第3話「崩れゆく足場」
アルマの小さな肩がかすかに震えていた。まるで泣き出しそうな子どものように、しかし実際には涙を流すための機能など持ち合わせていないはずのアコア。それでも彼女の瞳は、かすかな悲しみの色を宿したまま、亡くなった持ち主の姿を見つめ続けている。
ラウンジの床には、血の海の中で動かぬ研究者──おそらく彼女の「前のマスター」だった男が倒れたままだ。おそらく外科的な処置が必要なほどの頭部外傷。それは人間にとって致命的なダメージであり、誰が見ても助かる見込みはない。救急車どころか、この密閉状態の施設内では外部からの医療チームさえ入り込めないのだ。
赤く点滅する非常灯の下で、桜来(さくらい)凛花(りんか)はアルマに近づこうとするが、そのたびにアルマが身を捩じって拒絶の態度を示す。慌てて手を引っ込め、凛花は歯噛みするように唇を噛んだ。
「……なんて頑固なアコアなの。再起動させたっていうのに、こちらを受け入れる気がまるでないわね」
「仕方ないだろ。マスターが死んだばかりで、混乱してるんだ」
勝峰(かつみね)岳志が困ったように頭をかきながら、無造作に壁にもたれかかる。先ほどまで咳き込んでいたが、煙の少ない場所まで移動してきたことで呼吸が幾分ラクになったらしい。もっとも、施設内の現状は楽観視できる状況ではないが。
一方、高峯理久(たかみね・りく)は黙ったまま、アルマとその“前のマスター”を見比べていた。手を伸ばせばすぐそばにある人工皮膚の感触。しかし、自分が触れれば彼女はまた拒絶するだろう。正直、拒絶されるほうが気が楽だというのも本音だった。自分には“アコアの所有者”という立場が重すぎる。それなのに、作業端末にははっきりと「所有者:高峯理久」と登録されているのだから皮肉だ。
「……アルマ」
小声で呼びかけてみても、アルマはちらりと視線を向けるだけで応じない。薄っすら動く唇からは「ボクのマスター……」という微かな声が漏れ出す。彼女にとって、いまこの場にいる理久や凛花、勝峰は“部外者”でしかないのだ。
それでも、いずれアルマの力が必要になることはわかっている。この施設を制御下に置くための内部アクセスができるかもしれないし、警備ロボやセキュリティを切り替えられる可能性もある。だが、そのためにはアルマ自身が自発的に協力してくれなければならない。いくら理久が“マスター”と登録されていても、彼女が心を閉ざしてしまえば意味はない。
「困ったな……とりあえず、ここで立ち往生していても仕方ない。火災がどの区画で起きているかもわからないし、爆発の原因も謎のままだ。何らかの二次災害が起きるかもしれない」
勝峰がまるで独り言のように言う。ラウンジには設置型のコンピュータ端末があるが、すでに電源が落ちていて使い物にならない。非常電源によって最低限の照明と警報システムだけが生きている状態だ。
「セキュリティゲートが閉じてる以上、外に出られない。でも、このままじっとしていては火や煙が回ってくる危険性がある。どこか安全な場所を確保しないと……」
凛花が周囲を見回す。彼女の視線は、倒れている研究者の遺体へと重なって戸惑いを滲ませたが、やがて意を決したように背を向ける。ひとまず自分たちが生き残ることが最優先なのだと悟るしかない。
理久はアルマを一瞥し、「歩けるか?」と問いかけるが、返事はない。だが、完全停止しているわけではなく、アルマの指先はかすかに動いている。彼女は意識を巡らせながら、自分の置かれた現実を整理しきれずにいるように見えた。
(こんな幼い姿で、自我を持つアコア……。いや、“幼い姿”という表現自体が正しいのか分からないけど……)
脳裏に浮かぶのは、瓦礫の記憶と重なる忌まわしいイメージ。あのときのアコアは壊れて動かなくなり、自分を救えなかった。だが、もしあのアコアが動いていたら──理久は、その先を考えるのをやめた。過去のやるせない思い出がどっと襲いかかりそうになる。
「アルマ。……悪いが、ここにいたら危ない。移動しよう。君だって燃え盛る火災に巻き込まれたら、ただじゃ済まないんだぞ」
声を少しだけ強めて理久が呼びかける。自分の言葉にどれだけの意味があるのか疑問だったが、アルマの瞳がちらりと理久のほうを向く。怯えたような色が揺れ、同時に反抗心と悲痛さが入り混じっている。まるで「それでもあなたを受け入れたくない」と叫んでいるようだった。
