蜜月

 イヴは村の北側に移動し終えて、切り株に座り込んだ。ここが村の出口だが、モンスターなどの気配は全くなかった。


 頭の中では、まだ思考がスーパーボールのようにあちこちに跳ねまわっている。しかし、イヴは一度もスーパーボールで遊んだことがなかった。


「現実…………」


 クロノスとの会話を思い出して、現実とは何だろうと、ふと思った。


 イヴの目の前には、鬱蒼とした森林が広がっている。

 葉っぱの一枚一枚が意思を持っているかのように揺らめいていた。草の匂いが感じられ、根本にある石ころを持ち上げればダンゴムシの一匹でも潜んでいそうだ。そして今腰掛けている切り株はがっしりと根付き、借り物であるハイエルフの肉体を支えている。


 これが全て仮想現実再現システムの成せるわざ。だがそれを裏付けることが、イヴには出来なかった。


 なぜならイヴは、研究施設の外に出たことが一度もなかったから。


 研究施設で産まれ、幼い頃から勉強をさせられた。それが普通で、当たり前だと思っていた。


 研究施設にあるコンピューターは全て独立したオペレーティングシステムで動いていたということもあり、この施設の外にまだ見ぬ土地が広がっているというのを、研究員がうっかり零すまで考えたこともなかった。


 唯一、外界との連絡手段がとれるのは叔父のいる管理室で、好奇心が旺盛であるが故に何度かこっそりと侵入したことがあった。無数のモニターがはめ込まれた白い部屋の一部に、ニュースと呼ばれるものが流れていて、その回線が外部の新鮮な情報をイヴに与えてくれた。


 青々と茂る森。


 どこまでも広がる大海原。


 無数に煌めく星々が彩る夜空。


 数えるだけで眩暈がしそうな高層ビル。


 天空から無数に降り注ぐ雫。


 純白の冷たい結晶。


 轟音と共にあまねく雷鳴。


 何かに追われるように歩く人々。


 有害なガスを撒き散らす鉄の塊。


 幾重にも渡る食物連鎖。


 生命の創造と、誕生。


 その全てを、イヴは知らなかった。


 そんな閉鎖的な環境にいる自分と、今この開放的なゲーム世界にいる自分。どちらが現実なんだろうと、静謐せいひつな空間に身を委ねるように目を閉じて、イヴは長考した。


 (現実なんていうものは、元より存在しないのかもしれないわね)


 普段から人間は、現実なんてものを感じて生活などしていないだろう。そもそも『生』というものすら曖昧なのだ。


 イヴがまだ幼い頃に、叔父に死ぬとはどういうことか聞いたことがあった。


「死というのは状態の一種だ。そして多くの場合心臓が止まったとき、人は死を迎える。それは自然のことわりであり、必然だ。誰も抗うことなど出来ない」

 

 当時のイヴはそれで納得したが、今は違う。小難しく答えただけで、叔父は浅慮せんりょ稚拙ちせつだとイヴは軽蔑した。


 心臓が動いていたら生きているといえるのだろうか。ならば脳が機能せず、意識がない状態でも心臓が動いていたら生きているといえるのか。

 自分の意志で体も動かせず、いわゆる植物人間となってしまったら、それはほとんど死と同義ではないのだろうか。


 イヴが作り上げたこのゲーム世界には、肉体は必ずしも必要ではない。時間と資金が足りないが、脳だけを冷凍保存して接続することも可能だ。

 仮に心臓が止まっていても、その人の脳みそを機械に繋ぐことで会話ができ、今の自分のように思考もできる。その場合、人は死んでいるのだろうか。あるいは、生きているのだろうか。


 とどのつまり、こういった思考そのものが『生』なのかもしれない。


 現実なんていうものは、自分で決めるものなのだ。クロノスが彼女との生活を現実だと定義するのならば、そこに他者が口出しするのは野暮なのかもしれない。


 そう考えるのだとしたら、少なくともこの空間は、イヴにとって現実といえた。





          *






 クロノスは南に向けて走った。村の中を注意深く見渡してみたが、まだ早い時間のせいか村人たちは起きていないようだ。

 昨日あれだけのことがあったのだから、憔悴しょうすいしているだろうし、これから復興作業があるのだ。英気を養っているともいえる。それとも、多くの村人たちは集会所のほうで寄り添っているんだろうか。


 ふと上空を見上げると、灰色の雲がたちこめているのが見えた。先ほどまで快晴だと思っていたが、南から雨雲が北上してきているようだ。これは一雨きそうだ。雨が降ると、余計に畑を作るといった作業が難渋なんじゅうしそうで、クロノスは手伝えない分、少し気がかりだった。


