第28話 別れ
英樹は周囲を確認してから、黄色いテープをまたぐ。この裏山に入るのは何か月ぶりだろうか。最後に入ったのが由紀子に告白をした日だから、四か月くらいは疎遠だったということになる。
山はすっかり様相を違えていた。緑の抜けた紅葉から、朽ちた落葉に服を変えている。足を前へと進めるたびに、ざくざくと足もとで音が跳ねる。
どうして由紀子はここに来てほしいと自分に言って来たのだろう。
もしかしたらまた自身の性欲の新たな一面に気付いてしまったのかもしれない。それで落ち込んでいるのかもしれない。だとしたら、助けないといけない。きちんと受け容れてあげないと。
しばらくするといつもの道に出て、石段が見え始めた。茶色い木の葉をまとう石段をゆっくりと上がっていく。そして、鳥居をくぐる。
由紀子はベンチに座っていた。冬用の制服を着ている。
「どうしたんだよ、内野」
「先生」
英樹が由紀子に近づくと、由紀子が腰を上げた。隣を勧められたので、英樹がベンチに腰を下ろす。その後、由紀子はふたたびベンチにおしりをくっつけた。相変わらず礼儀正しい。
先生、と自分が呼ばれたことに、ふと気づいた。名前ではなく、先生、と呼ばれた。
「ここに座ってるとあの日のことを思い出します」
由紀子が空に視線を上げた。青いキャンバスに灰色の雲が揺蕩っている。
「本当にあのときは、辛くて、苦しくて……そこに先生が来てくれて」
あの日うつむいていた由紀子の顔が、いまは上を向いて、広大な青空を相手にしている。
「いろいろ話しているうちに、いつのまにか告白されてて、いつのまにか襲われてました」
由紀子が悪戯っぽく笑う。「懐かしいな」英樹も笑みを浮かべた。笑えるような内容ではないけど、由紀子に合わせた。
「本当にびっくりしました。先生のことを初めて怖いと思って、そのおかげで辛い気持ちが吹き飛びました」
「結果オーライだな」
今度は英樹から笑った。「結果オーライです」由紀子も合わせて笑ってくれる。
穏やかな風が顔の表面をくすぐる。あの日に比べると、木々の揺れる音はだいぶ小さい。冬真っ盛りだが、先週に比べると寒さは落ち着いている。
「そのあと、一週間くらいは先生とあんまり喋れませんでした。なんだか緊張してしまって」
「俺もだ。初めての告白だったから、あのあとどうすればいいのかわかんなかった」
そうだったんですか、と由紀子が驚く。
「私が一週間くらいかけて気持ちを整理して、それで先生に話しかけたら旧校舎に行くことになって……そこでまた少し話しました。最後はなぜか家の住所を教えてもらいました」
「長時間話せる場所がそこしか思い浮かばなかったんだ」
この裏山という選択肢もあったが、開放的な場所で話すのはためらわれる話題だった。なにより、見られたくないと思った。
「先生の家に行くの、すごく緊張しました。そこで先生の性教育の授業を受けて、しかも付き合うことになりました。ほんとうにうれしかったです」
懐かしそうに、由紀子が微笑む。
俺も、と英樹は心の中でつぶやく。あのときはほんとにうれしかった。誰かと付き合うという長い間思い描いていた夢をようやく叶えることができて、ほんとうに、うれしかった。
「あのとき先生が私に何を言ったか、覚えてますか?」
「えーっと」
「真摯な恋愛がしたいから、もし先生が私に嫌なことをしてきそうになったら、絶対に拒絶してほしい。それは私のためじゃなくて、先生のためで。先生は先生で、私が先生に嫌なことをしそうになったら、絶対に拒絶するから、先生のために自分を犠牲にしようとは思うな――って言ってました」
「よくそんなこと覚えてるな。円周率百桁くらい覚えられるんじゃないか」
耳の痛い内容だった。だから茶化した。
けど、由紀子は笑ってくれなかった。
