大地と天とお月様
@kobemi
第1話 年上の女のひと
きゃーきゃーと屈託なく笑い合う声がお座敷の襖の向こうから漏れ聞こえて来て、やっぱり行くのはやめようかと思った。
ニスを塗ったくったみたいにてかてかと輝く木目の廊下の上で立ち止まると、それだけでみしりと嫌な音がした。なんておんぼろな家だと嘆く気持ちと、もしかしたらこの物音で二人のことを邪魔できるかもしれないと気づいて歓喜する気持ちとが芽生えて、嬉しいやら悲しいやらだった。
「あ、やっぱりおねえちゃんだ」
私の予期した通りになった。妹の地香がひょっこりと襖の隙間から顔を出して、いたずらな笑みを覗かせた。
のしのしと、なるだけ私の不機嫌が二人に伝わるようにと一歩一歩進んで、地香越しにお座敷の中の様子を窺う。
畳に特有のわらの香りが鼻をさす。そして、その後にはわずかながらも、どこか別世界から漂うような甘い匂いがついてきた。高校生の私にだって、この大人びた匂いを嗅ぐ機会はそう珍しいことではない。でも、やっぱりそれは私には縁のない、遠く離れたところで生活する人の匂いといった感じがした。
「天ちゃんも食べる?」
お座敷の奥には、高級そうなチョコレートにどろりと浸したみたいな色合いをした短い四本足の机があって、その机に向き合う形で、淡い紫色の座布団の上に優月さんが正座していた。そうして、私の方をちょうど見返り美人の構図で振り仰ぐような恰好で声をかけてきた優月さんが、机の上のお菓子の籠の方に手を伸ばす。籠の中には歌舞伎揚げだのミニミニイチゴパイだのちっちゃなブロックのチョコレートだの、雑多なものが和洋の隔てなくうず高く積まれている。その中からおせんべいを三つ取り出して机の上に並べて、薄く微笑んで手招きしてきた。
誘われるままにとてとてと優月さんの方へと駆けてく地香に続いて、私もおずおずとお座敷の中へと足を踏み入れた。
ぼりぼり、ぼりぼり。いただきまーすと歓喜の声を上げて、豪快においしそうな音を立ててせんべいを食べる地香。そんな奔放な私の妹のことを眺めて、優しく目元を綻ばせる優月さん。彼女もまたぼりぼり言わせているけど、その仕草すらもどこか気品に溢れるように私の目には映って、そこはかとない違和感を感じているとは言っても、未だに相当に重度なフィルターを取り去ることができないでいることを改めて痛感させられる。
「どした?具合悪いの?」
机の上に置かれたおせんべいにずっと手をつけずにいる私に、優月さんは怪訝な表情を浮かべて訊いてきた。
「いえ、べつに」
ついつい優月さんからは目を逸らして、にべもない態度を取ってしまう。
すると優月さんは疑念の色を濃くして、そんなに細っこいのにだいえっと?と、見当違いも甚だしい質問をぶつけてきた。
距離を詰めて、私の顔を覗き込むようにする優月さんのことを、真正面から見つめ返す。
整った目鼻立ちは相変わらずだけれど、切れ長の瞳の下は、薄いピンクに色づいている。唇だってそう。溌溂な印象を与えたぽってりした唇は、まるで魔法か何か使ったみたいに引き締められていて、それが私にとっては台無しになったとしか思えなかった。
極めつけは、一番に視界に飛び込んでくる、優月さんの明るい茶色に染められた長い髪。手で梳くと気持ちのよかった黒髪は、違う人のものをそのまますげ替えたみたいに影も形もなくなって、それがとても寂しくて、悲しいことだった。
それでも髪質の方だけは変化しなかったみたいで、座ると猫背ぎみになる優月さんの丸くなった背中に、その輪郭をなぞるみたいにして後ろ髪がへたりと垂れているのは以前と変わらない。
「ちょっとトイレー」
睨み合うみたいにしてお互いを観察し合っていた優月さんと私の膠着状態を解いたのは、地香の場違いに明るい一声だった。
どたばた音をさせながら、お座敷から離れてく地香の足音を見送ってから、もう一度、優月さんと向き直る。
「変わったね、てんちゃん」
ついさっきまでは厳しく目を細めていたわりには、ずいぶんと優しい声音で、優月さんはそう言った。それはこっちのセリフだ、そう返したいのをぐっと堪える。
「なんか見ない間ですっごい大人になっちゃったよね」
この前会ったときはもっと小っちゃかったのに。どこか口惜しそうにしみじみと言いながら、優月さんはそっと私の頭に手を伸ばす。
優しく頭を撫でられて、このくすぐったい感触が、それこそ今の地香と同い年ぐらいの頃に頭を撫でてもらったときと、変わってはいないことに安心した。
「身長の話ですか?」
お互いに座っているのに、なんだかずいぶんとバカな質問をしてしまったような気もする。でも、座高だって学校では測ってないけど、うんと大きくなっているはずだから、あんまり気にすることでもないか。
「それもそうだし、やっぱりなんていうか、落ち着きがでてきたかな」
落ち着き?なんだそれ。外見のことじゃないのか。虚を衝かれた気分にさせられる。
