第37話
果樹の香りが風に混じる。そこに小鳥のさえずりが穏やかに響く。
テズム村の朝は、まるで時がゆっくりと流れているかのように静かだった。
イリアナは縁側に座り、手元の湯飲みにそっと口をつけた。中には温かい果実茶が注がれている。やさしい香りが喉を伝っていく。
「昨日は大変だったね」
昨晩、彼女たちはこの村で暮らす老夫婦に泊めてもらったのである。突然、廃墟の中から現れたのをびっくりした子供たちだったが、イリアナを女神と勘違いするほどの、イリアナの持ち合わせた気品と立ち振る舞いが悪い印象を与えなかったのが功を奏した。
村の大人たちに事の事情を話すと「それは大変だったねえ」「伯爵様の娘様とは。こんな辺鄙な村にくるとは」と優しく受け入れた。
「ろくなもてなしはできないが」と一人の老人、その村の村長が空いている部屋へと提供してくれた。
「イリアナさん、それ、サイズ合ってます?」
軒先から顔をのぞかせたルビアが、イリアナの村娘の姿を見てニコッと笑った。彼女の服装は、街に住む村長の娘が以前使っていたという落ち着いたブラウスとロングスカートに変わっている。多少丈が合わなかったが、着心地は悪くない。
「ええ、少しだけ袖が長いけれど、着られないほどじゃないわ」
ルビアもまた、簡素ながらも清潔なシャツとズボンに着替えていた。
「馬車の手配をしてもらえたよ。明日の朝には、街道沿いの街に出られるって」
「ありがとう、ルビア。本当に……あなたがいてくれてよかった」
「まあ、どうせ僕もその先で合流しなきゃいけないからさ」
彼なりの気遣いなのか、それを聞いて、イリアナも小さく頷いた。
速く王都へ戻らねば。その決意は揺るがない。
・・・
一方そのころ、イリアナを捜索していたグロイデン商会に雇われた捜索隊たちは森林に調査していた。
「もうここらには見つからんな。聞いてたより、ずっと足が早い。そしてもっと奥にいったのか」
ゲンゴロウはそう話すと、それを聞いていた同じじ傭兵らもうなずき、うなだれた。
「本当にここに逃げたのか、その連中とやらは」
薄暗い林の中で、地道なながら捜索しつづけた彼らだった。ただ、ゲンゴロウは独りごちた。周囲には他の傭兵たちが点在し、それぞれ指示されたルートを探っているが、成果はまったく上がっていない。
そこへ、所属する商会の使いがやってきた。
「ゲンゴロウ、報せだ。捜索範囲をさらに広げるそうです。今度は別の村の周辺まで行くことになるかと」
「……増員して?」
「ああ、人数も倍にするらしい」
それを聞いた瞬間、ゲンゴロウの胸の内に、ある違和感が広がった。
本当に誘拐なのか? 派手な手口や隠蔽の形跡がまるで見つからない。これほど大がかりな誘拐、人数が移動したという痕跡がゼロというのは不自然すぎる。いや痕跡があるのだろうが、集団での移動という痕跡があるとは思えない。
ゲンゴロウは、森の奥を見つめる。
これは「連れ去られた」のではなく、「一人で出て行ったのではないか」
王宮で何かが起き、その中でイリアナは自らの意志で身を隠したのではないか?
いや、誘拐されたのか?
「これ以上は……深入りすべきじゃないな」
ゲンゴロウは静かにため息をついた。すでに、これはただの報酬目当ての仕事ではなくなっている。うかつに関われば、いずれ自分も巻き込まれるだろう。そう感じた。
その日の夕刻、ゲンゴロウは捜索隊の隊長に申し出た。
「すまん。俺、ここらで抜けるわ。仲間と合流する約束があってな。どうしても外せねぇ」
「おい! そんな勝手許さんぞ!」
ゲンゴロウはそんな声を無視して、さっさと捜索隊から離れていく。すると近くにいた馬にまたがりながら、
「こいつはこれまでの駄賃でもらっていくぜ」
ゲンゴロウは颯爽と去っていった。そして一度だけ、森の奥を振り返った。
「無事に逃げ切れよ、令嬢さんよ……」
その目には、敵意も好奇心もなく、ただ一人の人間として、複雑な感情が揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます