花の溺愛

松たけ子

花の溺愛

 お見合い相手と聞けば、連想されるのは顔も知らぬ異性だろう。

 カメラが存在する世界であれば写真で顔を確認出来るだろうが、今私がいる場所はカメラが存在しない異世界だ。

 故に、相手の顔はもちろん、髪の色や声、背格好なども謎のまま。

 これぞ元祖お見合い。気分は中身の分からないガチャを引く一歩手前だ。

 とはいえ、これは形だけのお見合いらしく、言わば互いの体裁を保つためのもの。

 顔を合わせて、ちょっとお話しして、はいさようならで済ませていいというお達しだ。

 なので気楽にガチャを楽しめる。

 どんな顔をしているんだろう。声は渋めがいいなあ。穏やかな人だといいけれど。などなど。

 結婚する気もないくせに実に呑気に構えていたのである。

 つい数分前までは。

「…………」

 私の目の前にはそれはそれは愛らしい天使が座っている。

 否、天使のように美しい少女だ。

 もう一度言う。美少女だ。美少女がお行儀良く私の目の前の席に座っている。

 艶やかなチョコレートブラウンの髪。紫水晶の瞳は神秘的な輝きを放ちながら私を見つめている。

 この日のために気合を入れて用意したと一目見て分かる華奢なドレス。ウィスタリアカラーの生地に白いフリルがふんだんにあしらわれていて、可憐な少女によく似合っている。

 ここがお見合いの席でなければ思う存分堪能したいほど美しく、まさに目の保養。

 ——なんだけど……。

 紅茶を飲みながらチラリと目線を前に向ける。

 同じように紅茶を飲んでいた美少女と何故か視線が合い、にっこりと微笑まれた。

 美少女様、その席は認識が間違っていなければ私の本日のお見合い相手が座るはずなのですが……?

 困惑する私をよそに、美少女の隣に控えていた従者が厳かな声で告げた。

「アオイ様、こちらがトロイエ帝国第二皇女ガルデニア・テレーズィア・フォン・トロイエ殿下です」

 美少女が悠然と立ち上がり、優雅にお辞儀をする。

「ご機嫌よう、アオイ様。本日はよろしくお願い致しますわ」

「……ご機嫌麗しゅう、殿下」

 花も恥じらう微笑みを浮かべる美少女。

 現実に追いつけない頭をフル回転させる私。

 窓の外で鳥が穏やかに囀っている。

 平和だ。実に平和だ。この部屋以外は。

 私は顔を引き攣らせながら、叫びたいのを必死に我慢した。

 

 いや、お見合い相手が美少女は流石に予想できなくない⁉︎

 

 

 事の発端は遡ること昨日——。

「へ? ……今、なんと?」

 それはいつも通り仕事をしていた時のこと。

 上司兼養父のフォーゲルさんが書類を捌きながら明日の天気は晴れだそうですよというノリで話しかけてきたのだ。

 私は聞こえてきた単語に思わずペンを握り潰しかけた。

「ですから、お見合いですよ。明日の正午から。くれないの間で」

「……誰が?」

「貴女が」

「……誰と?」

「さあ?」

「いやいやいやいや!」

 知らんけど? みたいな顔で言われてしまい思わず机から身を乗り出してしまった。

「さあ?ってなんですか! 養子とはいえ私、貴方の娘ですよ? 娘の結婚相手を知らないってどういうことですか」

「でも貴女成人してますし」

「ここに来てまだ二年しか経ってない新米です! 二歳児と一緒!」

 そう。ここは私——三神みかみ朝生あおいが二十八年間生まれ育った二十一世紀の日本ではなく、英歴えいれきという馴染みのない年号を使う異世界なのだ。

 私はある日突然、双子の弟と共にこのトロイエ帝国に召喚された。その後のことは割愛するが、まあなんやかんやあって弟は近衛騎士に、私は宮廷官僚長筆頭補佐官とかいう職に就くことになったり、フォーゲルさんが当主を務めるベレーゼンハイト家の養子になったり……そこらへんの話はまあ追々するとして。

 今大事なのは私の人権だ! ……この世界に人権って概念ないけど。

 猛抗議する私にフォーゲルさんは無慈悲に言い放つ。

「それとこれとは話が別でしょう。大丈夫、貴女なら上手くやれますよ」

「いや、信頼は嬉しいですけど今はしてほしくないです」

「それに、嫌だったら断ってくればいいんですよ。結婚しませんって」

 予想していなかった台詞をあっけらかんと言われて思わず瞠目した。

「え、断っていいんですか?」

 こういうのって断ったら面子潰されたとかで報復されるんじゃないの……?

