蜻蛉玉
鶯雛ちる
その一
日の傾き始めた川面は流れる波にでたらめな光を纏った。歪な曲線は静電気を帯びた。堤防の草花は夏の湿りのなかに、けれど不思議と乾きがあった。
河川敷上の畦道を秀雄は娘の踏んだあとをなぞるように歩いていた。自然に任せていると平気で二、三十歩ほど引き離されてしまうが、ときどき娘のほうから振り向いて父親を呼んだ。
「お父さん、平気?」と、父に尋ね呼ぶその娘、志帆の声に、
「こっちは大丈夫だから、好きに歩きなさい。」
「こっちに黄金虫がいるわ。」
「そう。」
「はやく、来たら。」
志帆の声は若いはりがあってよく通る。秀雄は娘の軽快な足取りに、その母親の面影を見たりした。一度見て、振り払った。それが何とも情けなかった。
娘は父が追いつくのをそこにしゃがみ込んで待っていたが、ようやく来た父に、
あしもと、見て。え。ほら、こがねむしが。これ、羽だね。生きているのは。見ないわ。どこかにいるでしょう。さあ、でもここまでまだ見ないの。一度も、ここへ来て急にだわ。それも、羽だけ・・・。
そこまで言って、しゃがんだまま父親の顔を覗き込んだ。そして、可笑しいねと耐え性なく笑い出した。
「黄金虫、居なかったわ。羽があって、それがどうして、お父さんに話そうとしたらすっかり居たことになっちゃったわ。」
志帆はしばらく息注ぐように笑って、ああ可笑し、すっくと身体を伸ばすとまた歩き出した。その軽やかな後ろ姿が秀雄には愉快で、それはまるで淡い雛芥子のような、自然と口角が上がるのにも気付かなかった。
秀雄は志帆の座っていた位置に自分でも座ってみて、道端に落ちた虫の上翅を摘み上げた。その指先が緑になるものと秀雄は考えていたのだが、それは緑のなかに赤があって、角度をかえるとまた、黄に、青に、橙に、紫に、そして緑に戻っていった。
——目眩みたいだ。ああ、そうだ、私は一度この目眩を経験したことがある。日が眩しいな、いつからか、夏が始まったのにも気づかなかった。絹のように白い月。娘の母親の少女なところ。志帆は何処までいくのかな、最近は足腰も弱くなって敵わない。鯉の背。鶏卵。朝食のプディングをスプーンの背で潰す。思い出したとも。あの目眩だ。美しい、あの目眩が、こんなところに——
上翅の裏は茶褐色の光沢があり、そちらもやはり、歪んだ同心円の青や緑の幻視があった。複数の中心をそれぞれ共有する、捉えようのない円である。
秀雄がその目眩を空に翳して、光に充てがってやると、薄い翅に筋が透けて見えて、構造色の向こう側までをもすっかり見透せるかのようだった。
志帆の声が、娘の声が、秀雄の鼓膜を高く揺らした。高く響く声、夏の初めの蝉のような声が、鼓膜以上に胸の奥を震わす音だった。それは目眩と混ざり合って、軽やかな清涼感だった。
「お父さん、やっぱり今日はもうやめにしようか。」
「どうして。」
「だって、お父さん今日は少し変だわ。体調が良くないんでしょう?」
「いや、なんでもないよ。いいじゃないか、今日は涼しいね。」
秀雄は言って、立ち際に黄金虫の上翅を幾枚か拾い集めると、胸ポケットに突っ込んだ。
こんな風にして志帆と二人で夕暮れごろにこの川沿いを歩くことが、いつしか秀雄にとって日々の小さな楽しみになっていた。日が長くなると、薄暗くなってもなお酷く暑い日が目立つけれど、この日は涼しさがあると言うよりかは、少しばかり緊張した乾燥があった。
川原の草は繁々、伸びきった枯草から順々に入り組んで、その隙間から波が瞬いた。梅雨の濁りが来るところあたり迄は逞しい葦や芒が枯れているのか、潤っているのかわからないが、流れに横倒しにされていた。
二人の歩く畦道の上になると、もう上澄のような植物が、青々と春の名残りのなかに、荒地瓜が伸びる、褪せた油菜が僅かに咲く、秋桜の茎が花をつける準備をする。
志帆はいつの間にか秀雄の横に連れ添って、歩幅を合わせるように、もう離れなかった。
川原を飛ぶ盆蜻蛉の群れが、夏の日の静かな戯れだった。秀雄がその群れを左手で撫でつけると、蜻蛉は形を変えて高くまで飛んでいった。
