第16話 怪盗シュヴァリエの標的④
馬車がグランフォード邸の門をくぐる。石造りの外壁には蔦が這い、世紀を超えて受け継がれてきた歴史が刻まれている。手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水の水音が静かに響いていた。
「申し訳ないな」卿が馬車から降りながら言う。「こんな早朝から」
「いいえ」俺は淑女らしく微笑む。「失われた大切な品物ですもの。私にできることがありましたらお手伝いいたしますわ」
卿は頷くが、その表情には深い憂いが刻まれていた。母の形見のティアラを失った痛手は、想像以上に大きいのかもしれない。
玄関ホールに足を踏み入れると、軽薄な声が響いた。
「おや、卿。それに…誰かと思えば。ハドソンが懇意にしているお嬢様探偵さんじゃあないですか」
中年の男が、警察の制服姿で立っていた。丸々と太った体型に、小さな目。バーンズ警部補という階級章が付いている。
「バーンズ警部補」卿が声をかける。「ジュリア・モリアーティ嬢だ。この事件の調査を依頼した」
「はあ」バーンズは面倒くさそうに手を振る。「でもねぇ、こういう大事な事件は警察に任せていただいた方が…」
その態度には明らかな侮蔑が込められていた。確かに、殺人事件のハドソン警部とは違い、美術品の盗難を担当する警察官たちには"お嬢様探偵"の実績が知られていないのかもしれない。
「失礼ですが」エミリオが一歩前に出る。執事らしい完璧な立ち居振る舞いの中に、僅かな怒りが滲んでいた。その背筋は真っ直ぐに伸び、左手を胸元に添えた仕草には、執事としての誇りと共に主への忠誠が表れている。「お嬢様は卿からの直接の依頼で…」
「まあまあ」俺は軽く手を上げて制する。エミリオの忠誠心は嬉しいが、今は穏便に事を運びたい。この手の警察官との対立は、かえって調査の妨げになることを、探偵時代の経験が教えていた。
バーンズの足元に視線を落とした時、俺は一計を案じた。「あら、何か落ちていますわ」
さりげなく身を屈め、バーンズのコートの裾に触れる。その瞬間、昨夜の映像が鮮明に浮かび上がった。
——署内の休憩室。疲れた表情で椅子に腰掛けるバーンズ。「今日の捜査も終わりか…」と呟きながら、彼は習慣的な仕草でコーヒーを淹れる。砂糖を四つ、それにミルクを二つ。甘いものが好きなのか、それとも疲労を糖分で紛らわすのか。「グランフォード邸の件も、まだ手掛かりが…」溜め息まじりの独り言——
「…砂糖四つにミルクを二つ。昨夜もさぞやお疲れだったのでしょうね?」俺は小声で告げる。
「な…!」バーンズが声を詰まらせる。「どうしてそれを…」
グランフォード卿が興味深そうに様子を見守っている。エミリオの表情にも、僅かな期待が浮かんでいた。
「探偵ですもの」俺は最も淑女らしい微笑みを浮かべる。「でも、こういった"観察眼"は、警部補殿のお役にも立つかもしれませんわ。いかがです?上手くお使いになれば、貴方にとっても悪いお話ではないでしょう?」
その言葉の真意を理解したバーンズの表情が微妙に変化する。困惑と、期待と、そして警戒が入り混じった複雑な表情だ。
「そ、それでは…」バーンズが慌てて咳払いをする。「金庫の方へご案内しましょうか」
「ありがとう」卿が静かに頷く。「書斎へ案内してやってくれ」
重厚な絨毯を踏みながら、一行は階段を上がっていく。朝の陽が、ステンドグラスを通して美しい光の模様を描いていた。
書斎に入ると、部屋の奥の壁に金庫が埋め込まれているのが見える。分厚い鉄の扉に、精巧な鍵穴。確かに、こじ開けられた形跡は見当たらない。
「では、少し失礼して…」
俺は金庫の扉に手を触れた。瞬間、過去の映像が鮮明に浮かび上がる。
——深夜の書斎。月明かりだけが窓から差し込む中、黒装束の人物が金庫の前に立っている。顔は布で覆われている。左手で鍵を取り出し、金庫に差し込む。扉が開き、ティアラが姿を現す。同じく左手を伸ばそうとした瞬間、一瞬の躊躇。それから素早く品物を取り出し、姿を消す——
「お嬢様?」エミリオの声に意識が引き戻される。 映像の中の違和感が、まだ頭の中で渦巻いているがまずは状況の整理だ。俺は金庫から手を離し、バーンズ警部補の方を向いた。
「警部補殿」淑女らしい物腰で尋ねる。「この事件、外部からの犯行と内部犯行、どちらだとお考えですか?」
バーンズは胸を張り、得意げな表情を浮かべる。先ほどまでの敵意は影を潜め、専門家としての顔つきに変わっていた。
