第22話 取引

「いや、だめだ」


 崩れかけた思考をなんとか押し戻す。


「まだ内野はそういう知識を得たばかりだ。冷静になってみて、また判断する必要がある」


 手術される患者は、手術がどういった内容なのか教えてもらったあとに一定期間置いてから、改めて手術に同意しなければならない。そうして初めて、医者は患者に手術を施すことができる。それと同じで、由紀子にもきちんと自分の考えを整理する時間を与えるべきだ。


「それに、内野の提案は対等じゃない」


 子どもと性的な行為をするための条件がもうひとつある。

 対等な関係であること。これは、真摯な恋愛が成立する条件でもあると英樹は考えている。


 由紀子に説明した通り、不釣り合いな関係は性的な搾取を生む。だから英樹と由紀子がもしセックスを行うならば、対等な関係がなければ性的な搾取となる可能性がある。その可能性が排除できない限り、してはいけない。


 英樹にとっては対等な関係を築くことが一番難しい。第一条件である性知識の獲得は、今日のような性教育を積み重ねていけば十分達成できるはずだ。もし十分な性知識を有しているにもかかわらず、同意能力がないと見做すためにはそれなりの根拠がいる。例えば生物学的に未成熟であるなど、そういったことが。しかしもしそういったことが判明しているなら、性的同意年齢を何歳に設定するか、議論は必要なくなる。生物学的に同意能力があるとされる年齢を、性的同意年齢にすればいい。もし、生物学的に妥当な年齢以上に引き上げたら、刑法の謙抑性に反することになる。


 子どもを含む人が自由に恋愛する権利と子どもに対する性被害の減少、どちらも実現するためにはまずは性教育が徹底的に行われなければいけない。しかし、世間がいの一番に主張するのは同意年齢の引き上げという、子どもと大人両方の自由な恋愛を阻害する法改正だ。性教育の拡充を進める人間がそう主張するならまだ理解可能だが、鬼の首をとるように法改正を叫ぶ人間を目の当たりにすると、大人と子どもの恋愛など気持ち悪い、あり得ないという、差別意識が根底にあるようにしか英樹には感じられなかった。


「それって、先生が先生で私が生徒だから対等じゃないっていうことですか?」

「少し違う」


 生徒と教師だから対等じゃない。大人と子どもだから対等じゃない。そんな論理は英樹と由紀子の上辺だけを掬った詭弁だ。なら、生徒が学校を卒業した途端に対等になるのだろうか。二十回目の誕生日を迎える前日は対等じゃなくて、迎えた瞬間に対等になるのだろうか。

 立場や肩書は関係性の参考にはなるが、対等かどうかを見るときはもっと踏み込んだ中身を見るべきではないだろうか。例えば取引の内容。


「セックスする代わりに俺が精神的に支えるっていうのは、取引する内容が同質じゃない。それじゃ、教師が生徒の点数を上げる代わりに、そういうことをするのと変わらないだろ」


 性行為の代わりにお金を渡せば、それは立派な売春だ。誰も恋愛とは呼ばないだろう。真に対等を突き詰めるなら、性には性で返す必要がある。


「もし俺とそういうことをするなら、内野は俺を傷つける権利がある。俺にとっての性的なことがセックスで、内野にとっての性的なことが俺を殺すこと。まぁ、さすがに殺されるわけには行かないから、俺が差し出せるのは俺の体を傷つける権利ぐらいだな。たしかナイフとかで傷つけるだけでも内野は興奮するんだよな?」