——ああ、蜻蛉だよ。目眩が、ちょっとした立ち眩みみたいな、蜻蛉だよ、まったく。この川も随分変わった。掘り下げられて、平たくなった病院の裏手。檸檬の枝の棘。蚕蛾。切手の焼けた手紙。志帆は今になってまた、酔いを見るかしら。酔いと言えば、この間買った日本酒はまだ残っていたかしら。真白いシーツについた血。洋酒の瓶に逆撫でされた印刷文字。硝子細工に彫られたモンテスキウ、名作の一文。まだ早い、まだ早いよ。ほんの、まだ子どもじゃないか。ああ、まだ無邪気な、子どもなんだよ——
蜻蛉の薄い夏の色が何処までも遠く登っていくようだった。秀雄はその薄黄色を目で追って、ふとそこに竹林を見た。
竹林は半ば水道の遺構を隠すように、土地ごと盛り上がっていた。揚水機構の煉瓦積みの間から錆びて折れた配管が、竹林の下に見える。川沿いの道からは竹を被って見えないが、「金山揚水」と書かれた吐出口はこの土地の象徴のようで、川を隔てて二層の、生臭い匂いがする。そういうところに自分で入ってしまえば、秀雄も志帆も立ち所にわからなくなって、一点に収束していくような、しかし中心は、やはり一点に決まるほど単純ではなかった。
しなやかな鼻歌が志帆の咽喉から、小さく撫でつけるような声が一筋に通っていって、秀雄は無論そのメロディを知っていた。嫌というほど聴いた音色は、少し大人しすぎた。震える喉元を秀雄はしばらく眺めていた。
「そこ、鵜がいるね。いま、黒いのが落ちたね。」
そう言いながら志帆は点滅する川上にカメラを向けた。
「なに。」
「ほら、あそこに泳いでいるのがいるでしょう。」
「ああ、あの・・・。鳥のこと?」
「え。時期に羽根を乾かすわ。」
秀雄は志帆の見据える川上のほうを見て、しかし娘に言われてようやくそこに目を向けた。近頃はあんまり遠くを見ても目に疲れを感じるようになってきて、志帆の鵜を見るのもすでに辛かった。
向こうの橋のほうに泳ぐ鵜は川面に一点の影をつくっていた。
「鵜、撮れた?」
「撮れたよ。洲のところにね、ほら。」
志帆は撮った写真を幾らか父親に見せた。鵜の写真、黄色の喉元、しなやかな羽毛、ぎょろりとした目、細い首元に光沢のある足。ずっとはっきりとした存在のうちに、レンズは生命の一片をゆらめかせていた。
「渋いね。」
「なに、それは。」
「私好みだということだよ。」
父親の言葉に志帆は訝しむように嫌な顔をして、
「お父さんそれ、褒めてないでしょ。」
「いや、褒めてるよ。志帆はお母さんに似たんだね。」
「やめてよ。」
言ってまた、秀雄に背を向けるかたちをとって、歩き出した。志帆のあらわれた頸あたりは瑪瑙のように澄んでいて、夕陽に照らされると、透けてきそうですらあった。それはまだ純粋な少女なのだ。
——やっぱり、志帆は母親に似たに違いない。いまの志帆はいつぞやの紗子に瓜二つなんだから、ほんとうに、よくこうも似たものだ。白い、蝶蜻蛉かしら、かげろうの、でもどうしてこんなにも白いのか。朝露の滴る青草。古い旅館の部屋から聞こえる川の音。爪切り。青すぎる川沿いの桜。紗子の肌はここまで白かったかな。硝子を割って肌を切ったときは随分薄いと思った。汚らわしい時が、老いかしら。いや、違う。これは慥かな流れなんだ。志帆のあの髪はまだ穢れを知らないんだ。知らなくて良い。美しい煌めきを、また——
川は流れる。親子は川上に逆らって進んでいった。岡崎平野を縫うように、やがて衣浦に至る川である。支流の男川と女川が出会うので、名を逢妻川と言う。ちょうどその支点辺りを二人で歩いていた。
対岸に寺院の法堂が、駅の再開発によって移設されたという、瓦葺の向こうから晩鐘が伸びやかに響いていた。それは市街のほうにまで届きそうな静かさで、大通りのアスファルトの音を掻き消し、水の音がした。
それでもその日は肌に粉をふかせるような乾燥があって、秀雄は右の頬をぽりぽり掻いた。顎から顳顬辺りが荒れて、皮が捲れていた。
「そろそろ引き返そうか。お腹空いてきちゃった。」
「ああ、そうだね。戻ろうか。」
「川の音がしだした。時期に夜だわ。」
「聞こえるの?」
「何言ってるの?やっぱり今日のお父さんはちょっと変だわ。」
傾いた日が、待たずとも沈んでいく。盆蜻蛉が川上から降りてきて、鐘の音に絡まって戯れつくように落ちていった。畦道の二人の帰途はいつまでも夕闇に、暗くなっても蜻蛉は飛び続けていた。
川の中洲から、一匹、黄色い鵜が飛び立った。
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