琴吹先輩と天下布武
京路
第1話 出会い ~1546年1月~
誰もいないはずの旧校舎に
生徒会長であり、校内随一のクール系女子だ。4学年上で、ただの中坊とは交わることのない
そんな才女が、埃まみれの旧事務室で、唯一僕がふき取った応接ソファに座っている。
黒ぶち眼鏡にかたどられた瞳は、南極の裂け目から零れ落ちた一千万年前の結氷と同じ輝きを湛える。その凍てつくまなざしで、じっと見下ろしている。
手にした紙片を細い指先で爪弾きながら、凛と冴えた声で諳んじる。
「794年――鳴くよウグイス、ほーほけきょ――
バッグを落としてしまった。
静寂の室内に重たい音が響き渡る。
その瞬間、琴吹先輩が飛び上がるようにこちらを見る。
「な、ななな――」
震える唇から声にならない声しか出てこない。ひたすらにまばたきを繰り返して、見る見るうちに顔が紅潮していく。
手元から転がり落ちた単語帳。794年。ウグイスのイラスト。小学生向けの単語帳だった。
「す、すみません」
よく考えたら別に謝る必要はないんだが、見てはいけないものを見てしまったように思った。
旧校舎の裏口の鍵がかかっていないことに気付いたのは数日前。秘密基地みたいでわくわくしたけど、ほかの人がいる可能性だってあったのだ。
こんなときは退散するのが吉だ。
「えっと、勉強邪魔しちゃいましたね。じゃあ僕は失礼し――」
「ままままてまて待って!」
上ずってはいるが、通る声。僕は思わず足を止めてしまった。
「そ、その――私が日本史の勉強をしていたことは――どうか内密にしては……くれないだろうか」
まだ顔が赤いが、少しずつ落ち着きを取り戻してきているようだ。
「別にいいですけど――なんでですか?」
「そ、その……えっと……わ、私は、日本史が……不得意なんだ」
琴吹先輩は、学年トップの優等生だと聞く。
入学して数か月の僕らの耳にまで評判が届くんだから相当だ。
生徒集会の時、新任のALTの先生にネイティブ顔負けの英語で歓迎の言葉を述べていたのも記憶している。
「不得意って、テストとかでは結果出してるじゃないんですか?」
「寝ずに暗記したから。教科書と資料集と」
それも大したものだ。
「でも一日で忘れる。次々とテスト範囲は広がるし、今から対策しないといけない」
「すごい努力ですけど……それって隠すようなこと――?」
「キャラ解釈が乱れる!」
キャラ。
「クール系は都合がいいんだ。何にも言うことなくて黙っていても雰囲気でごまかせる。好きな芸能人なんて話題を振られても『どうかな』とか言って微笑んでみれば意味深で切り抜けられる。みんなから一歩離れつつも敬られる理想的ポジション。それが日本史が苦手だなんてばれたら――孤高じゃなくてただのコミュ障になりさがる。『名前が史歩のくせに、歴史徘徊老人なの?』とか言われてしまうね」
淡々と、クールに、被害妄想を語る。
「歴史俳諧老人なら、松尾芭蕉っぽいですね」
「マツ、オ、バショー……西遊記?」
芭蕉翁は知らないのに芭蕉扇は出てくるのか。
「松尾芭蕉は俳句を作った人ですよ。江戸時代の」
「テスト範囲外の概念を持ち出すなっ!」
ちょっと言葉に熱が帯びた。日本史のことになると素が出るのかもしれない。
しかしこの余裕のなさ――本物の歴史オンチだ。
「取り繕いながらも口先だけ緩んで目を細めるその表情――私のこと、馬鹿にしてるね。小田くんだって、休み時間は寝たふりして友達いないのがばれないようにしてるくせに」
え、名前割れてる!
