ヒルダと憂鬱な戦争

加藤ともか

第1話 科学と魔法の交わる時代

「もしもし、こちら……」

「エリザベート皇后通り、24街区のテオドール・アイゼンシュタットへ。はよ繋がんかい!」

「し、至急お繋ぎ致します…」

 電話を受けて、聞こえてくるのは怒声。こんなのは慣れっこだ。だが、快く感じる筈はない。

 ヒルデガルト・コッホ、26歳。普段はヒルダと呼ばれる彼女は、トメキア帝国の首都フレスブルクで電話交換手をしている。18歳で上京した時、売春と軍との三択で相対的に一番マシだと思って選んだ仕事。電話が普及するに連れ、仕事も忙しくなる一方。今まで上流階級しか持てなかった電話を、庶民まで持つようになった分、質の悪い電話も増えた。

「うるせえな、彼女はもう俺と一緒にいたいって言っているぞ」

「ふざけるな! どれだけ結婚資金使ったと思っているんだ?」

 ヒルダは怒声にひるみ、縮こまる。だがそれに耐えなければいけない。要約すれば、妻が浮気した、だがその浮気の原因は夫の暴力で、浮気相手は妻を庇護ひごしていた、と……。離婚と再婚、慰謝料いしゃりょうを巡って言い争う。そんな聞くに耐えない話を延々と、3時間も聞かされ続けた。

「もういい!」

 何の進展も解決も無い3時間が終わる。ようやく交換台を元に戻せる。手元の懐中かいちゅう時計は午後8時、午後5時に架かってきて、規定の終業時間を2時間も過ぎた。ようやく帰る事ができる。固定俸給ほうきゅうだから、2時間過ぎた事に対しても、精神的苦痛に対しても何の補償も無い。なんて酷い話だ。


「はぁ、最悪だ」

 外は暗い。ヒルダは疲労ひろう困憊こんぱい。もう路面電車に乗る体力も無い。そんな時は、空の運び屋に頼もう。値段は張るが、混み合う地上をスルーして目的地までひとっ飛びだ。

「あのー、すみません」

「お呼びですか?」

 空の運び屋、乗合箒。魔箒まそうの後ろに乗って、連れて行ってくれる。箒に擬態ぎたいした魔物である、魔箒を操り飛べるのは女性だけ。古来、魔箒を操り空を飛ぶ女性を魔女と呼んだ。当然乗合箒の御者ぎょしゃも女性だ。ヒルダよりも一回りくらい年上の、妙齢みょうれいの女性であった。

「市電のパトル停留所までお願いします」

「了解。落ちないように気をつけてね〜」

 こちらが年下とは言え失礼な奴、とヒルダは感じた。御者はメーターを取り出し、ボタンを押す。数字がゼロになったら飛び立つ。失礼な奴だが、腕は確かだ。バランスを一切崩す事無く、颯爽と空を翔ける。気持ち良い! 空から見える景色は壮観。陰鬱いんうつな仕事場、電話交換局も小さな箱のようだ。10分もあれば目的地に着く。市電だと道が混んでいない時でも30分はかかるのに。だが……その代償も大きい。

「では、278ゴルトを……」

 分かっていた事だが、高い。日給が600ゴルト、それでギリギリの生活を送る。278ゴルトは半分近い。市電なら定期券を持っているのに、疲れて乗りたくないとワガママ言っていたらこのザマだ。ヒルダは青ざめながら、財布から100ゴルト紙幣を3枚出す。御者は22ゴルトの釣銭を渡すと、飛び去っていった。

「はぁ……」

 ヒルダは溜息をつくしか無かった。憧れていた華やかな都会生活。20代も後半になった頃は既に結婚して、子供も産んで、花屋とかお菓子屋とかで働いている……ここに来た時はそう思っていた。それが、どうだ。理不尽に耐えて、耐えて、ギリギリの生活だ。ボロボロの集合住宅の階段を上がる。蜘蛛くもの巣が張って、無機質なコンクリートに所々ヒビが入り、実にみすぼらしい。

 普段住む部屋に戻ると、そこはゴミが散乱した汚い部屋。ずっと前の食べかけのパンが腐ってハエがたかる。捨てるのは一瞬、なのに捨てる気力が起きない。腐ったパンの横には、後で読もうと放置していた書類が山積みだ。何年も読んでいないものすらある。その一番上が、後で免除申請をする為に大切に取っておいた兵役へいえきの通知だ。

「兵役……?」

 ヒルダは兵役の通知を持った。この国、トメキア帝国では18歳から40歳までのどこかのタイミングで、全ての臣民しんみんに1年間の兵役が義務付けられている。拒否すれば当然、罰則がある。

 ただ、女性に関しては規則が緩い。妊婦もしくは15歳以下の子供がいる場合、免除される。ヒルダはこの歳で妊娠すれば、丁度生涯免除になる。平時では、殆どの女性は一度も兵役に行く事は無い。ただ――

「……行くか」

 ヒルダは静かに決心した。理不尽に耐えて身をすり減らし、ギリギリの生活を送るくらいなら兵役に行った方がマシなのではと。あのような話を聞いてしまえば、もう結婚生活など希望が持てない。

 些細な揉め事はあるが、世界の国々は貿易を通じた相互依存で結ばれており、各国の君主は血縁で結ばれている。トメキア帝国皇帝と、最大の貿易相手国で世界の覇権はけん国でもあるアルビオン王国の国王とは従兄弟同士だ。更に東の帝国、ルテニア帝国の前皇帝ともそうで、現在のルテニア皇帝の異母いぼ弟と東の島国、秋津あきつ皇国こうこくの女皇は婚約者だ。戦争なんてやるメリットも無い。事実、列強国同士の戦争は15年前の秋瑠戦争を最後に起きていない。世界が貿易と婚姻こんいんで結ばれた、平和な時代だ。だから――

 ヒルダは兵役に行く事を決意した。グラズ暦825年、6月15日……自らを待ち受ける恐ろしい運命を知らぬまま……。

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ヒルダと憂鬱な戦争 加藤ともか @tomokato

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