第3話 救済の聖女は黒猫と踊る


 クリスマスを間近に控えたこの季節。

 太陽はまるで駆け足をするようにそらを横切り、またたく間に日が暮れる。

 大気は急速に温もりを失い、冷ややかな風が無遠慮に首筋を撫でていった。



холодноほーらどな(さむいの)? マヒル」


 一瞬、ぶるると身体を震わせて身をちぢこまらせた真昼の顔を、ルゥナーがのぞき込む。

 その仕草に合わせて雪のように真っ白な髪がしなやかに揺れ、深く澄んだ藍色あいいろの瞳に、真昼の顔が大きく映し出された。



「急に風が吹いて驚いただけ。大丈夫だよルゥ」


 真昼はそう言って、Спасибоスパシーバ(ありがとう)と小さく手を挙げた。



 ―――夕暮れの公園。


 目に映るすべてがオレンジの光に包まれる中、ぽつりぽつりと設置された街灯がほのかな灯をともし始めた。

 真昼とルゥナー、大小ふたつの影が並んで長く伸びている。

 ふたりはしゃがみながら、今やすっかり顔なじみとなった全身真っ黒な仔猫におやつをあげていた。



「ルゥこそ大丈夫? холодноホーラドナ(さむくない)?」


 ルゥナーの故郷である遥か北方、とある極寒の国の言葉を交えながら、彼女の身を案じる真昼。


 その異国の言語を口にする真昼の発音はとても流暢で、ルゥナーにわずかな違和感すら与えなかった。



Яやー(わたし)はだいじょぶよ。このくらい、寒さのうちに入らないわ。でも、Спасибоスパシーバ(ありがとう)、マヒル」


 対して、ルゥナーの話す日本語はだいぶたどたどしい。

 とは言え、真昼とこうして昼過ぎから日没までのわずかな時間をともに過ごすようになって、まだ数週間あまり。それまでまったく話せなかったことを考慮すれば、日常会話をそれなりにこなしているあたり、飲み込みが早いと言ってさわりないだろう。



「ほら、こうすればтеплыйちおーぷるいー(あたたかい)わよ」


 そう言って、ルゥナーはその小さな身体を真昼の方に寄せ、ぴったりと寄り添った。彼女が愛用する青いコートのふわふわでやわらかな生地を通して、かすかな、それでいてしっかりとした温もりが真昼の身体に伝わる。



「うん、そうだね。とてもтеплыйチオープルイー(あたたかい)」


 真昼はその温かさを確かめるようにそっと目を閉じた。




 にゃあ。


 ルゥナーの足もとで、黒猫がスノーブーツに背中をこすりながら、小さな鳴き声をあげた。ブーツに結び付けられた可愛らしいピンク色のリボンがゆらゆらと揺れている。



「ふふ、お前もтеплыйちおーぷるいー(あたたかい)?」


 目を細めて、黒猫を優しい手つきで撫でるルゥナー。


 にゃあ。


 その問いに、まるでそうだと答えるかのように、再び黒猫が気持ちよさそうな声をあげる。


 そんなルゥナーと黒い仔猫を、真昼は穏やかな目で見つめていた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 初めて、この場所で、この異国の少女を見かけたときも、今と同じように、この全身真っ黒な仔猫と一緒だった。



 その日。

 放課後、いつものように生花店ラストーチカに立ち寄った。

 せんせいが用意してくれた課題を終え、いつもならそのあと真っ暗になるまでおしゃべりしてから帰るところを、この日に限っては家の用事を頼まれていたために、少し早くラストーチカをあとにした。


 用事と言ってもそれはとても簡単なお使いで、なんとも呆気あっけなく終わってしまい、少し時間を持て余した真昼わたしは、手持ち無沙汰ぶさたでぶらぶらと家路いえじについた。



 にぎわう商店街の街並み。

 夕食の時間を前にして、小さな手を引く母親や、仲睦なかむつまじい様子で買い食いをする中高生のグループ、会社や自宅へ急ぎ足で向かうスーツや作業着姿の人たちが目まぐるしく行き交い、とても活気のある時間帯だった。