「当家に喧嘩売れる輩なんて皇帝陛下だけですよ。ベレーゼンハイトと戦争したいという人がいたら別ですけど」

「……流石、皇族の次に偉い家その一。なんで官僚長なんかやってるんですか」

「趣味です。あと、貴女の世界でどうだったかは知りませんせけど、この国じゃお見合いを断ること自体良くある話ですよ」

「おおふ……文化の違いって怖い……いや、でもマチアプとかもそんな感じって聞くし……そんなもんなのかしら? いやでもこの世界の時代設定って近世っぽいし……」

「まちあぷ?」

「ああ、いえ、なんでもないです」

 要らぬ知識を教える必要はなし。昔、日本にいた頃の後輩が使ってるという話を聞いただけで私もよく知らないし。

 これ以上話す気はないという空気を悟ったフォーゲルさんは特に深く気にすることもなく書類を捌く。

「まあ、とにかく、明日の正午ですから。いってらっしゃい」

「そんなお茶会に送り出すみたいな軽さで……」

「似たようなもんでしょう。ほら、分かったら次の書類確認してください」

「私の意思は無視ですか……あー、もう! 分かりましたよ。行けばいいんでしょ行けば! 行きますよ。正装でいいんですか?」

「ええ、問題ないかと。くれぐれも失礼のないように。まあ、貴女なら大丈夫でしょうが」

「美味しいお紅茶でも飲みながらやり過ごします」

「貴女、結婚願望とかないんですか?」

「今のとこは特に。メリットもありませんし」

「結婚はメリットでするものではありません。愛でするものです。私と妻の時は……」

「はい、追加の書類です」

 実は愛妻家のフォーゲルさん。奥さんとの馴れ初めや惚気が始まると仕事を強制終了させてしまうのでその前に止める。

 休みの時ならいくらでも聞きますから。

 この時の私は「まあ、会うだけならいっか」と流し、目の前の書類に忙殺されていった。

 

 それがまさか……。

 

「アオイ様はお休みの日は何をなさっているのですか?」

「えーと……読書とか化粧品の研究とか……」

「まあ、化粧品の? そういえば、侍女たちがアオイ様のお作りになる化粧水はとても良いと話しておりましたわ。今度、わたくしにも見せてくださいな」

「は、はい……」

 ——皇女殿下とお見合いだなんて思わないじゃないっ!

 しかも、ガルデニア殿下は文武両道の才媛。特に魔術における能力の高さは国でも一、二を争うほど。お人柄もよく、天使のような美貌も相まって内外問わず人気のあるお方だ。

 ——そんな方と私がお見合いって、どんな手違いが起こったらあり得るの⁉︎ というか、フォーゲルさん絶対知ってたでしょ! 騙された!

 フォーゲルさんの馬鹿あ!と心の中で泣き叫びながら殿下と会話していく。

 仕事柄、皇族の方と仕事の話をすることはあれどこうして個人的な話をする機会なんて今までなかったから緊張が凄まじい。

 何を無礼に思われるか分からない。言葉選びは慎重にしなければ……!

「アオイ様」

「はいっ」

 思考の渦を止めるように可憐な声が私の名を呼ぶ。

 思わず力んで返事してしまったせいか、殿下が申し訳なさそうに眉を下げた。

「……申し訳ございません。急にこのような席を設けてしまって。でもわたくし、どうしてもアオイ様にお会いしたくて……」

「そんな……って、え?」

 設けてしまって? お会いしたくて?

