第9話:吹き荒れる呼び笛、歪む英雄の誓い
紫の花びらが、しとしと音もなく森の地面に落ちていく。
それはまるで血に染まった雪のようでもあり、甘い香りをまき散らす毒のようでもある。
アキラは震える両手で“呼び笛”を握りしめ、深く息を吸った。
「……これで、ほんとに操れるんだな……」
声はかすれていた。周囲には仲間たち――衛兵やガルド、ユウェル僧侶が
魔物は十数匹。大型のリーダー格を筆頭に、今しがた猛攻を仕掛けようとしていたところだ。だが、笛を一度吹いたことで、彼らは奇妙に動きを止めている。
まるで、戦か逃亡かを迷っているような不安定な挙動。獰猛な赤い瞳はまだ敵意を宿しているが、先ほどのような突進には至らない。
もし、この呼び笛を再び吹けば、一気に魔物を意のままに従えられるかもしれない……。
しかし、“黒いコートの男”の言葉が脳裏にこびりついていた。「代償はあなたの欲望」――一体、何を失うのだろう。
目を伏せようとするたび、商人のあの
◇ ◇ ◇
「とにかく、今のうちに逃げるか、仕留めるか……どうする?」
ガルドが苦しげに訊ねる。斧を杖のようにして体を支えながら、その目はアキラを見つめている。
周囲の衛兵らも、痛ましいほどの傷を抱えながら、呆然と立ちすくんでいた。撤退すべきか、ここで踏ん張って戦果を上げるか――どちらが正しい選択なのか分からない。
アキラは呼び笛を眺めつつ、喉を鳴らす。
「ここで逃げても、また奴らが町の方へ流れて行ったら大変だ。バルトに説得材料を見せるなら、やっぱり倒すべきか……」
仲間たちの顔が引き攣る。衛兵リーダーが「まさか、
(スラムの住人が、あの領主代理バルトに苦しめられないためには、ここで俺が成果を出さないと……)
そのとき、ユウェル僧侶がか細い声で言う。
「でも、アキラさん……いくらその笛で動きを制御できるかもしれないっていっても、すべてを完全にコントロールできるかは……危険すぎるような……」
その心配は
しかし、それを聞いた瞬間、アキラの内側で声が囁く。
――今こそ、もっと強く願え。おまえは英雄になりたいのだろう?
脳裏にまざまざと“黒いコートの男”の笑みが過る。欲望を増幅させるような、不気味な熱が体を巡る。
「俺なら……できるはずだ……」
そう呟き、アキラは膝を曲げ、呼び笛を口に押し当てた。
甘い風が鼻孔を満たし、紫色の残像が視界に浮かぶ。心臓の鼓動が耳元でドクドクと波打ち、口から血の味がにじむ。
――それでも、吹き込まれる息には“強い意志”が宿っていた。
“ぴいいい……”
先ほどよりもはるかに力強い旋律。笛の彫刻が薄黒い
「おお……?」
ガルドが息を呑む。衛兵たちが後ずさりながら見守る。ユウェル僧侶は立ち上がれず膝をついて様子を凝視している。
すると、リーダー格の大型獣が、抵抗するように牙を剥いて吼えたが、その後、急に前脚を折り、体を低く伏せた。まるで服従のポーズにも見える。
他の獣たちも次々と頭を下げるようにうめき声を上げ、動きを止めた。連動するかのように唸り声が薄れ、殺気が
「まじか……本当に、操れるのか……」
誰かが言葉を失い、声にならない驚愕を浮かべる。アキラは叫ぶように願う。(もっと、もっと従え!)――そして、一瞬だけ魔物たちの目に紫の光が揺らめき、完全に大人しくなる。
◇ ◇ ◇
「す、すげえ……おい、アキラ、なんなんだそれは……?」
ガルドが恐る恐る近づいてきた。衛兵たちは信じられないという顔で、大型獣の背後に回り、いつでもとどめを刺せるよう警戒しているが、今のところ魔物は微動だにしない。
アキラは呼び笛を握りしめたまま、呼吸を荒くしている。「正直、分からない……ただ、契約……みたいなもんだ……」
自分で口にしていても曖昧だ。黒いコートの男と何を取り決めたのか、詳細は何も分からない。ただ“あとで欲望を回収する”という曖昧な合意だけで、こんな力を手に入れてしまった。
仲間たちが唖然としている中、アキラの胸には高揚感が沸き上がっていた。
(すげえ……俺、魔物を支配してる。こんなチートみたいなこと、まさか本当にできるなんて……!)