しかし、施設内の状況を考えれば、今は強引にでも連れ出すほかない。そう判断した理久は、ゆっくりと手を伸ばしてアルマの腕を取る。驚いたように身体を震わせるアルマ。拒絶するかに見えたが、それでも理久の力が勝ったのか、立ち上がることはできた。
「これ以上、傷つける気はない。それだけは信じてくれ……」
ほとんど自分に言い聞かせるように呟く理久。アルマは伏し目がちに顔をそむけ、口を結んだままだが、歩みを完全には拒まない。力任せに引きずるような格好でもなかったし、嫌がられながらも移動は可能らしい。
「よし、じゃあ先に勝峰さんが周囲の安全を確認してください。私たちは少し後ろから……」
凛花が提案する形で、四人(プラス亡骸を残したままの現実に胸の痛みを抱えながら)がラウンジを出て、廊下に戻った。別のスタッフの姿がちらほら見えるが、皆一様に混乱し合い、どこへ向かうべきか分からないようだ。瓦礫が崩れ落ちているわけではなさそうだが、天井裏などで何かが燃えているのか、ところどころ焦げ臭い空気が漂う。
「施設の地図……ここのラウンジとは反対側に、“保安制御室”ってのがあるらしい。そこなら警備ロボやセキュリティ関連の情報を得られるかもしれない」
勝峰がインカムを叩きながら言う。しかし、建物の一部がロックされている可能性が高いとのこと。かといって保安制御室へ向かうしか選択肢はないだろうと、彼は先頭に立って歩き始めた。
理久と凛花はアルマを支えるようにして後に続く。アルマの足取りは重く、思考が混乱しているのか、時おり首を横に振るしぐさを見せる。
「……嫌だ……マスターじゃない……」
くぐもった声でアルマが繰り返す。理久は胸の痛みに耐えながらも、「分かってる。俺だってそんなつもりは……でも、今はどうしようもないんだ」と割り切るように思考を切り替える。無理やりにでも彼女を連れていかなければ、この場で取り残されてしまうだけだ。ひとりで動き回るにはダメージが大きすぎるだろうし、ロックされた施設の中では、なおさら安全とは言えない。
廊下をしばらく進むうち、警報音がさらに耳障りな高音を発し始めた。赤色灯がくるくると回転し、天井にぶつかった光が不吉な陰を作っている。冷静さを失いかける理久たちの前方、突き当たりに設置された分厚い自動扉が閉鎖されているのが見えた。
「ここから先、封鎖されてるってことか?」
勝峰が扉の横のパネルを操作しようとするが、エラーメッセージが表示されるばかり。非常時のロックがかかったのか、パスワードやID入力をしても反応しない。
「くそ、どうしたら……他に回り道はあるのか? 地図じゃ保安制御室に繋がるのはこのルートしかなかった気がするんだが」
「デジタル制御されてる扉なら、アルマがアクセスできるかもしれないわ」
凛花が思いついたように口を開くが、アルマが協力するとは限らない。理久がちらりとアルマを見ると、彼女は顔を背けたままだ。先ほどとは違う意味で、強い拒絶感が伝わってくるようだ。
「アルマ、君の……君の力が必要なんだ。悪いけど、扉を開ける手段があれば教えてくれないか」
理久が懸命に呼びかけるが、アルマはうつむいて首を横に振るだけ。「ボクは……ボクのマスターのためしか、動かない……」という小さな声が聞こえた気がする。心なしか、その震えた声音には混乱と悲しみが滲んでいる。あまりにも“人間くさい”反応に、理久は息を呑んだ。
そこへ凛花がやや苛立った調子で割り込む。
「こんなところでへそを曲げてたら、あなた自身だって危険なのよ! 火災で全焼したら、あなたは修復不可能になるかもしれない。それでもいいわけ?」
アルマはちらりと凛花に目を向ける。今度は反抗的な色が浮かんでいるように見えた。凛花の言い方は正論ではあるが、やや強引だ。しかし、まさに“死に直面している”かもしれない状況なのだ。厳しい言い回しをしている余裕すらない。
しばしの沈黙。非常灯の音がますますうるさく感じられる中、勝峰が静かに歩み寄った。
「……アルマ。お前の前のマスターは、残念だがもう……いない。俺たちがここで立ち止まっていても、どうにもならない。こんなところで朽ち果てるか、少しでも前を向くか……選ぶのはお前自身だ」
