第11話 同僚

「お酒、苦手なんですよね?」


 英樹がメニューから目線を上げると、佐々木が上目遣いにこちらを見ていた。


「はい」 


 すっと頷きつつも、苦手、という表現には語弊があるな、と英樹は思う。

 飲んだらすぐに吐いてしまうとか、そういうことではない。飲めるには飲めるし、酒の味を楽しむことだってできる。ただ、英樹はごくごく少量のアルコールを摂取しただけでも、顔中が赤らみ泥酔してしまう体質だった。身体をめぐるアルコールは、簡単に英樹の脳と理性を溶解させてしまう。そうなるともう、理性の持つブレーキは失われてしまって、欲望のアクセルだけが暴走する。

 その結果自分が何をしてしまうのか。そんなのはわかりきっていた。


「じゃあ、私も今日は飲まなくていいかな……」


 居酒屋でお酒飲まないっていうのは、なんかあれですけど。佐々木が薄く笑う。

 金曜日の夜、本来なら帰宅している時間に、英樹は佐々木と一緒に町の居酒屋に来ていた。もともと佐々木に食事に誘われていて、それを翌日に部の練習試合があるため難しいと断っていたのだが、突如練習相手の学校の都合が悪くなり、中止となった。その情報を生徒から聞きつけた佐々木が、再度食事を提案し、あえなく英樹は折れた。部活動を理由に断っていた手前、ほかの理由では断りづらかった。

 少し離れたところにある店に、電車に乗って行かないかと佐々木には提案されたが、疲れているので近場がいいと伝えたところ、学校から少し離れた場所にある居酒屋に連れてこられた。もう少し近いところはないかと尋ねると、近い場所は他の先生たちがよく飲みに来るから嫌だ、と却下されてしまった。


 ――今日はふたりだけで食事をしたいんです。


 そう漏らす佐々木の横顔は、ほんのりと朱が差していた。


「注文は何にします?」


 一階からけたたましい笑い声が階段を経由して昇ってくる。作業を終えてやってきたころには一階席は埋められていて、佐々木と英樹は人のいない二階の座布団に腰を下ろした。背の高い英樹には脚の短いテーブルが使いにくく感じるが、それでも人口密度の高い場所に身を置くよりはましだ。


「私は……だし巻き卵と、冷やしトマトと、鶏のから揚げで」


 値段は東京とあまり変わらないなと思いつつ、用の済んだメニューをしまう。


「じゃあ私は別のもの頼みますね」


 佐々木が階下の店員を呼んだ。やってきた店員に佐々木は英樹の分まで注文を伝える。

 店員が階段を下りる。すると、まだ何の料理も置かれていないテーブルにテレビの音が零れ落ちた。


【自身が担任する生徒と性的な行為に及んだとして、私立中学校の教諭が逮捕されました】


 壁際に設置されたテレビに、視線が引き寄せられる。

 強制性交等罪の容疑で逮捕。

 画面には赤く大きな文字でそう書かれている。

 食欲が喚起された結果として生じたわけではない唾を、英樹はごくりと飲み込む。喉仏が暴れるように波を打った。


「またこういうニュースですか」


 佐々木がつぶやいた。テレビが逮捕までの流れを説明してくれる。


【容疑者は三十三歳の男で】


「こういうのって、ほんとに苛々しますよね」


 明確な敵意が耳をかすめた。


【普段から頻繁に交流していた女子生徒を自宅へ連れ込み、性的な行為を強要したとされています】


「子どもに手を出すとか、あり得ないですよ」


 英樹は思い出す。

 昨日の時点ですでにこのニュースはネットで記事になっていた。そして、そこには容疑者を非難するコメントが多く寄せられていた。


 ――ロリコンはまじで死ぬべき


「一生刑務所から出てこなければいいのに」


 ――こういうやつでも二十年すれば社会に戻ってこれるのまじでどうにかしてほしい


【容疑者は、「真摯な恋愛だった」「同意があった」「愛しているのだから当然のことをしたまでだ」などと証言し、容疑を否認しているようです】


 ふっ、と佐々木が鼻で笑う。


「何言ってるんですか、この人」


 ――中学生と真摯な恋愛とか、頭いかれてて笑う 全然対等な関係じゃないだろ


 ――こういうやつとはマジで関わりたくない。身近にいるかもしれないと思うと怖いわ


 ――愛は下心ではありません。本物の愛は相手を大切に思いやる気持ちです。勘違いしないでください。


 最後のコメントはたくさんの高評価を得ていた気がする。その通り、という返信もたくさんぶらさがっていた。


【また、容疑者の自宅からはアニメや漫画などの娯楽が多く見つかったとのことです】


 ――日本はまじでおかしい。あんな性的搾取としか思えないアニメとか漫画がたくさんあるの、本当に異常。すぐに規制すべき。


 やっぱり、と納得する声が聞こえる。


「生徒と真摯な恋愛なんて、あるわけないですし」


 四角い画面の中では、コメンテーターが物知り顔でコメントしている。昨今児童を狙った性犯罪が増加していること。特に学校の教師などが立場を利用して生徒に手を出す事例が多いこと。生徒は反抗しようとしても恐怖で固まってしまうこと。そうなると反抗しなかったとして生徒が同意したと見做され、犯罪を立証できない場合があること。そうしたいろいろな問題点を解決するべく、法律改正の議論が現在進められていると、最後は締めくくった。


