孤立無援のストラグル
佐倉千波矢
前 編
オレンジ色に染まった夕暮れの道を、少年は少女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
少女は一方的にたわいない話をしていたが、自宅が近づくにつれ口数が減っていった。そのうち幾度となくこちらに視線をむけてくる。だが見返すと、ぷいと顔を背けてしまう。
「どうかしたのか?」
「べつに」
少ししてから、少女がふいに立ち止まった。少年も足を止める。
「……あ、あのさ……」
視線をはずしたまま、少女は早口で続けた。
「明日の古典、宿題出てたじゃない? 終わってるの?」
「否定だ。昨夜までにどうにか半分終えたところだ」
少年が渋い顔になるのに反して、少女は嬉しそうに微笑む。
「なら、教えてあげるから、ウチ来ない?」
「それは助かる」
「それじゃ……つ、ついでだから、ご飯食べる?」
「いいのか?」
「どうせ自分の作るし、一人分も二人分も手間は同じだから」
「では遠慮なく馳走になる」
「ん」
そっけない素振りで少女はさっさと歩き出した。少年は慌ててその後を追いかける。
少女が夕食のメニューをあれこれと口に出し、記憶している冷蔵庫の中身と照合してからやがて結論を出す。
「肉じゃががいいかな。ソースケはそれでいい?」
少年は即座に同意した。異論などあるはずがなく、今までに唱えたこともないのだが、彼女はしばしば彼の承諾を求めた。
角を曲がると、沈みかけている大きな夕日がほぼ正面に見えた。
「うっわー、まぶし! でもキレイだね」
「うむ」
あとはなにを話すでもなく、二人の間には沈黙が降りる。穏やかで、心地良い沈黙だ。少年は不思議なほど安心感を覚えた。
ただただ、優しいひとときだった。
相良宗介は目を覚ました。千鳥かなめとの逢瀬が夢だったとわかり、軽い失望とささやかな幸福感が心をかすめた。
即座に心身が覚醒し、現状を把握する。
乗船している強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉の待機室で、仮眠を取っていたところだ。予定されているミーティングまで二時間あり、まだ休息時間は残っている。
必要最低限を確認すると、彼は起き出すことなく、もう一度目を閉じた。
夢が残した甘やかな余韻を味わう。それはここ数日で覚えた「贅沢」だった。
夢そのものは、手にすくった砂が指の隙間から落ちていくように、速やかに記憶から消え去ってしまう。残るのはほんのわずかな残滓だ。いまはそれで充分だった。たったそれだけでも彼女との繋がりを感じられるのだから。
以前の彼であれば、睡眠時に見た夢の内容など一顧だにしなかったろう。そもそも見る夢はどれも気分のよくなるようなものではなかった。特に日本を離れてからナムサクに辿り着くまでは、喉元に苦さだけを残すようなしろものばかりだった。
しかし、通信機ごしとはいえ彼女と話をできたことが、それを変えた。目覚めたときの、心に残されたかすかな暖かさを、かけがえがないものと思うようになった。
三分間の贅沢を自分に許してから、ようやく宗介は目を開いた。
起き上がりながら、常の手順で自身の体調を確認した。気分にも身体の各部にも変調は感じない。なにも問題はない。
ロッカーから上着を取り出すとき、扉の内側に付いている鏡を覗いた。自分の顔を見たのは健康状態をチェックする習慣に過ぎなかったのだが、映っている顔にどことなく違和感がある。通常なら数秒しか眺めない鏡をじっくりと見返した。
目つきの険しさも、への字の口元も、常と変わりはない。それなのに全体的な雰囲気がどこか違う。
なぜか、同僚のクルツ・ウェーバーが、若くて美人の女性隊員にデートを持ちかけてるときに浮かべる、気の抜けたようなだらしのない表情が思い出された。強いて言うなら、その表情との共通性を感じる。
宗介は自分の考えに不愉快になった。慌てて顔全体に力を入れ、むりやり表情を硬くする。
クルツは勤務時間の違いで幸い不在だ。そうでなければ、このような変化にやたらと敏感なその同僚に気付かれたかも知れない。そんなことになったら、いったいなにを言われるやらわかったものではない。そうでなくても……。
そこで自分が陥っているある状況に思い至り、宗介は肩を落とした。
問題は、体調以外のところにあった。自分にとってはかなり大きな問題といえる。そうだ、夢は甘くとも、現実は厳しい。いや、忌々しい。その忌々しい現実に、この二日間というもの彼は単身立ち向かってきたのだ。そしておそらく、今日もまたやり過ごさねばならないのだろう。
その問題を思うと、部屋を出るのがためらわれた。
部屋は簡素なベッドとロッカーにほぼ占有され、私物の保管と睡眠のための場所でしかない。眠る以外のなにをするにも、室外、つまり他の乗組員がいる場所に出て行かなくてはならない。それが現在の宗介には苦痛だった。