 まるでその言い方だと殿下の方からこのお見合いを計画したみたいな……。

 私の疑問を察せられたのだろう。ガルデニア殿下は表情を蕩けさせながら答えてくださった。

「今回のことは、わたくしから皇帝陛下に進言致しました。アオイ様と結婚したいと」

「は……」

 ——はいいいい⁉︎

 とんでもない事実に冷や汗が額を伝う。

「な、なぜ……?」

「一目惚れですわ」

 恋する乙女の顔の模範解答みたいな表情でとんでもないことを言われた。

 ヒ、ヒトメボレ? ってお米の品種じゃなくて、あのヒトメボレ?

「殿下が……私に……?」

「はい!」

 もうキャパオーバーなので速攻で帰りたいのだけれど、それはそれとして確認しなければならないことがある。というか、自己紹介の時点でやっとけという話だ。

 私は深呼吸して、殿下の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「殿下、私は自他ともに認める女です」

「存じ上げておりますわ」

「……歳は二十八。殿下とは十も離れております」

「わたくしは気にしませんわ」

「…………フォーゲル官僚長の養子とはいえ、私自身は何の権力もない異世界人です。殿下ともあろうお方が結婚するには相応しくない。周囲から猛反対されるのが目に見えています」

「それに関してはご安心を。アオイ様がこの婚姻を受け入れてくださるなら、わたくしは今すぐにでも皇位継承権を放棄する手筈が整っております」

「……はい?」

 今、なんと?

 聞こえてはならない単語が聞こえた気がして、思わず殿下を凝視してしまった。

 だが殿下は気にされたご様子もなく、むしろ楽しそうに恐ろしいことを仰られた。

「アオイ様の元へ嫁入りいたします」

 ——何言ってんのこの人おおおお⁉︎

 あまりの爆弾発言に絶句してしまった。

 驚きで開いた口が塞がらないとはこのことか。本当に塞がらないんだな。

「よ、よめいり……殿下が……?」

「はい」

「こ、皇帝陛下はなんと⁉︎」

「『アオイ嬢であれば安心して任せられる。娘を頼むぞ』との伝言を預かっておりますわ」

「ちょっと待って⁉︎」

 もうダメ。無礼とか言ってらんない。

「殿下、落ち着いてください。私、女ですよ? 女同士で結婚なんて前例がありません。絶対に反対されます。一時の情に流されたら絶対に後悔します」

「ご安心なさいませ。議会からの承認は得ております。皆、笑顔で送り出してくれましたわ」

「うっそおお⁉︎」

「ほら、こちらに」

 周りにお花でも散らしそうな笑顔で取り出されたのは一枚の紙切れ。そこにはガルデニア殿下の結婚を認める旨の文章と名だたる議員たちの署名が書かれていた。

 全員、見覚えがありすぎて目眩がしてきた……。

 脳内で微笑ましい笑顔を浮かべる議員たちの姿が再現されたのも相まって座りながら気絶しそうだ。

 え、この国の議会大丈夫? 皇女の結婚相手、女でいいの? しかも異世界人よ? 色々問題しかなくない?

 この数時間で信じられない事ばかりが起きて頭がオーバーヒートしている。

 ぐるぐると考え込む私の傍に人の気配を感じて顔を上げれば、いつの間に移動してきたのか、殿下が立っていた。

 天使のような微笑みが私の視界を染める。

「アオイ様がこの結婚で憂うことは何一つありません。すべての些事はわたくしが払い除けます。貴女から幸福を奪うすべてのものから生涯お守りすると天の主に誓いますわ」

 凛とした瞳が、私の心臓を貫く。

 その気迫は英傑と謳われる皇帝陛下を思わせるほどだった。

 静かなのに、相手に有無を言わせない力がある。

 私は言葉を奪われた。

「愛しい方、どうかわたくしに愛されてくださいまし」

 まるで至宝を扱うかのような手つきで頬を撫でられ、ゆっくりと、しかし確実に心臓が早鐘を打ち始める。

 紫水晶の瞳から溢れる愛情が私を溺れさせようとしてくるのを理性で振り払った。

 ——相手は年下、相手は皇族!

