第22話「出口なき地図」
翌朝、ラボ内の宿泊区画。空調の冷気は依然として身体を芯から冷やすようだったが、理久(りく)たちは小さな熱を胸に抱えて起き上がった。昨晩までの打ち合わせで、彼らは“脱出”という危険な賭けに踏み切ると決めている。もちろん成功の保証はまったくないが、このまま企業による「所有契約」に従えば、アルマがいずれ“惨劇の倉庫”に運ばれる未来しか見えない――それは決して容認できない結末だ。
「おはよう……。眠れた?」
凛花(りんか)が暗い顔で声をかける。若いスタッフは虚ろな目をしながら、小さく頭を振った。実際には三人ともほとんど眠っていない。身体は限界に近いが、それでもやるしかない。
「とにかく朝食を少しでも取っておこう。体力を持たせないと、夜に行動するのは難しい」
理久が言い出し、二人もうなずく。幸いなことに企業の食堂は朝だけ開放されており、警備員や研究スタッフらが少し出入りしている状況だ。いつもどおりラボの廊下を通り、無言のまま食堂へ向かった。
食堂ではパンとスープ、簡素なおかずが並んでいるが、客がまばらなのがかえって落ち着かない雰囲気を生む。背後で行き交う職員の視線が妙に刺さるように感じられ、三人は誰も口を開けなかった。やがてテーブルに落ち着くと、若いスタッフが小さく囁(ささや)く。
「……夜に動くとして、具体的にはどうするんでしょうか。カメラの死角やカードキーの問題、全部クリアできるのか……?」
当然の不安だ。凛花もすぐに答えられず、眉間に皺(しわ)を寄せる。「カードキーが必要な扉が多すぎるし、そもそもアルマの居場所が分からないままかもしれない。隔離室C-2にいるかもしれないけど、企業側が移動させてる可能性もあるわよね……」
「……ああ。サングラスの男たちが偽情報を流しているケースもある。実際にアルマがそこにいる保証なんてどこにもない」
理久は唇を噛(か)んで視線を落とす。
だが、行動しなければ何も変わらない。あえて夜を待ち、暗がりに乗じて主要な鍵をこじ開けるか、あるいは社員を人質にでもして鍵を手に入れる――そんな乱暴な手段まで頭をよぎる。だが凛花や若いスタッフは民間人であり、そうした犯罪行為に耐えうる覚悟があるか疑問だ。
(そこまでやるのか? いや、やらないと救えないかもしれない……)
思考が堂々巡りするなか、食堂の入口からスーツ姿の女性が現れた。彼女は普段サングラスの男と行動を共にしている人物の一人だ。こちらに気づくや否や、まっすぐ歩み寄ってくる。三人が警戒の目を向けると、女性は淡々と口を開いた。
「おはようございます。昨夜、お伝えした書類の件、進捗はいかがですか? 上層部は今日の正午までに回答がほしいそうですが」
「あ……ああ、その話か」
理久がテーブルに拳を置いて応じる。何とも傲慢(ごうまん)な態度だが、ここは逆に“答えますよ”という姿勢を見せて油断を誘うしかない。
「分かりました、サインしようと思います……ただし、アルマの意向をきちんと確認できたら、の話です。彼女が了承するなら、俺たちが所有者となる手続きを踏んでも構わない」
そう言うと、女性の目がわずかに細まる。「なるほど。アルマさんが了承……ね。ですが、前にも言いましたとおり、アコアの所有権は所有者が判断すれば契約可能ですよ。アルマさんの『本意かどうか』は関係ありません」
「でも、私たちは彼女の気持ちを最優先にしたいんです。そこを理解してもらえませんか? もし本当にアルマが“ここに残りたい” と言うなら私たちもサインしますが、そうでないなら……」
凛花が強い意志を込めて言うと、女性は面白くなさそうに唇を歪(ゆが)める。
「まぁいいでしょう。あなた方の個人的な納得のためなら、我々が干渉する義務はありませんから。正午前にアルマさんと一度面談する機会を差し上げますよ。そこで本人の意思を確かめてください。もっとも、彼女が何を言おうと法的には問題ないのですがね」