「仮にあったとしても、本当に真摯な恋愛なら生徒が成長するまで待てって話です」


 ――本当に愛しているなら相手が成長するまで待つべき


 佐々木はまるであのコメント欄の代表者のようだ。


「ていうか」


 もう一度、佐々木が鼻で笑う。


「普通に気持ち悪いですよね。子どもに興奮するとか」


 来た。 

 もう何回、その言葉に見て聞いたかわからない。

 小学生に手を出した、中学生に手を出した、生徒に手を出した、強制性交等罪、強制わいせつ罪、児童ポルノ禁止法。それらが絡む性犯罪のニュース。網膜というフィルムに焼き付いてしまうくらい、英樹はありとあらゆるコメントに目を通してきた。

 最も面白く感じられたのは、長いコメントにときたま付録のようにくっつく短い文章だった。

 コメント欄に長文を打ち込める人間は、承認欲求を抑えられないのだろう。

 自分も性被害に遭った、本当につらかった、など、エピソードを交えた自分語り。どうして子どもに手を出すことがいけないのか、どう法律を改正するべきか、など、自分は理性的に物事を考えていると知らしめたいような文章。それらのコメントに尾ひれのようにそれは存在した。


 ――っていうか、気持ち悪い。


 これまでの主張と論理を放棄した「っていうか」という言葉。

 経験も理性も飛び越えた、「気持ち悪い」というただただ感情的な言葉。

 ふたつが繋ぎ合わさったのを眺めるたび、英樹は失笑を禁じ得ない。


 ――きもちわるい。

 一瞬、ここにはいない人物の声が聞こえた気がした、が、すぐに佐々木のつぶやきに搔き消された。


「同業者からすると、こういう人が教師になるのまじでやめてほしいですよね」 


 視界の隅で佐々木がこちらを見たのがわかった。けど、目を合わせたくなくて、英樹はテレビから視線を外さない。肯定も否定もしないでいると、


「お待たせしました」


 階段から店員が上がってきて、お皿をテーブルに置いた。ありがとうございます、と英樹はわざと言う。そうすることで、事件の話にピリオドを打ちたかった。

 次は秋の見どころコーナーです。

 店員がいなくなり、陽気な音楽が流れだす。地方の観光名所の特集。


「おいしそう」


 佐々木の興味が並べられた料理に移る。唐揚げをひとつ取って、ぱくりと食べた。

 英樹も割り箸を割って、唐揚げを取る。衣がぱりぱりとしていておいしい。


「寺田先生は、夜ご飯はいつもどうしてるんですか?」


 佐々木が箸を止める。


「自分でつくって食べてます」

「自炊するタイプなんですか」

「はい」


 英樹は唐揚げをひとつとる。


「外食とかはしないんですか?」


 食べようと思ったけれど、佐々木の質問に手を止めざるを得ない。


「月に一回くらいは」

「いつもひとりで?」

「まぁ、そうですね」


 答えたあと、すかさず唐揚げを口に投げ入れる。それを見た佐々木は、サラダに手をつけた。咀嚼し終えたあと、料理以外が失われたテーブルに話の種をのせる。


「ひとりって、さびしくないですか?」


 テレビからは、紅葉に臨む家族の楽し気な声が聞こえてきた。


「……私は別に、さびしくないですよ」


 男の子の声が聞こえる。テレビ画面を確認したい欲望を、英樹は水で飲みこむ。


「マジですか?」

「マジです」

「じゃあ、これから一生食事はひとりでするってことになっても、悲しまないですか?」


 喰い入るように佐々木は尋ねてきた。


「まぁ、一生はどうなんでしょうかね。実際にそうなってみないとわからないような気がします」


 英樹の箸はお皿の上で停止したままだ。


「寺田先生っていま、ひとり暮らしなんですよね?」

「はい」

「休日とかって何をなされるんですか?」


 はやく料理を食べてしまいたい。冷める前に。


「えっと、なんていうか、寺田先生のプライベート全然知らないので、聞いてみたんですけど、迷惑でしたか?」


 不機嫌が顔に出てしまったのか、佐々木が慌てて気を遣ってくる。


「いえ、全然そんなことないですよ。ただ、あんまり趣味という趣味がなくて……休日は部活の引率がなければ、家でごろごろすることが多いですかね」


 無機質な回答で受け流す。


「ってことはやっぱりひとりで過ごすってことですよね……それもさびしくないんですか?」

「まぁ、はい」

「そうですか……」


 佐々木が肩を落とす。


「寺田先生はなんていうか……将来どんな生活するつもりなんですか?」


 ためらうような間がひとつ挟まれた。

 そうですねぇ、と英樹は口を濁らせる。


「のんびりと教師を続けられればいいと思ってますね、とりあえずは」

「家庭、とかを持つ気はないんですか?」 


 やっぱりそういう話題になるか、と英樹は心の中で舌打ちする。


「私とかは、その……結婚とかして、新しい家族と一緒に生きていくのとか、昔から夢なんですけど……」


 新しい家族には、間違いなく子どもも入っている。そういう顔を佐々木はしている。英樹はそういう顔を見たことがある。もう何度も。


「大学のころは彼氏がいたんですけど、私が留学した間に彼は冷めちゃったらしくて、それで別れて……それ以降はさっぱりです。教師として故郷に戻ってきたはいいものの、出会いもなくて……」


 そこで佐々木は上目遣いに一瞥してきた。

 佐々木が二の句をつぐ前に、ゆっくりと、だけど確実に会話が幕を閉じるような声音で、英樹は言った。


「そうなんですか」


 そろそろ英樹にとって不都合な質問が飛んでくる頃合いだ。


「すみません。すこしトイレへ」


 一言告げて立ち上がる。なにかを伝えようとしていた佐々木の口は、その相手がいなくなって中途半端な開き方をしていた。花火大会の日も、こんな顔をしていた気がする。


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