第三章 付き合う

第17話 変化

 扉を開け教室に入ると、ざわつきが収まった。「終礼始めまーす」日直の合図で生徒たちが体を前に向ける。英樹は黒板前の椅子に座り、生徒ひとりひとりの顔を眺める。すると、やはり教室の前のほうに座る由紀子の姿が、視界から浮き出るかのように、はっきりと見えてしまう。


 あの日以降、次第に冷静さを取り戻した英樹の頭は、告白したという事実に揺さぶられていた。深く考えずその場の成り行きで衝動的に告白してしまったことを猛省しつつ、そもそも由紀子に自分の本心を知られたことに火を噴きそうなくらい恥ずかしさを感じた。

 由紀子を前に崩れかけている教師としての意識を、英樹はきゅっと引き締めなおす。


「それでは、先生の話です。先生、お願いします」


 いつのまにか英樹が話す番になっていた。「えーっと」席に戻る日直たちと代って教壇に立つ。


「もうすぐ修学旅行なわけだが――」


 伝達事項をまとめたメモを見ながら、英樹は毅然と話すことを心掛ける。集中しないと、目が勝手に由紀子のことを追ってしまう。


「――よし、じゃあ今日はこれで終わり。みんな起立」


 生徒が全員立ちあがるのを待ってから英樹は、礼、と発した。


「「さようなら」」


 声変わりの済んでいない若々しい声が響き、放課後が始まった。友達の家に遊びに行ったり、部活に励んだり、生徒が小さな体では有り余るエネルギーを思い思いに弾けさせる。


「いつもどおり机を端に寄せてから掃除しろよ」


 掃除当番として残った五人ほどの生徒に指示を飛ばす。「はやく終わらせて帰ろうぜ」元気のいい男子が、率先して机を動かしていく。

 由紀子、も、今日は掃除当番のようだ。黒板の横の、掲示板に張られた掃除当番表。今日の欄には、内野、と名前が記されていた。

 由紀子は床を傷つけないように、机をきちんと持ち上げてから運ぶ。ゆっくりと机を下ろすと、一瞬、こちらを見た気がした、が、すぐにくるりと体を翻して、次の机を運ぼうとする。


 あれ以来、由紀子とは一度も話せていない。というか、避けられている気がする。おととい、またプリントの回収を由紀子に頼んだが、職員室にやってきた由紀子はプリントを差し出すと逃げるように職員室を出てしまった。なにか話そうとしたところでなにを話せばいいのかわからないので、英樹としては助かった部分もあるが、もしかしたら嫌われたのでは、と考えると心がつぶれたように苦しくなった。失恋――本当の意味でのそれを自分は初めて経験するのかもしれない、と怖くもなった。


 いったいなぜ、自分は告白なんてしてしまったのだろう。無理だとわかっていても、あのときの自分に問い詰めたい。

 思いを伝えたくなかったわけではない。教師になることを決意したとき、いつか勇気を出して自分の思いを伝えなければならない瞬間があることは理解していた。しかしまだ実行に起こそうという気はなかった。もっともっと仲を深め、対等な関係じゃない、とか、紳士なれないじゃない、とか、そんな批判を受けつけさせないくらいの関係性を築いてから、満を持して告白するつもりだった。


 星空の下、自分に告白してきた佐々木を思い出す。佐々木のような人種、正常な性欲を持った人間を英樹は敵視してきたが、自分も同じ状況に置かれると、振られた佐々木に同情してしまう。


 いや、それはだめだ。


 由紀子への告白以降、浮ついている心を英樹は正常の位置に戻す。

 相手が傷つくとか、相手が悲しむとか、そういったことを主軸に生きるのは辞めたはずだ。英樹が常に考えるべきは、どうすればより幸せになるかということ。興味のない人間にかかずらっている暇などない。


「先生」


 はっと顔を上げると、男子生徒がこちらを見ていた。


「掃除終わりましたー」


 英樹は教室内を見回す。机は元の位置に戻されていて、掃除用具もすべてしまわれている。


「よし、じゃあ帰っていいぞ」


 よっしゃ、と男子がはしゃぐ。その子はバッグを背負うと、早足でどこかへ行ってしまった。他の子たちも、ぞろぞろと教室を後にしていく。


「先生」


 その声が、由紀子のものであるということは姿を見るより早くわかった。「あっ、あのっ」久しぶりにきちんとその声を聞いた気がする。


「このあと、少し話せませんか」 


 静電気のようにぴりり、と緊張が全身を貫く。なんとか口に空気の通る隙間を作り、


「わかった」


 英樹は不器用に頷いた。




 先生の背中は大きい。広大な大地のような背中を見るたび、由紀子はその下に眠るなにかに触れてみたくなる。いまはその気持ちを抑え込めるけど、いつかまた抑えられなくなって先生を傷つけてしまうかもしれない。そのことがたまらなく怖い。


