第14話 恋

 由紀子はベンチに座りながら、一か月ほど前に家主をなくした小屋をぼんやりと眺めていた。白い体が不自由なく走り回るために設けられたスペースは、いまや誰のためにも機能していない。新しい家主を招くわけでもなく、ただそこに空き家として佇んでいる。


「なんていうか……」 


 自分と肩を並べて座っている佳枝が、ぼそりと呟く。


「は、恥ずかしいね。こういうのって」


 佳枝が照れくさそうに笑う。けど、由紀子にはあまりその気持ちがわからなかった。

 小屋の前にあるベンチ、その存在を佳枝が知ってからは、お昼ご飯はよくふたりでそこに移動して食べるようになった。教室だと話しづらいことも、誰もやってこない校舎裏だと気兼ねなく話せる。教室の騒がしさが苦手な由紀子にとっては、ベンチだと落ち着いて話せることもありがたかった。


「恥ずかしい、んだ……」 


 わからない気持ちをしかしわかりたくて、由紀子は同じ言葉を呟いてみる。うん、と佳枝が頷く。


「だって、自分の恋の話を友達にするのとか初めてだし……なんていうか、恋の話だし」


 恥ずかしそうにしつつも、佳枝は若干楽しそうでもあるように見える。


「そうだよね……」


 由紀子は同調しておく。佳枝の言葉の節々からは、わかるでしょ、という気持ちが暗に伝わってきた。なんていうか、という上手く物事を言い表せないときに使う言葉を使っているにもかかわらず、短い説明で伝わると思っているのは、きっとみんな恋をするからだ。

 小学生の高学年になったあたりから、この手の話題は由紀子の周りでもおびただしい数の花を咲かせ始めた。それまでは混ざり合って遊んでいた男女が、突然性別という壁によって分け隔てられた。由紀子も当然その壁によって女子というグループに入ることになり、そこではどの子がかっこいいとか、そういう話がささやかれるようになった。友人の話についていけなくなったのは、そのころからだった。


「ユキちゃんは好きな人とかいないの?」


 そう尋ねる佳枝の目は、好奇心で満たされている。小学生のときも今も、女子のあいだで恋の話がされるときは、話の熱が上がるというか、みんな好奇心をむき出しにして、早口になって、声も大きくなる。すべての言動がひとまわり活発になる、そんな感じだ。

 小学校のとき、初めて好きな人がいないか尋ねられた。修学旅行の夜だった。度々見回りに来る先生の目をかいくぐって、部屋の中心に顔を寄せ集めていわゆる恋バナというものをしていた。各々が気になっている人や好きな人の名前を出していく中、由紀子に出番が回って来た。


 お母さんとお父さん。 


 由紀子はそう答えた。

 周囲は唖然としていた。ちょっと真面目に教えてよ。冗談はいいって。そう言われても由紀子は困惑するしかなかった。本当のことを真面目に冗談ではなく伝えているのに、それはおかしいと訴える目に容赦なくさらされた。

 怖かった。

 お母さんに虫を殺しているのを見られたときと、同じような感覚に陥った。自分はなにか大きな間違いを犯しているのではないか。罪に手を染めたのではないか。そんな恐怖が全身を捕まえてがんじがらめにした。

 みんなは好きな人がいる。全員男子で、なぜか女子ではない。思えば両親もそうだ。周囲の話を聞いているうちに、男の人と女の人という対照性を持った構図だけが浮かび上がってきた。