 すでにアイリス像の前に村長はいなかった。人っ子一人いない像の前を駆け抜けて、いつも釣りをしていた海辺へと向かう。


 心地よい潮風が頬に当たる頃には、すっかり曇り空でまだ朝だというのに日光が遮られ、辺りは薄暗くなっていた。


 波の音が微かに聞こえる。

 クロノスは、釣りをするときによじ登っていた岩の上に立つ。風光明媚ふうこうめいびな広い海が一望できて、気に入っていた。いつもの癖で、自分が倒れていたと教えられた場所に目を向けると、そこにエンリが座り込んでいた。


 クロノスは軽やかに岩を飛び降りて、エンリの元へ駆け寄る。


「来ないでっ……!」


 波の音に混ざって、悲痛な叫びが飛び込んできた。


「エンリ? どうしたんだ……?」


「な、なんで来たの? すぐに村を出るって……」


 エンリは膝を丸めて座り込んでいて、ずっと俯いたままだった。手に何か棒切れを持っていて、砂を優しくなぞっている。謎の模様が出来上がっては消され、と繰り返されていた。


「エンリに会いたくて」


 クロノスは本心を伝えた。エンリの手元にあった棒切れが動きを止める。


「来た時も急だったのに。お、お別れも急だなんて……」


「ごめん、エンリ。俺……」


「いいの。いつかこうなるって、分かってた。わ、分かってた……うぅ……」


 エンリは小さく肩を震わせていた。砂浜に水滴が落ちるのを、クロノスは静かに見つめる。後ろめたい気持ちが募って、そっと足を前に踏み出すと砂を踏む柔らかい音がした。

 そのまま彼女の後ろにしゃがみ込んで、いつだったか悪い夢を見た後のように抱擁した。


 まだその小さな体は、小刻みに震えている。


「俺……妹と、その仲間たちを助けるためにここに来たんだ。それを今の今まで、ずっと忘れていた。使命を果たすときが来たんだ」


「クロノスは、強いもんね……」


「そんなことない。エンリがいてくれたから」


「何だか……変わったね。クロノス」


「エンリ……」


 いつの間にか、震えは止まっていた。エンリが突然振り向いたので、おでこがぶつかりそうになる。


「私……」

 曇天の中でも、エンリの瞳は涙で光っている。

「クロノスなんか、嫌い」


 ぽたぽたと、溢れた雫が砂浜に落ちていく。堪らずに、空も泣き出したようだった。


「エンリ。俺をここで助けてくれてありがとう。君に会えてよかったと思ってる」


「うるさい……クロノスなんか、き、嫌い」


「いつかまた必ず、会いに来る」


 エンリは拳を作って、クロノスの腿を力なく交互に叩く。


「知らない、嫌い……嫌い……」


 叩く力が徐々に弱まっていき、エンリがほとんど倒れ込むようにクロノスの胸に顔を埋めた。雨ではない水滴が、服を濡らしていく。


「嫌い……クロノスなんか、嫌い……うぅ、ひっく……嫌い……」


 エンリは顔をより強く埋める。か細い声は、波音に負けずにクロノスに届いた。


「…………好き」


 クロノスは何も答えずに、両腕に力を入れる。雨が当たらないようにと体を覆ったつもりが、涙が零れてエンリを濡らした。


「クロノス、本当に……か、帰ってくるの?」


「ああ」


 磁石のようにくっついていた体をゆっくりと話して、エンリの前髪をどかして、瞳を見つめる。


「約束だ。必ず帰ってくる」


「うん……私、待ってる」


 エンリが必死に笑顔を繕っているのが分かった。その顔を、表情を、瞳を、涙の温かさを、クロノスは忘れまいと心に刻んだ。


 涙を拭いて、顔を上げる。雨は通り雨だったのか、すでに止んでいた。雲の切れ間から明るい光が差し込んできて、エンリの顔を照らす。目を細めて、眩しそうに手をかざしていた。


「もう、行かなくちゃ」


 クロノスは意を決して立ち上がる。本当は離れたくなかった。それでも、行かなくてはいけない。


「クロノス……えと、気を付けてね」


「……ああ、またな。エンリ」


 クロノスはエンリの頭を優しく撫でて、背を向けた。


 恐らく通り雨で濡れて機嫌を損ねているであろうイヴのもとに急がなくてはならない。小言を言われるだろうとうんざりしたが、エンリに心配はかけさせたくないので、必死に前を向いた。


「またね」


 エンリの声を背中に受けて、歩き出す。ただ帰りを待ち続けるというのは、簡単なことではない。それでも、待つといってくれた彼女の覚悟を、意志を、受け継ぐ。


 妹であるアンリを、その仲間たちであるジーニアスとライナを、皆を助けてメインクエストを遂行する。そうしてゲームの不具合を調整して、再びテストサーバーが稼働したときに、再開できる。きっと。


 クロノスは最後にもう一度だけ振り返った。エンリは大きな海原を背に立っているせいか、とても小さく見える。まだ降っている手を見て、大きく手を振り返す。


 二人は離れていても繋がっている。


 たとえそれが、ゲームデータだとしても。


 クロノスとエンリの絆を表すように、二人のあいだに大きな虹がかかっていた。


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