 いくら皇帝陛下や議会が許そうが、世間が黙ってはいないだろう。

 周りから祝福されない結婚ほど不幸なものはない。

 まだ十八の少女にそんなものを経験させてはならない、と大人の私が必死に叫ぶ。

「ダメです、殿下。貴女を不幸にしてしまう」

「何が、でしょう?」

「私が、です」

「貴女の何がわたくしを不幸にするのですか?」

「それは……」

 何が、と言われたら、全てと答える他ない。

 ないのに、何故か答えるのを躊躇してしまった。

「それは? 貴女が女性だから? 異世界人だから? 養子だから? ……ハッキリ申し上げますわ。すべては些事です。性別も、生まれも、愛の前には塵と同じ……そうではなくて?」

「ま、まあ……」

 ガルデニア殿下の言うことは解る。

 私も好きであれば相手が女性でも男性でもいいと思っている。

 恋愛は社会秩序を乱さなければ自由であるべきだろう。

 人の感情で最も制御できないのは愛で、抑圧されてはならないのも愛なのだから。

 私自身、好きになった相手の性別は気にしないタイプだ。女性でも男性でも、互いに愛し合い、尊敬できるのならそれが一番だ。

「仰ることは理解できますが……」

「皇帝陛下と議会の承認は下りました。ベレーゼンハイト卿にも話は通しています。残る憂いは?」

「こ、国民が歓迎するかどうか……」

「抜かりありません。既に国民には今日のお見合いについて知らせてあります。皆、好意的に捉えてくれていますわ」

「そこまでしてたんですか⁉︎」

「貴女の憂いを除くためなら何でもしますわ」

 よ、用意周到すぎない……? 何が殿下をそんなに駆り立てるの……。

「それで」

「はい?」

 ふに、と親指で唇を撫でながら殿下が艶然と微笑む。

「わたくしはアオイ様の本心が知りたいですわ」

「ほ、本心……?」

 端正な顔がこれでもかと近付く。ちょっと身じろぎすればキスできてしまう距離に心臓が一際飛び跳ねた。

「わたくしのことは、お嫌い?」

「そ、いう、わけで、は……」

「では、わたくしを妻にしてくださる?」

「そ、それ、は……!」

 私を見つめる瞳が、頬を撫でる手つきが、囁く声が、殿下の全身という全身が甘く私を攻める。

 ——これ、私、口説かれてる……⁉︎

 どうしたらいいのか分からず、回転しすぎた頭が弾き出したのは——

「私、結構嫉妬深いですけど!」

 自分の性格の悪さを暴露して嫌われようという、頭の悪い結論だった。

 沸騰寸前の頭ではこれが限界だったのだ。むしろ考える力があったことの方が奇跡と言えよう。

 流石の殿下も驚いたのか、暫し目を瞬かせていたがすぐにクスクスと笑い出した。

「ふふ、それだけ愛情深いということですわ。そんなに愛していただけたら、わたくし幸せで踊り出してしまいますわ」

 嬉しそうに言われてしまい、今度は私が驚いた。

 ——い、いや、まだまだ!

「あ、相手が女性でも嫉妬しますよ」

「大歓迎ですわ。犬や猫にも嫉妬してくださいな」

「……浮気したら殺しちゃうかも」

「その時は一緒に死んでくださる? わたくし、寂しがりやですの」

「束縛もしちゃいますよ!」

「軟禁と監禁ならどちらがよろしくて? わたくしはどちらでも構いませんわ」

「……離婚させませんよ」

「よろこんで。死んでも一緒にいましょうね」

「……」

「他には?」

 聞いたらドン引きされそうなことを言ってるのに、殿下は終始愛おしそうに私を見つめてくれた。嘘を言っている様子は微塵も感じられない。

 ——懐深すぎない……? あと……あと何か……。

 ふと、どうしてこれを聞かなかったのか不思議なぐらい当然な疑問が湧いて、つい口から溢れていた。

「どうして私なのですか?」

 ガルデニア殿下とは殆ど接点がない。社交パーティーで挨拶を交わす程度だ。好かれるようなことをした記憶がない。

 なのに殿下は私を愛していると言う。

 誰かと間違えているんじゃないか。

 何か勘違いしているんじゃないか。

 そんな気持ちが今になってようやく生まれた。

 ——そうよ、きっと何かの間違いだわ。

 まるで何かに縋るような気持ちでそう思い込む。

 でないと踏み出してはいけない一歩を踏み出してしまいそうだった。

 お互いの間に流れる沈黙は決して軽くはない。

 だけど、何かの拍子に壊れてしまいそうな薄氷のような脆さがあった。

 果たしてそれを溶かしたのは殿下だった。

「眩しかったのです」

 語る声は大きくないのに、殿下の声しか耳に入らない。

「初めて人の笑顔を眩しいと感じました。まるで春の陽が地上に生まれたかのように見えて、誰かの笑顔とはこうも温かいのだと知りました。ですが、その誰かとは他でもない貴女でなければダメなのだと気付いたのです」