「私はいないかな……」


 そう答えれば無難にやり過ごせることを、由紀子は知っている。


「そうなんだ……てっきりユキちゃんは寺田先生のことが好きなんだと思ってたけど」

「え?」


 きょとんとする由紀子に、佳枝はだって、と続けた。


「最近、プリント集めとか全部ユキちゃんがやってくれるから。てっきり寺田先生のことが好きなのかなって……ほら、うーちゃんのことでいろいろしてくれたし」

「そうだけど……」


 それはただ、恩返しをしているだけだ。寺田先生から受け取ったものを、返しているだけなのだ。


「それって恋、なのかな……」


 純粋な疑問が口からこぼれる。

 うつむいた由紀子の耳に、私はね、と佳枝の声が届く。


「大橋くんといると、どきどきする。心臓が飛び出すんじゃないかってくらいバクバクするし、手とかが触れ合うと心臓が爆発しそうになる」


 たぶん恥ずかしいから、佳枝はうさぎ小屋を見つめているのだ。由紀子と目を合わせるのが恥ずかしいから。


「ユキちゃんは、寺田先生と一緒にいて、そう感じることはない?」


 由紀子は思い返してみる。寺田先生と過ごした時間。うさぎ小屋の掃除、裏山での出会い、神社のベンチ、職員室での会話。


「……たしかにちょっとどきどきする、かも」


 心臓が飛び出したり爆発したりすることはないが、寺田先生と一緒にいると鼓動が強くなる気がする。緊張しているような感じ。


「私はあと、大橋くんのために何かしたいな、とも思うかな。やっぱり好きな人だし」

「私も」


 由紀子は喰い入るように言った。


「寺田先生に何かをしたいって、思う……」

「じゃあ、たぶんそれって恋だよ」

「そうかな……」

「だって、寺田先生と一緒にいるとどきどきして、しかも何かしてあげたいって思うなら恋だよ。そっかぁ、ユキちゃんにも好きな人がいるんだ」


 ひとりで盛り上がってしまう佳枝に、由紀子はたじろぐ。

 佳枝がそう言うのなら、自分のこの感情は恋なのかもしれない。戸惑いはあるけれど、佳枝と自分のあいだに別の共通点ができたようで、少しうれしさも感じた。


「もし先生と付き合えたら、すごいよ! 教師と生徒の大恋愛だよ」


 佳枝のテンションは冷めることを知らない。修学旅行の夜も、もっとも盛り上がったのは恋の話だ。

 自分の抱く感情が恋だったとして、ひとつ、わからないことがある。


「付き合うって、具体的にはどういうことするの……?」


 由紀子はおじおじと言葉を抜き出す。由紀子が出会ってきた言葉の中でよくわらからないもののひとつが、「付き合う」だ。


「それはもちろん、デートとかだよ。ふたりでどこかに遊びに行ったり」


 遊びに行くだけなら、お母さんやお父さんともするが、それとどう違うのだろうか。恋人とするデートは違う意味を持っているのだろうか。


「あっ、そういえば」佳枝が声を弾ませる。「SNS交換してないじゃん!」


 エスエヌエス。

 それをアルファベットとして認識するのに、少し時間がかかった。たしか無料でメールをし合える便利な機能だったはず。

 携帯の機能の多くを由紀子はまだ知らない。買ったばかりで、使ったのはインターネットくらいだ。そのインターネットも、保護フィルターというものがかけられているらしく、自由に使用はできなかった。

 恋、についてもインターネットで調べてみたが、『以下のページは制限されているのでブラウズできません』と表示されてしまう。


「貸して」

「え、でも、使用禁止じゃ……」二の足を踏む由紀子の手から、佳枝が携帯をさらっていく。「大丈夫だよ。みんな隠れて使ってるし」

「聞こえてるぞー」


 びく、と体が跳ね上がった。

 校舎の奥から、寺田先生が歩いてくる。顔がよく見えなくても、身長で先生だとわかる。


「はい、それ没収な」

「先生、違うんですよこれは、深い事情があって」


 現行犯で携帯を取られそうになっている佳枝が、がむしゃらに言い訳をする。自分もせっかく買った携帯を没収されてしまうかもしれないというのに、由紀子の意識は先生が伸ばした右手に集中していた。


「ま、冗談だけどな」


 血だ。


「授業中に使ったら没収だからな」


 紙で切ったのだろうか、小指の側面から血が出ている。


 とくん。


 由紀子の心臓が脈を打った。

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