第3話 声

 また新たな週が始まった。

 相変わらずクラスメイトからは遠巻きにされ、嫌われている。友達なんてもの、もうできはしないだろう。


「それではホームルームを終わります。気をつけて帰ってくださいね。ありがとうございました」


 担任である桂の挨拶に、多希たちはありがとうございましたと返す。教卓の前に立つ彼は、微笑み、頷いてから黒いクリップボードの確認を始めた。

 それを一瞥し、多希は教科書とノートをカバンに詰め込んだ。


(やっぱり国語準備室行かなきゃだよね……)


 数日前、何も言われなかったのをいいことに一度だけそのまま帰ったことがある。その後に桂から極寒の瞳で窘められ、もう二度と勝手に帰らないと決めたばかり。

 だが、すでにその決断は揺らぎ始めている。放課後に国語準備室へ行っていることをクラスメイトから隠し通せるはずがなかった。


「あなた帰宅部なのよね? 今から用事なんてないわよね?」


 ぱっと顔を上げると机の前で仁王立ちしている千代と目が合う。


(今日も来た……)


 全く笑えないが、多希は笑顔の仮面を被った。

 話しかけてきた彼女を中心に、4人のクラスメイトから囲まれる。


「……着いてきて」


 その言葉から逃げることなんてできなかった。



 千代たちが向かった先は、人気ひとけの少ない校舎裏。校舎の影になっているここは日が当たらず、湿気が多い。冷えた足元から体温が奪われる。

 心地が良くない場所で、多希の心臓はばくばくと主張を強めている。ここにいてはいけないと警告しているようだ。

 4人対1人、じろりと敵意を向けられ、無言の時間は過ぎる。びゅうと風が吹いた。


「ねぇ、多希さん。毎日放課後に糸井先生のもとへ行っているって本当?」


 桂とは違う冷たさのある声で、千代に訊かれる。訊くという体だが、千代たちは確信を持っているだろう。でなければわざわざこんなところまで連れてきていないはず。

 嘘をついても本当だと言っても、どちらにしても詰んでいる。ならばここで嘘をつくメリットはない。


「……本当です」


 そう伝えた瞬間、千代の左にいた女子が手を伸ばしてくる。彼女は怒りに染まり、何かを叫んでいた。

 その様子はやけにゆっくりで、世界がスローモーションになったようで。バランスを崩した体は何もできず、ただ水色の空が見える。

 どさっ、と後ろに倒れ込んだ時、多希は突き飛ばされたと理解した。


(……え)


「ひゅっ」


 心臓が暴れる。気道が狭くなる。酸素が足りない。


 校舎裏、多希よりも体の大きい人に突き飛ばされる。その人も彼に従うクラスメイトも、誰も助けてはくれない。やめてと叫んでもにやにやと嗤われて、痛いと叫んでも暴力の雨は止まず。

 力も言葉も何もかもが敵わない。9年前の記憶が蘇る。


 目の前にいるクラスメイトたちが慌てたように何かを口走っているが、限界を叫ぶ心音に邪魔をされて何も聞こえない。


 ふと、誰かの手が伸びてくる。


「ひっ……!?」


(嫌、殴らないで……!)



 どれくらいそうしていたのだろうか。ぎゅっと瞑った目を開けた時には、もう誰もいなかった。


「行か、ないと」


 朦朧とする世界に呟く。心臓も呼吸もいつも通り、大丈夫だと自分自身に暗示をかける。


「……行かないと」


(秘密基地に行ったらきっと、兄さんが待っててくれる)

(いつもみたいにあったかい手で頭を撫でてくれる)

(あの低い声で多希って呼んでくれる)



 目の前を覆っていたもやが晴れる。多希は国語準備室の前に立っていた。


(そ、っか。あの時とは違う、か……)


 9年前の「兄さん」はいないのだと、心の拠り所となってくれた彼はいないのだと、冷え切った手を握りしめる。


 何の前触れもなく開いた引き戸から、不思議そうな表情をした黒髪黒目の背の高い男性が出てきた。その瞳の奥底はやはり冷たい。


「多希さん? 入らないのですか?」


(兄さん……)


 目の前の彼と9年前の彼は違うのに、黒いスーツに身を包んだ「兄さん」と高校の制服を着た「兄さん」が重なる。多希は、違う人だと、助けてくれる人ではないと、心の中で首を振った。


「……多希さん? どうぞ?」

「あ、……はい。失礼します」


 促されるまま、多希は国語準備室に入った。閉められる引き戸の音、ひんやりとした空気、紙の匂い、椅子を用意する桂の姿……。何もかもが遠い。


(私、笑えてるかな)


