14章幕末レッスン・スタート ~英語は土佐弁になるのか?

夏の暑さを急き立てるような蝉の声が減り始め、次は自分の番だと秋の虫たちが騒ぎ始め、江戸を旅立った二人が土佐に到着する頃は、虫たちの声は夜明けの星が薄れていくように消え、冬の到来を告げる冷たい風が、木々の枝は葉を落としていった。農民たちは収穫が終え、田畑の仕事がひと段落させ、農具の手入れや冬支度をしながら、そろそろと正月の準備に入る。

人々を凍えさす時期でも、土佐の黒潮が運ぶ温暖な風は、江戸とは異なる、南国の情緒を感じさせる。その暖かな風とは対照的に、この海は若者たちに地平線を越える夢を抱かせ、明治維新へのきっかけともなった。土佐藩を治めていたのは15代藩主・山内容堂(やまうち ようどう)。彼はペリー来航に関して吉田東洋らと開国を意識した政策を模索していた。

マナたちは、家定公が「事前に土佐藩に知らせておく」と言った手前、一介の旅人として坂本龍馬だけに会いに行くわけにはいかず、正式に土佐藩を訪れた。家定公は、土佐藩に雪が積もる季節を避けさせるため、春先まで土佐に滞在するよう命じ、土佐藩の若い藩士たちに英語の手習いを教えさせよという指示を与えていた。表向きはあくまでもマナ達の冬の季節の旅を案じて?である。「ちょっと.....殿様。土佐にきてもこの無茶ぶり。英語を教えろってか?私は坂本龍馬に会うだけなのでは?それも春までなんて、オーマイゴット!訴えてやる!!」マナは家定公の人使いの粗さを改めて痛感し、「アイツ・アイツ・ブラック上司」と足元からへたり込みそうであった。


そんなマナ達に土佐藩主は山内家の別邸を春までの住まいとして与え、そこで英語の指導をさせることにした。この場所は高知城下の一角にありながら、徒歩で15分ほどで市中から離れており、広大な庭園を持ち、広い畳の間や書院造りの部屋もある格式のあるところであった。その中で、上士や郷士といった身分制度が厳格に存在する土佐藩の若者を集めて、英語を学ばす。上士は武家屋敷に住まう名家の者たち、郷士はそれより下位の地侍や庄屋の出自に基づく者たちという位置付けが明確に分かれていた。

通常であれば、上士と郷士が一緒に学びの場に座することはほとんど考えられなかった。しかし、マナの「学びにおいて身分の壁を越えるべきだ」という理念が吉田東洋らの支持を受け、この英語塾では特別にその方針が尊重されていた。


最初の授業でマナが「皆さん、ここでは一人の学び手として共に時間を過ごしましょう」と大学の講師のように声をかけると、身分を超えた共にという感覚に戸惑いが浮かんだが、すぐに頷きが広がった。その後も、後藤象二郎のような上士が、郷士である藩士たちと隣り合わせで座りながら議論を交わす光景が自然に見られるようになった。

郷士の一人が「これが許されるがは、ここだけのことぜよ。」と小声で呟くと、隣の上士が微笑みながら「ほんなら、ここで精いっぱい学ばんといかんぜよ。」と応じた。

マナが「Hello」と挨拶の一言を黒板に書きながら発音してみせると、部屋中に水が浴びせられたようにシンとした。後藤象二郎が試しに「ヘロウ」とぎこちなく発音し、これに気づいたマナは、「皆さん、発音はすぐには完璧にはなりませんよ。失敗を恐れずに練習することが大事です」と促した。

授業では、アルファベットの読み書きだけでなく、簡単な会話の練習も行われた。「What is your name?(お名前は何ですか?)」というフレーズを、マナがゆっくりと繰り返して発音すると、藩士たちもこれに続く。後藤象二郎が隣に座る藩士に「ホワットイズヨナム?」と聞くと、「イズマナ…いや、違う」と照れ臭そうに答え、一同が笑い合う場面もあった。


こうした授業の中で、沖田総司もその存在感を発揮していた。ある藩士が「RとLの発音の違いが難しい」と漏らすと、総司が小さく手を挙げ、「舌の位置に気をつけると良いですよ」とアドバイスを送る。英語の発音において彼は隠れた才能があったようで、藩士たちが抱える疑問を丁寧に教えていった。