勝峰の声は、理久や凛花のそれよりも低くどっしりしていた。長年の現場仕事で培った包容力かもしれない。それが何かを揺さぶったのか、アルマは唇を噛んだまま、ちらりと足元のパネルを見やる。ようやく少しずつ意識が“生きるための行動”へ向き始めたのかもしれない。
理久が覚悟を決め、アルマに歩み寄る。そっと彼女の肩に手を置き、乱暴にならないよう細心の注意を払って言葉を絞り出す。
「君は、前のマスターと過ごした時間を大切に思っているんだろう? 本当に愛着があったんだろう? なら……その思い出を守るためにも、自分自身が生き延びなきゃダメだ。どんな姿であれ、君がこの先を生きていれば、きっと……」
自分の口から出た“生きる”という言葉が、アコアに対して適切なのかどうか、理久自身分からなかった。だが、アルマは微かに瞬きをした。否定せずに、ふっと小さく呼吸をしたように見える。
「……わかり、ました。少しだけ……試してみます」
まるで人間が震えながら承諾するような弱々しい声。だが、アルマがようやく行動に移ることを認めた。その瞳はまだ不安定ながらも、ほんの少し前を向いている。
凛花が安堵の息をつきつつ、扉の横にある認証パネルを指さした。
「アクセスキーの大元は施設全体のサーバーにあるはず。アコアが直接ハッキングするには、所有者認証のプロトコルを使わなきゃいけないわ。理久さん、あなたが承認して」
「わ、わかった……どうすれば?」
「ここに端末をかざして、アルマに“扉を開ける命令”を出す。アルマがそれを受けてシステムに侵入できれば、扉は開くかも」
どう見ても違法スレスレの行為だ。設備への直接ハッキングなど、通常なら大問題に発展しかねない。だが非常事態の今、そんなことを気にしている余裕はない。
理久は端末を起動し、画面上のメニューを操作して「所有アコアへ命令する」ための項目を呼び出した。こうした機能を使うのは初めてだが、企業のマニュアル通りにやれば一応可能らしい。アルマもそれを知ってか、扉のそばに静かに立った。
「……アクセスを開始、します。マスターの命令……優先度最低ですが……受付ます」
最後のほうは皮肉めいた言い回しにも聞こえるが、アルマの言動はどこかぎこちない。人間の感情に似たものを抱えつつも、システム的な手続きを並行して進めるのは矛盾があるのかもしれない。
次の瞬間、アルマの瞳が淡い青色の光を宿した。非常灯の赤に混じって、不思議なコントラストを生み出している。扉のパネル上にも、いくつかの文字列が高速で表示され、すぐにパッと暗転した。
「……くそ、ダメか。セキュリティがまだ解けてないのか?」
勝峰が焦りの色を浮かべるが、アルマは細い指先をパネルに触れ、さらに奥深いところへアクセスを続けているようだ。やがて機械の駆動音が低く唸り、重厚な扉が数センチだけ浮き上がるように隙間を作った。
「きた……?」
凛花が小声で期待を込めて呟くが、扉は途中で止まってしまう。モーターが軋む音が鳴り、緊急停止モードに入ったのか、動かなくなった。
「チッ、ダメか。なんか補助電源が足りないのか? あるいは物理的に歪んでるのかもしれん」
勝峰が扉の隙間を覗き込みながら苦い顔をする。アルマは少し息を乱したように肩を上下させ、最後に「ごめんなさい……」と呟いた。どうやら完璧に開けるには至らなかったらしい。だが数センチとはいえ、隙間ができただけでも一歩前進だ。
「無理せず一度休んで。それだけでも助かったわよ。ね、理久さん」
凛花がうながすように言うと、理久もうなずく。完璧に拒絶していたアルマが、初めて自分たちのために動いてくれたのだ。彼女自身の心境に変化が生じたことは間違いない。
「しかし、ここからどうする? 数センチの隙間じゃ人が通れない」
勝峰が冷静に現実を突きつける。理久は、扉の近くの壁に視線を移す。分厚い防火扉のような作りなので、人力でこじ開けるのは難しそうだ。
「ほかに迂回ルートは……地図で見てみましょう。保安制御室に行けないなら、別の安全な場所を探すか、上層階から外部へ出る手段があるかもしれない」
凛花が端末に施設の見取り図を呼び出そうとするが、通信障害で地図ファイルが正しく表示されない。かろうじてキャッシュに残っている簡易版を表示させると、さほど広くない別のルートがあるらしいが、そこも“制限区域”になっているようで、通常の通行権限では通れない。