「ここだ」


 先生の背中がぴたりと止まった。がちゃ、と鍵をあけられた扉の上には、面談室と記されたパネルがくっついている。


「ここなら、誰にも聞かれずに話せるはずだ。旧校舎は誰も来ないし」


 由紀子は面談室に入っていく先生の背中に、そのまま続く。

 ようやく話せる。そのことに由紀子は解放感を覚えつつ、何を話していいかまだうまくまとまらない自分の思考に、もどかしさを感じてしまう。

 面談室は小さな部屋だった。中央に少し大きめの机と、四人分の椅子。他のものを置くスペースはない。旧校舎にこんな部屋があるとは知らなかった。


「内野も座ってくれ」


 すでに席に着いた先生に促されて、由紀子も引いた椅子に腰を下ろす。そうすると、先生との間に障害物はなく、至近距離で先生と目が合ってしまった。なんだか恥ずかしくて、由紀子は目を伏せる。


「それで……話ってなんだ?」

「……その……」

「って、俺がそういうのも変か」


 先生が自嘲気味に笑う。


「ごめんな。あんなこと、したの……ちょっと流れでっていうか、俺もそうするつもりはなかったんだけど……」

「いえ、そんな、謝る必要はないです。その……うれしかったので」


 まぎれもない本心だ。

 告白された直後は、戸惑いが大きかった。けれど、時間の経過とともに心を整理していくと、うれしい、というたったひとつの言葉でしかあてはめられないくらい、純粋で単純な気持ちに出会った。


「そ、そうなのか……それなら、いいんだけど……」


 いつもは毅然と数学を教えてくれる先生が、しどろもどろになっている。

 由紀子も話さなければいけない。しどろもどろでとりとめがなくてもいいから、話さなければいけない。


「その……なんていうか、まだ先生の言ったことを、全部理解できたわけじゃないんですけど」


 頭の中にぷかぷかと浮かんでくる言葉を由紀子は手当たり次第に線で結んでいく。


「私なりに、考えたんです。自分の気持ちを」


 先生が真剣に聞いてくれているのが、うつむいたままでもわかった。


「先生言ってましたよね。人は自分のためにしか生きることができないって……」


 そう語ったときの先生は、これまで由紀子が見たことのない表情をしていた。先生として由紀子ひとりに対して語っているのではなく、由紀子の背後に広がる世界にまでまくしたてているようだった。だからこそ、あのときに編まれた言葉は、まぎれもない先生の本音なのだと思う。


「その通りでした……私が先生の教えてくれた恩返しをしようとしたのも、プリントを集めて先生に渡してたのも、気に入られたかったからというか……こんな私にやさしくしてくれて申し訳ないという気持ちもありましたけど、もっと深い部分では、自分のことを嫌いにならないで欲しいと思ってたんだと思います」


 言いながら、由紀子は自分の心の最奥に手を伸ばしているような感覚がした。自分はダメな人間だ、迷惑をかけてはいけない。今まで受け入れていた決まり事やルールを脱ぎ捨てて、自分が何をしたい考えたとき、由紀子は誰かに好かれたいという本心を直視することができた。 


「俺もだ」


 先生のしんみりとした声が、テーブルの中央に落ちた。先生も緊張しているのか、目線が下がっている。


「俺も、内野に気に入られたくてやさしくしてただけだ。だから、内野は恩返しとか罪悪感とか、そんなものを背負う必要はない。ぜんぶ俺が勝手にやったことだ」

「ありがとうございます……先生があのときそう言ってくれなかったら、私今頃どうなっていたか、わかんないです」


 ぴりり、と手首を電流が走る。もうかさぶたが剥がれて、傷跡も薄くなったけれど、ありえたかもしれない世界への恐怖が、ときおり手首に刺さる。生きていてよかったというよりかは、死ねなくてよかった。みんなのために死ななければいけないと自分を奮い立たせても、結局自分は死にたくなかった。


