キツネのお時間
稲葉 すず
キツネのお時間
それは、ようやく山の雪が溶けて暖かい風が吹いて、それでもたまに雨が降ると体の芯まで冷え込んでしまうような日だった。
とある大手動画投稿サイトに、新しいアカウントが生まれた。それは毎分毎秒よくあることで、名前は初期登録のランダム英数字のまま、自己紹介文も何もないそのアカウントは、すぐにその他大勢に埋もれてしまうはずだった。
開設されたそのアカウントには、すぐに一本の動画がアップされた。タイトルは、漢数字の一。タグもついていなければ紹介文もない。そんな、数分もない動画だった。
黒い画面にノイズが走る。音も不鮮明だ。少し遠いところから、電車の走る音と、遮断機のかん、かん、かん、という音が聞こえる。後から入れた音ではなくて、多分、撮影の時に入った音を加工しているのだろう。水の膜の向こう側から聞こえるかのような、少し遠くに音がしている。たまに、一つの音だけが鮮明に響いたりもする。
その暗い画面の中央に、男が映った。後ろ姿だ。スーツを着ている。髪は短く刈り込まれてはおらず、襟足はスーツの襟元には届かない程度だから、まだ若い男だろう。黒髪なのか茶色く染めているのかは、画面が暗く加工されているから分からない。
画面にノイズが走る。
男は歩き出す。ここは、駅前の商店街のようだ。なにか音声が流れているけれど、時折走るノイズが邪魔をしてどこの商店街なのかの特定をさせない。商店街ごとにある独特の、スピーカー越しの音楽やアナウンスが流れている、それは分かるのに。鮮明になるのは音楽だけで、告知の文言になると不鮮明になる。
男は商店街を抜けて、国道か県道か、大きな街道沿いを歩く。どこかの曲がり角を左に曲がって、そこから先は住宅街。というところで、ふつり、と、動画は切れて終わった。
この動画は、万はおろか数百も見られることはなかった。一部の年寄り連中が、「昭和の時代のビデオみたいないいエフェクトだった」と喜んでいたくらいだ。
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