 たくさんの人と挨拶あいさつをかわし、手を振りながら商店街を抜け、自宅がある静かな住宅街にさしかかる。

 その手前、以前は消防団の詰め所があった場所にある雰囲気のよさそうな喫茶店を眺めながら歩いていると、道の反対側の小さな公園が目に留まった。


 幼いころは自分もよく遊んでいた馴染なじみ深いその公園に、ふと思い立って、立ち寄ってみることにした。

 とくに理由もなく、これといった目的もない。

 それは、なんとなく思い出にひたろうかという本当にただの思い付きにすぎない行動だった。



 それが、結果的には自分自身も含めた、たくさんの、様々な人の行く末を変えることになるなんて、この時は想像すらしていなかった。




 車両止めの金属製のポールの間を通って、公園の茶色い土を踏みしめる。

 そこに特筆とくひつすることなんて何もないのだけれど、何だかとてもなつかしい感じがした。



 金網のフェンスでかこわれた、どこにでもよくあるような児童公園。


 外周にそって樹木や植栽が立ち並び、ひと目では通りの様子も、通りから公園内の様子もわからないようになっている。

 中央が広場となっていて、それを取り囲むように遊具がいくつか、そしてはじっこの方に小さなベンチが設置されていた。

 植え込みがある少し陰になった場所には、公衆トイレの建屋が見える。その隣りには飲み物の自動販売機と、最近あまり見かけなくなった公衆電話が薄暗い照明の中に浮かび上がっていた。



 そうそう、こんな感じ。

 と、所狭ところせましと駆け回っていた幼い頃を思い出し、公園内を見渡すと、その光景は唐突とうとつに目に飛び込んできた。



 それは、あまりに美しく、あまりに神秘的で、あまりにも印象深い。



 公園の中央、広場となったその場所で、ひとりの小さな女の子が華麗かれいに舞っていた。


 目が覚めるように鮮やかな青色のふわふわしたコートを身にまとい、白いもこもこの帽子をちょんと頭の上にのせ、雪のように真っ白な長い長い髪をふわりと揺らし、ピンクの可愛らしいリボンがついたスノーブーツをはいた小さな足で、くるくると軽やかに舞い踊る、藍色あいいろをした可憐かれんな少女。


 まるで体重など存在しないかのような軽快な足取りで、くるくる、くるくると、優雅なダンスを踊っている。



 その足もとには一匹の真っ黒な仔猫の姿があった。

 少女に合わせるかのように、ぴょんぴょんと跳びまわっている。


 楽しそうに笑いながら、真っ白な少女が真っ黒な仔猫と一緒にダンスを踊る。



 それは、この世の物とは思えないほど幻想的で、本当に妖精にでも出会ってしまったのかと目を疑うような、一生忘れることができない、まさに運命の出会いだった。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「ルゥって、猫、好きだよね」


 ルゥナーと一緒に黒猫をでながら、真昼はつぶやいた。

 黒猫が気持ちよさそうにゴロゴロとのどを鳴らす。



「うん、好きよ。だって、かわいいもの。русскийるーすきい голубойがるぅぼーい(ロシアンブルー)みたいなキレイなネコがいちばん好き」



 ロシアンブルー。

 青味がかった灰色の毛並みが高貴な印象を与える、とても美しい猫である。プライドが高く気まぐれな性格で、とても人見知りが激しいのだけれど、そのわりに甘えたがりの、やきもち焼き。べたべたされるのは大嫌い。でも、愛情が足りないのはもっと嫌い。ただ、一度ひとたび気をゆるすと、まるで犬のようになついてしまう。