「ごめんな、あんま面白くなかったな」
「先生」
太く頑丈な、芯のある声が、英樹の言葉を押し潰した。
「本当にこれでいいのか、わかんないです」
「どうしたんだよ、急に」
雰囲気が濁り始めたのを感じる。英樹はそれを吹き飛ばしたくて、もう一度茶化すように笑った。けど、由紀子は笑ってくれなかった。
「そうする必要があるのかもしれません。そうしなきゃいけないのかもしれません。もしかしたら、私がそうしたいと思っているのかもしれません」
続きを聞いても何を言っているのか理解できない。説明を求めようと由紀子のほうを向くと、なにかをこらえるように唇をかみしめていた。視線は腿のうえに置いた両手に注がれていた。両手がぎゅっとスカートを握りしめている。
「先生が言ったんですよ、自分のために生きろって……もし嫌だったら、ちゃんと断れって」
強い風が吹いてほしかった。風の音、木々の揺れる音、落ちた葉の転がる音、山の唸る音。すべてで由紀子の声を掻き消してほしかった。
「なのにどうしてこんなことするんですか」
直感する。
「冬休みが開けてから、ずっとです。先生は、ずっと、嘘をついてます」
由紀子は気付いている。
英樹の本当の思いに。
枯れてしまった恋心に。
「先生はもう、私のことが好きじゃないんですよね」
やめろ。やめてくれ。
心の叫びが、身体の内側を反射する。
「なのに、どうして私のことを好きな風に振舞うんですか」
頼む。それ以上は、やめてくれ。
「好きでもない人の機嫌をとって、しかも、人を殺したくなるこんな人間のそばにいて、先生は嫌じゃないんですか」
お願いだから、それ以上は、もう――
「なんでなんだろうな」
由紀子の言葉を否定したかったはずなのに、かすかに開いた口から漏れ出たのは、そんな問いかけだった。
「なんで俺は、子どもしか愛せないんだろうな」
神様はどうしてこんなことをするのだろう。
どうして自分が選ばれたのだろう。
これまで答えの出なかった疑問たちが、手と手を取り合って英樹を囲む。
「俺、本当に幸せだと感じたんだ。内野と付き合うことができて、本当に人生で一番幸せだったんだ」
付き合ってからの幸福な日々が、記憶の中を流れていく。
普通の恋人のように、ふたりでデートを重ねた。由紀子が家に来て、英樹の料理をおいしそうに食べて、ふたりで映画を見て、ふたりでお昼寝して、ふたりでたわいもない話をして、ふたりでふたりの時間を積み重ねていった。一回だけだけど、外でデートだってした。どれもかけがえのない、幸せな思い出だった。
「そんな幸せをくれた内野のためなら、本当になんでもできると思った……内野のためなら命を張れるくらい、それくらい、内野のことが愛おしいと思ったんだ」
本気で好きだった。これ以上ないくらいに愛していた。最高に幸せだった。
でも、そう自分に言い聞かせていただけなのだろうか。
「受け容れられないんだよ」
今になって風が吹き始める。
どれだけ山が音を立てようとも、もう英樹の声を掻き消すことはできない。体の内側で反射してきた思いは、その分振動数を増した状態で飛び出していく。
「たった少し体が成長して、丸みを帯びただけなのに、ただそれだけのことが受け容れられないんだ。好きっていう気持ちがなくなってるんだよ。それだけじゃない。由紀子が生き物を殺したくなることも、俺を殺したくなることも、全部が気持ち悪く思えるんだ。由紀子が俺の手首をいじったときのことを思い出すと、怖くて怖くて仕方ないんだよ」
足元で蜘蛛が一匹死んでいる。跡形もなくなるくらいに潰れて、ぴくりとも動かない。
「どうしてこうなんだろうな」
自分が踏みつぶしたのだろうか。
ぜんぶ全部、自分が踏みつぶしてきたのだろうか。
「ずっと内野を利用してた」
由紀子の靴底が、ずり、と、砂とこすれる。