 両手で優しく顔を持ち上げられ、強制的に視線がかち合う。

 溶けた飴玉のように潤んでいる紫水晶の瞳を間近に浴びて私の情緒はぐちゃぐちゃだ。

 内心でパニック状態になっている私を置いて、殿下は言い聞かせるように話す。

「貴女の笑顔が見たい、叶うならばわたくしが笑顔にして差し上げたい。その笑顔を一番近くで見守りたい……この想いに名を付けるのなら『愛』以外にないのではなくて?」

 有無を言わせる気のない笑顔はとろけるほど甘く、もはやどんな反論も言い訳も通用しないと思い知らされた。

 それでも髪の毛一本分は残っている理性が必死に私を押し留める。

「でも……やっぱり……!」

「アオイ様」

 唇に人差し指を当てられ、優しく後頭部を引き寄せられた。

「⁉︎」

 他人が見たらキスしているように見えてもおかしくない体勢だが、殿下は恥じらいもなくむしろ堂々と笑っている。

「もうそれ以上は何も仰らないで。貴女の全てはわたくしが生涯をかけて愛すると誓いますわ。だから、わたくしに愛されてくださいまし」

 残った理性が空の彼方へ飛ばされる映像が脳裏に過ぎった。

 ……前略、仕事中の弟へ、お姉ちゃんは大人としての理性を失いました。ごめんね。

 もうダメだった。これは無理。どう頑張っても抗える気がしない。

 私は顔を覆いながら小さく「はい……」と呟いた。

 とはいえ、順序は大事。いきなり結婚とかハードルが高い。なので。

「あの、でも……まずは、婚約者として、お互いのことを知っていきませんか?」

 私たちは殆ど初対面だ。ここから始まると言っても過言ではない。

 私なりの精一杯かつ最小限の抵抗だ。

 精一杯搾り出した声は頼りなく、大人として情けないと泣きそうになったけれど、殿下は心から嬉しそうに笑ってくれた。

「ええ、もちろんですわ。わたくしの旦那様」

「だっ……⁉︎ いや、その、それはちょっと……早いかと……」

「では、今日から練習いたしましょう」

「今日から⁉︎ も、もうちょっとお手柔らかに……」

「まあ、これ以上は難しいですわね……」

「ええ……」

「あのー……」

 このまま二人の空間が出来上がりそうなところに、聞き覚えのある第三者の声がした。

「お話は終られましたか?」

「あ」

 従者の存在を忘れていた。

 え、ちょっと待って。この人、最初から居たよね? てことは、あれ? もしかして、さっきの流れ全部……。

 チラリと視線を流すと、従者は気まずそうに顔を横に向けた。

「……ワタシハナニモミテイマセン」

 ——見られてたああああああ!

「わわわわわわ忘れてくださいっ!」

「あら、よいではありませんか。わたくしたちの仲睦まじい様子が周知されればアオイ様の憂いも晴れますでしょう?」

「それとこれとは話が別です! うわああ……穴があったら入りたい……」

 羞恥心からテーブルに突っ伏す私に殿下は楽しそうな笑い声をあげている。

「ふふ、可愛らしいアオイ様」

「揶揄わないでくださいよ、殿下……」

「デニア」

「へ?」

 耳元で囁かれた声に驚いてそちらを向くと、殿下が眉を下げていた。

 なんか、ちょっと拗ねてる……?