「まいったな……。このまま封鎖区画に阻まれて、別のドアも閉鎖されてるとなると……」
勝峰が頭を抱えかけたとき、廊下の先から複数の足音が響いてきた。誰かがこちらへ走ってくるらしい。警戒しつつ顔を上げると、白衣を着た男性スタッフが何人か慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。手にはデータ端末や書類の束を抱えていて、挙動が落ち着かない。
「た、助けてくれ! 火災報知器が作動してるんだが、どうにもならないんだ! セキュリティがロックして消火装置を優先起動させようとしてるらしく、ドアも通れない! このままじゃ煙が逆流してきそうで……」
口々にそう叫び、先導している男性は汗だくの顔で勝峰にすがりつく。彼らもまた、どこかから避難してきた職員のようだが、状況を打開する手段が見つからず逃げ回っているという感じだ。
「落ち着け。こっちも行き止まりでな。どこか人が集まっている場所はないのか?」
勝峰が彼らに問いかけると、白衣の職員の一人が言いにくそうに答える。
「ほかのスタッフもあちこちに散っていて、正直どこが安全なのか分からないんだ。監督官室のほうもロックがかかったって情報があったし……。今からなら地下階層へ行く階段は開いてるかもしれないが、あそこは研究区画が多くて入り組んでいる。下手すると閉じ込められるかもしれない」
要するに、地上階は火災や封鎖で混乱し、地下階は構造が複雑すぎてリスキーということらしい。どちらにせよ、絶対に安全とは言いがたい。職員たちは言葉を失い、絶望的な表情に沈黙してしまう。
「あんたたちはどうする? 一緒に地下へ降りるか? それともここらで他の道を探すか?」と勝峰が促すが、返答に困っているうちに、その職員たちの背後から再び大きな振動が響いた。
ゴゴゴ……と地鳴りのような震動が床を伝い、瞬間的に廊下の灯りが一瞬だけちらつく。そして――ブツン、といやな音がして、真っ暗になった。非常灯までもが一時的に消えかけ、辺りは一瞬で闇に包まれる。
「うわっ、また揺れた!?」
凛花が慌てて懐中電灯を手探りで取り出す。わずかな灯りが壁をかすめ、再び非常灯が点滅を再開するまでの数秒間がやたらと長く感じられる。誰かが「地震なのか?」と叫ぶが、本当に地震なのか何なのか判断がつかない。
幸い、天井や壁が崩れてくる気配はない。しかし、理久は嫌な胸騒ぎを感じた。あまりにも不安定な施設の内部状況。どこかのセクションで連続的に爆発が起きているか、電源系統がショートしている可能性もある。とにかく、このまま地上階に留まるのは危険だろう。
「……地下へ降りようか」
ポツリと理久が口にする。心臓がバクバクと鳴っている。地下区画が安全かどうかは分からないが、先ほどのように封鎖された扉があるなら、いっそ別の階層に逃げ道があるかもしれない。どのみち地上は火災やロックで行き詰まっている。消去法だが、地下を目指すしかない。
勝峰が腕を組んで黙考していたが、やがて深いため息とともにうなずいた。
「そうだな。ここでじっとしてても焼け死ぬかガス中毒になるかもしれん。皆、地下の階段を探そう。そっちに行けば、保安制御室の端末にアクセスできるかもしれない……」
白衣の職員たちも必死な表情でついてくる。人数が多いぶん、行動をともにする利点もあるだろうが、混乱も倍増するかもしれない。凛花はアルマの様子を気にかけ、「大丈夫?」と声をかけるが、アルマは小さく首肯するだけだ。再び“マスター”呼ばわりはしていないが、かといって理久に対してはいまだ距離を置いている。それでも、先ほどよりは抵抗を見せていない。
「アルマ、ありがとうな。さっきは扉を開けようとしてくれて……」
理久がぼそりと礼を言うと、アルマはかすかにまぶたを伏せたまま、「……ボクは、マスターを探してるだけ」とだけ呟く。その表情には、まだ割り切れぬ葛藤が渦巻いているようだった。
(そうだよな……あの人のこと、忘れられるわけがない。まして突然あんな形で死に別れたんだ。機械って言ったって、心がないとは思えない……)