同時に、胸を締め付けるような不安と恐れもあった。
(代価は、俺の“欲望”か。そんなのを失ったら……どうなる?)
◇ ◇ ◇
とりあえず、この魔物たちを完全に倒すか、利用して町へ連れていくか……決断しなければならない。
衛兵リーダーが「領主代理バルト様の命令は“一掃”だった。ここで殺すしかないだろう」と提案する。ガルドも「殺したほうが安全だ」と言い、仲間たちはうなずく。
(確かに、ここで討伐して手柄を立てれば、バルトとの交渉も容易になる。けど……)
アキラは視線を魔物の赤い瞳へ向ける。今は大人しいが、苦しげにうめいている個体も多い。勢いに任せて殲滅するのは簡単だろうか。
(いや、実は利用価値があるかもしれない。戦力として手懐ければ、魔物を倒す以上の成果が……でも危険すぎるか?)
ユウェル僧侶が地面に座り込んだまま、息を吐く。「これ以上の戦闘は、私の魔力も限界ですし……できれば楽に片付けたいです」
みんな疲弊しているし、続行は難しい。だがアキラの中で、何か別の考えがうずく。
(この笛で魔物を都市に連れ帰って、バルトに逆らうという選択肢さえ可能かも……?)
あまりに途方もない妄想だ。ここで決断を誤れば、魔物がまた暴れ出し全滅、最悪の結末が待っている。
アキラは眉を寄せ、呼び笛を見下ろす。
(俺が望めば、魔物は従う――そういう力だ。でも、どこまでいける? 負担はどれくらい?)
頭が熱を帯び、甘い香りに酔うようだ。仲間たちは討伐を急かしているが、アキラの心は揺れている。
**“どうしたい? 英雄への道があるぞ”**と、幻聴のように誰かが囁く。商人の声か、自分の内なる声か分からない。
◇ ◇ ◇
決断を下す前に、突如、魔物のうちの一匹がブルッと震えた。笛の支配が揺らいだかのように、うめき声を上げて暴れだそうとする。
「おい、崩れるぞ! 早く仕留めろ!」
衛兵リーダーが声を張り上げ、仲間が一斉に剣や槍を振り上げる――。
咄嗟にアキラは呼び笛を吹こうと口へ運んだが、喉が詰まってひどい痛みが走る。頭がズキリと震え、笛を落としかける。
(力を使うたびに、何か……代償が……?)
その一瞬で、衛兵たちが獣の頭部や胴体に槍や剣を突き立てていく。魔物が悲鳴とともに血を噴き、地面に崩れ落ちる。倒れた死骸を見て、他の魔物たちが再び威嚇しようと身を動かすが、笛の効果か、完全な暴走には至らない。
ガルドが「このまま全部狩るか……おい、アキラ、耐えろよ!」と檄を飛ばす。仲間たちは勝ちを確信しているのか、次々に止めを刺そうとする。
だが、アキラは胸の奥に冷たい鉛を感じる。満身創痍の魔物たちをただ虐殺する行為――それが領主代理のためかと思うと、虚しい。
けれど、このままにしておけば町へ襲いかかるかもしれない。道徳と現実が相反して脳内でせめぎ合う。
アキラは結局、強く歯を食いしばり、一匹の魔物の首筋へ剣を差し向けた。これが俺の選択なのか――という反射的な思考に胸が痛む。
(でも、俺に選べる道はこれしかない。英雄気取りで甘い理想を語っても、人は救えない……!)
刃を振り下ろす直前、魔物の瞳がこちらを見た気がした。血の色に染まった瞳。それが懇願のようにも映ってしまい、剣の振り下ろしが一瞬だけ鈍る。
ガルドが声を荒げる。
「アキラ、やれ! ここで情に流されたらこっちがやられる! あいつらは獣なんだ、慈悲をかける相手じゃない!」
その言葉に覚悟を決め、アキラは勢いよく剣を突き立て――魔物の息が途切れる瞬間に、胸の奥が焼けるように苦痛を感じた。
“これが……俺の選択?”
