小説家葉隠泥治郎はミステリを書かない
ぬるめのたおる
コミックマーケット殺人事件
コミックマーケット殺人事件①
コミックマーケットというイベントを知っているだろうか。
毎年盆とか年末だとかの頃に東京で行われる日本最大の同人誌即売会だ。今年で百何回目だかを迎え、五十年近い歴史をさらに更新した。毎回何万人だか何十万人だとかの参加者がごった返すのが恒例だ。すなわち交通は麻痺一歩手前になり、病に倒れる者も現れ、ひとたび行列が崩れれば容易にドミノ倒しで死人すら出かねない。どんな事件が起こっても不思議で無いとすら言える。
しかしだからと言って、殺人事件が起こるとは誰も思わなかっただろう。
それは年の暮れ、いわゆる冬コミの最中であった。犯行は会場の廊下の隅で行われたようである。鈍い音が聞こえたと言う者も後にはいたが、それは騒音の中だから不確かである。
人間が絶えず流動的に動く中心部とは異なり、疲労に濡れた参加者たちが身体を下ろすことも少なくない。座り込んでいて本を読み、注意される者もいるようだ。その中に一人だけ全く指示に従わぬ者がいた。彼は係員が怒鳴り声をあげても顔を上げようとすらしない。堪忍袋の尾を切らした係員が身体を揺さぶったところ、彼の体幹は泥人形のように崩れ落ちた。彼の後頭部は歪んだバンパーのようにへこみ、そこからだらだらと血を溢していたようだ。
場は騒然とした。
近くにいた者は恐怖のあまり叫び声を上げた。何人かは立ちすくんでしまっていたが、また何人かは走り出した。しかし彼らも人間の壁にぶつかり、それに押されて更に何人かが転倒した。係員が応援を呼び、その周囲を取り囲んだが、野次馬や不満を言う者、逃げ出そうとする者で押し競饅頭になってしまった。
警察を呼ぶも渋滞のせいでサイレンを鳴らしたパトカーでも会場入りが難しく、警察官が現場に現れたのは発見から一時間半経ってからのことであった。彼らが到着する頃には、たまたま居合わせた医師免許を有する参加者によって死亡確認が済んでしまっていた。
係員は安堵したことであろう。警察の到着に伴い、少なくとも場の整理の責務からは解放されたのだから。
しかし警察官は困り果てたようである。その日の参加者は警察到着時点で十万人を超えていたからだ。しかも出入り口を封鎖してはいるものの、死体発見までにどれだけの者が会場を出たのかも不明であった。もし名探偵がこの世に居て、犯人はこの中にいると高らかに宣言したとて、この状況ではお笑いである。探偵小説ではなくギャグ漫画に転向すべきであろう。しかも参加者の多くは量産型の兵士のごとく同じ装備、同じ装い、同じ顔つきをしていた。あるいは仮装によって装いを大きく変えたり、フルフェイスの装備すら許されていた。監視カメラの映像や目撃証言など、ほとんど意味をなさない可能性があったのだ。
加えて凶器も不明であった。外傷の性状から鈍器によるものは想像に易かったが、血の付着したそれらしい物品は未だ見つかっていなかった。あるいは候補となるものが多すぎた。会場には立て看板や机、パイプ椅子などが数えきれぬほどにあったし、コスプレイヤーたちは鈍器まがいの物品を仮装の小道具として持ち込んでいた上、一般参加者の手荷物でさえどれも鈍器と化しそうなほどに重量があった。何よりこれだけの参加者と広い会場があれば、全てを疑うのは困難であった。
被害者の名前と住所は財布の身分証などから判明したものの、その住所があまりにも遠方であったために身元を確実に証明するのは骨が折れる作業となった。住所に紐付けられた電話番号を現地の警察の協力のもと探し当てると、それには母親が出た。息子は一人で参加したと話したが、SNSでフォロワーが多いと普段から豪語していたとも証言した。母親は加えて、でも人に好かれるようなタイプじゃないからねえ、と付け足した。スマートフォンは個人のレベルとしては異様なほどにセキュリティが硬く、その中身から人物像を炙り出すのは時間がかかると考えられた。参加者にしては所持金が少なく、金目当ての犯行も視野に入る状況であった。
日本各地から集まった参加者たちが東京ビッグサイトの屋内に閉じ込められ、犯人が見つかるまでは年越しの瞬間さえそこで過ごすことになるのは必至と考えられた。
そこにいた全ての者が、いつ解放されるのかという不安を抱いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます