海底の楽園
静かな波音が響く南国の島、ナハレ島。観光客で賑わうビーチの裏側には、地元の漁師すら近寄らないサンゴ礁が広がっていた。そこは「哭きサンゴ」と呼ばれ、昔から奇妙な失踪事件が相次いでいる場所だった。サンゴの裂け目から、不気味な声が夜な夜な響くという噂もあった。
海洋生物学者の玲奈は、そんな曰く付きの場所に強い興味を抱き、調査のために島を訪れた。新種の生物が存在する可能性があると論文で発表されれば、研究者としての名声も手に入る。彼女は迷信を迷信だと笑い、ガイドすらつけずに一人で海に潜ることを決めた。
「死んでも近寄るな」と漁師たちは警告したが、玲奈の決意は揺るがなかった。
調査初日、玲奈は小型ボートを出し、ダイビングギアを装着して哭きサンゴへと潜った。太陽の光が水中に差し込み、サンゴ礁はまるで幻想的な庭園のように美しく輝いていた。カラフルな熱帯魚が泳ぎ、珍しいイソギンチャクやウミウシがひらひらと揺れる。
「こんな綺麗な場所が呪われてるなんて、馬鹿げてるわね」
玲奈は軽く笑いながら、サンゴの隙間に小型カメラを差し込んだ。カメラ越しに観察すると、奇妙なことに気づいた。サンゴの表面に、まるで人の顔のような模様が浮かび上がっているのだ。笑っているような、苦しんでいるような、不気味な表情。
それでも彼女は調査を続けた。何かの自然現象だろうと考え、さらに深くへと進む。
囁きの始まり
30分ほど経った頃、海の静寂を切り裂くように、かすかな声が響き始めた。
── こっちにおいで…
ヘッドセットのノイズかと思い、玲奈は耳を軽く叩いた。だが声は止まらない。まるですぐ近くで人が囁いているかのように、はっきりとした声だった。
── 助けて…私を見つけて…
「通信の混線?」
玲奈は周囲を見回したが、当然誰もいない。ただ、サンゴの裂け目が不自然に黒くぽっかりと口を開けている。まるで生き物の喉の奥を覗いているような不快な形をしていた。
不安を押し殺し、玲奈は裂け目に近づく。そしてカメラを差し込んだ瞬間、画面いっぱいに人の瞳が映った。
「──ッ!」
玲奈は反射的にカメラを引き抜いた。しかし、裂け目から何かが這い出てくる気配がした。彼女は急いで浮上しようとしたが、脚に奇妙な重さを感じる。見下ろすと、サンゴに絡みついた無数の指のような突起が、ゆっくりと玲奈の脚を這い上がっていた。
必死にもがき、何とか突起を振り払った玲奈は急浮上した。ボートに戻り、荒い息を整えながら脚を見ると、スーツには細かい傷が無数についていた。まるで何かに爪を立てられたような跡。
島に戻った後、玲奈は島民たちから昔話を聞いた。数百年前、島に疫病が流行った際、村人たちは病人を生きたまま船に詰め込み、哭きサンゴの周辺で沈めたという。沈んだ人々の魂がサンゴに取り込まれ、今も生きている人間を海の底へ引きずり込むのだと。
「バカバカしい…ただの迷信よ」
玲奈は恐怖を理性で押さえつけ、翌日も潜ることを決意した。だが、彼女の意識は知らず知らずのうちに、もう一度"裂け目"を見に行きたいという衝動に囚われていた。まるで誰かに呼ばれているかのように。
再び裂け目の前まで来た玲奈は、心臓の鼓動が異様に速くなっていることに気づいた。理性では危険だと分かっていても、どうしても裂け目の中を覗きたくてたまらない。
カメラではなく、今度は自分の目で確かめよう。
そう思った瞬間、裂け目の奥から腕が伸び、玲奈のマスクを引き剥がした。塩水が肺に流れ込み、苦しみながらもがく玲奈の周りに、無数の影が漂う。顔が溶けた亡者たちが、ゆっくりと彼女を海底へ引きずり込んでいった。
翌朝、玲奈のボートは海岸に打ち上げられていたが、彼女の姿はどこにもなかった。
そして今でも夜になると、裂け目からはかすかな囁き声が聞こえるという。
── ここはあたたかい……一緒に、おいで……
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