 そんな美しくも気難きむずかしい、そしてなんとも愛らしい特徴が、、と真昼はなんだか可笑おかしくなった。




 мяуみゃーう


 その時、不意にどこからか、別の猫の鳴き声がした。



「あっ! русскийるーすきい голубойがるぅぼーい(ロシアンブルー)!?」


 ルゥナーが驚いたような高い声をあげる。



「マヒル、見て。とってもкрасивыйくらしーう゛い(きれい)」


「本当だ……。きれいだね」



 ルゥナーが指し示した方を見ると、そこに見慣れない一匹の猫の姿があった。真昼が思わず感嘆かんたんの声を漏らす。



 青灰色の短毛が、オレンジ色の夕陽に照らされてキラキラと輝いている。その宝石のようなエメラルドグリーンの瞳が真っ直ぐに真昼たちの方を見つめていた。



「どこの子だろう。野良じゃないよね。迷い猫かな」


 この公園に通うようになってしばらくになるけれど、初めて見かける猫だった。よく手入れされていそうな毛並みから、どこかの家で大切に飼われているだろう事がうかがえる。



「こっち見てる。あ、もしかしてголодごーらと(はらぺこ)なのかしら?」


 そのロシアンブルーは、どうやらルゥナーが手に持っている猫用のおやつを見ているようだった。



「そうなのかも。ちょっと待って」


 そう言って、真昼はかばんの中から猫用のおやつをもうひとつ取り出した。


 そして、手早く開封して、ゆっくりと揺らしながらロシアンブルーに近づいていく。



「ほらほら、ちちち……」


 真昼の手の動きに合わせて、首を動かし視線を左右に振るロシアンブルー。



 そして、いよいよおやつをくわえるかとなった、その瞬間。



「あっ!? っつう、しまった」


 それは一瞬のことだった。


 突然、鋭い爪をむいたロシアンブルーが、おやつを持っていた真昼の右手を引っ搔いた。



 慌てて手を引き、驚きの声をあげる真昼。

 その様子に驚いたのか、ロシアンブルーは一目散いちもくさんにどこかに走り去ってしまった。



「マヒル!! Тыてぃ вう゛ порядкеぽらどけ(だいじょうぶ)!?」


 ルゥナーが血相を変えて駆け寄ってきた。

 真昼は心配させまいと、笑顔を見せる。



「いたた。油断したぁ。ничего́ニチボー(平気だよ)、ルゥ」


「でも、たくさん血が!? ранаらーな(けが)してる!」



 そう言われて、真昼は初めて右手からの出血に気がついた。

 どこか太い血管でも傷ついたのか、赤い血がぽたぽたとしたたり落ち、地面に黒い染みをつくっている。



「あちゃあ、けっこうやっちゃったね」


 真昼はスカートのポケットから白いハンカチを取り出すと、傷口を押さえた。しかし、ハンカチは見る間に赤く染まっていく。



 思いのほか傷は深そうだった。


 ここから自宅まではそう遠くはないけれど、急いで家に帰っても常備している絆創膏ばんそうこうやガーゼ程度では処置できそうにない。

 真昼は自分の迂闊うかつさに舌を巻いた。



 病院まで走って行くとなると、少し時間がかかる。

 家に帰って自動車で送ってもらうとして、家族は帰宅しているだろうか。

 ならば、生花店ラストーチカまで行って、せんせいに車を出してもらうか。

 いや、それとも救急車……。



 すでに真っ赤な血にひたってしまったハンカチを呆然ぼうぜんと見つめる真昼。


 大量の血液を目にしたショックというものは思いのほか大きいもので、実際の傷の程度とは関係なく、心に衝撃を与える。

 真昼は、彼女にしては珍しく激しく動揺し、混乱していた。




「マヒル、Яやー(わたし)にまかせて」


 その時、ルゥナーが真昼にささやいた。

 そして、真っ赤に濡れたハンカチで覆われた真昼の右手を、小さな両手で優しく包み込む。



「ルゥ? いったいなにを」


 突然の行動に出たルゥナーを、不思議そうに見つめる真昼。

 そのルゥナーの真剣な表情と、自分の右手にあてがわれた小さな手を交互に見比べる。



 そして、それはほんの数秒後のこと。



 真昼の手の出血はぴたりと止まっていた。

 それどころか、深く裂けていた傷口が、きれいさっぱり跡形あとかたもなく消えている。


 それは、治ったというよりも、まるでかのような、不思議な出来事だった。




「こ、これって、ルゥ―――」


До свиданияすう゛ぃだーにゃ(さようなら)、マヒル。また、明日!」



 疑問を投げかけようとして口を開いた真昼に、別れの挨拶を告げ走り出すルゥナー。


 あまりに突然のことすぎて、真昼はルゥナーを引き留めることすらできなかった。



 何が何だかわからない。


 ただひとつだけ。

 真昼の傷をのは間違いなくルゥナーだと、真昼はそう確信した。



「ルゥ! Спасибоスパシーバ(ありがとう)! また、あした!」


 こちらを振り返ること無く走り去っていくルゥナーの小さな背中に向けて、真昼は大きく手を振った。



 すごい。

 すごいよ、ルゥ。

 こんなすごいことができるなんて、君はなんてすばらしいんだ。



 すっかり暗くなった公園で、街灯の心もとない光の中。

 傷跡もなく元通りになった右手の肌を見つめながら、真昼は興奮をおさえられないでいた。


 その足もとで、何も知らない黒猫がのんきに、にゃあ、と鳴いた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 次の日。

 いつもの時間。

 いつもの公園。


 いつもと同じようにルゥナーは、黒猫とたわむれながら真昼が来るのを待っていた。


 その右手には、何故か白い包帯がぐるぐると何重にも巻かれている。



 やがて、真昼が息をきらせてやってきた。


 いつも以上に輝く瞳で、まっすぐにルゥナーを見つめてくる。



「ルゥ! 昨日は本当にСпасибоスパシーバ(ありがとう)! 昨日のあれはいったいどうやったの? 魔法? 超能力? すごい! すごいよルゥ!」


 嬉しそうに、本当に嬉しそうにはしゃぐ真昼の視線から、ルゥナーはそっと右手の包帯を隠した。



 そして、いつものように得意気とくいげな顔で笑って言った。




「ふふ、すっごいでしょ! Яやー(わたし)はこれでも―――」




 ―――спасениеすぱすぃえーにい Святаяすう゛ぇあたや Нинаにーな救済きゅうさいの聖女)なのよ!






 つづく

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