競馬場線の学級委員

佐名川千種

火曜日

 ――よかった。今日はいてる。

 大森おおもり天也てんやは胸の内でほっと息をついて階段を降りた。階段の先にある電車のホームにはほとんど人はいなかった。天也が向かった一番線ホームは、京王けいおう競馬場線のホームだ。競馬場線とは、この東府中ひがしふちゅう駅と府中競馬正門前駅とを結ぶ一駅だけの短い電車の路線で、その名前のとおり、府中競馬場へのアクセスに使われる電車で、週末の競馬開催日には大勢の競馬ファンでごった返す。

 天也は毎日この電車に乗っている。別に天也が毎日競馬場に入り浸るギャンブル中毒者だというわけではない。そもそも天也はこの春に高校に進学したばかりの高校生だ。それならば高校生にして競馬場に入りびたる不良者か。天也の顔つきが悪人面あくにんづらなせいか、勘違いをされて補導されかけたこともあるが、決してそんなことはない。単に府中競馬正門前駅が自宅の最寄りで、通学のために競馬場線の電車を使っているというだけだ。

 ――俺はやっぱり、人混みは嫌いだ。

 一番線のホームに立って、線路の向こう側にあるホームに目をやる。京王線の下り電車が停まる二・三番線のホームは夕方の帰宅ラッシュの人であふれていた。ホームに停まっている電車の窓は白く曇っていて、混雑した車内がいかに蒸し暑いのかが手に取るようにわかる。あんな電車の中に入ったら、天也はあっという間に息をつまらせてしまうだろう。

 チャイムが鳴った。

 天也が顔を線路の先に向けると、天也が待つ一番線のホームに電車がゆっくりと近づいてきていた。都内の路線には似つかわしくない二両の短い電車は静かにホームに停まってドアを開け放った。電車から降りてくる人もほとんどいない。天也は電車に乗りこんで、誰も座っていない七人がけのロングシートの真ん中に腰を下ろした。

 見回すまでもなく、電車の中はガラガラだ。夕方のラッシュ時間帯であっても、平日の競馬場線の電車に乗客はいない。唯一の駅である府中競馬正門前駅のまわりには、競馬場を除けば住宅街しかない。商業施設もないし、他の路線に乗り換えられるわけでもないから、競馬のない平日は近くの住民くらいしか使う人はいないのだ。だから、短い二両編成でもガラ空きなのだ。

 ――昨日が異常だったんだ。この電車はこうでなくちゃ。

 天也はもう一度ため息をついた。昨日の夕方の混乱を思い出したのだ。

 昨日の夕方、天也が東府中駅から競馬場線の空いている電車に乗り込もうとしたタイミングで、京王線で人身事故があった。そして東府中駅で足止めを食らった人たちが振替輸送を求めて競馬場線の電車になだれ込んだのだ。二両しかない電車に十両分の乗客が乗り込もうとしたのだから、大変な混雑になるのは火を見るより明らかだった。混雑した電車に慣れていない天也は、満員電車のつらさを嫌と言うほど味わった。

 ――もう、あんな混雑はこりごりだ。

 思い出しただけで息が詰まりそうになった。天也は深く息を吸い込んだ。それと同時に、電車のドアが閉まって動き出す音がした。

 天也は電車の進む方向に顔を向けた。乗り物に弱い天也にとって、横を向いたロングシートの電車は相性が悪い。こうやって前を向かないとすぐに酔ってしまう。

 ――ん?

 天也の目に、不自然な光景が飛び込んできた。そこではためいていたのは、明るい色のセーラー服だった。白地にかかった水色のえりまぶしく光っている。天也の通う高校の女子の制服だ。

 その制服を着た少女は吊り革につかまって立っていた。そして、もう一方の手に持った本をじっと見つめていた。見てのとおりこの電車にほとんど人は乗っていない。彼女の立つ目の前の席は空席だ。それなのに彼女は席に座ろうとしない。いかにも不自然だ。

 そしてその少女の横顔を見た天也は、不自然だと思う気持ちをさらに募らせた。天也の見知った顔だった。梶原かじわら静子しずこ。天也のクラスで学級委員をしている女子だ。校則どおりに一分いちぶの隙もなくしっかりと制服を着こなしている。悪人面の天也ならともかく、見るからに優等生オーラを放っている静子は、やはり競馬場線という電車には不釣り合いだ。

 ――委員長、どうしてこんなところに? 委員長って、ここらに住んでるっけ?

 天也は首をかしげた。府中競馬正門前駅の近くに住んでいるのならば、小中学校が同じだったはずだ。けれど天也の中学校に静子のように絵に書いたような優等生がいたという記憶はない。おそらく別の中学校の出身だろう。

 自宅が最寄りでないのならば、競馬場に用事でもあるのか。いや、それこそありえない。学校帰りに制服のまま競馬場に行く学級委員がいてたまるか。

 ――どういうことだ?

 天也はじっと前を見続ける。幸いにも静子は手にしている本を見つめたまま顔を動かさない。自分が見られていることに気付いていないようだ。

 やがて、電車は駅についた。ドアが開くのと同時に、静子は本をカバンにしまって外に出た。天也も後を追うように外に出る。府中競馬正門前駅のホームは二両編成の電車に似合わずとても広い。競馬開催日の混雑に合わせた広さなのだろうが、ガラガラな平日にはあまりにもオーバースペックなホームだ。そのホームを静子は早歩きで進んでいく。

 ――足早いな、委員長。急いでるのか?

 天也に静子を追う理由はない。けれど、この駅の改札口は一つだから、天也は静子の向かった方についていくしかない。あまり近づきすぎて不審に思われても良くない。天也は静子から距離を取ったまま改札口の方へと向かった。

 静子がリュックの脇にぶら下がっている定期入れのチェーンを伸ばして、Suicaを改札にかざしたのが見えた。天也の目が改札口のさらに先に向けられた。改札口を抜けた先には、すぐ正面に競馬場の正門がある。天也は一度足を止めて、先を行く静子の動きに注意を払った。……静子は正面には向かわずに右側へと進路を取った。

 ――まあ、そうだよな。委員長が競馬場に行くわけないよな。

 天也はホッと息をついた。それと同時に、静子が競馬場に行くのではないかとなぜか不安になっていた自分がいたことに気付いた。単なるクラスメイトでしかないし、まともに話をしたこともない相手の挙動にどうして心配したのか。

 天也はポケットからPASMOの定期券を取り出して改札にかざした。そして改札を出て道の所まで出て右を向く。早歩きの静子の背中がかなり遠くにあった。昨日は振替輸送のサラリーマンであふれかえっていたこの道も、今は静子の姿しか見えない。

 駅を出て右に進むとしばらくは住宅地だ。十五分ほど歩いた先に大國魂おおくにたま神社があって、神社を通り抜けた先に府中の市街地がある。そこへ向かっているのだろうか。けれど、神社や市街地に用があるのなら、京王線の府中駅や、JRの府中本町駅の方が近い。わざわざ競馬場線を使う理由はない。考えれば考えるほど、不思議に思う気持ちは募っていく。しかし天也は、小さく咳払いをして心の中ではっきりと呟いた。

 ――俺には関係のない話だ。

 右へと伸びる道を見ていた天也は反対を振り返った。左に続く道は小さな車がやっと通れるほど狭く、通じる先には住宅地しかない。

 自宅へ向かう狭い道に歩みを進めながら、天也は眉をしかめた。

 ――でも気になる。どうして委員長はこんな所に来たんだ……

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