同時に、呼び笛がかすかに音を鳴らしたような気がする。紫色の花びらが数枚、ひらひらと散って地面を汚す。
◇ ◇ ◇
そうして、群れの大半を討伐し、残り数匹は逃げるように森の奥へ姿を消した。大きなリーダー格も、瀕死の状態となり、衛兵たちが一斉に槍で突き殺した。
血の海となった空き地に立ち尽くす仲間たち。誰もがボロボロだが、一応“勝利”だ。
アキラの剣からはまだ魔物の体液が滴り落ち、呼び笛がカタカタと微かな振動を発していた。
衛兵らは手応えを感じて喜ぶが、内心には戦慄が見え隠れする。“転生者”が突然不思議な道具で魔物を制御し、討伐を成功させたのだから。
ガルドがアキラの肩を支えて言う。「おまえ、すごいもん持ってるな……なんでそんな力……」
その問いに答えられず、アキラは目を伏せる。甘い風が消え去った今、体が重く頭が割れるように痛む。
ユウェルが回復を試みるが、「傷じゃない……魔力的な問題なのかしら」と困った顔をしている。
(そりゃそうだ。さっきまで呼び笛で魔物を支配するなんて、通常の魔力の枠外だろう……俺は何を手にしてしまったんだ?)
◇ ◇ ◇
それでも結果は出た。
衛兵の一人が「これで領主代理バルト様に顔向けできるぞ……」と安堵の息を吐く。スラムの救済も進むかもしれない。何より、自分の“活躍”が認められるなら――。
アキラはその期待感を思い出して、複雑な笑みを浮かべる。この力は危険だが、町を救えるかもしれない。
(代償……いずれ訪れる代償って何だ? 商人は“欲望をいただく”と……)
考えても答えは出ない。今は仲間の怪我と死体の処理、報告の準備が優先だ。
「……とりあえず、魔物の討伐証拠に角や牙を持ち帰る。大型の個体も解体して、領主代理に見せりゃ文句は言わせないはずだ」
衛兵リーダーが声を張り、皆が動き始める。ガルドも斧を振り上げて、獣の遺骸から部位を切り出す作業を始めた。
アキラも体の震えを抑えながら剣を握り、助力する。次々に落とされる牙、血が舞い散る惨い作業だが、これが“成果の証”になる。
(英雄は、こんな地味で
胸の奥で苦笑する。呼び笛を腰のポーチにしまいつつ、体をなんとか動かす。まだ腕が震えるが、意地を張るしかない。
◇ ◇ ◇
“商人”の姿はもうない。
紫色の花びらも風に散り、甘い香りも薄れゆく。だがアキラは不吉な影を拭えない。必ずあの男は、また姿を現すだろう。
(欲望の代償か……何が起こる?)
思考が堂々巡りするが、今は無事に町へ戻って報告を済ませることが先決だ。
アキラが深い息をつくと、ガルドが大きな袋に魔物の角や牙を詰め込み、「さあ、帰ろう」と声をかける。衛兵たちも傷だらけの体を引きずりながら合流し、足早に森を出る準備を整える。
ユウェル僧侶が「何とか全滅は免れた……でも、こんな激戦になるとは思いませんでした」と呟き、肩を落とす。
アキラは仲間たちを見渡し、「ごめん、俺の力……説明できるほど分かってないけど、助かったよ」と苦笑する。皆が複雑な表情を見せつつも、そこに責める色はない。むしろ少し恐怖と尊敬が混じった空気だ。
(でも、もしあの男の力がなければ、俺たちは全滅していた。喜ぶべきか……恐れるべきか……)
◇ ◇ ◇
森を出る頃、薄曇りの空がかすかに夕陽を映し始めていた。
走り抜けた戦いの激しさを思い出すと、現実感が薄い。いっそ、夢だったと言い聞かせたいが、血の付いた剣と呼び笛がそれを否定している。
仲間たちは口数少なく、町への帰路に就く。
アキラの胸には、熱い高揚感と底知れぬ不安が同居する。“商人”の声が耳の奥でリフレインするたび、意識が揺れ動く。
(この力で町を救えるかもしれない……でも、俺はいつか欲望を失う? その時、俺は何になる?)
大きな問いを抱えながら、それでもアキラは前を向くしかない。
バルトとの交渉、スラムの救済、商人との不可解な契約――すべてが交錯する中で、彼はヒーローになりたいという自分を裏切れない。
森の闇の遠方で、紫色の花びらが舞い、甘い香りが一瞬強まったような気がした。だが、仲間は誰も気づかない。
アキラは呼び笛を懐に押し込み、歯を食いしばるように歩く。帰ればまた、泥沼の町でさらに行動を迫られるだろう。バルトは当然、さらなる要求をしてくるかもしれない。
そして、黒いコートの男――いつ欲望の回収を行うのか。
疑問と不安を胸に、アキラはヴェニラの町に戻る足取りを早めた。
(第9話:吹き荒れる呼び笛、歪む英雄の誓い・了)
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