八尾九山のマコト2
『アホたれ!』
『あだっ!』
それはまたしても古い記憶。
鉄拳制裁を受けた幼いマコトが悲鳴を上げている。拳を振るった祖父は、禿げつつある体毛を逆立てている。
『マコト。おまえ、また何であないなことした?』
『あぁん? あないなことって?』
ギロリと睨みつける祖父に、幼いマコトも負けじと睨み返す。なにせマコトは間違ったことをしたとは思っていない。
『また人間にちょっかいかけたな?』
『辛気臭いんやもん。見てるこっちが気ぃ滅入ってくるわ』
『そら遭難しとるからな! おまえこれで何度目やと思っとんねん!!』
もう何度目だろうか? 覚えるつもりもなければ、懲りる様子もない。
八尾九山は妖の山だ。絶えずして妖気が漂っている所為か、何も知らずに迷ってしまう人間が多い。それを毎度毎度人里に送り届けたとなれば、数える気も失せるというものだ。
『ええー? でもじいちゃん、あいつ等わろうてたで?』
『……今度は何した? おまえ何に化けたんや?』
お馬鹿な人間。世話の焼ける人間。
山で迷う彼等を麓に帰す為に、マコトは今回も化けた。此度の人間は憔悴しきっており、鉄板ネタの立て看板は中々見てくれなかった。
が、川辺でポロリとコンパスを落としたのだ。それをマコトはチャンスだと思った。
『私は湖の女神です』
そうして足のつく浅瀬からザブーンと姿を見せた。
いわゆる金の斧と銀の斧。人間の間で有名な創作物を模してやった。
『貴方が落としたのはこのダ〇ソーで買った百均のコンパスですか?』
『それ言う必要ある?』
当時の状況を再現するマコトに祖父が突っ込む。
『それともこの――江戸時代に百人の生き血を吸ったと言われ、一度手にすれば最期。百日後には全身の穴という穴から血が噴き出て、ミイラのように干からびることが約束された――曰くつきの妖刀ムゥラマーサーですか?』
『誰が後者選ぶねん!!』
更に突っ込む祖父と同様、人間もそうだった。
だから百均のコンパスを返してやって、こう続けたのだ。
『貴方は正直者ですね。そんな貴方を讃え、ここから帰る道を教えましょう』
マコトはこほんと咳ばらいを挟んで、遠くを指差して見せると――
『では僭越ながら――えーっとですねー! ここからぶわーっと前に進んでぇー! そしたらなんかいい感じの木が見えますんでー! そこを目印にびゃーっと直進してくださーい!! そんでもって坂道を下ったらー、ドーンって突き当りが見えるような気がしますけどー! 気のせいなんでそのまま真っ直ぐざざーっと歩いて行ってくださーい!!』
『なんでそこで急に関西風の案内になんねん!! しかも色々言ってるみたいやけど、結局直進しか言ってないやろ!! なんやねんドーンって突き当りが見えるような気がするって!? その情報いらんやろがい!!」
『っ……! っっ……!!』
長いボケと長いツッコミの片隅で、母は腹を抱えて蹲っていた。
それにミコトもだ。ようやく乳離れが出来るようになった彼女は、きゃっきゃきゃっきゃと飛び跳ねている。
そんな様子にマコトは――してやったりと思う。
これこそ自分にとっての妖狐だと、そんな満足感に小さな胸を満たしながら。
『のう……マコトぉ』
ぜぇぜぇと祖父は叫び疲れながら、それでも気遣うように言う。
『お前な? そんな態度やったら、いつか苦労するぞ?』
『あ? なんでやねん? うちは楽しいけど?』
『いいや、する。お前は人間を好き過ぎとる。あいつらとワシらは生きる時間が違うんや。それを見ないフリして、自ら身を滅ぼす仲間を……ワシはこれまで何度も見てきた』
『意味分からん。じいちゃんボケたか?』
ボケ取らんわ! と拳骨一発……と思いきや、優しく頭を撫でられる。それも悔やむように、惜しむようにしつこくだ。
生まれてから十数年。妖狐にとっては瞬く間でありながら、以前よりも祖父のシワが濃くなっているような気がした。
『のうマコト? アホな孫娘よ』
誰がアホやと言いたかったのに、不思議と言い返せなかった。
『後悔すんなや? お前がこの先、ずっと跳ね返るつもりなんやったら』
その言葉の意味を、今でもマコトは分からない。
それから程なくして――祖父は亡くなったのだから。
享年五百四十三歳。
かつて江戸の大妖狐と謳われていた八尾幽斎の最期は、眠るような大往生であった。
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