難攻不落の彼女の正論は逆効果としか思えなかった。
「此畜生!…俺がどうしてこうなったのかも知らない癖によぉ…!!!」
案の定、男は江洲小原先生の言葉に反論出来ずに、話題を反らし関係の無い難癖を言い始めていく。
しかも言い返せない苛立ちで男の怒りは頂点寸前までに達していて、何かのきっかけさえあれば躊躇いなくナイフを向けてくるだろう。
これを見ている学校中の誰もが、江洲小原先生の窮地に身を案じて固唾を飲んでいる。
しかし次の瞬間に、その表情の崩れない美しい顔から放たれた言葉は、男を挑発してるとしか思えない蔑んだものだった。
「あなたの生い立ちなどワタクシに分かる筈もありませんわ…惨めな負け犬のこれまでの人生など、どうしてワタクシが知らなければならないのでしょうか?」
「コノヤロー!変な格好をしやがってぇ!!お前も刺してやるぅー!!!」
江洲小原先生のその言葉を聞いた男は、顔を真っ赤にしながら逆上して、突き出したナイフを握り締めたまま襲い掛かっていく。
誰もが刺されてしまうと息を飲んで見守る中で、江洲小原先生は冷ややかな表情を浮かべたまま、男から片時も目を離さずにその動きをジッと見つめていた。
「愚か者めぇぇぇぇ!!!」
彼女の甲高い声と共に「パァシィィーーーーン!」という小気味の良い音が青空に大きく響き渡り、男の身体が竜巻にでも飲み込まれたかの様に、螺旋状に回転しながらクルクルと宙に舞い上がっていった。
持っていた扇子で突進してくる男を軽く払い除けた様にしか見えなかったのに、その凄まじい威力に周りの誰もが何が起こったのかと目を疑っていく。
江洲小原先生は宙に舞っている男にクルリと背を向けて、閉じていた扇子をパッと開き、口元を隠しながら涼しげに自分自身を扇ぎだしていく。
まるで必殺技でも繰り出した後の決めポーズの様なその姿に、クラスの生徒たちが「カ、カッコイイ…」と次々に口遊んでいった。
「アナタは間違っていますわ…貶されて悔しいと思う気持ちが残っているなら、それをバネにして自分自身を変えていこうと何故思えないのです!…本当の負け犬なら何を言われても悔しいとすら思わないですわ………反省なさい!」
そう言って彼女が扇子をパタッと閉じると、男の身体が地面にドサッと落ちて、パッと現れたメイド服姿の女たちに取り押さえられていく。
白目を剥いた男は完全に意識を失っていて、何処からともなく現れた得体の知れない女たち2人は、手慣れた手付きでその身体をロープで縛り上げていった。
これだけの事件があったというのに、江洲小原先生は何事も無かったかの様に、無表情の優雅な足取りでゆっくりと校舎の中に戻っていく。
大勢の人間が見ていた筈なのに、シーンと静まり返った学校の敷地内にパトカーのサイレンが、高らかに響き渡っていった。
<公国の叡智 マリア・エスコバル>
彼女がこれから数々の奇跡を巻き起こし、この学校どころか日本の未来まで変えていく事など、この時の僕にはまだ知る由もなかった…
~to be continued~
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