塾に集まる者たちは、普段の身分差も他藩であることも一旦忘れ、それぞれの好奇心と学びへの熱意を持ち参加していた。さながらそれは知識という餌に群がる池の鯉のようであった。その知識に群がる鯉たちは英語を通じて、身分による差別から平等というものを体で感じていった。


一方で、身分制度を根底から揺るがしかねないこの英語塾に対し、保守的な考えを持つ者たちからの不満も少しずつ高まり始めていた。特に、上士の中には「郷士風情が我々と同席して学ぶなど言語道断」と考える者もいたが、吉田東洋が「時代の変化に対応できる柔軟性こそが、土佐を強くする」と説得し、なんとか反発を抑えていた。開国に反対する若い藩士たちが、塾の外で集まり、不満を募らせている様子も目につくようになった。「異国の言葉を学ぶがは、わしらの武士道を捨てる行いやき!」「このままやったら、うちらの国が異国に飲み込まれてしまうぜよ!」という声が、ひそひそと聞こえてくる。そうした一団を率いていたのは、土佐藩内で一際剛直と評判の高い武市瑞山だった。

ある晩、武市瑞山は自らの家に志を同じくする若い藩士たちを集めていた。その席では、異国の文化を学ぶこと自体が「武士道を冒涜する行為だ」と糾弾する声が飛び交っていた。

「郷士が上士と同じ机を並べるがは、身分の秩序を乱す行いやき!」

武市の激怒に、居並ぶ藩士たちはうなずき、口々に賛同の雄たけびを上げる。「異国の文字がなんぼ学べても、わしらの腹は膨れんき。」そう誰かが言うと「それこそが敵の策略ぜよ!異国の言葉を学んで、異国の考えを受け入れるがは、武士としての誇りを捨てることに他ならんき!」そう言いながら、藩士たちの中には興奮し刀の鍔に手をかけ立ち上がるものもいた。

武市は大きく手を上げて立ち上がり、深く鈍い声で皆を制するようにいった。

「わしらが守らないかんがは、土佐の伝統であり、日本の武士の誇りよ。異国にへつらうて日本を売り渡すがは、決して許されんき。じゃが、敵の動きをただ批判するだけでは、奴らには勝てんき。英語塾に集まりゆう者らは、もう異国の影響を受け始めちゅう。それを止めんといかんき。けんど、正面からぶつかるがやなく、策を講じるべき時ぜよ。」

武市が言うと、藩の若者は禅の修行で警策(けいさく)で叩かれたように急に背筋を伸ばした。

「わしらは英語塾の外で動くがぜよ。まずは、塾に通いゆう者らの中で迷いを持っちゅう者を引き込み、内部分裂を促すき。それでもダメやったら、見せしめに女を斬る」


しばらくすると英語塾に通う一人の若い藩士が突然欠席するようになった。マナが彼を気にかけ、他の藩士に尋ねると

「ただ、行かんといわるだけで、理由は教えてもらえんかったき。」

ある日、授業の途中で一人が立ち上がり、声を荒らげた。

「こんな学びに何の意味があるがぜよ!わしらは剣を握らないかんがじゃ。異国の文字を学んで、いったい何をするつもりながぜよ!発音すら満足にできん者が、いったい何を学ぼうとしゆうがぜよ?」

すぐに後藤象二郎が間に入って場を収めたものの、こうした変化を嫌うものとの小さな摩擦が排水溝に泥がたまるように蓄積されていくのを、マナは感じ取っていた。


城内では山内容堂は家臣たちの報告を受け、吉田東洋と武市瑞山の対立が深まりを憂いていた。「東洋も瑞山も、それぞれ正しいことを言っている。しかし、彼らの対立が藩全体を分裂させるのは避けねばならん……」藩として日本国としての伝統と覇権を保持したい。しかし、外国からの波を受け、開国を迫られ、異国とも対等に渡り合っていかなければいけない我が国。今、内部で分裂していては外国の思うツボであり、その間にまんまと国は喰われてしまう。変化を嫌うものにどう対処していくか?藩で起こっていることは即ち日本国全体でも起こりうること。

彼はしばらく思案していたが、しばらく英語塾を存続させ、藩士のなかの不満分子をあぶりだすことにした。


そんな旧暦の正月も過ぎた昼下がり、マナは英語塾からそう遠くない裏山に坂本龍馬を呼び出していた。もちろん家定公からの丸投げされた要望、開国の手先に仕えという命を受けてもらうためであった。