「ああ、間違いなく内部犯ですね」バーンズは断言する。「ですが、逃げる時間は十分にありましたでしょうに」俺は疑問を投げかける。「犯行が分かって時間が経っているのですよ」
「そこなんです」バーンズの目が鋭く光る。「犯人は逃げていない。むしろ、まだ館に残っているはずだと」
「どうしてそう思われるのです?」疑問に思った俺の言葉にバーンズは断言する。「判断するに至った理由がいくつかあります」
バーンズは指を折りながら説明を始める。「まず、この金庫は二段階の解錠システムを採用しています。表の鍵穴だけでなく、内部に隠された第二の仕掛けがある。その仕組みを知らなければ、絶対に開けられない」
「確かに」卿が補足する。「父の代から続く特殊な機構でな。間違えると内部の安全装置が作動して、開かなくなる。その手順は、一部の人物しか知りえない」
「二つ目」バーンズが続ける。「この屋敷には、常に正門と裏門には門番が常駐しています。不審な人物の出入りは一切なかったと証言しています。また屋敷自体も普段から厳しい警備を敷いてありますので、外部からの犯行はまず難しい」
「三つ目。盗まれたのはティアラだけ」バーンズは声を落として続けた。「金庫の中には他にも換金可能な宝飾品や貴重書類があった。にも関わらず、犯人はそれらには一切手をつけていない」
「そして四つ目」バーンズは決定的な証拠を突きつけるように言う。「事件発生から今日まで、屋敷の使用人に一切の出入りがない。誰一人として辞めていないし、新しく雇われた者もいない。つまり…」
「そうですね」俺は考え込みながら言葉を継ぐ。「もし外部の者なら、より多くの貴重品を持ち去るはず。しかも、このティアラは非常に特徴的な品。市場に出せば即座に発覚する。それなのに、なぜティアラだけを…」
「ふふん、これでおわかりでしょう。犯人は、今もこの屋敷の中にいる」バーンズの声には確信が滲んでいた。
エミリオが無言で俺の横顔を窺っている。その整った横顔には、執事としての冷静さの中に、僅かな興奮が滲んでいた。彼もまた、この事件が単なる盗難事件ではないことを察したようだ。金庫の仕掛けを理解していて、しかもティアラだけを狙った犯人。そして何より、まだ屋敷に留まっているという事実。これほど不自然な要素が重なれば、その背後には何か別の目的があるはずだ。
「バーンズ警部補」俺は振り返る。朝の光が窓から差し込み、警部補の制服の金ボタンが光る。「お屋敷の方々から、お話を伺うことは可能でしょうか?」
「えぇ、まあ」バーンズは面倒くさそうに答える。その丸々とした顔には、若い令嬢の探偵に対する明らかな軽視の色が浮かんでいた。「でも、もう警察で調べは済んでいますよ。料理人のアーサーが最も怪しいという結論が出ていましてね」
バーンズは得意げに胸を張る。「これがまた強情でして。自分はやっていないと認めないのですよ。仕方ないので今は部下たちが決定的な証拠とティアラを探している最中です。アーサーには確かな動機がありまして。実は最近、賭博で大きな借金をして…」
「それでも」俺は言葉を遮るように、しかし淑女らしく柔らかな微笑みを浮かべる。エミリオの特訓の成果が、こんな場面で役立つとは。「少しお時間を頂戴できませんでしょうか?時には、同じ話を聞いても、違う角度から見えてくることもございますわ」
その言葉に、バーンズの表情が僅かに曇る。明らかに、自分の捜査能力を疑われたことへの不満だ。太った頬が微かに痙攣し、小さな目が更に細まる。
しかし、グランフォード卿の「警部補」という一言が、状況を一変させた。卿の声には、バーンズの反論を許さない威厳が込められている。屋敷の主人である貴族の意向を、一介の警部補が無視するわけにはいかないのだ。
「…わかりました」バーンズは渋々首を縦に振った。その態度からは、まだ若い令嬢の探偵に対する軽視が隠しきれていない。
俺の背後では、エミリオの表情が僅かに強張るのが感じられた。普段は完璧な執事の仮面を被った彼だが、主への侮蔑には敏感に反応する。(俺自身というよりはジュリアという存在に対する侮蔑だろうけど)その右手が微かに震えているのは、バーンズへの不満が抑えきれないからだろう。
(まあ、いいさ)
俺は内心で微笑む。アラサー探偵時代から、こういった偏見には慣れていた。若すぎる、経験不足だ、素人の趣味だと。だが結局のところ、真実を明らかにできるかどうかが全てだ。バーンズの軽蔑的な態度など、事件を解決すれば自然と消えていくものなのだから。
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