「……はい」


 由紀子の目が自分の身体に落ちる。


「殺して、冷たくなった体をいじるのもしたいですけど……血が出てくるだけでも興奮します……」


 脇から汗がにじむ。自分の家の景色の中で、由紀子だけが異質な存在として浮き出てくる。もう傷跡すら消えてしまったはずなのに、左手首が疼いているような気がした。

 大丈夫、と英樹は自分に言い聞かせる。英樹はきちんと由紀子のことが好きだ。だから、すぐ近くにいることを受け容れることができる。


「なら、そのふたつを取引しないと対等じゃない。だから、内野の提案には乗れない」


 たとえ、由紀子にとってもセックスが性的なことでも、英樹がそれを望むのと同じくらい、由紀子もそれを望まなければいけない。それが対等な関係だ。


「もっとよく考えて、それで本当に真摯って言える恋愛関係の中で、俺はそういうことをしたい」


 誰にも文句は言わせない。

 対等じゃないとか、真摯じゃないとか、セックス目当てだとか、偏見と決めつけの反論をする余地がないくらい、完璧な恋愛がしたい。

 普通の人がする恋愛をして、幸せになりたい。それだけだ。

 英樹は決意を体の中心に据えるように、姿勢を正す。


「ただ」


 悲しそうに落ちていた小さな肩が、わずかに上がる。


「もし内野がよかったら、その……」


 やはりどれだけ怖いと思ったとしても、由紀子はかわいい。そのかわいらしさに、心の色がすべて塗り替わる。


「俺と付き合って欲しい」


 人生最初の告白は、勢いでやってしまった。それも、好きという気持ちを伝えただけで終わってしまった。由紀子が今日、自分の告白に返事をするために来たのなら、もう一度告白をやり直してから、英樹は由紀子の返事が聞きたい。


「俺、内野のことが好きだ」


 沁み込むような緊張感が、全身に広がっていく。

 由紀子に生徒としてではなく、ひとりの人間として向き合う。


「内野が俺に精神的な充足を求めているように、俺も内野と一緒にいたい。わかるんだよ、内野の気持ち。言っただろ、俺も普通の人に気持ち悪がられるような人間なんだよ。だから、ずっとひとりで生きてきた」


 早苗との交際も見掛け倒しで、心はいつも孤独を感じていた。


「もし内野が俺を認めて一緒にいてくれたら、俺もすごくうれしい」


 これなら対等なはずだ。そう誰にともなく心の中で英樹は叫ぶ。


「俺と付き合ってくれないか」

「私も、付き合いたいです」


 あまりの返事の速さに、英樹は狼狽した。「あ、あぁ……」断られることはないだろうことは予想できたが、勇気を振り絞った分、肩透かしを食らったような気分になる。


「ただ、付き合うっていうのも、恋愛特有の行動なんですよね?」


 心配そうに尋ねられる。


「私、恋愛もセックスも今日教えてもらいましたけど……付き合うっていうことがどういうことをするのかよくわからなくて……でーと、とかをするんですよね。一緒にお出かけするっていう」

「いや、まぁ、そうなんだけど、ちょっと待ってくれ」


 由紀子の意識は、もう付き合う未来へと向かっていた。付き合えることが決定しただけでも英樹にとっては一大事だというのに、またたく間に置いて行かれそうだった。


「話しておきたいことがあるんだ」

「?」

「さっきも言ったけど、俺は真摯な恋愛がしたい。だから、もし内野にとって嫌なことを俺がしそうになったら絶対に拒絶してほしい。セックスだけじゃない。自分にメリットがない行動はしないでほしい。それは別に内野のためじゃなくて、俺のためだ。俺も俺にとって嫌なことを内野にされそうになったら、絶対に断る。俺のために何かしようなんて、絶対に思うな。内野は自分のことを考えてくれればいい」


