06*9月 呂村さんと来城くん

 食堂の一角、少し離れた先で顔も知らない学生が談笑していた。私の些細な行動なんて見るわけがない。

 つくづく、自分は無駄なことをしていると思う。高鳴る心臓はいつだって言うことを聞いてくれないし、今しようとしているいたずらだって止められそうにない。

 細心の注意を払って、目の前に転がる紫色のボールペンに手を伸ばす。机に伏している大きな体に似合いの大きな手から転がり落ちたそれに指先が触れた。

 私を置いてけぼりにして夢の世界に旅立った彼が気づくわけがない。心の機微も呆れるぐらいに気付いてくれないのだから。

 自分の手元に持ってきたボールペンを見て、得意な気持ちになった。

 自分のペン入れから紫のボールペンを取り出して、彼の傍らに置く。

 転がるボールペンにも、握りしめたボールペンにも自動車学校の名前が印字されていた。勧誘目的の粗品は、どの学生も必ず一本は持っているので、赤、青、緑と戦隊もののような色違いをよく見かける。

 だから、見た目には絶対わからない交換だ。

 無駄なことだとは思う。でも、私にとっては意味があることだ。

 何食わぬ顔で課題に戻った。思い出したように彼を見やるが起きる気配はない。

 本当に寝付きがよく、爆睡型。同じ講義に参加して船を漕いでると思ったら、おでこを机に打ち付けるのは風物詩になってしまった。誰も彼の前に座ることはなくなり、教授に小言をもらっても陽だまりのような笑顔はバツが悪い色をほのかに見せるだけで曇ることはない。

 一年浪人して私と同学年になった時も、同級生だねぇと顔をほころばせた。あまりにも図太いので、逆に得する性格だ。

 食堂の時計を見ると、次の講義の時間が迫っていた。


「ゆう兄、起きなよ」


 肩を揺さぶっても起きない。

 仕方なしにゆう兄の椅子の後ろに回り込み、両脇に手を入れた。渾身の力を込めて体を起こす。寝る子は育つと言うが育ち過ぎである。熊か、コイツは。


「……あれ、課題が出来てない」


 起きて一番の言葉がこれである。

 髪が好き勝手に跳ねた頭をはたいてやった。


「寝言は寝て言いなさい」


 私の言葉にも焦った様子のないゆう兄は振り返り、おはよと笑った。時計を見て、締切に間に合わないと軽く放心しているが、やはりというかさすがというか。うっすらと諦めの笑顔が浮かんでいた。

 彼の表情筋は誰よりもゆるい。

 目がすわった私は可愛くないと思う。しかし、このとぼけた幼馴染みをしつけるのも私の役目だ。


「この課題の締切、明日だから大丈夫」


 あからさまに表情を明るくさせたゆう兄は、的の外れた言葉をぼやく。


「浪人してよかったなぁ」

「世話の焼ける年上がいて困ったなぁ」

「はは、ごめんね」


 わざと呑気な口ぶりを真似する私に彼は笑いながら謝った。全然、反省をしていない、と思うが今更である。ゆう兄が私に甘えるのはいつものことだった。浪人して苦労を理解しても、雲よりも形のなさそうな性根は治りそうにない。

 ゆう兄を助けられることも、頼りにされることも喜んでいる自分はとことん彼に甘いと自負していた。行動と態度はついてこないが。


「すず、最近、写真撮った?」


 荷物を片付けながら、ゆう兄が話しかけてきた。

 私は首を振りながら答える。


「んーん、あんまり。この前、桔梗を撮ったぐらい」

「見してよ。最近、いいネタが思い付かなくてさぁ」


 ゆう兄は文芸部に所属している。構内で頒布される冊子に作品を載せる時はよく私の写真を作品の表紙にしてくれた。

 なんだか、むず痒いと思いながらも断れない。意識して顔に出さないよう繕って私は口を開く。


「近いうちに現像しとく」

「うん、よろしく」


 この屈託のない笑顔に私は弱い。心の中だけで嘆息した。


「あれ、臼井うすい先輩だ」


 ゆう兄の声に顔を上げた。

 無精髭にのびっぱなしの前髪。胡散臭いことこの上ない。留年ばかりで期限切れ間近の先輩だ。これでも文芸部では文聖として慕われているらしい。

 全くもって、私は信用してないが。

 食えない笑顔を貼り付けた先輩はストローを噛み潰しながら、ゆう兄に応える。


「おぅ、熊公くまこう。新作できたか?」


 言わずもがな、熊公とはゆう兄のことである。自分のことは棚にあげて腹が立つ。

 この時間、無駄だろう。

 そうは思っても口にはしない。不機嫌丸出しの私を放って彼らは話を続ける。


「いえ、まだです。臼井先輩はもう書けたんですか」

「形はできた。書けるといいな?」

「ありがとうございます。今日は部室寄ります?」

「気が向いたらな」


 生返事をしていた死んだ魚のような目が私を見下した。口端の片方を歪め、瞳は愉快に色付く。


「みーちゃった」


 ふざけた口調に総毛立つ。

 何を、とは語らないが、ボールペンを映した目が細めた。

 首をひねるゆう兄を視界にも入れず、先輩は切り出す。


「ねぇ、呂村ろむらちゃん。俺、次が講義なんだけど、書くものないんだよなぁ」


 演技がかった言葉を無視してボールペンをペン入れに隠す。

 何も知らないゆう兄はもともと私のだったボールペンを差し出した。


「俺の貸しましょうか?」

「野郎のなんて借りたくねぇよ」

「わからなくもないですけど、それ俺に言います?」


 二人の掛け合いも聞こえないふりをして出口を目指す。


「これだとまた留年だなぁ」


 愉快そうな声が背中を追いかけてきた。

 ゆう兄はもう留年できないでしょ、と笑っているが、全く笑えない話はやめてほしい。

 鞄を投げつけたい気持ちを我慢して、ペン入れから紫のボールペンを取り出した。これ以外のペンでも構わないだろう。そんな考えが一瞬頭を過るが、先輩アイツは中途半端なことをしない。非常に面倒くさい性格をしているのだ。


「返さなくて結構ですから」


 私は叩きつけるように紫のボールペンを渡した。


「あ、俺と一緒だ」


 狙ってるのではないかと思えるほどの場違いな言葉に、私は顔をひそめた。

 先輩アイツがさらに悦ぶことを知っているはずなのに。

 その場の空気を一瞬でも吸いたくなくて、踵を返した。


「美人が台無しだなぁ」


 余計な声が追いかけてきたが、無視だ無視。アイツに割く時間も荒らされる思考も無駄だ。

 正面だけを睨み付けて足は止めない。慌てて追いかけてきたゆう兄に簡単に追い付かれた私はさらに歩幅を広くした。


「すず、すず」


 斜め後ろから声をかけられるが、止まるつもりはない。講義室の席について、息が上がっていることに気がついた。

 隣に座ったゆう兄も頬が少し赤い。


「ほら、俺のあげるから」


 ほしかったんでしょう?とゆう兄は私を子供扱いする。確かにゆう兄のボールペンがほしかった。彼の物がほしかった。だけど――


「お揃いじゃない」


 私の小さな我が儘はゆう兄に聞こえなかった。

 なんて言ったの?と困り顔。

 情けない気持ちになりながらも、私は返ってきた紫のボールペンを受け取った。


 

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