第34話 そんな場合ではないのに

「では、わたくしたちもすぐに出発の準備を整えませんと」


 まだ全身が重いけれど、動けないわけではない。

 ゾンビたちは鼠算式に増えていくから、事態は一刻を争うのだ。


 と、そこでわたくしは今着ているのが制服のままであることに気がついた。

 皺になった制服で、王宮に行ってもいいものかしら……。


 いえ、ゾンビの対策のほうが大切なのだから、服なんてどうでもいいわよね。

 とはいえ、公爵家のわたくしが、こんな皺だらけの制服で王宮へ行くなんて……。


 はっ、そうだわ。


「パトリック様、お願いがあるのですけれど」

「なんだろう」


「神殿騎士には女性もいらっしゃいますわね。王宮へ行くのに、できれば騎士服をお借りしたいのですが」

「騎士服を?」


 パトリック様が驚いたように紫の瞳を丸くする。


 確かに貴族女性が騎士服を着たいというのはあり得ないことだと思う。

 そもそも、この世界では平民ですら女性はズボンを履かない。


 でもゾンビと戦うのなら、動きやすさが一番だわ。


「ええ。この騒動が終わりましたら、わたくしから新しい騎士服を贈らせて頂きますので、ぜひ」


 騎士服というのは、案外高い。

 もちろん神殿から支給されるが、形は同じでも動きやすく質の良い服を着ようと思うと自費で買いそろえることもあると聞いている。


 ただ借りるだけではなく新しいものと交換ということにすれば、誰か貸してくれないだろうか。


「分かりました。聞いてみましょう」

「ありがとうございます」


 そのまま立ち去ると思っていたパトリック様だけれど、なぜかそのままわたくしを見ている。


 どうしたのだろうと見返すと、やや気恥ずかしそうな表情を浮かべながら、意外な話題を口にした。


「そういえば、ヴィクトリア。いつになったら私の名前を……敬称をつけずに呼んでくれるんだ?」


 その問いかけに、わたくしの頭は一瞬真っ白になる。


 彼の名前を、敬称をつけずに呼ぶ。いえ、確かにそんな約束をしましたわね。パトリック様はわたくしを「ヴィクトリア」と呼び捨てにしているし。


 でも、わたくしが呼び捨てにするのは、ハードルが高いというかなんというか……。


「そ、それはっ……」


 思わず声が裏返った。

 視線は落ち着かず、心臓がさらに早鐘を打つ。


 さっきよりも胸がドキドキしているのをどうにも抑えられない。


「そのうち、ですわっ」


 やっとの思いでそう言い返すが、声が震えていたのが自分でも分かる。


 パトリック様は意地悪そうに笑ったわけではなく、ただ柔らかな微笑みを浮かべているように見える。


 その眼差しがどこか楽しげにも映り、わたくしとしては恥ずかしさで顔が熱くなるばかりだった。


「では、いずれこの騒動が落ち着いたら、そうしてくれるのだな」


 彼が朗らかな声でそう言うや否や、わたくしの手をそっと取って甲に口づけを落とした。

 それはまるで社交界の場で紳士が貴婦人に挨拶するかのような洗練されたもの。


 でもこんな状況でされるとは……不意打ちが強烈すぎて、わたくしは思わず息を飲み、背筋が震えるのを感じた。


「ぁ……」


 言葉にならない声が漏れる。顔が一気に火照って、熱さが額から頬へ広がっていくのが分かる。


 パトリック様はわたくしの反応を見て微かに満足げな笑みを浮かべているようだが、その微笑は決して茶化すものではなく、穏やかで優しさを湛えたものに感じられる。


「騎士服の件、すぐに当たってみよう。それまではゆっくり休んでいるといい」


 パトリック様はそう言って部屋を出ていった。


 わたくしはどっと気が抜けて、ベッドに背を預ける。先ほどの手の甲への口づけの感触が、まだ残っているかのようだ。


「はあ……どうして、こんなにドキドキするの……」


 ほとんど恋愛経験などないわたくしが、パトリック様のまっすぐな瞳や行動に惹かれるのは仕方ないにしても、自分の気持ちがこんなにも揺れ動くのは予想外だ。


 学園では、アラン殿下の婚約者という立ち位置を押し付けられてきたが、正直殿下と心が通じ合ったことは一度もない。


 それが今こうして、パトリック様に名前で呼んでほしいと言われ、手の甲に口づけを交わされるなんて……。


 意識していなかった感情が、急速に膨らんでいくのを感じる。危機的状況の最中であるにもかかわらず、この胸のときめきは止められない。


 いつか彼のことを、敬称を外して呼べる日が来るのだろうか?


 これから王宮へ行ってゾンビへの対策を考えなくてはいけないのに、わたくしの頭はパトリック様とのことでいっぱいになってしまっていた。

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