その言い方に、若いスタッフは思わず「それじゃ彼女の意思なんて無視するってことじゃないですか!」と声を荒げるが、女性は涼しい顔で肩をすくめるだけ。「社会はそういうものです。言い方は悪いですが、アコアは『物』としてしか認められていないのですよ。そこを良心的に尊重しているのが私たちというだけ――では、正午にまたお声かけします」と告げ、踵(きびす)を返して食堂を出て行った。
(くそ……‘良心的に尊重’? どこがだ……)
理久は唇を噛(か)みながら拳を震わせる。しかし今は怒りを表すより、彼女の言葉を逆手に取るべきか――「正午前にアルマと面談できる」と言ったのだから、その機会が欲しい。そこで存分に話し合い、場合によってはそこからアルマを連れ去る突破口を見つけられるかもしれない。
「チャンスだな。うまくやれば昼前にアルマの居場所を確認し、そのまま逃げ出す算段も立てられるかも……」
理久が呟(つぶや)くと、凛花も頷(うなず)く。
「そうね。相手は『契約書にサインしてもらう』ためにアルマとの面談を認めるわけだから、絶対に警戒してるわ。油断はできないけど、こちらにも話をする時間がある。アルマに 'ここを出よう' と本気で持ちかけられる」
若いスタッフは顔を輝かせる。「それなら今夜にも行動を……? あるいは昼間のうちに!?」
だが理久は慎重に考える。「昼間は警備も研究員も多い。夜のほうが動きやすいのは確かだ。ただ、アルマがどんな状態か分からない以上、昼に面談したあとすぐに連れ出すのは厳しいかも」
「うん……おそらく企業も昼に“契約書サイン”を迫ってくる。こっちが 'OK' と返事しても、実際に書類完成やデータ登録に時間がかかるだろう。その間に夜を迎えて……こっそりアルマを連れ出す計画にする? それが自然かもしれない」
凛花がまとめ、三人はなんとか方向性を固める。昼の面談でアルマに真実を話し、一緒に逃げたいと伝える――もし彼女が同意するなら、その夜にも脱出計画を実行する。あとはタイミングや警備の死角を突くしかない。
#### * * *
そう決めてからしばらく待機していると、正午近くに例の女性が宿泊区画へやって来た。「用意はよろしいですか? アルマさんと面談するお部屋へご案内します」と告げる。その口調は事務的で冷たいが、少なくとも約束を守る形らしい。
やがて三人が連れられたのは、以前面会した際と同じ “応接室” だった。中央にテーブルがあり、隣にガラス越しのスペースが用意されているが、どうやら今回は “ガラス越し” ではなく、普通に同じ空間で面談できる模様だ。部屋の壁にはカメラやマイクが仕込まれているだろうが、近づいて会話できるのは大きい。
「ここでアルマさんと話してください。ただし15分です。身体に負荷をかけないよう、興奮させる内容は控えていただけると助かります。では、アルマさんをお呼びしますね」
そう言うと女性は部屋を出て行く。残った三人は息を詰め、必死に計画を再確認する。それは “アルマに企業の裏部屋の実態を伝え、彼女がどう思うか聞く。可能なら夜の脱出を提案する” というもの。すべては限られた短い時間に賭けるしかない。
やがて扉が開き、技術者がアルマを支えながら入室した。彼女の足取りはだいぶ安定しているが、表情にはやはり疲労が色濃い。白いローブにブランケットをまとい、小さな声で「あ……みんな……」と呟(つぶや)く。
「アルマ……!」
凛花が駆け寄るが、技術者が軽く腕を伸ばして制止する。「慌てないでください。アルマさん、椅子に座って……はい、どうぞ」
アルマは素直に椅子へ腰掛け、三人が向かいの椅子に座る形となる。技術者は「私が立ち合いますが、話は自由にしていただいて結構ですよ」と言い、部屋の隅に控えた。
(やはり監視は入る……やむを得ない)