ミーティングが始まるまでに食事を取っておく必要がある。生憎と食料の備蓄はなかったし、ましてやルームサービスなどという気の利いたものがあるはずもない。どうでも食堂に行かなくてはならなかった。
ぐずぐずしていても時間を無駄にするだけである。宗介は覚悟を決めて通路に出ると、食堂に向かった。
最初にその問題に直面したのは、〈デ・ダナン〉に合流した翌日の午後だった。
宗介は、半年前までよくそうしていたように、ASの整備に立ち会うべく格納庫に足を向けた。だが、水密扉をくぐり抜けた瞬間、どこかおかしいと気付いた。
ASはひざまづいた降着姿勢をとって整列している。それは通常どおりだ。だがあちこちに散らばっているはずの整備兵の姿がまったく見当たらないのだ。自分がいなかった期間に、なにか変更があったのだろうか、と
気配や人声はあるので奥に進むと、どことなく聞き覚えのある声が切れ切れに耳に届いた。
『──にきなさい! ──なら──しょ! ──」
『──る」
前方に整備兵たちを見つけた。どういうわけか、彼の愛機を取り囲んでいる。
さらに近づいたために声がはっきりと聞こえ、それが宗介の足を止めた。というか、動きをフリーズさせた。
『必ず行く。待っていろ』
『うん……。ソースケ……大好きだよ』
『俺もだ。愛してる』
『うれしいよ……。じゃあ、次にちゃんと会えたら、必ずキスしよ。思い切り。どんな場所でも。いい? 約束だよ?』
いつの、誰と誰の、どういった会話であるかが理解され、宗介の目つきはより鋭く、への字口はより鋭角になる。
『ああ、約束する』
『何年でも、何百年でも待ってるから……』
『大丈夫だ。必ずつかまえる』
『うん。それから──』
「アル! ただちにその録音を停止しろ!」
あらん限りの大声で、宗介は自機のAIに命令した。
宗介とかなめの会話はぷつんと途切れる。それと同時に、そこにいた第一一整備中隊所属の十数人と一人のSRT要員が、一斉にこちらを振り向いた。
「おやま、主役の登場だぜ」
ふてぶてしくにやりと笑ってみせたのは、クルツだった。整備兵がそろって決まり悪げに視線をさまよわせる中、そのSRT要員だけは、〈レーバテイン〉の上腕部に寄りかかった姿勢のまま、宗介の仏頂面と正対した。
「どういうつもりだ?」
「なにがだ?」
うそぶくクルツに舌打ちして、宗介は詰問の相手を白と赤に塗装された機体に替えた。〈レーバテイン〉の頭部を見上げる。
「アル、昨日のあれを録音していたのか?」
《教育メッセージ。『あれ』の対象を定義──》
「おまえまでとぼけるのはやめろ。わかっているんだろ?」
AIのジョークに付き合う気のない操縦兵は、固い声で吐き捨てる。
《失礼しました。見当は付きます。軍曹殿とミズ・チドリとの会話のことですね》
抑揚のない男声は素直にそれと認めた。
「そうだ」
《AIが戦闘時のすべてを記録することは、軍曹殿もご存じのはずです》
「もちろん知っている。俺が言いたいのは、俺たちの会話は残しておく必要のないものだということと、なぜおまえが皆に聞かせていたかだ」
《保存の必要がない記録の削除は、戦闘終了四八時間後に実行するものであり、その時間に達してしないため現在はまだ残されています。また、さきほど再生した理由は、記録の参照を要求されたためです》
「要求したのはクルツか?」
《
「では四八時間後に達し次第、削除しろ。それまでに再生を要求されても応じるな」
《
「おっと、削除は取り消し、な!」
クルツが割って入った。宗介を押しのけてさらに続ける。
「アル、命令だぜ。絶対削除するなよ。そいつはたいせつに保存しとく必要があるからな。それから俺が頼んだときには必ず再生するように」
《
視線に殺意をこめて同僚を睨みながら、宗介は声を張り上げた。
「アル、クルツの命令に従うな。四八時間が経過した時点で、即刻削除だ!」
《申し訳ありません、軍曹殿。ご命令を拒否します》
「なんだと? アル、俺の命令が聞けないのか!?」
《私は命令系統を遵守しなければなりません。ウェーバー曹長の命令が優先します》
「なっ……」
確かに彼は軍曹のままで、クルツは曹長に昇進した。彼自身はまだ隊への復帰を決定したわけではないが、アルの判断基準は〈ミスリル〉に準拠する。つまりアルは正しい。
宗介は、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵に沈められた気分を味わった。
「よ~し、いいこだ、アル」
愕然としている宗介を尻目に、クルツは機嫌よくバシバシと〈レーバテイン〉の機体を叩いた。
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