理久の胸に、奇妙な共感と苦しみが芽生える。アコアを拒絶してきた自分が、彼女の“悲しみ”を理解しようとしている。それはまるで、自分があの瓦礫の中で抱いた孤独感を、少しだけ思い出す行為のようだった。
「よし、行こう。少しでも状況を打開しないとな」
勝峰が声を張り上げ、十数名ほどの集団がぞろぞろと廊下を引き返し、階段室を目指す。非常灯の赤い影を頼りに、火災や爆発の発生源から距離を取ろうとするが、次に何が起こるか分からない以上、その歩みは重苦しかった。
地下にある区画は研究専用のエリアが多く、一般スタッフは普段立ち入らないという話もある。もしそこで新たな「何か」に遭遇するのだとしたら――。しかし、引き返せば火災に追いつかれるかもしれず、袋小路の扉に行く手を塞がれるかもしれない。
いずれにせよ、選択肢は少ない。理久はアルマの細い腕を支えながら、胸中で「頼むから、これ以上最悪の事態にならないでくれ」と祈り続ける。凛花もその横で険しい表情を浮かべながら、懐中電灯を握る手に力をこめている。
無機質な白い廊下は、すでに血のにじむ惨劇や、煙を噴く機械の残骸が点在する恐怖の舞台と化していた。あれほど近未来的で清潔だった空間が、たった数十分ほどの非常事態でこれほどまでに殺伐と変わり果てる。その様子を目の当たりにしながら、理久は嫌な胸騒ぎを禁じ得ない。
(アコアが暴走してるわけじゃないよな……? いや、そもそも火災原因は本当に何だ? 事故なのか、それとも別の何かが起きてるのか……)
疑問は尽きないが、一歩また一歩と足を進めるしかない。いつか外の世界へ辿り着くまで。いつかこの狂乱の中から抜け出せるまで――。
きぃきぃと擦れる音が響く階段室の扉を開き、彼らは闇
へと続くステップを見下ろした。明かりが乏しく、ただ赤い非常灯の小さなランプだけが階段の踊り場を浮かび上がらせている。重い空気が冷たく立ちこめ、まるで地の底へ誘うような不穏さが漂っていた。
「ここが地下へ向かう階段か……よし、行こう。全員、足元気をつけろよ!」
勝峰が声をかけ、白衣の職員やメンテスタッフ、そして理久・凛花・アルマが足早に階段を降り始める。それが本当に安全をもたらす道なのかどうか、誰も確証はない。ただ、一縷の希望を頼りに闇へと続く段差を下っていく。ぽた、ぽた、と水滴が落ちるような音が聞こえ、異様なほど湿った空気が漂っていた。
(地下で何か別の災厄に遭遇しないことを祈るしかない……)
背後を一度振り返ると、アルマがふと理久を見上げるようにして少しだけ足を止めた。彼女は言葉を飲み込むように唇を結び、また視線をそらす。悲しみと反発、そのどちらも曖昧に混ざりあったような表情を浮かべながらも、彼女は理久の手を振りほどかなかった。もしかすると、ここが今の彼女にとって唯一の“居場所”なのかもしれない。拒絶すると言いながらも、他に寄る辺がないという――。
「……大丈夫か?」
理久がそっと問いかけると、アルマはかすかにうなずいた。認めたくはないが、現状では理久たちと行動しない限り、施設内をさまようだけの危険な存在になってしまう。生きる意志を失えば、彼女の“思い出”すら消え去りかねない。そう理解しているのだろう。
こうして彼らは、わずかな光を頼りに深い階段を降りていく。焼け焦げた匂いが薄らいできたところを見ると、地上階から離れるほど火災現場から遠ざかっているのかもしれない。だが、先に何があるのかは誰も知らない。整然とした研究エリアなのか、あるいはさらに厳重なセキュリティによって閉ざされた区域なのか――。
足場が崩れそうな不安定な気配を感じながら、理久は心の奥でただ一つの願いを繰り返す。どうか、これ以上の悲劇が起きませんように。どうか、アルマが傷つかずにすみますように。過去の自分が傷ついたとき、助けを得られなかったように、彼女を放置したくはない。いや、自分が彼女を助けられるかどうかは分からないが、それでも無視はできない――。
いまだ道は暗く、結末は見えない。施設の奥底へと続く階段を下る足音だけが、奇妙に反響している。そこには希望があるのか、さらなる絶望があるのか。誰にも分からないまま、彼らは一歩一歩を踏みしめていた。
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