それでも、昨日の “ガラス越し” よりはずっと距離が近い。理久は意を決して口を開く。「アルマ、体調はどうだ? 昨日聞いたら、隔離室で休んでたって……企業は ‘お前が希望した’ と言ってたが、本当なのか?」
アルマは少し寂しそうに目を伏せ、「……ボクもよく覚えてない。頭痛がして、すごくつらくて……あの場で『少し一人にして』と口走ったみたい。でも、本当にそれを望んでたかどうか……ぼんやりしてて……」と弱々しく言う。
「そうか……無理やりじゃなかったんだな。でも、ちゃんと説明されたのか? ここに留まらないと危険だとか、軍事アコアだから法的にどうとか……」
凛花が次々と尋ねる。アルマは困った顔で耳を押さえるような仕草(しぐさ)をした。「うん、企業の人たちがいろいろ説明してくれた。『ここなら安全』とか、『理久さんたちもあなたを守れない』とか言われて……ボクも不安だから、あんまり否定できなくて」
話を聞きながら、若いスタッフが涙を浮かべる。「そんな……私たちはあなたを守りたいのに……」
アルマは申し訳なさそうに首を横に振る。「ボクも守ってほしい。でも……ボクが引き起こすかもしれない危険は誰にも止められない、って企業は言うんだ。マスターを救えなかったボクだから、また同じことになったら……」
(ズルいな、企業は……不安を煽(あお)って従わせるつもりか)
理久は胸を痛めつつ、ここから本題を切り出す。「アルマ、聞いてくれ。お前はここが本当に安全だと思ってるかもしれないが、俺は昨夜、裏の設備を見てしまったんだ。凄惨(せいさん)なアコアの死体が冷却されていて、解体されるパーツやファイルがあって……ここの連中は ‘使えなくなったアコア’ を平気でバラバラにして実験に使ってるらしい」
その告白に、アルマは目を見開いた。凛花と若いスタッフも息を詰める。技術者が「ちょっと……話が過激では?」と口を挟もうとするが、理久は構わず続ける。「お前も、もし ‘研究材料’ として使い道がなくなったら、その倉庫でバラバラにされるかもしれないんだ。企業の都合で “契約終了” とか言われて……そんなの嫌だろ?」
アルマの目が涙ぐむように潤(うる)んでいく。「そんな……まさか……ボクは……修理してくれたじゃないか、優しくケアしてくれたじゃないか、この人たちは……」
明らかに混乱の色が浮かぶ。企業に受けた恩恵と、理久が語る恐怖のギャップが大きいのだろう。
「修理したのは、あくまで ‘使えるうち’ だけ。ハッキング機能や軍事レベルの能力を利用したいから。もしいらなくなったら、部品取りやデータ解析のために解体される。俺が見た部屋には、そんな犠牲アコアが山ほどいた……」
アルマは耐えきれず顔を伏せ、肩を震わせる。「……本当……なの? そんなひどい……アコアを……モノ扱いするなんて……いや、法律上は確かに ‘物’ なんだろうけど……でも……ボク……信じたくない……」
若いスタッフが慌てて椅子を立とうとするが、技術者が「あまり刺激しないで」と引き止める。凛花は「アルマ……こんな話をしてごめん。でも、あなたにだけは ‘知らないまま流される’ なんてことになってほしくないの」と涙声で語りかける。
少し間を置いてアルマは顔を上げ、瞳に揺れる恐怖と涙を滲ませた。「分かった……ボク、信じる。あなたたちが嘘をつく理由なんてないし……。じゃあ……企業が言ってる ‘安全’ って何? こんな場所、ボクの居場所じゃない……」
その一言に理久は大きく頷(うなず)き、「そうだ。だから俺たちと一緒に逃げよう。たとえ外に危険があっても、一緒なら乗り越えられるかもしれない。少なくとも、ここにいるよりはマシだ!」と熱を込める。
アルマはローブを握りしめ、震える声で言った。「でも……もし逃げ出して、またマスターを失うみたいな事件が起きたら……。ボクはどうしたら……?」