「殿下、なんて堅苦しい呼び方はやめてくださいな。デニア、とお呼びください」

「え、いや、でも……」

「さん、はい」

「へ⁉︎ デ、デニア……様」

「……今はそれで我慢いたしますわ」

 満足したような、そうでないような声でそう呟くと殿下——デニア様は元の席に戻っていった。

「それでは、お互いのことをよく知るためにお茶会をしましょう」

 お見合いが始まった時よりは幾分か晴れやかに見えるデニア様の笑顔に私もつられて笑った。

 正直、まだ思うところはあるが、決めてしまった以上は覚悟を決めるしかない。

 とりあえず、紅茶のおかわりとスコーンをお願いして、それからお互いの好きなものの話をしようと思った。

 

 

「で、絆されてきたと」

「うっさいわ」

 夕方、仕事終わりの弟——夕生ゆうせいを捕まえて宮廷の庭にある東屋で今日のことを話す。

 テーブルには私が用意したティーセットがあり、きょうだい水入らずの時間を過ごすための空間が出来上がっていた。

 本日の紅茶は厨房からご厚意で頂いた薔薇茶。

 ふんわりと漂う薔薇の香りと花弁の甘い味が絶妙な一品で、私の最近のお気に入りだ。

 夕生が紅茶を飲みながらニヤニヤした顔で「姉ちゃん、面食いだもんなあ」などと言ってきたので脛を蹴っておいた。

「別に、顔がいいから了承したわけじゃないし」

「いってぇ……じゃあ、何で選んだのさ」

「……色々」

「なにそれ。めっちゃ濁すじゃん」

「とにかく! そういうことだから」

「そういうこと、ねえ……。ま、いいんじゃね? 俺は賛成だよ。姉ちゃんが選んだ人なら大丈夫っしょ」

「毎度思うけど、アンタのその信頼は何処からくるの」

「弟の勘」

 器用にウィンクしてくる。くそ、我が弟ながら顔がいい……!

 ちょっと悔しくなったので苦し紛れに聞き返してやった。

「夕生はいい人いないの?」

「……好きな人ならいる」

「え⁉︎ 好みに煩いアンタに⁉︎ 好きな人⁉︎」

「聞いといてなんだよその反応!」

「だってぇ……え、どんな人? こっそり教えてよ」

「ヤダ。墓場まで持ってく覚悟で好きになってっから」

「え、てことは相手はやんごとなきお方? 誰だろう……気になるけど夕生がそこまで言うってことは相当本気なんだろうなあ。あ、ダメ、お姉ちゃん泣きそう」

「なんでよ」

「感動で……よし、もうお姉ちゃん何も聞かない。夕生の応援するよ!」

「俺、姉ちゃんのそういうサッパリしたとこ好き。あんがと」

「あ、でも、聞いてほしい話があったらいつでも聞くから。お姉ちゃんの耳はロバの耳!」

「頼もしいなあ。これだからシスコンはやめられないんだよ」

「それはやめた方がいいと思う」

 ちょっと引き気味に言うと夕生が不満そうな目で見てきた。

「いいじゃん。嫌われるよかいいだろ」

「開き直らないのよ……。今に始まったことじゃないけど」

「そーそー、今更、今更。……しっかし、いくら姉ちゃんが優秀でフォーゲルさんの信頼が厚いとはいえ、皇女殿下との婚約を認めるとはなあ。絶対に反対すると思ってた、特に議会が」