「ふふん、驚いただろう。前期生1年B組
「自分でそれを言いさえしなければ、ですけど」
「うわぁぁぁぁ!」
床に崩れ落ちた。
「もうダメだ、長年にわたって構築したイメージ戦略の崩壊だ……残りの1年9か月の学園生活、どうすごせばいいんだ……」
四つん這いになってうめく。
床、埃がたまってるから汚いと思うんだけど。ソファだけは僕が自分が座るために掃除しといたが。
「うわ、袖が白くなってる!」
見ていてつらくなってくる。
たしかにこれなら人前じゃ何も言わないでいるのが最善かもしれない。
「あの、僕は誰にも言わないですよ」
「それを信用しろと? なるほど、口止めの見返りに男子中校生の煮えたぎる欲望を求めようというんだな!」
うーん、面倒なことになってしまった。
しかたない。こちらもカミングアウトするしかないか。
僕はバッグから、それを取り出す。
「……なんだい、それは?」
「ニンテンドースイッチです」
任天堂の登録商標である。
「聞いたことあるね。えっと、ファミコンの携帯版みたいなものだろう」
「……ゲームも歴史オンチなんですか?」
ファミコンて。
僕でも実物は見たことない。
親世代(あるいは祖父母世代)はゲーム機みんなファミコンって呼ぶ、というネタは聞いたことあるけど。
「しかたなかろう。うちはゲームの類は禁止なんだ」
「でもファミコンは知ってるんですか」
「祖父の家にあった。PSってロゴなのに、なんでファミコンなのかは謎だが。Phantom Mist Compressor systemsとかかな?」
幻影霧圧縮装置って……
PSのロゴはプレステではないか。
「そんなことより、だ。君は、学校にゲームを持ってきたのか?」
あきれたような表情。
「そうですよ。黙っててくださいね。男子中校生の煮えたぎる欲望を思いやってください」
「それは――」
はっとするように口元を押さえる。
「まさか、わざと自分の弱みをさらしたのか?」
「早くゲームやりたいだけです」
これは本音だ。
そのまま起動する。
歴史シミュレーションの金文字が浮かび上がる。
「歴史、だと?」
琴吹さんが覗き込んできた。
「あの――勉強しなくていいんすか?」
「これは、まさか歴史のゲームか?」
画面が切り替わる。
信長の野望 新生 Withパワーアップキット
株式会社コーエーテクモゲームス制作のゲームである。
「信長――織田信長か」
「さすがに信長は知ってるんですね」
「豊臣秀吉と徳川家康くらいはわかる。歴史というよりもはや一般常識だろう」
「明智光秀は?」
「……豊臣幕府の重鎮だな、たしか」
「知ったかぶらなくていいですよ――てか、豊臣幕府なんてないですからね一応言っとくと」
「ああ、徳川幕府のほうか!」
「いや、近くなったけどちょっと違う」
「織田幕府だな! 覚えた!」
もしかしたら。
僕は生徒会長に化けた妖怪か何かと話してるのかもしれない。
「そもそも幕府は地名につけるもので、名前にはつかないですからね」
「そうか? 幕府は右近衛大将の異称だろう。人名に付すものかと思っていたが」
「いやまあそれは――え? う、こんえの、たいしょお?」
琴吹先輩は意にも介さず答える。
「右近衛大将は律令制の役職――名誉職だな。『大鏡』をやってるときに先生が言っていたぞ」
古典の知識だった。
大鏡って、なんだっけ? 聞いたことなくはないけど、後期生になったらやるの?
しかし本当に日本史部分だけアホになる……けど古典はOKとは。一体その境界はどこにあるのか。気にならなくはないけれど、今はゲームだ。
「あ、僕はゲームやりたいんで、先輩は好きにしてていいですよ」
「先にいたのは私のほうなんだが――君こそ、家でやればいいだろう」
「家だと親の目が気になって――野外だと人の目が痛いし――」
オタクには二種類いる。
オタクであることにオープンな陽キャオタクと、劣等感で日陰を歩く陰キャオタク。
多分もっといるけどとりあえずそう言っとく。
そしてその二元論なら僕はまさに後者だ。
「ふむ。おもしろいのか?」
「そりゃあ、おもしろいですよ!」
勢いのまま、立ち上がる。
「40年以上の歴史を持つ大シリーズの最新作です! 実はプレイするのは初めてだったんですが、もうハマっちゃいました! 先の先を読む戦略と、不測の事態に対応するアドリブとで、各国に攻め入り、史実に抗い地図を塗り替えていく爽快感。ひとつとして同じ戦局はなく、刻一刻と動く情勢を見極めて最善手を探る緊張感。モブ武将に至るまで実在の人物とエピソードが記載されているという圧倒的な情報量。他の追随を許さないクオリティは、さすが歴史ゲーム大家です! 僕ももう二回クリアしちゃいました。これまで難易度は初級、中級と押さえてきましたが、次は上級に――あ、すみません」
「ふむ、君の熱意は、伝わった」
なぜか優しい笑み。なんかつらい。
「じゃあ、そのままやってみてくれ」
「え。なんで?」
「私も興味が出た。歴史というのならな」
まあいいか。
信長の野望で歴史が学べるかは疑問だけど、僕には関係ないので進めることにした。
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