目の前に立つ龍馬は、長身でやや細身の体つきに日焼けした肌を持ち、どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせている。ひょうひょうとした態度の中に、親しみやすさと不思議な魅力があり、その土佐訛り混じりの口調は自然と相手の心を掴んだ。まさに「人たらし」と呼ぶにふさわしい人物だった。

マナも坂本龍馬も英語塾で顔を知っているものの、授業以外で話すことは初めてであり、お互いが多少緊張をしていた。挨拶も終わり、マナが本題に入ろうとしたとき、「国賊を成敗しちゃるぜよ!」と口々に叫びながら、竹藪から数名の男たちが怒涛の如く押し寄せ、二人を囲んだ。きらっと男の刃がひかり、右肩からやけどのような熱さが走り、どさっと地面に倒れた。マナが地面に倒れ込むのとほぼ同時に、鋭い金属音が空気を裂いた。林から現れた沖田の刃が陽光を受けて閃き、男たちの間を舞うように駆け抜けた。風を切る音と共に、竹藪がざわめき、数人の男たちが反射的に後退する。

「誰だ!名を名乗れ!」

沖田の声が低く響き、剣先を振り切る音と共に威圧感を伴う。

一人の男が肩を揺らしながら笑う。「おんしゃ、俺たちに名乗れ言うがか?国を売るような奴に名を告げるほど、間抜けじゃないき!」

「国を売る者?」

沖田が小首をかしげ、剣を構え直す。「なるほど、剣を抜いて国を守ったつもりかもしれんが、ただの野盗と何が違う?」

男らは般若の如く顔を歪め叫んだ。「黙れ!おんしゃも同罪ながぜよ!この国賊と手を組む奴め!」

竹林に吹き込む風が怒号を運び、刀と刀が交差する鋭い音が無数に響き渡る。沖田はわずかに身をかがめ、相手の刃を紙一重で避けると、逆に相手の懐へ滑り込むように間合いを詰めた。その動きはあまりにも速く、襲いかかる男たちの視界から沖田の姿が消えたように見えるほどだった。

「くっ、速い……!」一人の男が呻き声を漏らす。しかし、男の嗚咽が終わる前に沖田の刃が閃き、男の刀が真っ二つに砕けた。

地面に倒れたマナは、ぼんやりと沖田の姿を見上げていた。その剣筋の美しさと、命を懸けた真剣な顔つきに目が釘付けになる。身体の奥でじわじわと炎が広がる。「やっぱり姫を助ける勇者!王道のストーリー展開!」危機的状況のはずなのに、頭は冴えわたり不思議とトキメキに胸が躍る。

「次はどいつだ?」

沖田の鈴のように澄み渡った声が竹林に響く。目の前に倒れた男の後ろで、威勢をそがれ、ひるんだ男たちが顔を見合わせる。沖田の瞳孔は鋭く光り、放たれる威圧感は、まるで孤高の狼のようだった。

数秒後、お互いの均衡が崩れ、一人の男が悲鳴に近い叫び声を上げ、沖田に向かって正面から突っ込んできた。突き出された刃が沖田の喉元に迫ると同時に、彼はわずかに身をかがめ、鋭い動きで相手の剣を弾き飛ばした。

「無駄だ。」沖田の声は低く絶望的な重みで相手に言い放った。

残る数人の男たちは声を荒げながら続けて沖田へと襲いかかる。沖田は斜面を駆け上がる勢いで踏み込み、一本の竹を支えに体を翻すと、敵の視界を一瞬で奪った。その瞬間、剣が閃き、刀が地面に転がる。斬撃の音が続く中、男たちの刃はことごとく空を切り、逆に沖田の剣が的確に彼らの武器を削いでいった。

「お前たち、これ以上無駄な命を削るな。」

沖田が、剣を軽く振り払いながらそう言うと、刃についた血が地面に飛び散った。その飛び散る血に動きを止められたように、男たちの間に恐怖が流れ込んだ。

「引け!」リーダー格の男が叫び、残る仲間たちを引き連れて竹林の奥へ逃げていく。

「おマナ殿、大丈夫か!」

坂本龍馬がマナに駆け寄り、傷口に手ぬぐいを巻こうとしていた。しかし、彼は見たものは彼の想像を超えたものであった。

「なんじゃ、こりゃぁ!」

お化け屋敷のお化けに驚かされたような、龍馬の絶叫は竹林を駆け抜け、新しい時代への扉を押し開けようとしていた。

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