「ホント。どんな手を使ってあの狸ジジイ共を黙らせたのかしら」

 トロイエ帝国はこの世界で最初の議会制君主国家だ。私たちがいた世界でいうところのイギリスに近い。名前はドイツ語だから違和感が凄いけど。

「だよなあ。姉ちゃんが官僚長補佐官になった時なんか猛反対してたもん。『女が官僚など慣例にない!』とか言って」

 この国では皇帝の権力は制限されており、議会を通す必要はあるが、民主制ではないため議員は全て貴族だ。

 それも、岩のように頭の堅い保守派ばかり。

 帝国初の女官僚となった私を目の上のたんこぶどころか癌のように嫌っている。

 そんな方々が前例のない女性同士の婚約を認めるなんて……はっ! まさか……。

「何か裏があるんじゃ……?」

「何かとは?」

「また懲りずに密輸入やら賄賂やらやってるとか」

「その根拠は?」

「…………」

 暫し熟考する。……が。

「あれ、びっくりするほどない。なんで?」

「アンタがこの前、議会の最中に狸共を一喝したからですよ」

「あー……ん? んん? んー……ああ、はいはい。あれね」

 指摘されて思い出したのは、二ヶ月ほど前の議会でブチギレてしまった時のことだ。

 溜まりに溜まった怒りが爆発して、かねてより集めていた議員たちの不正を叩きつけてしまったのだ。

 夕生もあの場にいたので現場を思い出しているのか、呆れた表情で溜息を吐かれた。

「なんでブチギレた本人が忘れてるんですかねえ。流石の俺でもちょっと狸共に同情したよ。姉ちゃんって普段から容赦ないのに、キレたらもっと容赦ねえんだもん」

「だ、だって、国政の危機だっつってんのにいつまでも自分達の利益の話しかしてないのが悪いんじゃん」

「だからって身内の不祥事まで暴露して追い詰める必要あった? 軽く修羅場になってたけど」

 そう、何を思ったのか私、軽い気持ちで議員の身内の不祥事まで調べて証拠を集めていたのである。多分、あの時疲れてたんだわ。

 それも全部皇帝陛下の前で詳らかにしてやった。

 あの時は本当にスカッとしたなあ。

「いやー、ちょっとお灸を据えとこうかなあ、なんて……てへっ」

「俺、世界を敵に回してもいいから姉ちゃんだけは怒らせたくない」

「ええ……」

 体の前でバッテンを作って謎のガードをされてしまった。お姉ちゃんちょっと悲しい……。

「で、でもそのおかげで色々不正を暴けたんだしよくない?」

「まあ、皇帝陛下は大喜びされてたし、俺もざまあとは思ったけど。それはそれとして、怖いもんは怖いのよ」

「そんなあ」

 私はただ清く正しい官僚として仕事しただけなのになあ。……まあ、私怨が全くなかったわけではないけれど。

「ま、そういうわけだし、暫くは何か悪巧みをする余裕はないんじゃね?」

「どうかしら。あの手の輩は誰かの弱みをちょっと握っただけで調子に乗るから油断はできないわ」

「……ガルデニア殿下なら大丈夫だと思うけどね」

「夕生? なんか言った?」

「いんや、なんでも。とにかく、姉ちゃんは何も気にしなくていいってことだよ。いいじゃん、美人なお嫁さんがきてくれて」

「楽観的だなあ」

「姉ちゃんが色々考えすぎなの。じゃ、俺そろそろ宿舎戻るわ。またね」

「うん、またね。明日も仕事頑張って!」

「姉ちゃんもね」

 東屋を出ていく夕生の背中に手を降る。

 空になったティーセットを片付けながら、今晩どんな顔してフォーゲルさんに話をしようか悩んだ。

 何はともあれ、無事にお見合いは終わった。

 意外な一日ではあったけれど、悪くはなかったなと思う。

 これから私には『皇女殿下の婚約者』という肩書きがつけられる。それによって周囲への対応が今までと段違いに異なってくる。

 一歩間違えれば、殿下に不利益を齎しかねない。

 今まで以上に言動には気をつけなければ。

「はあ……大丈夫かなあ」

「何がですの?」

「うわあっ⁉︎」

 東屋の入り口から顔を覗かせたのは殿下……デニア様だった。

「で、デニア様⁉︎ どうしてこちらに?」

「執務が終わりましたので、お庭を散歩しておりましたらアオイ様のお声がしたものですから。お邪魔でしたか?」

「いえっ! そんなことは……」

「ふふ、お隣に座っても?」

「はい、どうぞ」

 殿下は優雅な所作でさっきまで夕生が座っていた場所に腰を下ろした。

「良い香りですわ。薔薇茶ですか?」

「はい。先程まで弟とお茶をしておりましたので」

「そうでしたの。ユウセイ様はお元気で?」

「ええ。仲間たちとも上手くやっているみたいです」

「それはよかったですわ。ユウセイ様は騎士団の中でも優れた剣術使いだと聞いております。ニホントウ?なる剣を巧みに使った剣術で他の団員達を圧倒しているとか」