「ありがとう、なんて言わなくていい。何度も言うけど、俺が好きでやったことだ。お礼を言われるようなことじゃない」

「わ、わかりました……」


 今度ありがとうを言うときは気を付けなければ。昔からお母さんにありがとうをきちんと言うよう育てられたので、由紀子はすぐにその台詞を使ってしまう。

 急に沈黙が訪れた。そうなると面談用の狭い部屋では、簡単に相手の息遣いが聞こえてしまう。鼻を通り抜ける空気とその微かな揺れは、一定のリズムを保って由紀子の耳に届く。


 寺田先生は生きている。


 由紀子はふとそう思った。


 当たり前だ。生きている。息をしている。心臓が動いている。血が巡っている。生まれてから一日だってそうでなかった日はない。その事実が、由紀子があの日犯そうとした大罪を真夏の太陽のようにあぶりだす。


 殺そうとした。


 先生を。


 私は。


 そのことについて由紀子はどう向き合えばいいのか、まったくわからなかった。

 なぜそんな欲求が生まれたのか。これまでは一度として人を殺そうとは思わなかったのに、どうしてあのときは先生を殺したくてたまらなくなったのか。考えても思い浮かぶのは知らない誰かのコメントばかりだ。


 ――まじで気持ち悪い


 ――すぐに死ぬべき。裁判とかいらない


 ――こういうやつが世の中にいるとか怖すぎだろ


 やはり自分は死んだ方がいい。

 死にたくないはずなのに、気付けばそんな答えに行きついてしまう。そのことが、たまらなく辛い。


「私は……生きていてもいいのでしょうか」

「……生きてていい。そうに決まってる」


 由紀子の身体の中心を、甘い震えが駆け上がる。


「でも……私、人を殺しちゃうかもしれませんよ」


 私はずるい。


「たしかにそれはダメだ。自分のために生きていいけど、だからといってやっちゃいけないことはある……だけど、殺したいと思ってしまうことは、どうしようもないだろ」


 先生の真剣なまなざしに当てられながら、由紀子はそう思う。


「先生はいいんですか。こんな近くに人を殺したい人がいて。私、先生のこと殺しちゃうかもしれないんですよ」


 私はいま、自分の欲しい言葉を先生に言ってもらうために質問している。そう尋ねれば、先生が必ず私の味方になってくれることを知っている。


「俺は……それでも内野と一緒にいたい。それはやっぱり、その……好きだから。内野のことが」


 先生ははにみながらも、ちゃんとそう言ってくれた。

 由紀子の身体を貫く震えが、一番甘くなる。もっともっと、先生の甘い言葉が欲しくなる。


「ありがとうございます……うれしいです」


 ありがとうなんて言うな。またそうやって注意されるかと思ったが、先生は照れているのか、何も言ってこなかった。


「ひとつお願いがあるんですけど、いいですか」

「なんだ?」 

「私、先生の告白に返事がしたいんです」


 先生の身体が、少し動く。


「告白されたら、付き合うかどうか、返事をしなきゃいけないんですよね?」


 それくらいのことは知っていた。いや、そこまでしか知らなかった。


「あの夜、先生が私に何をしようとしたのか、まだよくわからなくて……」


 怖かった。巨体に覆いかぶさられるのは。

 何をされるかわからなくて、由紀子はあのとき恐怖に全身が硬直してしまった。

 しかし先生は言っていた。あの行為の先に、先生が本当にしたいことがあると。ならば、それを由紀子は叶えたい。たとえものすごく怖いことが待ち構えていたとしても、受け止めたい。そうすればきっと、先生は自分のことを好きでいつづけてくれる。


「そもそも、先生が言う好きの意味も、まだよくわかってないんです。恋愛感情っていう言葉は知ってはいるんですけど、昔から恋愛の話はあまり共感できなくて。よかったら恋愛とか、そういうことを含めて……教えてもらいたいです。そしたらたぶん、私はちゃんと先生に返事ができると思うんです」


 沈黙が流れる。唾を呑み込む音でさえも聞き取れてしまうほどの沈黙が。


「……わかった」


 やや時間が経ってから、先生はそう言った。


「ただ、学校じゃできない。そういう類の話だからな」


 先生がポケットからペンと手帳を取り出す。さささ、とペンを走らせて、びり、と紙を破った。そのまま由紀子に差し出してくる。


「俺の家の住所だ。日曜日、来てくれ」

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