浮気の代償

くぼ あき

第1話移動祝祭日

元日から張り切って仕事場に向かう。マクドナルドの二階は海が一眺できる私の仕事場だ。といっても私は店員ではない。小説家だ。まだ一冊も売れていないが、表現者は自己申告制なので、自分が小説家だと言えばもうあなたも今日から小説家だ。

ウォーミングアップに敬愛し崇拝する、アーネスト・ヘミングウェイの「移動祝祭日」を模写する。


「移動祝祭日」

アーネスト・ヘミングウェイ


サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ


それから、天気が悪くなった。秋もすぎたある日に変化は訪れる。夜になると窓を閉めて雨に備えなければならず、コントルスカルプ広場の木々の葉は冷たい風に剥ぎ取られる。落ちた葉は雨でぐっしょり濡れ、終点に止まっている緑色の大型バスのボディが風で叩きつけられた。カフェ・デ・ザマトゥールは客で込み合い、店内の熱気やタバコの煙で窓がくもっていた。そこはその界隈の酔っ払いたちのたまり場になっている、うらぶれた、手入れのお粗末なカフェだった。薄汚れた体の発する臭いや酒酔いに特有のすえた臭いがいやで、私は極力そこには近づかないようにしていた。定連の男女は日がな一日、もしくは暇にまかせて、たいていワインを半リットルか一リットルずつ注文して、酔い続けていた。奇妙な名前のアペリティフがたくさんメニューにのっていたが、注文できる者はほんの少数で、それも、あとから飲むワインの下地つくりとして飲む者が大半だった。女の酔っぱらいはポワヴロットと呼ばれた。女性の飲んだくれ、という意味である。

カフェ・デ・ザマトゥールは、コントルスカルプ広場に通じる、あの狭い、ごみごみした、活気に満ちた市場通り、ムフタール通りの汚物溜めのようなものだった。この界隈の古いアパートメントには、各階の階段わきに蹲踞式のトイレが一つずつあって、借家人(ロカテール)がすべらないように、穴の両脇にコンクリート製の靴型の台がついていた。このトイレの糞便が汚物溜めに流され、それが夜間、馬の引くタンク車にポンプで汲み取られて空にされるのである。窓をあけ放つ夏季にはそのポンプの音が聞こえたし、強烈な臭気が漂ったものだ。タンク車は茶色とサフラン色に塗装されていた。月光の下、カルディナル・ルモワール通りで彼らが作業していると、馬に引かれる車輪つきのタンクはどこかジョルジュ・ブラックの絵を思わせた。しかし、カフェ・デ・ザマトゥールに閑古鳥が鳴くことはついぞなく、公衆の面前での泥酔を禁じる罰則の記された黄ばんだ貼り紙は、悪臭を放つ常連客の引きも切らぬままに、蝿の糞だらけになって見向きもされていなかった。

この街がにわかに哀調を帯びるのは、冬の最初の氷雨が降りはじめる頃だった。道行く者の目にはもはや白く高い家屋の屋根は映らず、ただ濡れた黒い舗道や小さな店舗の閉ざされた戸口しか映らない。その道筋には薬草店、文具店や新聞販売店、それに二流の助産婦の家やヴェルレールが息を引きとったホテルなどが並んでおり、そのホテルの最上階の部屋を私は借りて仕事場にしていたのだった。

最上階にあがるには階段を六つか八つのぼらなければならない。それはとても寒い日だった。こういう日に部屋を暖める火をおこすには、まず小枝の一束と、その枝から火を移すための、針金でくくった、短い、鉛筆の半分ほどの長さに割いた松の枝三束が必要で、それに加えて半乾きの硬材の束まで買わなければならないとすると、どれくらい費用がかさむか見当がつく。で、私は部屋には上がらずに通りの反対側に立って、雨に打たれるホテルの屋根を見上げた。煙の出ている煙突があるかどうか確かめたかったのだ。煙が出ている煙突はなかった。きっと煙突も冷えていて空気の通りも悪いのだろう。とすると、火をおこしたところで煙が部屋に充満し、燃料は無駄になってしまう。お金を損するだけだなと考えて、私は雨の中を歩いていった。通りを下ってアンリ四世校と古いサン・テティエンヌ・デュ・モン教会の前をすぎ、風の吹き渡るパンテオン広場を通り抜けてから雨風を避けて右手に折れる。そこからようやくサン・ミシェル大通りの風のあたらない側に出たら、そこをなおも下ってクリュニー博物館の前を通り、サン・ジェルマン大通りを渡っていくと、サン・ミシェル広場の通い慣れた、気持ちのいいカフェにたどり着く。

そこは暖かくて、清潔で、心なごむ、快適なカフェだった。私は着古したレインコートをコート掛けにかけて乾かし、くたびれて色褪せたフエルト帽を長椅子の上の帽子掛けにかけてからカフェ・オ・レを頼んだ。ウエイターがそれを運んでくると、上着のポケットからノートをとりだし、鉛筆も用意して、書き始めた。そのときは北ミシガンのことを書いていた。その日は風の吹き荒れる寒い天気だったので、作品の中でもそういう天気になった。晩秋の訪れは、すでに少年時代、青年時代、それに大人になりかけの頃に、見てきていた。それについては、場所を変えたほうがよく書けるものなのである。自分を移植するとはこういうことを指すんだな、と私は思った。それは成長する動植物同様、人間の場所にも必要なのだろう。その作品の中では登場する少年たちが酒を飲んでいて、私も喉が渇き、ラム酒のセント・ジェームスを注文した。寒い日にはこれが素晴らしくうまい。私はさらに書きつづけた。とてもいい気分で、上質なマルティニーク産のラム酒が心身に温かくしみとおっていくのがわかった。

