第二部 始まりの村――≪使命≫
平穏
小さな布団の上で、薄い布切れを纏ったままのクロノスは大きな欠伸をした。
ぼんやりとした視界には、見慣れた天井。体を起こそうかと思ったが、眠気が靴底にくっついたガムのようにしつこく纏わりついて離れない。
その『ガム』も、ここに来てから見たことがないのに、なぜか存在は知っていた。
しばらく
クロノスが寝ぼけ
「クロノス。えっと、おはよ。もうお昼だけど」
何故か少しだけおどおどしたような声だった。だが、それはいつものことだ。
「エンリ、おはよう」
クロノスが微笑んで挨拶を返すと、エンリは恥ずかしそうに俯く。重力によって垂れた長い前髪が、可愛らしい笑顔を隠してしまった。いつも思うが、そんなに長い前髪は邪魔ではないのかと要らぬ心配をしてしまう。
「あのね、お母さんが、ご飯できるから起こしてこいって言ってたの。えっと、だから……起きて?」
「もう起きたよ」
クロノスは纏っていた薄い布切れをどけて立ち上がる。
先ほどは横になっていたからエンリの方が高い位置にいたが、立ち上がるとどうしても見下ろす形になってしまう。その姿勢だと、必然的にエンリの長い前髪が邪魔をして、表情を読み取るのが難しくなる。
それでも、口元がふにゃっと綻んでいるのが見えた。
エンリの笑顔がミントのように効いてきて、目が冴えてきた。大きく伸びをして歩き出す。
まるで見えない糸に引っ張られているように、エンリが後ろに引っ付くようにしてついてきた。歩くたびに着ている白いワンピースがひらひらと幻想のように揺れていた。
部屋を抜けると、先ほどいた部屋よりも幾分か広い居間に出る。中央に大きな木製のテーブルが置かれていて、同じ材質の椅子も四脚置いてある。その左手に小さなキッチンがあり、ちょうどエンリの母親が出来上がった料理を持ってテーブルへ向き直るところだった。
「やっと起きたわね、ねぼすけ。さぁさぁ、ご飯よ!」
「ありがとう、おばさん」
クロノスは感謝の意を伝えて、近くの椅子に腰掛ける。そこが定位置だった。それを真似るように、エンリも隣の椅子にぴょこんと飛び乗った。
「あれ?」
エンリが回りをきょろきょろと見渡す。
「お父さんは?」
「山菜採りに行っているよ。おにぎり渡しておいたから、お父さんのご飯は大丈夫。たんとお食べ」
「はぁい」
キッチンの横に敷いてある
クロノスは食事を口に運びながら、自分でもやれることはないかと考える。といっても、選択肢は一つしかなかった。
「じゃあ、俺はこれ食ったら釣りにでも行ってくるかな」
横にいたエンリが、前髪越しでも分かるほどぱっと明るい雰囲気を放った。
「お母さん! エンリも行っていい?」
「ええ、もちろん。ありがとうね、二人とも。いつも助かるよ」
別に感謝されるようなことではないのに、とクロノスは思った。エンリは釣りに行くのが余程楽しみなのか、小さな口に沢山料理を詰め込んでいる。
エンリがどれだけ早く食べ終わろうと、クロノスが食べ終わらないと出発はしないのだが、ハムスターのように頬っぺたを膨らませている様子からして、それに気付いていないようだった。
食事を終えて、エンリの母親が木で出来た皿を井戸水で洗っているのを横目に見ながら、クロノスとエンリは揃って家を出た。
外はまだ日が高く、天気がいい。どこまでも広がる青い空には、絵の具で描いたような白い雲がたなびいている。
この村は数十軒の家屋がある程度の小さな村で、どの家庭も
数軒の家屋を抜けて、南下する。後ろをついてくるエンリは歩幅が狭いせいもあって、追いつこうと必死に足を動かしていた。クロノスはそれに気が付いて、歩く速度を落とす。
やがて、広い空間に出た。そこは村の中央に位置する場所で、集会所と呼ばれる大きな家屋がある。その脇には、少女を模した五メートルほどの石像があり、村の人々は明朝に、『アイリス様』と呼ばれているその石像に祈りを捧げていた。
「釣り竿、借りて来るよ。エンリ待ってて」
「うん」
クロノスは石像をスルーして、集会所に入る。ここも、無人だった。
一声掛けてから借りようと思っていたが、誰もいないのなら仕方がない。クロノスは玄関に立てかけてある釣り竿を勝手に拝借して、集会所を出る。後でちゃんと戻せば問題ないだろう。
外に出ると、エンリが前髪の隙間から片目を覗かせて、アイリス像を見上げていた。
「エンリ、どうかした?」
「ううん……何でもないよ……」
エンリは微動だにせずアイリス像を見たまま答えた。
「何だお前、見惚れてるのか?」
冗談をいうと、意外にもエンリは首を縦に振った。クロノスは予想外の返事に少し驚いた。
「アイリス様って、凄い可愛いなぁって思って……。クロノスはどう思う?」
エンリが前髪の隙間からクロノスの表情を窺う。その瞳は、先ほどとは違う雰囲気を漂わせている。
