第56話

 十二月の夕暮れは、季節の境がどこかでひっそりと切り替わったような、そんな気配をまとっていた。


 群青へと沈んでゆく空の端に、わずかに残った夕焼けが細い火傷のように赤を滲ませる。冷え込む空気は窓ガラスをうっすら曇らせ、校庭に立つ冬枯れの木々を、遠い絵画のように霞ませていた。


 放課後の教室はほとんど無人となり、静寂が支配している。整列された机の影が夕暮れと蛍光灯の狭間で伸び縮みし、その中で——後方の席に腰を下ろす米内悠樹と、彼の前に立つ栗田碧だけが、この静けさの中に取り残されていた。


「……あなた、やっぱり南雲さんと付き合っているって噂、流れているわ」


 栗田の声が、閉ざされた空気を震わせる。普段の端正で揺らがない声音とは違っていた。言葉の端にかすかな震えが宿り、米内は聞いた瞬間、それに気づいた。


「別に、付き合ってるわけじゃない」


 淡白な返答。けれどその言い方は、どこか慎重でもあった。栗田は唇を噛み、言葉の行き場を探すように視線を彷徨わせる。


 ——そのときだった。


 廊下の奥。教室の側面に伸びる影の中で、一人の少女が息を殺して立ち尽くしていることに、誰も気づいていなかった。


 堀湊。


 いつも無邪気で、無防備な笑顔を浮かべる彼女は今、冬の夜空のように静かで、どこか壊れかけた影を落としていた。制服の裾を握る指は白くなるほど強く、震えている。


(……先輩……?)


 廊下の隙間から見える教室の光景は、ひどく遠い。扉一枚隔てただけなのに、透明な壁に阻まれたみたいに届かない。


「……私、あなたのことが恋愛的に、好きよ」


 栗田碧の告白が、冬の静寂に落ちた。


 米内は一瞬言葉を失い、目の前の栗田を見つめた。窓の隙間から吹き込む冷たい風が、彼女の髪を揺らし、ひどく脆い影を落とす。


 一方で——堀湊の心臓は、何かに掴まれたように強く痛んだ。


(なんで……どうして……?)


 理由はわかっていた。だが認めたくなかった。


 米内の視線は、栗田だけに向けられていて、自分には向かない——その光景が、静かに、しかし確実に胸をえぐる。


 気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかっただけだ。


(私……こんなに、苦しくなるほど……)


 米内悠樹に、触れられていたのだ。


 栗田の言葉に米内が応じるたび、堀は霧の中に取り残されたような感覚に飲まれていく。まるで自分だけが世界の外側に追いやられたような、そんな感覚。


 逃げ出したいのに、足が動かない。


 その瞬間——米内がゆっくりと口を開いた。


「……考えさせてくれ」


 堀の心臓が一瞬だけ止まり、次の瞬間、ようやく息が戻ってくる。


 肯定でも否定でもない。しかし拒絶でもない。


 わずかな余白を残したその言葉に、堀は救われたのか、余計に苦しくなったのか、自分でも判断がつかなかった。


(……知ってたのに)


 そうだ。米内の「好き」は、自分のものではないと知っていた。


 南雲光凛がいる。それが現実だと、ちゃんと理解していたはずなのに。


 なのに、どうして。


 どうしてこんなに痛いんだ。


「……ええ」


 栗田は短く返し、深い呼吸で感情を整えると、わずかに微笑んだ。冬の雪が舞う前触れのような、淡く儚い微笑み。だがその裏側には、鋼のような決意が潜んでいる。


「でも、あまり待たせないでね」


 そして踵を返し、教室を去っていった。残された静寂の中で、米内の髪が窓から吹き込む風に揺れた。ゆっくりと振り向いた米内の視線が、廊下の影に立ち尽くす堀湊を捉える。


「……堀……?」


 その一言を聞いた瞬間——堀は逃げた。


 教室を飛び出し、廊下を走り抜け、下駄箱へ。誰かの呼ぶ声が背後で遠く歪んで響いた気がしたが、もう立ち止まれなかった。


 下駄箱で靴を取り出した瞬間、堀の手は止まった。


 心臓は爆発しそうなほど鳴っている。なのに、涙はまだ落ちない。


 感情がどこかへ置き去りにされたようで、胸にぽっかりと穴が開いたみたいだった。何を考えているのか、何を望んでいるのか、自分でさえわからない。


 ただ、痛い。痛いのに、涙はまだ落ちてこない。靴を床に落とし、そのまま堀は外へ走り出た。


 刺すような冬の空気が頬を切る。けれど寒さは感じなかった。


 足が止まった瞬間、堀は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。肩が震える。制服の内側から容赦なく冷気が染み込み、肺の奥まで凍らせる。


「……先輩……」


 その一言が溢れた瞬間、堀の頬をついに涙が伝った。


 遅すぎた自覚。遅すぎた涙。


 自分の気持ちが本当はどこにあったのか。もっと早く気づいていれば——いや、気づかなければ、こんな痛みはなかったのか。


 そんな後悔が、夜風の冷たさと混じって胸を満たしていく。


 冬の風が沈みゆく街を吹き抜ける中、月はただ静かに、凍えるように昇ったばかりだった。




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