一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われたなめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽のように黒く、私も頬に斜めにかかるようにきりっとカットされていた。

ひと目彼女を見て気持ちが乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし、彼女は外の街路と入口双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっと誰かを待っているのだろう。で、私は書きつづけた。

ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについていくのがひと苦労だった。セント・ジェームスをもう一杯注文した。顔をあげるたびに、その娘に目を注いだ。鉛筆削り器で鉛筆を削るついでに見たときは、削り屑がくるくると輪になってグラスの下の皿に落ちた。

ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきり二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。

それからまた私は書きはじめ、わき目もふらずストーリーに没入した。いまはストーリーが勝手に進むのではなく、私がそれを書いていた。もう顔をあげることもなく、時間も忘れ、そこがどこなのかも忘れて、セント・ジェームスを注文することもなかった。セント・ジェームスにはもう飽きていて、それが意識にのぼることもなかった。やがてその短編を書きあげると、ひどく疲れていた。最後の一節を読み直し、顔をあげてあの娘を探したが、もう姿は消えていた。ちゃんとした男と出ていったのならいいな、と思った。が、なんとなく悲しかった。


ここまで読み終え、私はフライドポテトのMと爽健美茶を注文しに、階下へ降りた。ショックを受けていた。美しい娘よりもパリの街全てよりもノートと鉛筆…すなわち自分の作品に心を奪われ、私は貴方―自分の小説―のものだと書くアーネスト・ヘミングウェイに。レジの前には行列が出来ていて、やはりグラコロ発売日はこうなるよなと思い、早く続きが読みたいのでポテトは諦めてまた二階の海が見える窓側の席へと踵を返した。


その短編を書き終えたノートを内ポケットにおさめてから、ポルテュゲーズ牡蠣を一ダースと辛口の白ワインをハーフ・カラフで持ってきてくれ、とウエイターに頼んだ。短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった。これはとてもいい作品だという確信があった。が、その真価が本当にわかるのは、翌日それを読み返したときなのだ。

牡蠣には濃厚な海の味わいに加えて微かに金属的な味わいがあったが、それを白ワインで洗い流すと、海の味わいと汁気に富んだ舌ざわりしか残らない。それを味わい、殻の一つ一つから冷たい汁をすすって、きりっとしたワインの味で洗い流しているうちに、あの脱力感が消えて気分がよくなった。私はこれからのプランを立てはじめた。

こうして天候が悪くなったからには、しばらくパリを離れて別の場所で暮らすという手もある。そこでは雨の代わりに雪が松の枝ごしに降りら道路や高い丘陵を白く覆い、高地では夜、宿にもどるときに雪がきゅっきゅっと鳴る音が聞こえるだろう。レザヴァンの麓には、食事つきの部屋代がべらぼうに安い山荘がある。あそこなら二人で本を持ち込んで滞在し、夜は暖かいベッドに二人でもぐりこんで、あけ放った窓から瞬く星を眺めたりできるはずだ。私たちはそこにいけるのだ。三等の汽車でゆく費用だって、たかが知れている。宿泊費もパリで暮らす経費をぐくわずかに上まわる程度だ。

いま仕事場にしているホテルの部屋を手放してしまえば、あとはカルディナル・ルモワール通り七十四番地のアパートメントの部屋代が残るだけだし、それだって、ごくわずかな額にすぎない。当時、私はトロントの新聞社向けの記事を書いていて、その原稿料の小切手がいずれ届くはずだった。新聞向けの記事なら、どこで何をしていようと書くことができる。旅行にあてる金なら、備えがあった。

ちょうどパリにいて故郷のミシガンのことを書けるように、パリを離れてもパリのことを書けるだろう、と私は思った。パリにはまだ精通していないのだから、それはまだ時期尚早だということが、わかっていなかったのである。ただ、それから時がたつうちに、結局はそうして書けるようになったのだが。いずれにせよ、妻がいきたいと言ったらそうしよう、と私は思った。牡蠣をたいらげ、ワインを飲み干し、料金をすべて支払うと、雨の中、モンターニュ・サント・ジュヌイヴェーヴ通りをのぼるいちばん近道を通って坂の上のアパートメントまでもどった。雨はもはや局地的な天気にすぎず、自分の人生まで変えてしまうようなものではなかった。

「まあ、素晴らしいじゃない、タティ」妻は言った。彼女は優しい顔立ちをしていて、そういう決断を聞かされると、まるで豪華なプレゼントをもらったように目がぱっと輝き、明かるい笑みを浮かべるのである。「で、いつ出発するの?」

「いつでも、きみの好きなときに」

「じゃあ、すぐにでもいきたいわ。きまってるじゃない 」

「もどってくるときには、きっと澄み切った、いい天気になっているかもしれない。晴れわたって寒いときは、素晴らしい天気になるからね」

「そうね、きっとそうだわ」妻は言った。「あなたも素晴らしいことを思いついてくれたわね、これから出かけるなんて」


第一章「サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ」はここで終わる。感動と哀しさで立ち上がれなかった。ヘミングウェイよ、こんな良い妻がいてなんでポーリン・ファイファと浮気するんだよ。しかも最後はポーリンの方を選らんじゃうし……仕方ないか、世界イチ有名なファッション雑誌の編集者に誘惑されたら、有名になりたい駆け出し小説家なら……

明日は病院清掃の方の仕事だ。

とりあえず、今夜は飲むとするか。第二章「ミス・スタインの教え」を読みながら…。

辛口の白ワインと牡蠣を買うためにマクドナルドを後にした。



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浮気の代償 くぼ あき @kamakura0114

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