「どう思うって言われても……アイリス様って神様みたいなもんなんだろ? 神様なんて、存在しないだろ」
「存在するかしないかは、その人の心によって変わるんだよって、その……お母さんが言ってた」
エンリは視線を逸らさずに真っすぐにクロノスを見つめている。視線がくすぐったくて、手元の釣り竿をいじって気を紛らわせた。
「神様ってのは、俺は信じないな。それに、俺はあの像の少女よりも……」
クロノスはちらりと目だけを動かしてエンリを見る。純粋無垢な大きな瞳と視線が交差して、思わず目を逸らした。
「……よりも?」
クロノスがなかなか二の句を継げずにいると、エンリが先を促してくる。
「あー、もう」
クロノスは降参、とばかりに頭を掻く。
「止め止め! 早く釣りに行こうぜ!」
「ふふっ……」
「何笑ってんだよ!」
クロノスは
*
村を抜けてしばらくすると、目の前に碧海が出迎えた。地平線はどこまでも続いていて、小さな波の音が耳に心地よい。
エンリが波音に耳を傾けていると、クロノスがさっさとお目当ての場所に走っていった。
海に向かって飛び出すように聳えている岩場によじ登ったかと思うと、家から持ってきていた餌を慣れた手つきで括り付けて大きく竿を振った。
ようやく追いついたエンリも、クロノスの邪魔にならないように横に座り込んだ。
潮風が、エンリの髪を靡かせる。耳に髪をかけて横目でクロノスを盗み見ると、どこかぼんやりとした様子で海の先を見つめていた。
「クロノス?」
エンリが声を掛けても、クロノスは何も答えてくれなかった。まるで時が止まったかのように身じろぎ一つしない様に、なんだか不安が過る。
しかし、クロノスが何を考えているのか、エンリには分かっていた。
空を仰ぐ。もうどれほど前だったか、あの時も今日のような晴天だった。
その日、エンリは食糧調達のために釣り竿を借りてこの浜へ来ていた。一度も釣りに成功したことはなかったけど、今日こそはと意気込んでいたら、魚ではなくて倒れている少年を見つけた。
目立った外傷はないけれど、ぴくりとも動かない。心配になってエンリが釣り竿でつんつん、と突っつくと、少年はすぐに体を起こした。
「あ、あなたは……誰、ですか?」
エンリは村にいる人々の顔をみんな覚えている。だが、この少年は見たことがない顔だった。村の南に位置するこの海の向こうから来たんだろうか、と想像が膨らんでいく。
「おれ……俺は、クロノス」
「クロノス? どこからきたの?」
しばらくの沈黙のあと、クロノスは何か話そうとしていたが、砂浜に吸い込まれるように倒れ込んでしまった。
「わっ、クロノス! しっかりして!」
エンリはすぐに家に戻って、両親に助けを求めてクロノスを家に連れて帰った。
それからというもの、曖昧な記憶しかないクロノスはエンリの家で暮らすことになった。
エンリは昔を懐かしむようにクロノスを眺めた。一体、どこから、どうやってここに来たのか。もし、海の向こうに村があるとしたら、いつかそこへ帰っていってしまうのだろうか。その時は、連れていってくれるのだろうか。
エンリは無意識に、クロノスの袖を掴もうと手を伸ばしていた。
しかしその時、垂れさがっていた釣り竿が激しく動き出した。その動きで、我に返ったクロノスが立ち上がる。
魚はあっという間に釣れた。いつもエンリが釣ろうとすると、瞬く間に逃げられてしまうのに、クロノスは釣りが上手だった。
「わぁ、大きい魚だね。クロノス」
「ああ、でも四人で食べるとなるとまだ足りないな」
「もっと釣れるかな?」
「もちろん」
クロノスが竿を振るう。
「沢山釣るよ、エンリもやるか?」
「私がやると、逃げられちゃうから……」
「違いない。エンリが怖くて魚が逃げちまうからな」
「んなっ……! そ、そんなことないもん!」
エンリは頬っぺたを膨らませて、口角を上げているクロノスを思わず小突く。
「冗談だっ……て、うわぁ!」
クロノスがあっけなくバランスを崩して、海へと落ちていった。エンリは慌てて落ちた先を覗き込む。ぶくぶくと泡を発しているのが見えたが、いかんせん泳ぐことが出来ないので見ることしかできない。
「ク、クロノスー! 大丈夫!?」
クロノスは返事もせずに必死に泳いで浜に辿り着いて、仰向けに転がった。エンリも岩場を降りて慌てて近付くと、ちょうどクロノスの上着から一匹の魚が飛び出すところだった。
「わ!」
「ふー、全くあぶねぇなぁ。でもまた一匹釣れたぞ」
笑顔を向けるクロノスを、エンリは前髪で隠れるようにして見つめた。その屈託のない笑みが好きだった。
「ふふ、また泳いで魚捕まえる?」
「……もう勘弁してくれ」
エンリが伸ばした手を掴んで、クロノスが起き上がる。こんな日が続くといいなと、どちらともなく思って笑いあった。
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