 ふと意識してみた笑顔の仮面は、元の形が分からないほどに崩れている。多希の表情に色彩はなくなっていた。


「さて、今日はどうでしたか?」


 多希が用意された折りたたみ式の椅子に腰掛けると、その正面に座った桂は話し出す。


 国語準備室に来るのが遅れた理由でもなく、多希の様子がおかしい理由でもなく、テンプレートと化しているこの質問をされたのには何か理由があるのだろうか。

 一瞬過った考えに、彼女は苦笑した。曲がりなりにも担任であり義兄あにであるこの人にどれだけ警戒しているのか、と。


「何か苦笑するようなことでもありましたか?」


 目の奥底に冷たさを湛え、完璧な笑顔で桂は問う。


「……いえ、特にないです。変わりのない1日でした」

「そうですか」


 目を逸らして答えた多希に、桂はそれだけを答えた。先ほどまでの出来事が変わりないわけがない。だがこれを話してしまったら、彼は動かざるを得なくなるだろう。


(また何か言われるのなんて嫌だ……)


 あの出来事を知るのはあの場にいた5人だけ。手を出した側の千代たちがこのことを誰かに話すわけがない。桂に伝わってしまえば自ずと多希が話したと特定される。


 助けを求めたことがバレた時、どうなるのか。どうなったのか……。9年前の恐怖を思い出し、震えが体を走る。

 すると桂は後ろの棚からひざ掛けを取り出した。


「寒いのならこれを使ってください」

「……ありがとうございます」


 寒くて身震いをしたわけではないが、冷えているのは確か。受け取ったひざ掛けは触り心地が良く、暖かい。


 ほっと一息ついた多希に桂は微笑む。


「では、何か困ったことなどはありませんか?」


 彼はゆっくりと瞬きをして、瞳に鋭い光を宿らせた。国語準備室を支配する空気が張り詰める。首、肩、腕、足、腹……、体のあちこちに力が入る。


「……特にありません」


 全てを見透かされそうな瞳から目を逸らした。視界の端で桂が笑みを深める。


(もうさっさと帰ろう)


「本当に、ないんですか?」


(え……?)


「新宮千代さんたちに何かされたのではないですか?」

「っ!?」


(どうしてそれを!? いや、先生のことだから把握してない方がおかしいかもしれないけど。でもどうして今日聞くの……?)


 笑顔の仮面が外れた状態の感情が出やすい多希、桂からしてみればこれ以上分かりやすいものはない。


 じっとこちらを見ている漆黒の瞳から右往左往と視線を逃す。完璧な笑顔は変わらない。


「多希さん? どうなんですか?」


 悪いことをした子どもに言い聞かせるような声色は多希を震えさせるのには十分なものだった。ひとことひとことに込められた感情は大きく、言外に「絶対に逃がさない」と言われている。


(絶対に、言いませんからね。……もうこれ以上いじめられたくない)


 桂は、はぁ、とわざとらしくため息を吐く。


(いつも完璧な先生がため息なんて……)


 気になって視線を向けてしまったのがいけなかった。鋭い光を全面に押し出した瞳と目が合う。彼はもう完璧な笑顔なんて浮かべていない。

 刺々しく、荒々しく、桂は嗤っていた。見たことのない表情に多希の思考は止まる。


「せんせ、い……?」

「新宮千代たちに何かされたんだろう?」


 低く唸るようなそれは形だけの問い。嘘もだんまりも通じない鋭い光を宿した瞳に囚われた。目を逸らせない、逸らすことを許してもらえない。


(もういいかな……、もう吐き出したい……)


「……突き飛ばされました」


 気づけばそう口走っていた。

 彼の表情はみるみるうちに歪んでいく。


(あ、……言っちゃった)


 目が熱くなる。視界が歪む。許容量を過ぎた涙がぽろぽろと溢れ出す。


(怖い……、どうしよう。……怖い。……どうしたらいい? 私はどうすれば?)


 桂に黒いハンカチで流れる涙を拭われる。こちらへ伸ばされたその手は不思議と怖くない。そっと頭に乗せられた手は大きくて温かくて、冷え切った心と体にじんわりと温度をくれる。

 その真綿で包むような撫で方は9年前の「兄さん」とそっくりだ。



(——もういっそのこと、桂兄さんがあの時の兄さんだったらいいのに)


 しばらくして、落ち着きを取り戻した多希はふぅ、と息を吐く。笑顔の仮面は崩れたままだが、その表情には色彩があった。


「落ち着いたか?」

「はい、おかげさまで」


 鼻声になっている多希にふっと笑いながらも優しく頭を撫でてくれる彼が、完璧な笑顔を浮かべていた彼と同一人物。


(分かるけど、分からない……)


 口調も、声の出し方も、表情も変わっている。唯一変わっていないところは仕草くらいだろう。今の桂は、瞳の奥底に見えた冷たさの正体なのかもしれない。だが、不思議と違和感はなかった。


「一つ、新宮千代たちに対して考えがある」

「考えですか?」

「ああ。……だが、今日はもう帰れ。帰って休め」


 だるい体、泣き腫らした目、すり減った心。多希は自分が疲れていることに言われて初めて気づく。


(確かに、もう限界かも)


「そうします」

「一人で帰れるな?」

「大丈夫です、帰れます」


 失礼します、と国語準備室から出る。引き戸を閉める寸前、桂の呟きが聞こえた。


「手を出すとはいささか想定外か」


(想定外? もしかして先生は私がいじめられるように……、いや、やめておこう)


 廊下の窓から見える空は茜色に染まっていた。

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