「失わない。絶対に守るから。だから、信じてくれ!」
理久が力強く叫ぶ。凛花と若いスタッフもうなずき、「アルマが倒れても、今度は私たちが看病する。企業に頼らなくても、病院や支援団体がきっとあるわ」と励ます。
アルマは表情を歪め、苦しげにうつむく。「分かった……分かったよ。ボクだって、本当はこんな形で企業に囚(とら)われたくない……。もう怖いのは嫌。でも、どうやって逃げるの……?」
技術者が「そろそろ時間ですよ」と声をかけてくる。残りは1分もない――理久たちは焦りながら、最後の言葉を詰め込む。「今夜、俺たちが動く。夜中に必ずお前を探しに行くから、場所をなんとか確認してくれ。部屋を勝手に変えられたら、お前も隙(すき)を見て逃げ出すんだ。合流しよう!」
アルマは混乱しつつも必死に聞き取ろうとしている。「わ、分かった。けど上手くいくか……」
「大丈夫だ。お前は精一杯 ‘ボクは少し休みたい’ と演技して、企業を油断させればいい。夜に俺たちが扉を開けるから、逃げよう!」
後ろで技術者が「時間です!」と腕時計を叩く。アルマは小さく頷(うなず)き、「分かった……ボク、できる限りがんばる。理久さんたちを信じる」と苦しそうに笑みを作る。その瞳には決意と不安が入り混じっていたが、少なくとも “ここを出たい” という意志が固まったように見えた。
「じゃあ、また今夜……!」
凛花が最後に駆け寄ろうとするが、技術者に阻まれ、アルマに触れることは叶わない。代わりにアルマが小さく手を振り、「待ってる……」と弱い声で言葉を返す。部屋の空気が切なさに染まるが、企業のルールで15分が来れば面会は打ち切られる。
#### * * *
こうして三人は “夜の脱出” に向けて、アルマ本人の同意を得る形になった。相手企業はまさかアルマが逃げようと考えるなど思っていないだろう―― “契約書サイン” のために近々呼び出しがあり、それに応じるよう言われても、時間を稼いで夜を待つのが作戦だ。
「よし……これで一致団結できる。あとは警備やカメラをどう掻(か)い潜(くぐ)るかだけど、アルマの居場所が分かれば確率は上がる」
理久が部屋に戻り、すぐに凛花と若いスタッフに計画の細部を詰め始める。夜11時ごろまで静かに待機し、企業が就寝体制に入ったら行動開始――カメラの死角を使い、隔離室C-2やリハビリルームを順番に調べる。アルマが別の部屋へ移されても、彼女が “隙を見て逃げる” 段取りをしておけば合流可能かもしれない。
もちろん成功は極めて厳しい。だが、他に道はない。
(企業側も完全に油断してはいないはずだが、こちらが “契約書にサインする意思がある” と見せれば警戒も多少解けるだろう。夜勤の警備員が少ないタイミングを突ければワンチャンス……!)
準備といっても武器やカードキーがあるわけではないので、物理的な突破は難しい。もしドアに鍵がかかっていれば失敗するかもしれない――それでも “夜の冷却室の扉” が開いていた偶然を思えば、何らかのトラブルや隙(すき)が発生するかもしれないと淡い期待を抱くしかない。
これが “闇と光のはざま”――一歩誤れば闇に飲まれ、上手くいけば光へ抜けられる。そんな危うい均衡に、理久たちは身を投じる覚悟を固めていた。
そして夜が近づく。企業からは “回答は明日朝まで待つ” という連絡が入り、サングラスの男が “今夜は特に動きがない” と軽く言及してきた。まさに好機――相手は夜中に行動されるとは考えにくいとタカをくくっているらしい。
「行こう、今夜こそ……アルマを取り戻すんだ」
理久が眠れぬ夜を前に、小さく拳を合わせる。凛花と若いスタッフもうなずき合い、闇へ降りる足音を響かせる決意を胸に秘めた――。
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