「内野が生き物を殺したいって思ったり、俺を殺したいって思ったり、そういうことを知るたびに、本当はずっと気持ち悪いと思ってきた。自分から遠ざけたいって思ってきた」
気持ち悪い――何度そう思ったかわからない。
「それなのに気持ち悪くないとか言ってみたり、生きてていいとか言ってみたり、そうやって内野を受け容れようとしてきたのは、そうすれば自分の感情が本物の愛に近いって証明できる気がしたからだ」
相手を百パーセント受け容れる。相手がどうなろうと大切に思える。そういう本物の愛。そんなものはないと自分に言い聞かせて来た。
本物の愛などない世界で、殺害衝動も殺人衝動も、気持ち悪いとしか思えない由紀子をすべてでなくても受け容れられる自分の感情こそが、最も本物の愛に近い、至上の愛だと、思ってきた。それこそが正解だと信じて来た。
「でも」
本当にないのだろうか。
「結局は本当に近いってだけで、本物じゃないんだよな」
それは、本当に存在しないんだろうか。
「親からいろいろなものが届くたびに、申し訳なくなるんだ」
ひとりぐらしの英樹の助けになろうと、毎月親は何かしらのものを送ってくる。
地元の特産品、昔英樹が好きだったお菓子、おふくろの味が楽しめるらしいレトルト食品。
それらと必ずセットで送られてくるメッセージカード。
「どうしてこの人たちは、こんなに俺にやさしいんだろうって」
元気? 最近仕事はどう? 食事はちゃんと食べてる?
「俺が会社辞めて教師になるって言ったとき、ちょっと驚いただけで、嫌な顔ひとつしなかったんだよ。すげぇ急な話で、しかも彼女と別れた直後で、絶対にそういうこと気にしてたはずなのに、教員免許を取るためにかかるお金とか当然のように負担してくれて」
英樹の幸せが私たちの幸せだから、と言われた。
理解できなかった。
どうしてそう思うのだろうか。
どうしたらそう思えるのだろうか。
本物の愛なんて存在しないはずなのに。
「ときどき思うんだよ」
すぐ隣にあるかもしれない現実に、英樹の意識が触れる。
「もしかしたらこの人たちは俺を受け容れてくれるんじゃないかって。俺が子どもしか愛せないって言っても、小児性愛者ってカミングアウトしても、真摯に受け止めてくれるんじゃないかって」
わからない。なにひとつ、わからない。
だから、わかりたかったのかもしれない。
「本物の愛なんて存在しないって思ってたのに、いつの間にか、それを求めてた」
枝から枯れ落ちた木葉が、足もとを転がっていく。
「内野とセックスをしなかったのも、それをしてしまったら、俺は本当にセックスという見返りがなきゃ、由紀子のことを受け容れられないんだと思えてしまいそうだったからだ。そんなものがなくたって俺は由紀子を受け容れられる。だからこれこそが本物の愛だって、信じたかった。……でも、偽物は本物にならないんだよ」
どうしたって変わらない、自分の立っている現実が、英樹の前に立ちふさがった。
「俺、もう由紀子のことが好きじゃない」
視界の右端でスカートが舞う。
「セックスしとけばよかったって、そう思ってる自分がいるんだよ。内野が嫌いになる前に、しておけばよかったって、本物の愛とかそんなもののためにセックスしなかったことを後悔してるんだよ、俺」
冬の冷たい空気に由紀子の脚が晒されている。ゆったりと膨らんだ曲線を見せるそれは、英樹が愛した平坦な体の面影を微塵も残していなかった。もうそこから、英樹はなんの感情も引き起こされないし、手に入れることもできない。
「ごめん」
それ以外に言えることがなかった。「こんな俺でごめん」そう言ったところで何か変わるわけでもないけれど、英樹は言った。
山が雄たけびをあげている。ありとあらゆる音の隙間から、聞こえてくる声がある。
――そんなの本物の愛じゃない。