「はい。私たちの祖国で古くから使われている『刀』という剣で、夕生はその師範代……師として教えられるほどの手練です」

「まあ!」

 私も夕生も小さい頃から武術は一通り教えられていた。その中でも夕生が特に気に入ったのが剣術だった。気に入りすぎて免許皆伝までしたほどだ。

 まあ、その経験がここで役に立っているのだから、人生何があるか分からないものである。

「お二人はすごいですわ。慣れないことも多いでしょうに、懸命に頑張られていらっしゃる。わたくし、尊敬いたしますわ」

 デニア様は心からそう思ってくださっているようで、目を輝かせながら私を見つめている。

 その真っ直ぐな視線は嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。

「そのようなこと……」

「だからこそ、お二人が何か悩んでいらっしゃるのなら力になりたいのです。それが、アオイ様のことであるなら、なおさら」

「デニア様?」

 そっと、膝に置いていた手の上にデニア様の手が重ねられる。

 優しく握る手は温かくて心が解けていくようだった。

「わたくしたちはもう婚約者ですわ。悩んでいることがあれば、どうかわたくしに打ち明けてくださいまし」

「あ……」

 空いている手が私の頬を撫でた。

 労わるような手つきに思わず縋りそうになる。

 ——でも、迷惑をかけたくない。

 大人になってから染みついた考えがそれを邪魔する。

 私はなるべく不自然にならないように作り笑いを浮かべた。

「心配していただきありがとうございます。でも、大丈夫です。デニア様のお手を煩わせるようなことは何も……っ⁉︎」

 最期まで言い終わる前に、デニア様のお顔が近付いて声にならない悲鳴をあげてしまった。

「婚約者の悩みを煩わしいなどと、誰が思いましょう」

 強い眼差しが私の心の奥にある暗い感情を暴こうとする。

 それが怖いと思う反面、どうしようもなく知ってほしいと叫ぶ自分もいる。

「アオイ様、貴女の悩みはもう貴女だけのものではありません。わたくしたち二人のものですわ。貴女は一人ではありません。わたくしがいます。わたくしにだけは甘えてくださいまし」

「で、も……」

「この世界で唯一、貴女だけはわたくしに甘えていいのですわ。それが許されるのは貴女だけ。ね? アオイ様」

 とろりと溶け出しそうなほど甘く優しい紫水晶の瞳に理性が崩れていく。

 気付けば、無意識に口から溢れていた。

「わ、たし……貴女の婚約者に、ちゃんとなれるかしらって」

「はい」

「私の言動一つで貴女に迷惑をかけるかもって思ったら、怖くて」

「はい」

「でも……今更、貴女と離れるのは、嫌だなって、思ってしまって……そしたら、不安になって……ごめんなさい」

 情けない姿を見せてしまった。自分の婚約者がこんなので幻滅されないだろうか。

 なんてことを考えてしまうぐらいには、デニア様のことを想っていたことに我ながら驚いた。

 視線を合わせるのが怖くて逸らそうとすると、額をこつんと合わせられた。

「デニア様?」

「アオイ様が謝ることなど何一つありませんわ。全ては不安にさせていたわたくしのせい。どうか許してくださいまし」

「そんな! デニア様は何も悪くありません!」

「ありがとう、アオイ様。でも、そんな不安は今ここで払い除けて差し上げますわ。貴女は何も憂うことはありません。わたくしの婚約者はこの世界で貴女だけ。どうか胸を張ってくださいな。たとえ皇帝陛下であろうと貴女を傷付けるものをわたくしは許しません。国を敵に回そうとも貴女だけは守ります。だから何も心配せず、わたくしの愛を受け入れてくださいまし」

 皇帝陛下に逆らっちゃまずいですとか、皇族が国を敵に回しちゃダメですとか、言わなきゃいけないことがいろいろあるのに、そんなことよりもデニア様の愛情の深さに泣きそうなほど喜んでしまっている自分がいる。

 ——ああ、ダメだなあ、私。

 情に弱すぎる。

 でも、この人が傍にいてくれたら何も怖くないって思える。

 自分を責める石礫から守ってくれる、そんな安心感がある。

「……本当に、私でいいんですか?」

「アオイ様でなければ嫌ですわ」

 そう言って微笑むデニア様が今この時何よりも好きだなって思った。

 ——今は、それだけがいい。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いしますわ」

 庭の薔薇が花弁になって舞い散るのを背景に私たちは暫し寄り添い合っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花の溺愛 松たけ子 @ma_tsu_takeko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