傍から見てのことばかり、優月さんの変化について気になって、身勝手に残念がって、心を乱されている私が、私の内面の成長を見抜いて感想を口にする優月さんよりも、やっぱりずっと子どもなのだということを、まざまざと突き付けられたような気分だった。
「そんなことないですよ」
たまらなくなって、机の上のおせんべいに手を伸ばす。びりびりと包装を破いて、ぽろぽろ欠片が落ちるのも気にしないでばりばりと食べた。
「ああ、もったいない」
心底残念そうにそう言って、優月さんは私の落としたおせんべいの欠片を拾って、ごろっとした大きいものを口の中に投げ入れた。
落ちたやつを食べるなんて、ばっちくて私には到底できそうもない。やっぱり私の方がよっぽど、優月さんよりも分別のある大人をしているんじゃないか。
そう思うと、秘かに沸き立つ優越感に浸ることができた。
優月さんは、大学二年生の私のいとこだ。彼女と最初に出会ったのは私が生まれて間もない頃のことだったから、残念ながら記憶していない。
私が生まれたのは祖父母の住むこの古い日本家屋でのことだったから、親戚一同寄り集まって、私の誕生を祝ったらしい。
なんといっても、母方の祖父母の孫に女の子が生まれるのは、優月さんの次に私が二番目のことだったからだ。
それだけに、私が生まれたとき以上に、優月さんが生まれたときの感動と祝福の度合いというものはひとしおのものだったと聞いた。
母には姉と弟の二人の姉弟がいて、母の姉の方には優月さんの一人娘が、母の弟の方には男の子が二人いた。でも、この冬休みには弟家族の方は帰ってきていない。どうも、男の子のうちの一人がインフルにかかってしまったらしくて、皆に移してしまってはいけないからと、帰省は避けたということだった。
正直言って、私はその知らせを聞いて心を躍らせた。理由はもちろん、優月さんのことを上手くやれば独占できると思ったからだ。
彼女に対して私が尋常でない好意を持ち出したのは、もはやいつからのことだったか、それもまた覚えていない。もしかすると、一目惚れというやつだったのかもしれない。
それぐらい好きでいることが息するのと同じくらい当たり前で、優月さんのことを慕うことにこれまで一度たりとも疑問を抱いたためしはなかった。今となっては、これまではという条件付きになってしまったけれど。
優月さんも優月さんで、私のことを祖父母の家で会うたびに妹みたいな態度でもって接してくれて、かわいがってくれたから、私の方も思う存分、彼女に甘えることができた。
その優月さんと私との関係に、大袈裟なもの言いにはなるけれど影を落とす出来事というのが二度あった。
一つは、妹の地香が生まれたこと。地香は母と父と地香と私と、という限られた家族構成の中で、妹として面倒を見たり、かわいがったりする分にはもちろんいいのだけれど、祖父母の家に来て私が優月さんに甘えようというときには、明らかなライバルとなって私の前に立ちはだかった。優月さん絡みになると地香と私とは、家ではめったにしない喧嘩を、今ではさすがにもうしないけど、二人とももっと幼かった頃には取っ組み合いにまで発展する大きな喧嘩までしたことがあるくらいだった。優月さんにお姉さんを求める習性があるという点で、私と地香とは確かに血を分けた姉妹なのだと、骨身に染みてよく理解できた。
もう一つは、本当にごく最近の話で、というよりもっと言えば今現在進行形の話で、ちょうど一年前の冬休みのときから会えないでいた優月さんが、大学生デビュー?というのだろうかを果たして、私の好意的に思っていた部分を私のあずかり知らぬところで改変して、再び私の目の前に現れたということだった。
本当に身勝手なことだけれど、優月さんの容姿の変化に、私はずいぶんとショックを受けた。もちろん、優月さんの見た目ばかりを好きでいたわけじゃない。それほどまでに、私の恋は百年の恋にも負けないぐらいに、安っぽいものではないという自負があった。でも、やっぱり好きと本能的に、直感的に思わせるのはその人の容姿なのだとつぐつぐ気づかされた。
今の少しばかりメイクして、猫の体毛とかに近い、柔らかい光り方をする茶髪に染め上げられた髪をした優月さんを見ていると、どうしようもない違和感と不自然さが込み上げてきて、私の優月さんを返してよって、身勝手で、傲慢で、わがままで、どうしようもなくお子ちゃまな願望を通したくなってしまう。そんな自分が嫌でしょうがない。
そんな私と打って変わって、私と同じかそれ以上に優月さんにお熱を出していた地香の方はというと、以前と何の変りもなく、優月さんに懐いていて、今日だって冬休みの宿題を手伝ってもらったりしていた。そういう妹を見ていると、自分がとてつもなく卑しくて、愚かな存在のように思えてきて泣きそうになった。
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