そんなの、ほんものの、あい、じゃ、ない。
「いいんですよ」
言葉が降ってきたようだった。
「いいんです、それでも」
いや、実際に降ってきたのだ。
英樹は顔を上げる。
「私は今も、先生のことが好きです」
さっきまですぐ隣で座っていた由紀子が、目の前に立っている。
「だから、私は先生のすべてを受け止めます」
座っている英樹を見下ろせるくらい、背が伸びている。
そのことに英樹は、今、気がついた。
「そうすればきっと、先生はまた私のことを好きになってくれます」
太陽を由紀子は背負っている。逆光のせいで、由紀子の表情が見えない。
「そしたらまた、おうちデートとかして、ふたりで楽しく過ごすんです」
雫が一滴、英樹の靴に落ちる。
「私が中学を卒業しても、たまに先生の家に遊びに行って、それで先生の隠してるエッチな本とかも見つけて、先生は恥ずかしそうにして、そんな日々を繰り返すんです」
また一滴、雫が落ちてくる。
「私が高校を卒業したら、いよいよ結婚ですね。私は大学生兼先生のお嫁さんです。ウエディングドレスは先生がかわいいと思うやつを何枚でも着ます。誓いのキスだってします。一生この人しか愛さないんだって、私は先生を認めて、その分先生は私を認めてくれるんです。そういう取引なんです」
そんな未来はない。
「大学を卒業して働き始めても、ずっと先生と一緒にいます。同じ家に住んで、死ぬまでふたりで暮らすんです。ずっとずっと、そうするんです」
英樹が由紀子を好きになることは、もうない。
「そんな未来のために、私は今から先生を受け容れたいと思います」
そのことを、由紀子も十分にわかっている。
「先生は私に言ってくれました」
太陽の位置がずれ、由紀子の頭と重なる。
逆光で見えなかった由紀子の顔が露になる。
「生き物を殺すのも人を殺すのも悪いことだけど、殺したいと思うのは悪いことじゃないって」
なのに表情がよくわからない。自分の視界が歪んでいる。
「なら、そう思えないことも悪いことじゃないと思います。先生が私を好きと思えないことも、全然、悪いことなんかじゃないです。ほんとうに、ほんとうに、悪いことじゃないんです」
人前で泣くなんて、いつぶりだろう。いや、そもそも、泣いたの自体いつぶりだろう。
泣いている姿を見せたくなくて、英樹はうつむく。
「この世界に本物の愛なんてないんです」
溢れ出る涙が頬を流れていく。拭っても拭っても止まることがない。
「みんな自分のために生きてるんです。自分勝手に生きてるんです」
だから。
どんな音にも負けないくらい力強い声で、由紀子が続ける。
「先生も自分のために生きてください。もう私のことは気にせずに、自分の幸せだけを考えてください。浮気だって私は許します。先生が私以外の人を好きになっても、私は許します。でも、浮気相手の女性とは、対等な関係でいてくださいね。犯罪はダメです。だから……とにかく……」
由紀子が無理やり笑みを作っているのがわかる。
「私は、先生のすべてを、受け容れます」
その声は周囲のすべてを吹き飛ばして、英樹の頭に響いた。
由紀子が一歩後ずさる。
「先生」
自分を呼ぶ嗚咽混じりの声に、英樹は顔を上げる。
もう終わるのだ、何もかもが。
「ありがとうございました」
視界の中央で、由紀子は丁寧なお辞儀をした。長い髪が膝にかかるくらい、腰を折り曲げていた。
段々と、由紀子の姿が遠ざかっていく。足音も、英樹の耳から遠ざかっていく。やがてすべてが消えて、ひとり取り残された。
英樹はずっとベンチに座っていた。由紀子がいなくなってからも、涙が止まってからも、英樹の中で何かが変わるまで、ずっとずっと、そこにい続けた。
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