 そう話すのも自分のためだ。自分たちの恋愛を、誰にも邪魔されないために必要な、対等性の論理。


「……わかりました」


 トーンの落ちた声が、部屋に広がる。


「それで、結局デートってどうすればいいんでしょうか」

「話戻るのはやいな」


 どうしたのだろうか。いつもと違って、アクティブだ。


「な、なにか変ですか?」 


 不安なのか、早口になっている。


「もしかしてデートの発音がおかしかったりしますか」


 どうしてそう思ったのだろう、少し気になる。


「いや、デートはデートだろ。合ってるよ」

「なら、どこが変でしたか?」

「なんていうか……普通の人はたぶん、もっと告白を重く受け止めるというか」


 そこのあたり、由紀子はだいぶ感覚が異なっている。「そうなんですか?」疑問符が無邪気に頭から放たれる。


「まぁいいや」


 付き合えるのだ。そのことのうれしさに、英樹の思考は滑っていった。


「デートか、そうだな……」


 それからは、恋愛映画をふたりで見ることにした。恋愛というものを概観するには、出会いから始まり別れまでを描く二時間弱の恋愛ドラマがちょうどいい。そんな映画がないか検索したらすぐに候補が見つかった。英樹の契約している動画配信サイトで配信されていたので、英樹はテレビで流した。

 四角い区切られた世界の中で、男女が互いに惹かれ距離を近づける。その中で出てくる由紀子の疑問に英樹は答えていった。


「かわいいがわからないです……」

「男性が女性に性的な魅力を感じてるってことだな。俺は由紀子のこと、かわいいと思ってる」

「ならかわいい服は、服に性的な魅力を感じているってことですか? それってすごい……」

「それは違う。かわいい服は、女性が着たときにより女性のことを魅力的に感じられるような服のことだ」

「なら、かわいい動物は……その動物を好きだと男の人が性的に魅力を感じてくれる動物のこと、ですか?」

「そういう人もいるんじゃないか。まぁ、それに関しては全員が全員そうだとは思わないな」


 猫を好きな自分はかわいい、と思っている女性が存在することは間違いない。

 告白のシーンでは、


「男の人は女の人のどこが好きになったのでしょうか」

「顔、じゃないか……」

「……先生も、そうなんですか?」

「俺は……まぁ、そうだな」


 どこが好きかという質問に性格がいいところと答える人間を英樹は信用していない。性格がいいという言葉はつまるところ自分にとって都合がいい性格、を指しているに過ぎない。


「この顔に生まれてよかったです」


 由紀子は特に悲しそうでもなかった。あまり普通のカップルでは見られないような会話だ。

 男女がベッドを共有するシーンでは、


「これってもしかして……」

「まぁ、そういうことだ」

「ついにゴールするんですね……ってあれ……」


 画面が切り替わって、翌朝目覚めるシーンが映し出される。


「これは全年齢の映画だから、そういうシーンは見せられないな」

「なるほど……」


 最終的に二人が別れてしまうシーンでは、


「付き合うメリットがなくなってしまったんですね……」

「まぁ、喧嘩とかしてたしな。同棲始めると相手の嫌なところとか自分にとって不都合なところが見えてきて、別れるパターンは多い」


 それを愛がなかったから、ではなく、相性が悪かったからと言い訳する人間が英樹はものすごく嫌いだ。 


「べ、勉強になりました」


 別れた二人はそれぞれの道を歩んでいく。そんなエンディングで映画は幕を閉じた。

 映画を見終えた頃にはもう日が落ちそうだった。西日が窓から差し込んでくる。由紀子を帰らせないといけない。


「今日は本当にありがとうございます。いろいろと教えてくださって……あと、その、付き合えてうれしいです」


 玄関先で顔を紅潮させる由紀子。本当に付き合うことになるのだと、実感が湧いてくる。


「……別に俺のためだ。感謝される理由はない」


 もちろん、照れ隠しだった。


「お邪魔しました」


 開いた扉から由紀子が出ていく。見えなくなるまでその背中を見つめていたかったが、英樹の家から出入りするところを目撃されては困るので、すぐに扉を閉じた。

 由紀子のいなくなった部屋を見渡す。

 思えば、誰かをこの家にあげること自体初めてだった。ついさっきまで、この家は英樹の醜い欲望を覆い隠すためだけではなく、誰かと一緒の時間を過ごすためにも存在していた。


 由紀子と付き合うことになったのも含めて、今日はうれしいことばかりだ。

 浮足立った心を連れて、英樹は洗濯物を回収するべくベランダに出た。すべての洗濯物を抱えて部屋に戻ろうとしたとき、ガラス窓に映る自分と目が合った。


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