エンタメ短編「遅い青春の色」

木村 瞭 

第1話 「ねえ、あなた、中国へ行ってみない?」 

 紗由美の主催する「奥井手芸教室」は繁盛していた。

週に火、木、金、土の四日間、午前と午後に分けて開かれているのだが、いつも生徒は一杯に溢れるほどであった。今もパッチワーク、フランス刺繍、スモック編み、子供服のアップリケなど十五、六人が作業を行っていた。

 この手芸教室の評判が良い理由は、生徒が何でも作りたいものを教材にして、紗由美の指導を受けられると言う点であった。

母親が経営している「奥井手芸品店」の一隅で教室を始めた頃は火、木、土の三日間しか開いていなかったのだが、多くの生徒が集まるようになって金曜日にも開催することになり、今では地元新聞社のカルチャーセンターで水曜の午後にも教えるまでになっている。

幼い頃から母親の手解きを熱心に受け、それに紗由美自身の感性が加わって、評判を呼ぶようなものが創り出せるまでになっていた。

 午後の四時が教室の終了時刻であるが、生徒は切りの良いところまで好きなように残って作業を続けるので、なかなか定刻に終わることは無い、が、それでも五時には全員が帰って行った。

紗由美はほっと一息吐いてキッチンのテーブル椅子に腰掛け、ポットからお湯を注いでインスタントコーヒーを一口啜った。

二口、三口飲んだところで携帯がプルプルと鳴った。

「もしもし、紗由美?わたし・・・圭子」

電話の相手は沖田圭子だった。圭子とは女子大の付属高時代からの親友である。彼女は大学を出た後、新聞社に勤め、今はファッション専門誌の編集に携わっている。紗由美より一つ年上の三十二歳だが、彼女も紗由美と同じように独身であった。マスコミで生きている所為か行動的で舌鋒は鋭いが、腹の中はお人好しで涙もろく、さっぱりした性格である。

「ねえ、あなた、中国へ行ってみない?」

「何よ、いきなり・・・」

「あなた以前、中国へ一度行ってみたい、って言っていたでしょう?」

「ええ、そりゃ、まあ・・・」

「ちょっと急ぐ話なのよ、今からお邪魔しても良いいかしら?」

「そりゃ、構わないけど・・・」

紗由美は友人を迎える為に台所に立った。二、三品のお惣菜を手際よく作り冷蔵庫にワインとビールが冷えているのを確認した。

 小一時間もすると表にタクシーが停まった。紗由美が玄関に出ると、圭子が左手に果物や野菜の入った籠を抱え、右手に紙袋を下げていた。

リビングに座ると直ぐに圭子は紙袋を開けた。出て来たのは外国旅行のパンフレットで、今までに彼女が何度か持って来たのと同じ旅行会社のものだった。圭子はこれまでにその旅行会社のツアーに参加してハワイや香港などに出かけている。その都度、紗由美も誘われたのだが、母親が入院したり、自分がインフルエンザに罹ったり、手芸を教えている生徒の結婚式に招かれたりして、行きそびれた。

圭子が拡げたパンフレットの表紙には「夢拡がる中国」と大書してあり、その下に万里の長城の写真が印刷してあった。旅行コースは何種類かあるが殆ど北京と上海が含まれていた。

「あなた、上海へ一度行ってみたい、って言っていたじゃないの」

紗由美は子供の頃、上海に住んで居たことがある。商社マンだった父親の転勤に伴って家族皆で上海に移り住み三年ほどを過ごした。帰国したのは小学校へ上がる直前である。幼児だった紗由美の記憶に残っている上海の思い出は、ブーゲンビリヤやハイビスカスの花の咲いている庭とか、母に連れられて行ったサーカスとか、のんびりと愉しかったことばかりである。で、以前、圭子から誘われた時に、上海へ行けたら行ってみたい、と思うままに口にしたのだった。

「実を言うとね、このツアーに二人だけ欠員が出来そうなんだって」

予め申し込んでいた客が出発間際になって、急に病気になったり、家庭の事情などでその旅行をキャンセルすることがある。

「もし、代わりに参加してくれれば、相応の便宜を図る、って言われたのよ」

コースは上海に始まって杭州、西安、北京で旅程は十日間、費用は五十万円少々であった。

「今月の終わりじゃないの」

「そう、だから、旅行社も焦っているのよ」

「あなたは行くのね?」

「私は勿論、あなたが行くのなら行く心算よ」

十月末の北京はもう寒いから合いコートを持って行くように言われた、と圭子はもうすっかり旅行気分になっている。

紗由美は圭子に食事を勧め乍ら考えた。

確かに上海だけは一度行ってみたいと思う。無論、二十五年近くの歳月が経っているのだから、昔日の面影は残っていないかも知れないし、幼児のうろ覚えでは我が家がどの辺に在ったのかも分らないだろう。

「迷ってなんか居ないで行こうよ、ね、一緒に」

「そうね、行ってみようか、二人で」

「そう来なくっちゃ!」

それで中国旅行は決定した。

 翌日に旅行会社から係員がやって来て慌しくパスポートの申請に飛び回ってくれた。何しろ、出発まで三週間も無いのだった。

手芸教室は、旅行中は休みにすることにして、紗由美は中型のスーツケースにセーターやパンタロンを詰め始めた。

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